周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

岩波講座 哲学11

 『岩波講座 哲学11』(2009年、岩波書店

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

野家啓一「展望 歴史を書くという行為」

P4

 だが、歴史が言葉によって語られ書かれるにしても、歴史記述はすべての出来事を語り尽くし書き尽くすことはできない。そのようなことは神ならぬ身には不可能であろう。それゆえ歴史家たちは、みずからの利害関心や動機づけにしたがって「語るに値するもの」、すなわちその時代にとって「意味」と「価値」をもつ出来事を選び出すのである。それを決定するのは歴史家の「視点」ないしは「パースペクティヴ」であり、そこにはすでに一種の価値判断が働いている。逆に言えば、そのパースペクティヴに収まらなかった出来事は忘却にまかされ、歴史の地層に沈殿するほかはない。その意味で顕在化された歴史記述の背後には、忘れ去られた出来事たちのうめき声や沈黙を強いられた死者たちの叫び声が「語り」を求めてひしめいている。

 そうした声にならない声を聴き取るためには、座して耳を澄ますだけでは足りない。そこには埋もれた史料を発掘することによって実証し、死者の声をレトリックをもって再現する「語り手」の能動的関与が必要なのである。記述にもたらされた歴史が歴史家の視点やパースペクティヴによって選びされたものであるとすれば、忘却され隠蔽された声を顕在化させるためには、何よりも「視座の転換」が求められねばならない。

 

 →するめを食べるように史料をじっくり味わい、書き残された史実を余すところなく読み取らなければ、死者が恨んで出てくるぞ、と先生が言っていた。

 

P5

 ただし、言語論的転回については、二〇世紀初頭に哲学の領域で起こったそれと、一九八〇年代以降に歴史学や人類学の領域で起こったそれとを区別しておかねばならない。言語論とはいっても、前者の基盤となったのはG・フレーゲとB・ラッセルによって体系化された記号論理学であり、後者の基盤はF・ソシュールに淵源するポスト構造主義の言語理論であった。

 

P6

 それに対して、第二の言語論的転回においては、言語と実在との関係は著しく不透明なものとなる。ソシュール以降の言語学によれば、言語は実体的な指示関係をもたない「差異のシステム」にほかならない。つまり、言語の本質は世界をありのままに描写することではなく、世界を意味的に構成することに存するのである。

 

 →「赤」という言葉でさえ、「赤紫」との差異で言表されているにすぎず、「赤」という完全な実体など、指示・表現できないということ。

 

P8

 歴史記述がもはや素朴実証主義や経験主義の地点に後退できないことは明らかであり、それが想像力やレトリックが関与する言語行為であることは、すでに共通の了解事項となっているからである。その意味で、言語論的展開や歴史の詩学の洗礼を受けることによって、歴史学は人類学とともに自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学としてみずからを鍛え直したというべきであろう。

 

P15

 それと同時に、歴史記述は現在世代および未来世代へ向かっての「記憶せよ!」という呼びかけの言語行為でもある。記憶に値するものを選び出し、物語るという行為は、それゆえ死者の眼差しとともに現在および未来の「他者の眼差し」にも裏打ちされていなければならない。そこには本来の意味での「世代間倫理」が存在する。それゆえ、歴史記述に倫理を語る余地があるとすれば、それは過去と未来の双方向へ向かう「世代間倫理」という場所を措いてほかにはない。歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」というE・H・カーの有名な定義を借りるならば、歴史を書くという行為は、生者と死者のあいだの、そして未生の者たちとのあいだの尽きることを知らぬ対話なのである。

 

 

北川東子「歴史の必然性について」

P81〜85

 歴史家のキャロル・グラックは、人々が歴史について知りたいと思う理由として、「私たちがいつかは死ぬ運命にある」ことと、それにもかかわらず、「物事の成り行きを知っておきたいという欲望」とを挙げている。歴史学的な関心の出発点となっているのは、まさに「自分の不在」の意識である。

 あるいは、私たちがどのようにして歴史を意識するようになるかについて、歴史家のE・ホブズボームは、「自分より年上の人びとと共に生きる」ことを挙げている。自分がいなかった時間を生きた人々の存在を意識することで、「個人の記憶に直接に残されている出来事より前の時期」としての歴史を意識するようになると。

 こうした歴史家たちの態度は、「私たちが歴史の一部でしかない」からこそ、歴史を把握できる、あるいは把握しておきたいという態度である。この場合の「歴史の一部でしかない」とは、「自分はそこにいない」ということである。歴史家たちの意識は「自分の不在」という意識と結びついている。

 あるいは、「自分の不在」を前提とするような歴史理解が歴史学の言説を成立させ、歴史を理解可能しているのではないだろうか。

 私たちが歴史書を読むことで、また学校で歴史教育を受けるなかで慣れ親しんできた言説は、基本的に「非対称性」の言説である。

 たとえば、歴史記述は歴史的出来事のほんの一部を語るにすぎないし、歴史に登場する人々は、実際にその歴史を生きた人々のごく一部である。歴史記述と歴史的出来事の間には、そして、登場人物と体験者の間には圧倒的な不均衡がある。

 このように、私たちが知りうる歴史は「不均衡」によって成立している。それにもかかわらず私たちが歴史記述にたいして大きな違和感を覚えないのは、歴史そのものが根本的に「非対称性」であるという前提に立っているからであろう。歴史を動かすのは少数者であり、歴史に登場できるのは私たちのほんの一部の人々である。また、おびただしい過去の出来事のなかで、歴史として知る価値があるのはごく一部である。

 この「非対称性」は歴史の権力性である。しかし同時に、私たちの願望の現れでもある。一人のささやかな市民として、私は自分が歴史に登場しないことを知っている。平穏な生活が続き、自分が歴史に登場しないことも願っている。歴史的出来事に翻弄されないこと、その当事者でないことを願うのである。  だから、私が歴史に関心を抱くのは、自分がなんらかその一部であるにしても、歴史の当事者ではないからである。「自分の不在」は私たちを歴史から救済してくれる。

 そのような関心を、「ゆるい関心」とでも名づけておこう。自分がその一部であり、したがって、まったく無関係ではないが、他方で、当事者そのものでもないような事柄にたいする関心のことである。「ゆるい関心」は知的怠惰ではない。急速な環境破壊や制度的崩壊のなかで、それでも私たちが生きていけるのは、主として「ゆるい関心」で処理しているからである。私たちが歴史に興味を持ち、歴史書を読もうとするのにも、このような「ゆるい関心」が背後にある。

 「ゆるい関心」は、みずから歴史をつくり、歴史を変えたいという欲望ではない。むしろ、「歴史的背景」について知りたいと思い、歴史を理解したいという関心であって、その基本は知的関心である。歴史家は、私たち素人になりかわって、このような知的関心を徹底的に追究し、歴史を接近可能にし、あるいは理解可能にしてくれる。

 私たちは、暗黙のうちに、歴史について語るときは歴史家の研究や仕事を参照しなければならないという約束に従う。今日の歴史研究が個別専門化してしまい、史料調査や史料評価の専門的能力を必要とするからだけではない。私たちの歴史への関心が「ゆるい関心」であって、実践的・政治的な関心ではないからである。自分たちが「歴史の当事者」であるとは思わないし、そうありたいとも思わないから、歴史にたいしては「間接的な関わり方」が基本であると考えるからである。

 ヘーゲル以降のドイツ歴史哲学もまた、基本的に歴史にたいする「ゆるい関心」からの思想であった。この歴史哲学は、H・シュネーデルバッハの言葉を借りれば、歴史哲学にたいする「深い懐疑」に貫かれている。「哲学的な仕方で歴史に関わることが、そもそも可能なのかどうか」という懐疑である。

 したがって、ヘーゲル以降の歴史哲学は、学問的認識としての「歴史認識の可能性と方法」について思索した。この思索の結実が、ドロイゼンを出発点として、ディルタイジンメルといった哲学者たちが展開した「歴史の解釈学」である。

 たとえば、近代史学の方法論を書いたドロイゼンは、くどいほどに史料研究の重要さを説いているが、その背景には「健全な歴史家意識」ともいうべき姿勢があった。つまり、「記述をする者は、シーザーやフリードリヒ大王のように、特に高いところにいて出来事の中心から見たり聞いたりしたわけではない」という意識である。  歴史家とは歴史を理解しようとする人々であって、みずからが歴史に登場するわけではない。ドロイゼンは、「歴史とはなにか」について次のような定義を行っている。

 

  歴史ということばでわれわれが考えているのは、時間の経過のなかで起きたことの総体であるが、なんらかのかたちでわれわれの知識がそれに及ぶ限りでのことである。

 

 この定義に従えば、歴史とは、現時点の「知の地平」によって再構成可能な限りでの過去の出来事のことである。歴史については、現在の視点においてしか、ただ断片的にしか知りえない。

 歴史について知る人は、歴史の外に立っている人である。過去の出来事を歴史として理解できるのは、当事者たちではなく、観察者たちなのである。歴史家たちの言う「歴史認識の客観性」は、「体験されなかったし、もはや体験もされない」という外の視点から行われる再構成の客観性である。歴史家たちの態度とは、すでに書かれてしまった外国語のテキストを読むような態度なのかもしれない。どちらも、著者や原テキストや歴史的出来事からの「解釈学」的距離によって成立している。

 私たちは歴史の一部でもあるが、歴史の一部でしかない。私たちは、自分がその一部であるようなものを、そしてその一部でしかないようなものについてどう関わるべきなのだろうか。「歴史との正しい関わり方」とはどのようなものか。

 私たちはときに、自分が歴史に対して「ゆるい関心」しかもたないことに、あるいは、「ゆるい関心」しかもってはいけないことにたいして、激しい焦燥や憤りの気持ちを抱くことがある。「歴史の捏造」が感じられるときである。そのようなとき、激しい怒りが私たちを襲う。

 そうした怒りのなかで、私たちは「ゆるい関心」が「歴史との正しい関わり方」でないことを感じる。私たちがまさに歴史の一部でもあるからである。むしろ「自分の体験」が歴史を正しく理解するための基礎となり、歴史的出来事について客観的に議論するための基盤であってほしいと切望する。D私たちは歴史に内在しようとするのだ。おそらくそのようなとき、人は「歴史の証言者」として名乗り出るのであろう。

 

P87

 (ベンヤミン)『歴史の概念について』の思想的卓越さは、私たちの生存のために歴史が必要であることを徹底的に主張している点にある。歴史のために私たちの現在があるのではない。歴史認識や歴史記述のために、私たちの体験や記憶や証言が必要とされるのではない。私たちが現在を生き抜くために歴史が必要なのである。

 では、私たちはなぜ歴史を必要とするのだろうか。それは、過去もまた歴史を必要としたからである。その意味で、「過去からの期待」として私たちの現在があるからである。

 「歴史への正しい関わり方」とはなにか。過去には「歴史の必然性」への権利があるのだと主張するベンヤミンの次のようなことばは、その答えを教えてくれる。

 

  かつて在りし諸世代と私たちの世代のあいだには、ある秘密の約束が存在していたことになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きているのだ。だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。

 

 

伊勢田哲治「歴史科学における因果性と法則性」

P96

 歴史科学とその中での歴史学の位置を考える際には、少なくとも過去研究と現在研究、特定連鎖研究と普遍研究、精神研究と自然研究という三つの対立軸を考える必要があるだろう。

 本稿でも、歴史科学という言葉は、過去・特定連鎖研究を指す言葉として使う。(中略)

 いわゆる歴史学に属するような研究は過去・特定連鎖・精神研究である。すなわち、過去の特定の出来事のつらなりについて、人間の行為という観点からの研究を行う(「人間の行為という観点」がどういうものかということは、以下で歴史的説明論争を検討する中で明らかになるだろう)。

 

P97

 まず、自然法則(laws of nature)について述べる。これについての科学哲学における見解には大きく分けて規則性論と必然性論があるとされているが、本稿で登場するヘンペルらはみな自然法則についての規則性論者なので、規則性論の方のみを紹介する。規則性論とは、自然法則を観察可能な出来事に関する規則性だとみなす考え方であり、ヒュームの議論をベースにしている。このイメージでの法則性の基本形は、「すべてのXはYである」とか「すべてのXタイプの出来事の後にはYタイプの出来事が起きる」といった普遍言明である。ただし、現在では、「XはYである確率が高い」とか「Xタイプの出来事の後にはYタイプの出来事が起きる確率が高い」といった確率言明も自然法則に分類されていることが多い。

 ヒューム自身は自然法則は単なる規則性だとみなしていたが、現在の規則性論者は、自然法則を偶然的な規則性とは区別し、一種の必然性を付け加える。具体的には、彼らは自然法則を反実仮想の場合にもあてはめることができる規則性だと考える。(中略)一般化して、「実際にXは起きていなかったけれど、もしXが起きていればYも起きていたはずだ」と言えるようなら、それは自然法則だということになる。本稿でも、自然法則とは「観察可能な出来事に関する、仮想現実の場合にも適用可能な規則性」であるという解釈を採用する。

 自然法則についての規則性論はまた、因果性についての一定の見解も与える。XがYの原因であるとは、規則性論によれば、Xの後にYが起き、そしてXとYの間に、Xタイプの出来事の後には必ずYタイプの出来事が起きるといったような法則的な関係(因果法則)がなりたつということである。この見解によれば法則性と因果性は不可分であり、以下に見るヘンペルらの議論でも両者が明確に区別されていないのはそのせいでもある。

 しかし、法則という概念を使わなくても因果性の概念を定式化できるという考え方も根強く存在する。その代表が反実仮想そのものから因果性の概念を導き出すやり方であり、デヴィッド・ルイスなどがこの路線をとる(Lewis 1973)。これは、Xが起きなかったという点以外では現実の世界とそっくりな可能世界を考え、その世界においてYが起きているかどうかを考えるというやり方である。もし現実世界でYが起きたのに、その可能性ではYが起きていないなら、XがYの原因だったということになる。この考え方に対してもいろいろな難点が指摘されていて、現在も論争は継続中である(Menzies 2001)。そうした論争は、これから見ていく歴史的な因果の問題とも決して無関係ではないが、とりあえずは話の出発点として、「XがYの原因だということは、もしXが起きなければYも起きなかっただろうということである」という反実仮想をベースとして因果性を理解しておくことにする。

 

 →歴史にもしもはないが、もしもを考えなければ、原因を推論することも叶わない、ということか。

 

P99

 基本概念のまとめが済んだところで、本稿で検討していく問題圏について、もう少し説明しておこう。歴史科学の主な仕事として、「過去を再構成する」こと(Sober 1988)、すなわちどういう順番で何が起きたかを明らかにすること、そうして再構成された出来事を説明すること、つまり「歴史的説明」を与えることのの二つが挙げられる。本稿で扱うのはもっぱら後者の問題との関係における法則性や因果性である。

 

P100

 いずれにせよ、過去の出来事の再構成の文脈では、過去と現在の証拠をつなぐ因果性やある種の法則性を想定するのが当然であり、そうしないと歴史科学者の仕事は不可能である。もちろん、そこでの因果性やある種の法則性が正確に言ってどういうものか、あるいは特定連鎖研究でない普遍研究型の科学での用法と何が違うのか、といった点については論争の余地がある。

 

P101

 歴史の研究における法則性や因果性の役割について、おそらくもっとも率直でシンプルな考え方は以下のようなものだろう。「歴史もまた原因と結果を結ぶ因果法則によって規定されている。したがって、物理学と同じように、歴史の研究においても、適切な因果法則を見つけ、それを使って歴史上の出来事を説明したり予測したりするのが最終的な目的である」。実際にこうした考え方を展開したのが、科学哲学者のカール・ヘンペルやカール・ポパーの被覆法則モデルであった。

 

P102

 しかし、実のところ、歴史学ではそうした確率的法則すらあまり明示的に言及されることはない。それは単なる省略ではなく、そもそも完全な説明の形にするためにどうやって補えばいいかはっきりとはわからず、せいぜい方向を示すだけになっていることが多い。これは本来の意味での説明とは言えず、「説明スケッチ」と呼ばれる(Hempel 1942 [1965b]: 238)。説明スケッチとは、完全な説明の代替物として、あいまいな形で法則や初期条件に言及するような説明で、あいまいなところを今後の研究などで埋めなくてはならない。歴史学で説明として提示されるものの多くはこのカテゴリーに属する。

 

 

小田中直樹「『言語論的転回』以後の歴史学

P124

 本稿では話題を歴史学という学問領域に関わることに限定し、歴史学における言語論的転回とは「言語は人間の意識や意味の社会的生産を構築するアクターであり、私たちは、言語のあらかじめコード化された知覚というレンズを通してのみ、過去および現在における世界を理解できる、という観念」を意味しているとするゲイブリエル・シュピゲールの定義を援用する。