周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

小坂井敏晶著書 その3

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま文庫、2020年) その3

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第5章 責任の正体

P269

 近代個人主義が普及し、個人と集団を同一視する形での集団責任は否定される傾向にある。しかし組織犯罪・事故はどう考えるべきか。『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』においてラウル・ヒルバーグは、ホロコーストを生んだ最大の原因として官僚制的構造を上げた多くの人々の責任感が薄れる。それはホロコーストに限らず、分業の下に仕事が遂行される組織すべてに共通する問題だ。

 では集団行為における各人の責任をどう定めるのか。組織・集団自体の責任と構成員の個人責任は同じなのか。第二次大戦中に日本兵がした行為に対して、当時生まれていなかった日本人が負う責任とは何を意味するのか。集団同一性と構成員の間にはどのような関係があるのか。集団の行動は構成員の制御下にあるのか。もし制御できなければ、集団犯罪の責任をどうして構成員が負うのか。

 因果律とは別の原理によって責任が問われる事実を敷衍するために、以下ではまず集団責任の論理構造を分析する。その上で、責任現象の歴史変遷を視野に収めながら前章の問題意識を引き継ぎ、責任の正体に迫る。

 

P270

 他者や周囲の情報環境から強い影響を受けて人間は判断・行為する。集団行動の責任を構成員全体あるいは一部に問う慣習は、どのような根拠に基づくのか。集団行動は構成員の意識・行為に還元できないと多くの論者が主張してきた。デュルケムの立場はよく知られている。

 

 集団意識の状態は各個人の意識状態とは性質を異にする。それは違う種類の表象だ。集団精神は各個人精神の総合ではない。集団精神は固有の法則に従う。

 

 デュルケムとの認識論的立場を異にする経済学者フリードリヒ・ハイエクも、集団現象が構成員から遊離し、自律運動をするからこそ、社会秩序が成立するという。個人が集まって集団ができる。しかし集団の行動は当事者の意志や制御を超える。ちょうど核分裂が連鎖的に起こり莫大なエネルギーが生み出されるように、人々の相互作用から生じるベクトルは各人の意志の総和を越えて、誰も予想しなかった大きさの振幅を見せる場合がある。ソ連崩壊やベルリンの壁の消滅を誰が予測しただろう。その瞬間まで当事者でさえ想像しない出来事が次々に起こり、制御できない大きな外力に巻き込まれる感覚とともに我々は歴史の変貌を目の当たりにしたのだった。

 集団暴動が起きる。器物を破損し犠牲者が出れば、実際に暴力を振るった者たちは責任を問われ、処罰される。だが、集団行動が当事者の制御力を超えて自律運動するならば、その結果を彼らに帰属できないはずだ。

 集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。なぜか。次のように考えてみよう。集団に属する人間は互いに緩やかな関係で結ばれている場合もあれば、堅固な関係に縛られ自由が利かない場合もある。ところで集団の構造に応じて次の法則が見出される。ある任意の構成員の行動に関する情報が得られるとしよう。ハインツ・フォン・フェルスターが教えるように、集団を構成する個人間の関係が堅固であればあるほど、集団行動が自らに制御できない状況として構成員自身に感じられる。構成員どうしが堅く結びつけられれば、自分の思う行動が取れないからだ。世間のしきたりや集団の掟が強固であればあるほど各人の選択余地は少なくなる。

 では、集団内の人々の眼に集団行動がどう映るかでなく、今度は集団を外から観察する者の視点で考えよう。集団で行なわれる性犯罪やリンチは互いが模倣・影響しあって行動が激化しやすい。このような集団は構成要素が堅固に結ばれているので行動を予測しやすい。人々の自由度が小さければ小さいほど、集団全体に関する情報と各自に関する情報とが重複するので集団行動の数理モデル化が容易になる。逆に集団内の自由度が高ければ、一人の行動がわかっても全体の動きは予想できない。集団の外にいる人間の視点つまり集団犯罪を糾弾する社会にとって、集団を構成する人間の相互作用が強ければ強いほど、一枚岩の意志により集団が動かされるかのごとく映る。

 したがって集団内の人間自身による理解と、集団外から見る分析は必然的に異なってしまう。人々の相互作用が強く、集団が有機システムとして構成されればされるほど、外部の人間にとっては集団行動が予測しやすくなる一方で、当事者はますます集団行動を制御できなくなる。人々がとる行動の集積にすぎないにもかかわらず、集団行動は当事者から遊離する。自律運動する集団が逆にその構成員を操る現象がこうして生まれる。

 集団内に生ずる感覚も集団外に現れる感覚も、客観的な情報根拠に支えられている。したがって、どちらかだけが正しい認識で、他方が錯覚なのではない。集団犯罪の実行者が抱く感覚と、非難する社会の認識は構造的に異なる。なぜあのようなことをしてしまったのか自分自身でもわからないと嘆く犯罪者の感覚と、糾弾する側の理解は必然的に齟齬を生む。

 

P273

 では集団と構成員とを区別し、各自の責任とは別に集団自体の責任を考えるべきか。法人と呼ばれる擬制は法制上の位置づけを与えられている。しかしそれは、不都合な事態が生じたときにどのような処遇を施すかという法律すなわち社会契約上の取り決めにすぎない。国家の政治責任も、国家の連続性という人為的協約を基に定められるのであり、時代・文化を超越する価値を体現するわけではない。このような法的責任や政治責任と異なり、汝殺すべからずという道徳的戒律は単なる人為的契約を超える普遍的価値として一般に理解される。個々の人間ではなく集団自体が道徳的責任の対象になりえるだろうか。行為の道徳主体になりうるだろうか。

 

 →いわゆる法人(集団)には自由意志を持つはずはないから、責任を問えないということか。そもそも個人にも自由意志はないのだから、集団も自由意志を持つはずはないのだが。

 

 倫理学者は近代的人間像に基づき、行為の責任根拠を自由意志に求める傾向が強い。そのため彼らの多くは道徳的意味での責任を集団が負う可能性を否定する。だが、個人責任に限定すると被害者救済が充分になされない。そこで個人責任に還元できない概念として集団自体の責任を積極的に定立する論者もいる。ピーター・フレンチはその一人であり、企業を集合的人格と認め、企業がなす行為の道徳責任を問えると主張する。個人責任を問題にする場合に、当該個人の意志に行為を帰属させるように、企業にも集合意志を認め、行為の責任を問うべきだ。この集合意志は企業の役員会や内規など、内部決定機関により生み出されるから、各構成員の意志に還元できない。したがって彼らの個人責任とは別に企業自体の集合責任を定立する必要がある。政府という政策決定機関を持つ国家にもこの考えは援用される。

 

 →切腹・自害を中世の損害賠償として解明する必要がある。「高くついたなぁ〜」も含めて再検討する必要がある。

 

P284

 擬制としての法人や国家に政治的責任および法的責任を付帯するのは可能だが、近代的意味での道徳責任主体に集団にはなりえない。日本の戦争責任を認めよと主張する側も否認する側も同じ論理的誤りを犯している。そもそも当時生まれていなかった人々が過去の犯罪になぜ罪の意識を持つのか。因果関係で責任を理解するならば、ナチス・ドイツホロコーストの責任が日本人にないのと同様、過去に日本軍や日本国家がなした行為にどう特定責任を負う義務も、引き受ける権利も戦後生まれの日本人にはない。ユダヤ人に対するドイツ人の犯罪や、アルメニア人に対するトルコ人の犯罪、アメリカ先住民に対するイギリス人の犯罪などを我々が認めるのと同じ「気軽さ」で日本の戦争犯罪を認められるはずだ。それを嫌がって南京虐殺はなかったとか、日本だけが悪いのではなく朝鮮や中国も悪かったとか、当時の世界情勢から考えて日本の植民地主義を非難できないとか言い募るのは、自分を「日本」に同一化するからだ。日本の犯罪を認めよと主張する側も「日本」に同一化している事態は変わらない。ひいきの野球チームが優勝すると、自分が勝ったわけでもないのに大喜びするのと同じ種類の論理的誤りを両者ともに犯している。

 二〇〇五年四月に起きたJR福知山線脱線事故で多くの乗客が死亡した時、まるで自分が日本人の代表であるかのように、「謝れば済むと思っているのか」と鉄道会社の職員を糾弾する記者の姿がテレビに映った。イラク人救出にかかった費用を自己負担せよ、我々の税金を無駄遣いするなと主張する人々は「日本」への同一化を通して批判している。いくら経費が国にかかったかは不明だが、一億円なら国民一人当たり一円、一〇〇億円でも自らが負担するのは一〇〇円にすぎない。だが、自分が同一化する「日本」は莫大な経費を払った。だから「日本」の名において憤る。

 

 →間違っているのに正しいと信じ込んでいるところが、相当恥ずかしい。マスコミはもう少し賢い人間だと思っていた。新聞もニュースも勉強になるから読んだり見たりしろと言われてきたが、その読み方や見方を誤ると害にしかならないようだ。

 

 我々が抱く責任感覚は心理的同一化に依存する。実存主義を表明するラリー・メイは、自らの属する集団が生み出す出来事に構成員は責任を負うと言う。カール・ヤスパースが提示した「形而上学的罪」という概念から彼は出発する。刑法的罪・政治的罪・道徳的罪のどれとも異なる性質の概念としてヤスパース形而上学的罪を区別し、次のように規定した。

 人間は人間であるという、そのこと自体により相互間の連帯が存し、世界に生ずるすべての不正義、すべての悪、特に目の前で起き、知らずにはいられなかった犯罪に対して共同責任を負う。これらの罪を阻止するために可能なことを私が行わないならば、私は共犯者である。他者の殺戮を阻止するために自らの命を賭さないならば、あるいは口を閉ざして傍観するならば、ある意味において私は罪を負うと感ずる、この感覚は法律・政治・道徳的罪いずれとも異なる。このような出来事の後に私が生き続けることは、決して消えることのない罪として私にのしかかる。

 

P287

 集団責任と心理的同一化の密接な関係が図らずもここに読み取れる。同一性は何らかの固定した状態や内容ではなく、不断の同一化を通して人間が作り出す虚構の物語だ。自らは行為に加担しなくとも、悪をなす集団に同一化して我が身の存在を恥じる。犯罪に関わりを持つことで自分が汚れた感じがする。これが集団的道徳責任の正体だ。

 

P288

 店員の責任という外からの判断を離れ、自分が彼の立場にいると想像すると問題の所在が理解しやすい。第二の状況のY(店主に命じられて、犯罪に使われる可能性のあるナイフを取りに行っただけ。売るのは店主)が負うべき責任は、第一の状況のX(犯罪に使われる可能性のあるナイフを直接売る)の場合に比べて軽い感じがする。なぜだろう。二つの状況に我々が受ける感覚の差は、犯罪行為との心理的結びつきの強さに関わる。結果は同じでも、その行為との関連性が高くなるほど、我々は行為に自らを同一化させやすい。そのため犯罪行為によって穢される感覚が生まれる。Xは実際にナイフを非行少年に手渡すが、Yの場合はそうではない。犯罪との関係がより薄まっている。第一の状況においてナイフ販売で得る利益は充分な説明にならない。すぐに売れるのだから、利益だけのためなら今売る必要はない。利益享受は単なる経済的観点からでなく、それによって犯罪行為と当人がより密接に結びつけられる心理的同一化の角度から理解するべきだ。

 

P289

 犯罪処罰の仕方は地域・文化によって大きく異なる。近代以前には人間だけでなく、死体・動植物、石などの無生物も裁かれて罰せられた。かなり最近まで心神喪失者や精神疾患者、そして年端のゆかぬ子どもが重罪に処された。何もしない人々が集団責任を科せられた。

 死体が刑罰の対象になったのは自殺と重罪を犯した場合である。古代ギリシアを始め多くの社会で自殺が罪とされ、自殺者の死体は葬式や埋葬が禁じられ、領土から追放された。すでに死んでいるにもかかわらず絞首・火炙り・斬首の刑に付されたり、拷問された。フランス革命をわずか100年ほど遡る1670年に公布されたフランス国王勅令は、宗教異端者や王殺し犯の死骸に対して、顔が地面で擦れるようにしながら支柱を引き回した後に絞首刑を施すように規定した。

 

 →中世の「死骸敵対」の慣習に似ている。

 

P290

 動物裁判はよく知られている。ギリシア・ローマから近世キリスト教世界に至るまで、動物が人間に危害を与えた際、「犯罪者」として動物が裁判にかけられ、その結果たいてい死刑判決が下った。公開の絞首刑が一般的だが、石打・斬首・焚刑になることもある。手足の切断など被害者が受けた傷と同じ損傷を動物に与えてから殺す場合もあった。獣姦罪に問われると、戒律を破った人間だけでなく動物も同様に石打刑などで殺された。プラトンは『法律』において、動物が人間を殺した際の刑罰を規定し、「殺人犯の動物に対して、殺された被害者の近親者は訴訟を起こさねばならない」と記した。

 動物裁判は12世紀から18世紀まで特にフランスで頻繁に行なわれ、歴史家が多くの例を報告している。人や家畜を殺傷したり、畑や果樹園を荒らした動物は逮捕されて監獄に放り込まれる。領主の代訟人つまり検察官の証拠調べが済むと被告に対する起訴請求が行なわれ、受理されれば、被告たる動物の弁護士が任命されて裁判が始まる。裁判では証人の陳述を聞き、検察官が論告求刑し、裁判官が判決を言い渡す。審理のどの過程でも人間と同様に動物が扱われた。動物裁判は民衆リンチではない。裁判及び処刑は公的制度として行なわれ、費用を国王あるいは領主が負担した。

 稀だが、植物や無生物が処罰されることもあった。例えば木から落ちて死亡すると、死者の親族が集会を開き、問題の木を切り倒した後、小さく挽き割って風に飛ばした。戦闘で殺された被害者の親族は、使用された武器を罰する目的で焼却処分することもあった。

 なぜ、意志を持たない死体・動植物・無生物が裁判にかけられ、処罰されたのか。現在の我々の感覚からすると責任能力を持たない子どもや精神疾患者がなぜ処罰対象になったのか。犯罪行為に関わらない他人にまで集団責任が及んだのは、どのような理由によるのか。

 

P293

 死体・動物・子ども・精神障害者・集団が責任を負わされた事実は、科学知識の未発達・個人の未分化・アニミズムでは説明できない。この解釈は二つの誤りを犯している。

 一つは責任を因果律で理解する姿勢だ。死体や動植物の処罰を説明するためにアニミズムを持ち出したり、精神病者や子どもあるいは集団に対する処罰の理由を精神科学の未発達や個人の未分化に求めるのは、意志が行為を引き起こすと考えるからだ。そこに根本的な過ちがある。責任は因果律では捉えられない。

 もう一つの問題は普遍的価値が存在し、時代が進むにつれて正しい責任概念に次第に近づくと考える進歩史観だ。人類の知識が蓄積されるとともに誤りが少しずつ訂正されて、より正しい世界観が構築される。野蛮な拷問で人々を苦しめた古代・中世の刑法理念が反省され、より満足な価値観が練り上げられるのだと。

 多様な道徳観が散見される理由を各社会・文化の固有性に求めるのはよい。だが、奇妙な処罰慣習が共同体固有の世界観に起因するように、正しいとされる責任概念も現在の我々の世界観を反映するにすぎない。我々近代人の責任概念だけが社会・心理的制約を逃れ、普遍的心理に合致する保証はどこにもない。善悪の基準や処罰体系の根拠は非社会的・超歴史的な要因を探すのではなく、人類社会全体に共通する集団性自体に求めなければならない。

 

P294 責任の正体

 常識的に考える犯罪発生から刑罰までは、⑴犯罪事件の発生、⑵その原因たる行為者つまり犯人を探し出す、⑶犯人の責任を判断して、⑷罰を与えるという順序にしたがう。すなわち犯人をまず見つけ、責任が確定した後に罰が決定される。したがって責任と罰は二つの別概念をなす。しかしポール・フォーコネは異なる解釈を提示する。そもそも犯罪とは何か。それは共同体に対する侮辱であり反逆である。社会秩序が破られると社会の感情的反応が現れる。したがって民衆の怒りや悲しみを鎮め、社会秩序を回復するために犯罪を破棄しなければならない。しかし犯罪はすでに起きてしまったので、犯罪自体を無に帰すことは不可能だ。そこで犯罪を象徴する対象が選ばれ、このシンボル破棄の儀式を通して共同体の秩序が回復される。責任という社会装置が機能する順序をフォーコネはこう分析した。

 

 犯罪の代替物として適切だと判断され、犯罪に対する罰を引き受ける存在が責任者と認められる。

 

 →現代の様々な組織には必ず役職が存在するが、その役職を別名「責任者」と呼ぶ。つまり、役付とは、トラブルの責任を負うために存在する、ということになる。

 

 犯罪の結果を──感情の上での波及効果を──破棄する必要がある。つまり駆り立てられた激情が尽きて鎮まらなければならない。(中略)法に反するものを取り除き、以前の秩序を回復するだけではすまない。犯罪の処罰を通して再び新風を吹き込み、傷ついた感情を癒さねばならない。道徳規則の権威に社会が抱く信頼そして道徳への信奉が慰めを要求する。犯罪から生じた動揺を鎮め、犯された戒律を回復するために社会が見つけた唯一の手段は、犯罪から社会が受けた冒涜のシンボルに感情を爆発させ、このシンボルを想像の上で破壊することだった。この破壊的激怒が処罰の源泉をなす。処罰が完了するのは、犯罪が取り除かれたと社会が信ずるに至った時であり、その前ではありえない。

 

P295

 社会秩序への反逆に対する見せしめとして刑罰は執行される。見せしめの刑を通して、社会秩序への造反事実が共同体の人々に告げられるとともに、社会の掟や禁止事項が想起され、社会規範が再確認される。禁忌に触れると恐ろしい処罰が待つと威嚇する機能を見せしめは担う。

 事件のシンボルとしてないが選ばれるかは時代および文化により異なる。見せしめの対象は必ずしも犯罪行為者とは限らない。見せしめの刑は犯罪事件のシンボルに科せられるのであり、当該社会が共有する世界観にとって犯罪の代替物になりさえすれば十分だ。犯罪行為者が責任者として選定され罰を受ける場合は確かに多いが、それは責任や罰が因果関係に依拠するからではなく、犯罪事件が把握される過程で行為者が一番目立つからにすぎない。

 

 →罪を憎んで人を憎まずという発想に似ている。本来、犯罪者の個性などは問題ではなく、生じた犯罪自体が問題で、それを引き起こしたとされる人間が必要なだけ。そうでなければ、被害者や民衆の感情が収まらない。犯人という人間は、責任を負うから必要とされる。そうすると、正直誰でもよくなる。これこそ、中世の解死人が発生する理由。犯罪者の家を焼く理由。

 森友学園問題の森友夫妻が実刑判決を受け、財務官僚の責任や安倍晋三首相の責任が問われなかった状況ともよく似ている。結局、責任の取らせ方はその時代に特有の恣意性の強いものだということ。やはり、虚構。森友夫妻はこの時代に生まれたことを残念に思うしかない、ということ。別の時代なら、罪を免れたかもしれない。

 

P296

 フォーコネ説において責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に処罰が責任の本質をなす。したがって責任者であるのに罰せられない事態は論理的にありえない。

 犯人=責任者は定義からしてスケープ・ゴートだ。普通はスケープ・ゴートというと本当の犯人がいて、代わりに無実の人が罰せられる自体を意味する。だが、フォーコネのテーゼにおいてスケープ・ゴートは犯罪自体の代替物であり、犯罪者の身代わりではない。責任者の同定は犯罪の原因究明ではなく、けじめをつける目的で犯罪のシンボルとして破壊するための対象選択だから、スケープ・ゴートとして選ばれたシンボルがまさしく犯人であり責任者に他ならない。スケープ・ゴートの選定が犯人=責任者の各敵を意味するから、スケープ・ゴート以外に真犯人はいない。

 

 →犯罪の代替物=スケープ・ゴート説を、もっともよく表しているのが、中世の解死人制のような気がするし、このシステムこそが処罰の最も本質的・普遍的な姿かもしれない。原因を究明し、証拠によって立証された容疑者が真犯人だとする近現代人の考え方が、相当に特殊だということ。

 

P297

 行為の因果関係とは別に、社会秩序への反逆を罰する装置として責任が機能するのは、すでに過ぎ去った時代の遺物ではない。2004年、イラクで人質になった日本人三人に一部の週刊誌や新聞が批判や嫌がらせを展開し、自己責任という表現が流行した。日本社会の伝統的な温情・平等主義に代わって個人主義が広がり、個人の責任が強く問われるようになったのではない。個人主義化から自己責任論が派生したのなら、解放された人質の帰国に際し、家族にまで中傷が及んだ事実をどう説明するのか。

 自らは悪くないのに、家族や組織の部下がした行為の責任を負うのは日本社会の伝統だ。今でもそれは変わらない。地方の新聞配達員が犯罪に及ぶと本社の代表が謝罪する。教員が飲酒運転や痴漢で検挙されると、校長や学部長・学長が記者会見で頭を垂れる。飲酒運転も性犯罪も私生活の出来事であり、学校組織が管理する問題ではない。犯罪を制御する手段も学校や大学当局にない。それでも謝罪を表明しなければ世間が赦さない。大麻使用や未成年者の喫煙飲酒は当人の健康の問題だ。それなのに、あたかも恥ずべきことをしたように扱われ、マスコミに叩かれる。本来の目的が忘れられ、遊離した規則が一人歩きする。「世間をお騒がせして申し訳ありません」という常套句に象徴されるように、責任現象はフォーコネが分析したとおり、社会秩序を回復するための儀式として機能する。

 

 →個人主義ではなく、全体主義?や社会秩序を守るために、自己責任・個人責任・個の犠牲という論理が必要になってくる。

 

P298

 過ぎ去った時代の話ではない。家族の誰かが凶悪犯罪をなすと、両親・兄弟姉妹・子どもにまで世間の糾弾は達し、自殺・離婚・家族離散・退職の憂き目にさらされる。親は我が子の罪を自ら背負い、一生かけて償う覚悟を決める。自分の子を犯罪者に育てる親はいない。ある意味では被害者の遺族以上に辛い試練のはずだ。だが、社会は彼らを村八分にし、抹殺する。

 

 →コロナも同じ。

 

 しばしば勘違いされるが、個人主義と自己責任論は対極に位置する。構造不況の中、失業者・ホームレスが増加し、不安定になった社会規範・秩序を回復するためにスケープ・ゴート現象が顕著になった。大学や研究組織に導入された競争原理も従来からの集団管理構造に搦め捕られ、個人間の競争よりも組織どうしが張り合う形に変容した。集団競争の一環として教員への締め付けが強くなる。個人主義化の波ではない。集団の自己保存機能として再編成が進行する。

 責任を問うためには行為・出来事の原因を個人に帰属させる必要がある。中世の魔女裁判やインカ・アステカの人身御供の習慣を考えればわかるように、個人主義が未発達な世界でも個人の犠牲を通して社会秩序の維持・回復が図られた。自己責任論は前近代的スケープ・ゴート現象だ。

 フォーコネ説はスケープ・ゴートを罰せよという規範的主張ではない。過去から現在そして未来までずっと責任はこのように機能する。フォーコネは問う。「奇妙な責任形態は社会的原因によって生まれると認めながら、どうして真の責任だけはそうでないと言えるのか」。「真の責任」とは何か。前章でデュルケム犯罪論に言及した。彼の弟子フォーコネも同様に善悪の基準を社会規範に求める。悪い行為だから我々は非難するのではない。逆に、社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶのだ。

 

P306

 すんでのところで犯罪行為を踏みとどまる者もいれば、一線を超えて犯罪を実際に犯し、投獄される者もいる。同じ社会環境の下で育っても、ある者は殺人を犯し、他のものはそうしない。なぜか。犯罪者とそうでないものとを分け隔てる何かが各人の心の奥にあるのか。しかし実は因果関係が転倒している。行為に走った者にはもともと殺人者の素地があったと我々は事後的に信じ、本人もそう思い込まされるのだ。人間は外界の影響を強く受けながら、そしてたいていは明確な意識なしに行動する。意志が行動を選び取るのではなく、行動に応じた意識がのちに形成される。

 

 →自殺既遂・未遂者に対してもそう思っている人間がいる。人間は良くも悪くも、その場その場でコロコロ変わる存在であること、変われる存在であることを、いいかげん認めなければならないのではないか。生まれた時から自殺しやすい人間などいない。赤ん坊のころから、希死念慮自殺念慮を抱く人間などいない。言葉をもっていない人間に、希死念慮自殺念慮を想起することはできないからだ。そもそも、言語自体が人間どうしの取り決めた約束事(虚構)なわけだから、そこから生み出されるさまざまな概念や制度、文化などが、何の正当性もない虚構になるのは当たり前だ。虚構の上には虚構しか築けない。あえて正当性の根拠を言えば、「あるとき、人間どうしが交渉して取り決めた」という事実だけ。絶対的な正しさなど存在しない。人間は、自らが生み出した言語という社会的な虚構のなかで、虚構的な生を営んでいるだけ。自分たちの送っている人生こそが、本当の意味での「演劇」だ。我々が見ている演劇・ドラマ・映画etcは、メタフィクションということになりそう。

 

P308

 自殺を図ったが助けられて病院に入院した人々に面接した加賀乙彦は意外な反応に驚く。

 

 そのとき驚かされたのは、みなさん異口同音に「助かってよかった」と言っていたこと。(中略)命を取り留めたとはいえ重傷を負って苦しんでいる人や片足を失ってしまった人たちさえ喜んでいる。テレビドラマなどでは、「どうして死なせてくれなかったの!」などと怒るのが定番だけれども、私の経験ではそういうケースはありませんでした。

 自殺の動機として語られた理由は、人によってさまざまです。(中略)しかし、みな一様に死ななかったことを喜び、「今はもう死ぬ気はありません」と言うのです。

 共通点はもう一つありました。それは、命を経とうとした最期の瞬間について、ほとんどの人が多少表現の違いはあるものの、やはり「悪魔がささやいた」というようなことを口にしていたこと。

 (中略)「別れた彼に電話したら無言で切られて、で、ふっとテーブルに目をやったら果物ナイフがあって、気がついたら自分の胸に突き立てた。今思うと、あんなことよくできたなって自分でもびっくりします。ほんと悪魔の助けでもなきゃ、あんな怖いことできないと思う」

 「いえ、私は別に死ぬ気なんてなかったんですよ。発注ミスをした部下と一緒に取引先に謝りに行ってペコペコ頭を下げて、会社に戻ったら上司に嫌味言われて、明日提出しなきゃいけない書類があったんで残業して。で、なんだかひどく疲れちゃったもんだから、帰り道にある歩道橋の上でぼんやり車が通るのを眺めていたんです。もう女房は寝ちゃってんだろうなぁ。今日も残りものチンして一人で食べんのか。そういえば最近、うまいもの食ってねぇなぁ。いいことなんか何もないもんなぁ……そんなことを考えてるうちに、何だか生きててもしょうがないような気がして、次の瞬間には歩道橋の手すりを乗り越えていました。自分の意志で飛び降りたというよりも、操り人形みたいに誰かに動かされているような感じでした」

 

 警察の厳しい尋問の下、犯行動機が後から形成される。服役生活において罪を日々反省する中で犯罪時の記憶が一つの物語としてできあがる。釈放されても前科者は再就職に苦労し、伴侶を見つけるのも難しい。そのような生活の困難が再犯へと導く。犯罪者の素質ゆえに犯罪者になるのではない。まるで単なる出来事のように本人の意志をすり抜けて犯罪行為が生ずる。だが、そこに社会は殺意を見出し、犯人の主体的行為と認定する。自由意志で犯罪を行なったのだと社会秩序維持装置が宣言する。

 

P310

 死刑と犯罪率との関連について1988年に発表された国連のレポートは「終身刑に比べて死刑が犯罪防止力に優れる科学的根拠は見出せない」と結論づけた。

 

P311

 加賀乙彦が東京拘置所に勤務していたとき、殺人犯145名に面接して尋ねたところ、誰もが死刑制度の存在を知っていながら、犯行前に死刑を念頭に浮かべた者は一人もいなかった。犯行の最中に死刑のことが頭によぎった4人も、それで犯行を中止することはなかったという。

 したがって死刑を望む本当の理由は他にあるはずだ。犯罪によって乱された社会秩序を再び取り戻すために、犯罪行為のシンボルとして受刑者を世界から抹殺する必要があるからだ。勝手に自殺しないよう死刑囚は厳重な監視下に置かれる。しかし死刑制度を維持する理由が危険人物の抹殺ならば、死刑囚が自殺しても困らないはずだ。どちらにせよ殺される身だ。本人が死を選ぶ不都合はどこにあるのか。自殺してくれれば執行官の重荷がなくなり、かえって都合がよいではないか。

 米国テキサス州の死刑囚が1999年12月に向精神剤を多量に飲んで自殺を図り、担当部署は大騒ぎになった。受刑者は病院まで飛行機で搬送され、一命を取り留めた。こうして一旦命を助けたまさにその翌日、処刑した。(中略)

 死刑制度維持の主な論点は累犯防止・応報・犯罪防止だ。死刑でも自殺でも受刑者は死に至る。したがって累犯防止の目的は達成される。監視の目を盗んで首を吊るにせよ、薬を大量に飲んで自殺するにせよ、死刑執行よりも肉体的に苦しい死を迎える。死刑囚の苦しみを軽減するためにさまざまな努力が払われてきた。特に注射刑なら苦しみが軽減される。したがって罪人に対する復讐の手段としては自殺の方が適している。死刑の抑止力を信じない人の間にも死刑存続を望む声は強い。なぜなのか。

 序章で制御錯覚について述べた。制御できないさまざまな要因が我々の生活を司る。だが、不安定な認知環境に生きるのは難しい。そこで安定した秩序が世界を支えている感覚を生み出す社会装置ができる。お守り・占い・願掛けなど現代の呪術が生まれては消え、また装いを新たに現れる。賭け事をするときに唱える呪文と同じように、死刑は制御幻想を維持する手段にすぎないのか。

 

P314

(10)集団同一性をめぐる認識論については前著で「テセウスの舟」の神話をもとに議論した。漁師が木の舟を漕いで生活している。舟は修理のたびに部品が変わるから、ある時点ですべての部品が交換され、初めの材料は何もなくなる。それでも同じ舟と言えるのか。(中略)形象の連続性を根拠に同一性の保証はできない。異なる状態群を観察者が不断に同一化するために生ずる表象が同一性感覚を生み出す。時間を超えて継続する本質が対象の自己同一性を担保するのではない。対象の不変を信じる外部観察者が対象の同一性を構成する。同一性は対象の内在的状態ではなく、同一化という運動が生み出す社会・心理現象である。より詳しくは前掲、拙著『増補 民族という虚構』(ちくま学芸文庫、2011年)81─88頁を参照。

 

 

第6章 社会秩序と〈外部〉

P330

 贈与現象も虚構が媒介して初めて可能になる。そもそも贈与行為はある意味で自己矛盾している。贈物を受け取った側は自分も贈物を返さなければならない。さもなければ贈与の連関が途絶える。しかし贈物をする際に、必ず贈物を返してくれると知っているならば、そのような行為は真の意味での贈与とは呼べない。真心からする自発的贈与ならば、相手から等価の返還を期待するのはおかしい。最終的に等価の見返りがあると期待しながら行なう贈与は単なる交換にすぎず、それを贈与と呼ぶのは偽善だ。しかし何の見返りもなければ、贈与が社会制度として定着しない。つまり、贈与は概念自体に論理矛盾を内包する。

 贈物を受け取る側が必ずまた贈物を返す社会制度の解明を試みるマルセル・モースは、ニュージーランドのマオイ族が信じるハウという霊に注目する。ハウが贈与物に取り憑くと、元の持ち主に返還する負い目が贈物を受け取ったものに生まれる。この信仰のおかげで本来矛盾するはずの現象が可能になる。

 

P332

 贈物をするが見返りなど期待しないと言うメッセージと贈り物をもらったら必ず返礼せよと言うメッセージが矛盾して見えるのは、メッセージが両方とも贈与当事者から発せられると誤解するからだ。見返りを期待してする贈与は偽善に過ぎないし、見返りを期待しない贈与は継続しえないという従来から指摘されるパラドクスはハウという第三項の導入で解消される。贈物には必ずお返しをせよという命令は依然として機能する。だが、このメッセージは送り主から発せられるのでなく、当事者から遊離したハウの命令として表象される。矛盾する二つのメッセージが共存するのではなく、二つの異なる内容のメッセージが二つの異なる情報源から発せられる。「贈物を受け取ってください」という気前のよいメッセージは贈り主のものであり、「贈主に感謝し、他の贈物で返礼せよ」という命令はハウが発する。ハウが当事者から遊離するおかげで贈与の連鎖が可能になる。レヴィ=ストロースが指摘するようにハウは原住民の錯覚の産物だ。だが、この第三項のおかげで贈与者と被贈与者の間に距離が生まれ、虚構の媒介によって共同体の絆が維持される。

 

 →矛盾するとき、主体性の違いに注目するという視点をもったことがなかった。制度全体からすると自己矛盾しているようだが、それを構成する各主体が独立して矛盾した行為をとることで、全体として円滑に機能することがある。

 

P334

 前近代の社会秩序は神の摂理の表現であり、人間が恣意的に制定する存在ではない。大自然と同様に社会秩序は人間から独立するものだった。神の死を迎えた近代では宗教的世界観から個人が解放され、自律性を獲得する。個人の自立性を認めながらも同時に、集団が個人から遊離して運動する事態をどう捉えるか。個人の自立性と集団の自立性とを矛盾と捉えず、両者が同時に成立する可能性はないか。これが集団の実体視を退けるハイエクが自らに課した問いだった。集団は意識や意志を持つ主体ではない。にもかかわらず、人間を超越し自立運動する。なぜか。

 

 →日本中世はどのような神の摂理によって、あのような社会秩序が形成されたのか。「ゆるやかなカースト日本中世」とは、どのような摂理なのか。

 

 生命を例に取ろう。生命は物質の単なる組み合わせでなく、生命というモノがある。かつてこう考えられた。しかし分子生物学の発達とともに生命はデオキシリボ核酸という化学物質に還元された。生命は現象あるいは機能を意味し、生命という本質はもはや存在しない。だが、生命は構成物質の所与を超え、自律性を獲得する。このように本質論や正気論の排除は必ずしも要素主義を意味しない。生命が物理・科学的メカニズムに完全に還元されるという命題と、生命は構成要素を超越するという命題は矛盾しない。

 

P335

 社会現象を起こす原因が人間の営為以外にないという言明と、その現象が人間自身にも制御できない事実との間には何の矛盾もない。社会という全体の軌跡は、要素たる人間の意識や行為と齟齬を起こし、あたかも外部の力が作用する感覚が生まれる。

 商品・制度・宗教など自己の作り出した社会的諸条件に人間自身が捕らわれ、主体としてのあり方を失う状況として疎外は理解される。だが、人間が本来あるべき姿から外れた異常事態として否定的側面だけから、この現象を把握するのは誤りだ。ヘーゲル哲学の文脈で使われるEntausserung(外化)は、数段現象が人間から遊離して別の害的存在として自律運動する現象のことだ。対してマルクス主義が広めたEntfremdung(疎外)は、人間が生産した諸現象から人間自身が邪魔者として排除される自体に相当する。食物を摂取する側にとって腐敗と発酵が区別すぎ二つの現象であっても科学的には同じプロセスであるように、人間の生産物が彼ら自身から遊離するという意味では疎外と外化は同一の社会現象だ。各人の主観的価値・行為が相互作用を通して客観的価値・行為へと変化される過程である。

 人間が作った秩序なのに、それがどうの人間に対しても外在的な存在となる。共同体の誰にもそして権力さえも手の届かない〈外部〉だからこそ、社会制度が安定する。無根拠で偶然の産物にすぎないのに、あたかも根拠に支えられたように機能する。つまり誰にも自由にならない状態ができるおかげで、社会秩序は誰かが勝手に捏造したものではなく普遍的価値を体現するという感覚が生まれる。

 

 →法は特定の権力者が制定したものであるにもかかわらず、制定者自身をも規定する。この状態になっているからこそ、民衆も法を虚構とみなしながらも妥当なものと容認するのだろう。どこまで気づいているか知らないが…。超法規的な存在である皇帝や天皇のような存在がいた前近代とは、現代はかなり異なる。皇帝や天皇の権力の根拠もどこにもないから、外部に神を措定しなければならない。神が認めた天皇権力、それが規定した法や制度だから服従する。こういう構図か。

 一方で、被差別民と呼ばれる超法規的存在(アウトロー)もいる。彼らは神が認めた天皇権力の創出する身分秩序から疎外された存在だから、差別されるということになる。黒田俊雄・高橋昌明・小谷汪之らが言いたかったことは、こういうことか。

 公家法や武家法は、以上のような理屈で理解できるが、寺社法や、惣掟のような在地法は何を根拠にしているのか。寺社法は神仏を外部に措定すればよいが、在地慣習法は何に由来するのか。こうした慣習法が地元寺社での寄合で作成されることがあるから、根拠を地元の神仏に委ねているのかもしれない。在地領主の場合はどうか。1つは暴力、1つは中央権力の代理者として権威・権力、1つは在地秩序の代表者としての権威・権力などか。

 

P336

 人間から遊離し自律運動するシステムとして、集団現象は我々を無意識のうちに拘束する。しかし、それは意識の底に定位されるフロイトユング的な無意識ではない。人間の意識が集団現象を制御できないのは、各個人精神の奥底に潜む無意識が集団現象を生むからではなく、ちょうどインターネットの討論フォーラムのように、システムを構成する情報がシステム全体に散らばって存在するからだ。集中統括する場所はどこにもない。ハイエクは言う。

 

 (中略)我々が自らの精神に起きる多くの事柄に気づかないのは、それがあまりにも低いレベルにおいて進行するからではなく、あまりにも高いレベルで進行するためである。(中略)このような過程は「意識下」というよりは「超意識的(スーパー・コンシャス)」と呼ぶほうが適切かもしれない。なぜならこれらは姿を現すことなしに意識過程を支配するからである。

 

P337

 集団現象が遊離するおかげで特定の他者からの支配を免れ、自由の感覚を得る。疎外のおかげで自由が可能になる。人間自らが作り出しておきながら人間自身にも手の届かない規則を作るというルソーの夢見た方程式がここにある。

 火事だと誰かが叫び、劇場でパニックが起きる。雪崩のように逃げる人々。助かろうと誰もが必死で逃げ道を探す。だが、人間の雪崩を生み出しているのはまさしく、その逃げ惑う人々自身だ。皆が逃げるからこそ誰も逃げられない。危険はすでに去ったと知っても、パニックは容易に収まらない。(中略)

 誤報に過ぎなかったと全員が知ってもパニックは収まらない。(中略)根拠がなくとも集団現象はいったん動き出すと当事者の意志を離れて自律運動を始める。責任・道徳・経済市場・宗教・流行・言語などさまざまな集団現象はこのように機能する。

 社会内部の葛藤や揺らぎが相互に生のフィードバックを受けて増幅し、不動点(アトラクタ)が生み出される。パニックの中で逃げ惑う人々は、客観的外因が生み出す危険から逃げているつもりで、実は彼らの行動こそがパニックの原因を作り出している。社会システムに必ず存在する恣意的で小さな揺らぎが何らかのきっかけで一定方向を持つ運動に増幅される。

 

 →学級崩壊やいじめも同じ。

 

P343

 根拠という名の虚構。それは人間世界を根底から規定する論理構造だ。パスカルは言う。

 

 法の依拠するところをよく調べようとする者は、法がはなはだ頼りなく、いい加減だと気づくだろう。(中略)国家に背き、国家を覆す術は、既成の習慣を期限に遡って調べ、その習慣が何ら権威や正義に支えられていない事実を示して習慣を揺さぶることにある。(中略)法が欺きだと民衆に知られてはならない。法はかつて根拠なしに導入されたが、今ではそれが理にかなって見える。法が正しい永遠な存在であるかのように民衆に思わせ、その起源を隠蔽しなければならない。さもなくば法はじきに終焉してしまうだろう。

 

 法という虚構の成立と同時にその仕組みが隠される。永井均が的確に表現する。「道徳の外部にそれを支える道徳はない」「道徳空間を内側から閉ざす道徳イデオロギーを成立させて、10人全員に取り決めをした最初の動機を忘れさせる」「設立の趣旨を忘れることが設立の趣旨を実現する」「道徳的な人とは道徳の存在理由を知らない人のこと」「道徳の根底には、目を凝らせば見えてしまうものを見てはいけないとして遮断する隠蔽工作がある」「なぜ悪いことをしてはいけないのか、なぜ道徳的でなければならないのか、といった問いに「かくかくしかじかのため」といった明快で単純な答えがあってはならないのである。そんなものはすぐに簡単に論駁されてしまうからだ」。

 

 →前近代法の場合、成立の仕組みを隠したか、隠す必要はあったか、隠そうとする意図があったか。根拠に神仏や権力の暴力があれば、仕組みを隠す必要はないか。

 

 

P344から

 どんな現象・出来事にも原因がある。しかし、原因は根拠ではない。思考実験をしよう。箱の中に黒い玉と白い玉が一つずつ入っている。中を見ないで箱から玉を一つ取り出した後、同じ色の玉を一つ加えながら箱に戻す。(中略)

 さて実験を行なうと黒玉と白玉の割合が一定の値(アトラクタ)に収斂する。まるで世界秩序が最初から定まっており、「真理」に向かって箱の世界が進展を遂げるかに見える。だが、白玉と黒玉一個ずつの状態に戻して実験をやり直すと、黒玉と白玉の割合が今度は先ほどと違う値に収斂する。今回も定点に収斂してシステムは安定する。しかし箱の世界が向かう真理は異なる。どんな値に収斂するかを前もって知ることはできない。歴史が実際に展開されるまでは、どんな世界が現れるかわからない。だが、それでも真理は発露する。我々の世界に現れる真理は一つでも、もし歴史を初期状態に戻して再び繰り広げられるなら、そのときには異なる真理が出現する。歴史はやり直しが利かない。そのおかげで我々は真理を手に入れるのだ。

 ジンメルの循環的推理、予言の自己実現ピグマリオン効果は、無根拠から根拠が生成されるメカニズムを教える。それ自体としては意味をもたない、社会内の揺らぎや葛藤が積算されて自己言及的システムが生成される。神やプラトンイデアのような超越的実体あるいは全体存在を斥けながらも、人間の世界に意味が現れる可能性をこの認識論が導く。

 それだけではない。安定した構造と絶え間ない変動の共存をどう把握するのかという、構造主義に従来から投げかけられた批判を回避する可能性でもある。貨幣経済や言語など、すでにシステムが成立した後ならば、そこに構造や機能を見出せるが、システムの発生過程自体を論理的あるいは法則的に捉えることはできない。そこで「命がけの跳躍」という表現が使われる。

 

 →では、歴史学の研究意義や役割は何か?少なくとも、歴史法則を明らかにするという点だけは否定されることになる。だが、個別事象の因果関係を明らかにすることも無意味。原因は無限遡及するだけだから。結局のところ、教訓を得たり、興味を満たしたりするだけの役割しかないのか。ひょっとすると、事象によっては教訓にもならないかもしれない。社会条件が異なれば、同じ現象が生じても、到達する結果は異なるだろうから。

 やり直しが利いてしまうなら、不変の真理など存在しないことになる。だが、その真理が、未来においても真理であるとは限らない。

 結局のところ、真理などというものは、過程と結果を見て、それを人間の見方によって評価しただけだということになる。物事の捉え方の1つであって、唯一無二の真理でもない。すでに終わった結果の1つにすぎない。人間はどうしても意味を生み出さなければ生きていけない存在なのだろう。

 変動が安定を生み出す。変動からしか安定は生み出されない。だが、黒玉・白玉実験とは異なり、人間社会の場合、逆に安定すると変動が生じるのではないか。それが何なのかを分析できるのは、歴史学しかないか。

 

P346

 人間が地球に誕生した直後に道徳はなかった。しかし現在は道徳がある。したがってその間に次第にできあがったことになる。言語・市場原理・宗教の生成過程も同じだ。歴史的にたまたま、ある特定の道筋を通ったという事後的な意味での歴史検証は可能かもしれない。だが、そこに法則を見つけることは論理的に不可能だ。なぜなら世界の成立は自己言及システムがアトラクタの一つに向かって収斂する運動の連続であり、何らかの内在的根拠がないからだ。無根拠から出発しながらシステムが生まれ、根拠が成立する。カントの自然因果律の意味で、一つの出来事には必ず原因がある。しかし初期条件の組み合わせのほんの少しのズレから異質な世界が生まれるがゆえに、初期条件をもって現在の社会秩序の根拠とすることはできない。原因と根拠は違う。

 

P347

 時間が経ち、システムがある状態に至る。現在から過去に時間を遡れば、システムが変遷した道筋は一義的に同定される。したがって現在の状態が最初から決定されていたように見える。しかしその道筋を何らかの法則に還元できないから、到着点に至る道筋の情報量を縮小できない。つまり現在に生じる事象を計算する一番速い方法は、道程が実際に到達点に至るまで待つことに他ならない。決定論と未来予測不可能性との間に矛盾はない。真理・偶然・一回性・超越・意味、結局は同じことをさす。歴史は実際に生ずることでしか、その姿を明らかにしない。社会は人間から遊離して自律運動するからだ。

 

 →社会は人間から遊離して自律運動するから、人間が人間をいかに分析しても、すでに生じた歴史のように未来を予測することは不可能だということ。

 

P352

 互いに借りを作らないという契約的発想が目指す人間関係とは結局、人間無関係に他ならない。権利・義務を完全に明示化できれば、人間の世界に信頼は要らなくなる。だが、それは同時に人間が人間たることをやめるときだろう。

 信頼と同様に赦しも契約的発想となじまない。すべての負債が生産されたならば、加害者を赦す必要はもうない。収支決算がすでに済んでいるからだ。赦すという行為は、被害者が受けた損害が完全に回復されないのにもかかわらず、すべてを白紙に戻し、新しい関係を結び直すことを意味する。南アフリカにおけるアパルトヘイト清算ユーゴスラヴィアルワンダ東ティモールでの民族和解。いまさら何をしても殺された家族は帰ってこない。賠償金をいくらもらっても障害を受けた身体や不幸の日々は戻らない。しかし赦しという象徴的行為を通して人は負債を帳消しにし、加害者との関係を再び可能にする。つまり赦しは被害者が持つ正当な権利の放棄だ。被害者が享受すべき正義の実現断念に他ならない。赦しは契約論理を破る不合理な行為である。赦すは英語でforgive、フランス語ではpardonnerという。どちらの単語も贈与概念を内包する。本来ならば与える必要のないもの、あるいは与えられないものを敢えて「与える(donner)ことを通して(par)」、人は罪を赦す。同じ世界に生きるチャンスをもう一度罪人に「与える(give)ために(for)」、人は赦すのだ。

 

P363

 自分の状況に対する満足度は比較対象に左右される。第二次世界大戦中、米黒人兵士の不満は南部出身者よりも北部出身者の方が強かった。準拠集団が異なるためだ。人種差別の強い南部では黒人の生活水準が低いため、戦線での生活が必ずしも苦にならない。しかし南部ほどには差別が激しくない北部出身者は、残留(在国)の黒人と自らとを比較して不満が募る。

 社会の底辺に生きる者が肯定的アイデンティティをもてるかどうかは、社会資源の分配だけで決まらない。封建社会では出生によって身分が固定された。しかし下層の人間は上層との比較を免れるため、近代社会に比べて羨望に悩まされにくい。下位集団から上位集団へ移動できないカースト制やアパルトヘイト制度と違い、民主主義社会では階層間の移動が可能だが、それゆえに下位の者は上位に自己同一化する傾向が強くなり、不満を強く感じる。

 

P366

 すべての人間を平等に扱い、物質・文化資源を均等に分配する社会は存在しない。したがって格差を正当化する何らかの機制が必要になる。封建制度カースト制度など身分制社会では、貧富や身分を区別する源泉が共同体の〈外部〉に投影されるため、不平等があっても社会秩序が社会秩序は安定する。人間の貴卑は生まれで決まる。貧富や身分の差があるのは当然だ。

 

P367

 近代以前の伝統社会と近代社会とを区別するのは平等・不平等の事実ではない。民主主義社会も依然として不平等な社会だ。程度の差でもない。両者の違いは他にある。伝統社会では身分が運命によって定められ、まさに格差の存在が秩序の正しさを傍証する。対して民主主義社会の人間はすべて同じ権利を持ち、正当な理由なくして格差は許されない。伝統社会にとって平等は異常であり、社会の歯車がどこか狂った状態を意味する。ところが逆に民主主義社会では平等でなければならない。しかしその実現が不可能だから、常に理屈をつけて格差を弁明しなければならない。

 どんなに考え抜いても人間が判断する以上、格差基準が正しい保証はない。社会の底辺に置かれる者は既存の社会秩序に不満を抱き、変革を求め続ける。近代社会では、完全平等というアトラクタに抗するための正当化を永久に強いられる。〈外部〉に支えられる身分制社会と異なり、人間が主体性を勝ち取った近代民主主義社会は本質的に不安定なシステムだ。近代社会の激しい流動性の一因がここにある。

 

 問題はそれだけに止まらない、人間世界の〈外部〉を排除し、あくまで内部に止まったままで秩序を根拠づける試みは論理的に不可能なだけでなく、ロールズの善意を裏切る悲惨な結果が待つ。

 『正義論』が構想する社会において底辺の人々は自らをどう捉えるだろうか。遺伝・家庭・教育・遺産など外因に左右される能力は本人の責任でないから、そのために劣等感を抱く必要はないとロールズは説く。格差は単なる手段であり、人間の価値が判断されるのではない。(中略)

 

 だが、このような理屈や慰めは空虚に響く。ロールズの想定する公正な社会では下層の人間にもはや逃げ道はない。社会秩序が正義に支えられ、階層分布の正しさが証明されている以上、自分が貧困なのは誰のせいでもない。まさしく自らの資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。貧富の差は正当であり、差別のせいでもなければ社会制度に欠陥があるのでもない。恨むなら自分の無能を恨むしかない。ある日、正義を成就した国家から通知が届く。

 

  欠陥者の皆さんへ

 あなたは劣った素質に生まれつきました。あなたの能力は他の人々に比べて劣ります。でも、それはあなたの責任ではありません。愚鈍な遺伝形質を授けられ、劣悪な家庭環境で育てられただけのことです。だから自分の劣等性を恥ずかしがったり、罪の意識を抱く必要はありません。不幸な事態を補償し、あなた方の人生が少しでも向上するように我々優越者は文化・物質的資源を分け与えます。でも、優越者に感謝する必要はありません。あなたが受け取る生活保護は、欠陥者として生まれた人間の当然の権利です。劣等者の生活ができるだけ改善されるように社会秩序は正義に則って定められています。ご安心ください。

 

 同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり給料が少なかったりしても、それが意地悪上司の不当な査定のせいならば自尊心は保たれる。序列の基準が正当でないと信ずるからこそ人間は劣等感に苛まれないですむ。ロールズの楽観とは逆に、公正な社会ほど恐ろしいものはない。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。

 伝統社会での身分は各人の能力によって決まるのではない。個人的資質を根拠に王は冠を戴くのではない。極限すれば王は誰でもいい。重要なのは連綿とつながる血統に属する事実だけであり、現実の王は単なる質料だ。貴族制は能力主義ではない。才能や努力という各人の個性が問題になること自体が近代の特徴だ。

 

 →清水に魚棲まず。現代の日本人が能力的な劣等感を抱けているということは、日本は公平な社会であることを、国民に信じ込ませることができているということ。本当は違うのだが…。

 中世の公家・寺院社会では「超越」が問題になっているが、これも勤続年数や家柄といった社会システムどおりに、出世が進まなかったためにトラブルになっている。逆に、個人の能力や寵愛の度合いによって、超越が起きるから問題になる。

 ただ、戦争時のように、成果主義がモノを言う時代の場合、個人の能力によって序列が決まることもあるだろう。こういう非常時における単発現象は近代のみの特徴ではない。平時でも能力主義で社会が運営されることが近代の特徴ということでよいか。

 

P370

 伝統社会の階層制度では身分が世襲・固定されるが、下層に生きる人間は不幸の原因を外部要素に転嫁する社会装置が用意されている。制度化された差別が厳然と存在するにもかかわらず、下層の者の欲求不満は緩和され、アイデンティティ喪失が避けられる。それが彼らにとって救いになる。秩序の源を〈外部〉に投影する伝統社会では不幸の最終責任が本人にない。それは悲しい運命の定めにすぎない。

 近代の超克を説くのでもなければ、宗教へ誘うのでもない。規範的思考で人間の世界を割り切ろうとする浅はかさを批判するだけだ。「神々を生み出す装置」(machine a faire des dieux)というベルクソンの美しい表現がある。社会のことだ。デュルケムは言う。

 

 無私無欲あるいは献身の心が生まれなければ道徳は始まらない。しかし我々が従う主体が我々個人より高い価値を体現しなければ、無私無欲の気持ちは意味をなさない。ところで現実の世界において我々以上に豊かで複雑な道徳的実在性を持つ主体は私には一つしか見つからない。それは集団だ。いや私は間違っているかもしれない。同じ役割を果たしうる主体がもう一つある。つまり神だ。(中略)どちらを選ぶかに私はあまり関心がない。なぜなら、社会が象徴的に把握され、変貌したものが神に他ならないからだ。

 

 神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける〈外部〉は生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。