周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

マイケル・S・ガザニガ その1

マイケル・S・ガザニガ『人間とは何か 脳が明かす「人間らしさの起源」』上・下

            (ちくま学芸文庫筑摩書房、2018年

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第4章 内なる道徳の羅針盤

P200

 脳がいちどきに意識できるのは一つのことに限られているのだ。残りの判断はどれも自動的に行なわれている。

 自動プロセスには二つのタイプがある。自動車の運転は第一のタイプの例で、自動的になるまで時間をかけて学習された、意図的(職場へ車で行くという意図がある)で目的志向(始業に間に合うようにたどり着くという目的がある)のプロセスだ。ピアノを弾いたり自転車に乗ったりするのもこの部類に入る。第二のタイプは、知覚された事象が意識に上る前に受ける処理だ。私たちは見る、聞く、匂いを嗅ぐ、触るなどの行為によって刺激を知覚し、知覚したことに意識ある心が気づく前に脳が処理を行なう。これには努力も意図も自覚も必要としない。この自動プロセスは、あらゆる知覚をネガティブ(この部屋は白い、私は白が嫌いだ)からポジティブ(この部屋は明るい色合いだ、私は明るい色合いが好きだ)にわたる尺度に照らし、決定を一方(このレストランは何か気に入らない…他を当たろう)か、他方(このレストランは良さそうだ、ここで食べよう)に傾かせる。こうした自動プロセスは、進化のうえで重要な「接近すべきか、回避すべきか」という問題に答える手助けをしてくれている。この働きは「情動プライミング」〔訳注:プライミングとは先行する刺激が後続する刺激の処理に無意識的な促進効果を与えること〕と呼ばれ、あなたの行動に影響を与える。もし、どうして最初のレストランで食事をしなかったのかと尋ねたら、あなたは理由を挙げるだろう。しかし、答えは「白い部屋は嫌な感じがする」ではなく、「いや、あまり素敵なレストランには思えなかったから」のようなものになるはずだ。

 

 →情動プライミングはユーリスティックやバイアスに似ている。学問上の用語の違いか。

 なぜ自殺したのかと尋ねたら、その人は理由を挙げるだろう。しかし、答えは「苦しい状況から逃げたかったから」ではなく、「経済的に困窮したから」のようなものになるはずだ。つまり、自殺したときの意識に上らない本当の理由と、事後に合理的に創作される理由は異なる。その理由は社会的・一般的に妥当だと考えられるものが選ばれる。だから自動的に判断してしまう。

 

P202

 エラー管理理論によると、私たちには損害が少ない選択肢を選ぶバイアスがあるという。進化の視点に立てば、生き残った者はネガティブ優先のバイアスが当然選択されたと思われる。

 

P203

 ロージンとロイズマンは、ネガティブ優先のバイアスが持つ適応上の意味合いには次の四つの要素が関わっていると述べている。

 

 ⑴ネガティブな出来事は強力だ。死ぬこともある。

 ⑵ネガティブな出来事は複雑だ。逃げるべきか、戦うべきか、立ち止まるべきか、はたまた隠れるべきか。

 ⑶ネガティブな出来事は突然起きうる。ヘビだ! ライオンだ! そんなときは直ちに対処しなければならない。素早い自動プロセスが選択されたのももっともだ。

 ⑷ネガティブな出来事は伝染しうる─腐敗した食べ物、死体、病人。

 

 情動について論じたときにすでに見たように、外から入ってくる情報はまず視床に送られ、感覚処理を司る領域を経て前頭皮質に至る。しかし、扁桃体を経由する近道があり、扁桃体は過去に経験した危険と結びつくパターンに反応する。扁桃体は運動系に影響を与えるだけでなく、思考をも変えうる。危険な(ネガティブな)入力情報に対する恐れや嫌悪感、怒りといった素早い情動反応は、あなたが次の情動をどう処理するかに影響を与える。注意はネガティブな刺激に集中される。あなたはモッツァレラチーズが新鮮だとか、バジルの香りがすばらしいとか、トマトが真っ赤に熟れていて美味しそうだとか考えてはいられない。頭にあることと言えば、「ああ、いやだ。脂ぎった髪の毛がピザにくっついている。こんなもの食べないぞ。いや、もうこんなレストランには2度と来るものか」。これがネガティブ優先のバイアスだ。

 

P212

 脳は基本的に怠け者だ。できるだけ少ない仕事量で済ませようとする。直観モジュールは手軽で素早く、必要な仕事量が一番少ないため、脳の初期設定モードになっている。

 

P213

 倫理モジュール説によれば、刺激によって可(接近)あるいは否(回避)の自動プロセスが始まり、それが完全な情動状態につながることもあるという。この状態が道徳的な直観を生んで、それが人を行動に駆り立てることもある。判断や行動に関する推論は、後から得られる。それは脳が、自分にはまるで訳のわからない自動的な行動について、合理的な説明を求めるからだ。道徳的な判断もその一例で、それは、実際の道徳的推論の結果ではないことも多い。しかし、理性的な自己が実際に判断プロセスに参加することもある。

 

P216

 ハイトとジョセフは、「苦痛」と「互恵」に対する関心を「自主性の倫理」に、「階層」と「連合体」に対する関心を「コミュニティの倫理」に、「清浄」に対する関心を「神性の倫理」に含める。

 ここで、これらのモジュールについて、それを作動させる入力(環境的誘因)、モジュールが生み出す道徳的情動、結果として得られる道徳的直観(出力)について論じることにしよう。(中略)

 ハイトは、道徳的情動はただ他人に親切にするためだけのものではないとも主張する。「道徳には利他主義や親切心以上のものがある。親切な行動を促す情動を道徳的情動と呼ぶのはたやすいが、排斥や恥辱、仇討ちという名の下に行なわれる殺人につながる情動も、やはり私たちの道徳観を表している。人間社会は構成員全員による驚異的で繊細な産物であり、人々にその社会を大切にさせ、その健全性を支え、強要し、向上させようとする情動はいかなるものも道徳的と考えるべきである。たとえ、その行動が〝親切な〟ものではないとしても、だ」。

 

P219 

互恵モジュール

 社会的交換は社会を一つにまとめる接着剤の役割を果たしており、情動がその社会的交換の要となっている。道徳的情動の多くは、おそらく互恵的利他主義を背景に生まれたのであり、その芽生えが乳幼児や人間以外の動物で見られる。(中略)互恵関係は、チスイコウモリやグッピーなど人間以外の動物数種にも見られるが、それは一対一の関係でしか存在しない。だが人間は、誰が悪人で誰が信用できるかうわさし、他人に触れて回る。

 互恵に関連した道徳的情動には、同情、軽蔑、怒り、罪悪感、羞恥心、感謝の念がある。同情は相互関係を促すことですべてのきっかけとなる。「もちろん手を貸すよ」。怒りはごまかしをする者を罰する気を起こさせる。それは不公平さに対する反応であり、報復の動機となる。軽蔑は、自分に課せられた仕事を怠った人や自ら掲げた目標を果たさなかった人を見下し、道徳的優越感を覚えることだと。軽蔑は、思いやりなど、他の情動を弱め、その相手との将来やりとりする可能性を低める。感謝の念は、他者との関わりの中で生まれるが、ごまかしをした者を見つけた人にも向けられる。互恵モジュールの自動プロセスはこう言う。「借りを返し、他人と協力し、ごまかす者を罰する。良い人だ。近づこう」「ごまかしをする。悪い人だ。避けよう」。直観的互恵から生まれてきた美徳は、公平さ、正義、信頼、忍耐だ。しかし、互恵関係は生得の公平さに根差しているわけではなく、生得の互恵観念に由来している。

 

P223

苦痛モジュール

 苦痛に対する懸念や、他者が示す肉体的な苦痛の徴候に対する感受性や嫌悪感、そうした苦痛を引き起こす者に対する嫌悪感を持つのは、長期にわたって自分に依存する乳幼児を育てる母親にとって、良い適応例と言える。子供の生存率を高める適応はどれも、進化によって選択されたものだろうし、子供の苦痛を見分ける能力はこのカテゴリーに入る。同情、思いやり、共感は遠い昔の物真似に由来すると思われる。物真似は母子間の絆と愛着を育み、それが結局子供の生存率を高めることが多い。ハイトは、社会がこの直観的な倫理から引き出す美徳は思いやりと親切心であると結論づけているが、正当な怒りをこれに加えてもいいだろう。

 

階層モジュール

 階層は、地位が物を言う社会的な世界をうまく渡っていくためにある。私たちは対人関係でも異性関係でも権力と地位が肝心な社会集団の中で進化してきた。いわば人間のいとこにあたるチンパンジーは、つねに地位と権力に心を奪われているし、それは人間にしても変わらない。平等を標榜する社会ですら、階層は社会的地位や職場組織、異性獲得競争で見られる。社会がどれほど平等を謳おうとも、やはり人並み以上に健康で見目麗しく、したがって異性に高く評価される人はいるものだ。それに、どんな社会でも上に立つ人がいないと、混乱が起きる。権力者に敬意を表したり、冷静に権力を行使したりすることで、この社会の入り組んだ人間関係に対処できるような直観的行動は、きっと成功したのだろう。社会的交換で罪悪感や羞恥心が役に立つことはすでに見たが、これらの情動はまた、社会に受け入れられる行動をとり、階層社会をうまく生き抜くよう人を促してもくれる。罪悪感とは自分が誰かに危害や苦痛を与えてしまったという悔悟の念であり、相手を助けようとする行動に人を駆り立てる。悪辣な行為の現場を押さえられた場合にはとりわけそうで、そんなとき、罪悪感は羞恥心へと姿を変える。羞恥心は、誰かに見られていると知りながら社会規範を守らないときに起きる。羞恥心を覚えると、人は逃げ隠れをする。これは本人に規範を破った自覚があり、その行為のせいで攻撃される率は低いことを示す。罪悪感と羞恥心はすべての道徳モジュールの動機となりうる。地位の高い人の前に出ると、決まり悪さを覚えることがしばしばある。そこで人は分相応に振る舞い、権力の座にある人々に敬意を表すように動機づけられる。こうして自分より大きな権限を持つ人との摩擦が避けられ、生存の可能性が高まる。前章で、ごまかしをした者を罰した人に対する報酬は地位の向上であることを学んだ。これ以外に、階層と関連する情動には、尊敬、畏敬、憤りが、階層に基づく美徳には尊敬、忠誠心、服従がある。

 

 →倫理モジュールが自動的に働いてしまうからこそ、自殺を止めることが難しいのかもしれない。階層社会でうまく生きていくために階層モジュールがあるからこそ、階層社会から脱落してしまうと、自動的に罪悪感や羞恥心を感じてしまい、それが自殺への誘因となっているのではないか。

 

「内集団・外集団」連合体モジュール

P226

 連合体への帰属によってさまざまな情動が呼び覚まされうる。その中には、他集団への思いやり(たとえば、フリーメーソン系の友愛結社シュライン会の会員や、長距離デモ行進の参加者によるもの)、他集団に対する軽蔑(喫煙者に向けた非喫煙者の気持ち)、怒り(喫煙者に対する非喫煙者の気持ち)、罪悪感(自集団を支持しない後ろめたさ)、羞恥心(自集団を裏切ったという自覚)、きまり悪さ(仲間を失望させたという思い)、感謝の念(消防隊員に対する住宅所有者の心情)などがある。というわけで、このモジュールは機能する。「この集団の一員とみなされるのはいいことだ。近づこう。集団から外れるのは悪いことだ。避けよう」。連合体の認識は物真似に根差している。他者の行為を真似るとポジティブなバイアスを生むのと同じだ。内集団の連携から生まれる美徳は、信頼、協力、自己犠牲、忠誠心、愛国心、英雄的行為だ。

 

 →武士の切腹などには、この感覚がありそう。

 

清浄モジュール

P227

 清浄さは、バクテリアやカビや寄生体による疫病の予防に基づいている。マット・リドレーはこの予防を競争と呼ぶ。私たちの生存を脅かすこうした病原体がなければ、遺伝子の組み換えや、(無性生殖ではなく)有性生殖の必要はなくなる。(中略)清浄さを保つための情動が嫌悪感だ。ハイトは、ヒト科の動物が肉食をするようになったときに嫌悪感が芽生えたのではないかと言う。これは人間特有の感覚らしい。嫌悪感は、人間が食べ物を拒絶する四つの理由の一つに過ぎないが、残りの三つ、すなわち、口に合わないこと、食べ物として不適切であること、危険であることは他の動物と共有している。嫌悪感は、食べ物の出所や性質を知っていることを意味する。乳幼児は苦い食べ物を受け付けないが、5歳ぐらいにならないと嫌悪感は示さない。ハイトらは、嫌悪感はもともと食べ物の拒絶システムとして機能していたのではないかと主張する。これには、吐き気との関連や、汚染の懸念(胸のむかつくような物との接触)、関連する表情(おもに鼻と口を使う)といった裏付けがある。ハイトらはこれを「コア(中核的)嫌悪感」と呼ぶ。

 

P229

 また、汚染に対する感受性は、私たちの知るかぎり、人間以外の種には見られない。したがって、生物学的生存に嫌悪感が欠かせないと主張するには注意が肝要だ。嫌悪感の社会的機能のほうが…生物学的機能より重要なのかもしれない。

 

 実際、研究者が各国の人々に嫌悪を感じるものを挙げてもらったところ、コア嫌悪感を別にすれば、それらは大きく三つのカテゴリーに分類できた。

 最初のカテゴリーに入るのは自分も動物の一種であることを思い出させるものだった。それには、死、性行為、体の汚れや臭い、涙(これは人間だけのものだ)以外のあらゆる体液、欠損や奇形や肥満などの身体的逸脱が挙げられる。

 次のカテゴリーに属すのは、大人汚染につながる恐れのあるものだった。このカテゴリーの要素は、身体の分泌物による汚染というより、象徴的な意味合いにおける汚染だった(洗濯した他人の衣服を身につけるのを嫌がる度合いはそれほど高くなかった)。被験者は好人物の衣服と比べて殺人者やアドルフ・ヒトラーの衣服を身につけるのを嫌がった。インド人が嫌悪感を示したものの多くはこのカテゴリーに入る。

 最後のカテゴリーに属すのは、背徳的行為だった。アメリカ人と日本人の被験者の場合、大半の例はこのカテゴリーに収まったが、中身は酷く異なっていた。アメリカ人は個人の権利と尊厳を冒されると嫌悪感を覚えるのに対し、日本人は社会の中での自分の立場を冒されると嫌悪感を覚える。

 嫌悪感は文化によって異なる要素を孕んでいて、子どもはその要素に含まれるものを教わる。このモジュールはおそらく生物学的な起源を持つと思われるが、範囲が拡張され、今では食べ物に関連するものだけでなく、他者の行為にまで及ぶ。無意識のうちに、このモジュールは言う。「ああ嫌だ、汚い。これは悪い。避けよう。きれいだ。これは良い。近づこう」。私は最近こんな兵庫を目にした。「清潔な手からおいしい料理が生まれる」。ここ、サンタバーバラでは、清浄モジュールが健在と見える。

 時代が下るにつれ、宗教的あるいは非宗教的な掟や儀式は、食べ物や身体機能(衛生、健康、食事など)を規制するようになった。いったんそうした掟が受け入れられると、それに従わないことはネガティブ優先のバイアスや道徳的直観につながる。宗教的あるいは道徳的な関心事には、心身の清浄さに一般化されたものもある。多くの文化が清潔さや純潔、清浄を美徳とする。

 

 →日本の場合、これが身分差別を生んだ。

 

P231

 動物研究では、一回で教えられること、何百回も繰り返さないと教えられないこと、絶対に教え込めないことがあるのがわかっている。人間の場合、典型的な例に次のようなものがある。蛇を恐れるよう教え込むのはしごく簡単だが、花を恐れるように教え込むのは不可能に近い。私たちの恐怖モジュールは、祖先が置かれた環境では危険極まりなかったヘビについては学べるようになっているが、危険でなかった花については学べない。(中略)同様に、学ぶのが優しい美徳と、そうでない美徳がある。ごまかしをする者を罰することを学ぶのはたやすく、赦すことを学ぶのは難しい。

 

 →死は恐怖モジュールに反応しそうなものだが、なぜ自殺はそれを乗り越えられるのか。

 

 美徳とは、文化によって道徳的に称賛すべきとされている者だ。文化が違えば、倫理モジュールの出力の評価も異なる。文化によっては、複数のモジュールを組み合わせてより広範な刺激に当てはめる。ヒンドゥー教徒は清浄モジュールを階層ミュジュールや連合体モジュールとを組み合わせて、カースト制度を作り上げた。君主制国家も同様の方法で階級社会を生み出した。王侯貴族は、階級貴族社会の中で血統を純粋に保った。異なるモジュールが生む美徳に与えられる定義は文化により異なりうる。公平さは美徳とされるが、どんな基準でそれを判じるのか。必要性だろうか。勤勉な人に対する公平さか。さもなければ、平等な分配に基づく公平さだろうか。忠誠心を考えてみよう。家族への忠誠心を尊ぶ社会もあれば、仲間や階層的意識構造(町や国家)への忠誠心を尊ぶ社会もある。一部の文化では、別々のモジュールから得られた複雑な美徳を組み合わせ、「超」美徳を創出する。たとえば栄誉は、たいていの伝統的文化では階層モジュール、互恵モジュール、清浄モジュールから得られる。

 

P234

 研究によると、私たちは最初に納得した考えを採用し、そこで思考をやめてしまうという。ハーヴァード大学の心理学者デイヴィッド・パーキンスは、この現象を「納得の法則」と呼ぶ。しかし、何に納得するかは人によって大幅に異なる。それは事例証拠(因果関係を想定させる単発的な事例)と、事実証拠(証明された因果関係)の違いだ。たとえば、ある女性は避妊薬で不妊になると信じるかもしれない。過去に避妊薬を飲んでいた叔母が、今どうしても妊娠できないからだ。ただ一つの事例証拠に基づいて、彼女は自分の意見を形成し、それに納得している。しかし、叔母が避妊薬を服用する前から不妊だった可能性や、淋菌やクラミジアなど性感染症バクテリアに感染して卵管が傷ついたため不妊になった可能性(じつは、今やこれが不妊の最大の原因)については考えない。さらに避妊薬は、実際にはホルモンを使わない方法より受胎能力を高く維持すること(事実証拠)も知らない。とかく人は事例証拠に頼りがちだ。

 

P243

 意志の力のこうした側面、すなわち、「自分の責務をないがしろにしかねない衝動的な反応を抑制する能力」、別名「自制心」の機能を説明するため、ウォルター・ミシェルと研究仲間のジャネット・メカトフは、二つのタイプのプロセスがあるという説を打ち出した。「ホットなプロセス」と「クールなプロセス」だ。両者は、それぞれ別個ではあるが相互に作用する神経系に司られている。ホットな情動系は、すばやい情動処理を担う。誘因に反応し、扁桃体を基盤とする記憶を利用する。これが「行動する」神経系(goシステム)だ。クールな知覚系は速度が遅く、複雑な空間・時間的な表象や思考と、挿話的な表象や思考を担う。こちらは「知る」神経系(knowシステム)と呼ばれる。その神経基盤は海馬と前頭葉にある。どこかで聞き覚えがないだろうか。これら二つの神経系の相互作用が、自己統制や、自制に関わる意思決定に欠かせないことをミシェルとメカトフは強調する。クールな神経系は後から発達し、次第に活性化する。両神経系間の相互作用は、年齢やストレス(ストレスが増えると、ホットな神経系が主導権を握る)、気質に依存する。様々な研究から、犯罪は年齢とともに減ることがわかっている。これは自制を強化するクールな神経系が年齢とともに活性化するという見解を裏付けている。

 

P245

 道徳的推論と将来を見据えた道徳的行動(たとえば、他者を助ける)との間に相関性を見つけるのは難しかった。(中略)これまでにわかったことから想像すると、他者を助けるなどの道徳的行動は情動や自制心によってより深く結びついているようだ。ここで興味を惹かれるのは、カリフォルニア州にあるフンボルト州立大学の教授で、「利他的性格および向社会的行動」研究所の創立者であるサミュエル・オリナーとパール・オリナーが、ユダヤ人大虐殺のときにユダヤ人を助けたヨーロッパ人を対象に行なった道徳的規範の研究だ。研究の結果、37%は動機が共感(苦痛モジュール)だったのものの、52%はおもに「自らの社会集団に対する帰属を示し強化すること」(連合体モジュール)が動機で、主義主張(合理的思考)を動機とする人は11%しかいなかった。

 

P246

 こうした道徳性をめぐる議論の中に宗教の入り込む余地があるとすれば、それはどこだろうか。私たちが生来こうした道徳的直観を持つのだとしたら、なぜ宗教が必要なのだろうか。難しい問題だ。しかし、そこにあなたの思い込みがある。あなたは道徳が宗教に由来し、宗教は道徳に関わるものと決めつけていないだろうか。宗教は人間の文化が誕生した当初から存在してきたが、実際には、宗教が道徳や魂の救済と関連するのは稀だ。

 

ワシントン大学で文化知識の伝達を研究する人類学者パスカル・ボイヤー

表1 宗教研究での誤りと、正しい取り組み方『認知科学のトレンド』

【正】宗教的な思考は一般に、人間が具体的な状況(この収穫、あの病、この子供の誕生、この死体など)に対処するときに作動する。

【誤】宗教は人間の形而上学的な問いに答えてくれる。

 

【正】宗教は人間と直接的な交流をするさまざまな主体(悪鬼、幽霊、霊魂、祖先、神々など)にまつわるものである。

【誤】宗教は超越的な神にまつわるものである。

【正】宗教は不安を軽減する一方で新たな不安を生む。復讐に燃える幽霊、意地の悪い霊魂、攻撃的な神々などは、守護神たちに劣らず一般的である。

【誤】宗教は不安を軽減してくれる。

 

【正】私たちが「宗教的」と呼び習わすさまざまな種類の考えが、すべて同時に人間の文化に現れたと考える理由はない。

【誤】宗教は人類の歴史上ある時点で創り出された。

 

【正】宗教による自然現象の説明のほとんどは、実際には説明になるどころか大きな謎を生む。

【誤】宗教は自然現象の説明である。

 

【正】宗教が説明のために用いられない場合には、そうした心的現象は本質的に神秘的あるいは超自然的とは見なされない。

【誤】宗教は心的現象(夢や幻視)の説明である。

 

【正】救済という概念はいくつかの教義(キリスト教と、アジアと中東の教条的な諸宗教)に見られるのみで、他の伝統にはあまり見られない。

【誤】宗教は道徳と魂の救済にまつわるものである。

 →信者の多い宗教が正しいわけではない。その宗旨が人の環境に合い、人の心を掴んだだけ。

 

【正】敬虔な信仰心は(条件次第では)連合体への帰属を示すのに使われうるが、連合体は集団の結束を強めるのと同じくらい頻繁に社会の分裂(亀裂)を生む。

【誤】宗教は社会を結束させる。

 →宗教戦争のこと。

 

【正】反駁できない主張で、誰も信じていないものはたくさんある。なぜそうした主張の一部を真実と思う人がいるのか、その理由を説明する必要がある。

【誤】宗教的主張には反駁できない。だからこそ人々はその主張を信じる。

 

【正】想像上の主体に敬虔な信仰心を抱いたとしても、通常の信念形成メカニズムが本当に衰えたり停止したりすることはない。実際はメカニズムが作用している重要な証拠となりうる(したがって、入念に研究しなければならない)。

【誤】宗教は不合理である。あるいは迷信である(したがって研究する価値はない)。

 

 →不合理な迷信であるにもかかわらず信じる人間がいるからおもしろいし、その信心するメカニズムを追究する必要がある。

 

 人は宗教について、日常生活のほかの側面に求めるのと同じ基準の証拠を必要とはしない。なぜ私たちは、一部の情報は受け入れて自分の信念システムで使うのに、他の情報は受け入れないのか。この疑問については、バイアスと情動について突き止めたことが役立つだろう。情報の受け入れにあたっては、分析的な心が応援に呼ばれることはめったにない。最近、またしても興味深い事実が研究によって浮き彫りにされた。人々が信じていると言い、本人もそう信じているものと、実際に信じているものは別物なのだという。自分の信仰に注意が集中していないときには、人々は自分が信じているという遍在する全知全能の神の代わりに、人間そっくりの姿をした別の神の概念を使う。この神は逐次注意(いちどきに一つのことしかしない)、特定の場所、特定の視点を持つ。私たちはすでに解釈装置の存在を知っているのに、どうしてこれに疑問を抱かないのだろう。

 ボイヤーによれば、宗教が「自然」に感じられるのは、「特定の(非宗教的な)領域の情報処理に機能的に特化したさまざまな心的体系が、宗教的概念や規範によって活性化されて非常に顕著になり、これらの概念や規範が獲得しやすく、記憶や伝達がしやすく、直観的にまことしやかになるからである」。ここで、道徳的直観のリストを眺め、宗教の種々の側面がこうした直観の副産物であることを見ていこう。

 

 →分析心が応援に呼ばれることがないからこそ、自身の主張を批判的に検証しなければならない。それができなければ科学ではないし、論文を書く資格などない。

 

P251

苦痛

この概念は理解しやすい。宗教の多くが苦痛の救済に言及したり、苦痛を重んじたりする。苦痛を無視しようとするものさえある。

 

互恵

 これも簡単だ。多くの自然災害や個人的災難は、私たちの悪行に対する神あるいは神々の報復、すなわち、ごまかしをする者に対する処罰として説明される。また社会的交換も、どの宗教にも見られる。「もし無垢の不信心者をたくさん殺したら、おまえは天国に昇り、おまえにかしづく70人の処女を与えられるだろう」。これは女性にも通用するのだろうか。こんなのもある。「すべての肉体的願望を捨て去るならば幸せになれる」「この雨乞いの踊りを完璧にやり遂げたら雨が降る」「もし私の病を治してくれるのなら、私は2度と○○をしない」

 

階層

これも理解はたやすい。地位を見れば一目瞭然だ。最も徳の高い(ように見える)人が高い地位と信頼を享受する。ガンディーは女性に絶大な人気を誇ったと伝えられる(地位)。ローマ法王はかつてヨーロッパの広大な地位を支配した(地位、権力、階層)。それに、アヤトラはどうだ。宗教の多くは階層構造を持つ。一番明白なのがカトリック教会だが、それに限った話ではない。プロテスタントの多くの派や、イスラム教、ユダヤ教もみな階層構造を持っている。原始社会においてさ、呪術医がコミュニティの敬意と権力の中枢にあった。ギリシアやローマ、古代スカンディナヴィアの神々も階層構造を持ち、ヒンドゥー教の神々にしても同じことが言える。神は一番偉いものと決まっている。あるいは、神々の間にゼウスやトールのように一番偉い神がいる。もう、おわかりだろう。尊敬、忠誠心、服従といった美徳は、すべて宗教的な信念へ変貌するのだ。

 

連合体と内集団・外集団バイアス

 これについて説明の必要な人がいるだろうか。「私の宗教が正しい(内集団)、あなたの宗教は間違っている(外集団)」ということで、まあ、お気に入りのサッカーチームのようなものだ。良い意味でのない集団の形態をとる宗教は、多くの社会集団のように、相互に助け合うコミュニティを作り上げるが、歴史上の虐殺の大半は、このバイアスが極端になった結果だ。仏教徒ですら宗派に分裂して反目しあっている。

 

清浄

 これについても明らかだ。「汚染されていない食べ物は良い」という概念が、食べ物に関わる多くの宗教的儀式や禁忌につながった。「汚染されていない体は良い」という考え方のせいで、性行為に関連する特定の慣行あるいは性行為そのものが汚れた不純なものと見なされるようになった。いったいどれほどの原始宗教が処女を生贄に捧げたことだろう。アステカやインカに限らない。他にも山ほどある。イスラム教では陵辱された女性は不浄とみなされ、たいがいは身内の男性によって「名誉の殺人」の名の下に殺害される。清浄モジュールと階層モジュールのねじれた結合例だ。仏教には「浄土」があり、そこでは仏に帰依するものは一人残らず生まれ変わりを約束される。

 

P254

 道徳と宗教の由来がわかってくれば、今日の私たちの役に立つだろうか。脳が小集団を形成する狩猟採集民のための装置であり、特定の反応を示す直観モジュールから構成されていて、まだ巨大社会に対応しきれていないことを理解したら、私たちは現在の世界でより良く機能できるのだろうか。そのように思える。マット・リドレーは、残念なことに生物学者ギャレット・ハーディンが「共有地の悲劇」という誤った名称をつけてしまった現象の例を挙げている。ハーディンは明らかに、共有地と、誰でも自由に入れるオープン・アクセスの土地を区別していない。この現象は「誰でも自由に入れる土地の悲劇」と命名すべきだった。すべての人が自由に入れる土地は、社会的交換でごまかしをする者を生む。こんなふうに考える人が出かねないからだ。「この土地で誰でも魚を獲り、狩猟し、家畜に草を食ませていいのなら、今すぐ私もできるだけ利用しておかなければ。そうしないと、誰か他の人がそうするだろうし、そうなったら、私や私の家族には何も残らないから」(中略)

 

P256

 管理の行き届いた地域の共有地を長年研究してきた政治学者エレノア・オストロムの実験結果によると、相互に連絡を取り合い、勝手に他人の物を利用する不届きな輩に罰金を科する独自の方法を考え出すことを許された集団は、共有財産をほぼ完璧に管理することができるという。そして、管理できるものは所有できるとわかった。私たちはチンパンジーやその他多くの動物同様に縄張り意識が強い。このように、自らの直観的互恵やその制約、小集団を好む性向を理解するならば、より良い管理、法律、統治につながるだろう。砂漠の植物を買ってきて熱帯植物のように水をやってはいけないのを理解するのと、ちょうど同じようなものだ。

 

 →前近代の人間、とくに所領をもった武士や貴族、百姓は、他の動物にも共通する縄張り意識(直観的道徳)が強く現れた行動をとっているのかもしれない。商人や職人、僧侶などとは、少し感覚が違うのかもしれない。それぞれの社会慣習や経験が、判断や行動に影響を与えている可能性は高い。

 

  動物に道徳観念はあるか?

 これはおもしろい問題だ。もちろん、この質問をするとき、私たちは自分の視点から物を見ており、本当は「動物に人間のような道徳観念があるか」と問いかけている。私たちは、多くの刺激が、可(接近)または否(回避)の自動プロセスを作動させ、それが完全な情動状態につながりうるのを見てきた。情動状態は道徳的直観を生み出し、人を行動に駆り立てる。こうした道徳的直観は、私たちが他の社会的動物と共通する行動(縄張り意識を持つこと、縄張り意識を守る支配戦略を持つこと、食料や場所、性行為を確保するための連合体の形成、互恵など)から生まれた。人間はこうした一連の行動を他の社会的動物とも部分的に共有するし、実際、同一の刺激の一部に対して、同一の情動反応(私たちはそれを道徳と呼ぶ)を示す。人間はチンパンジーや犬と同じく、所有権が侵害されたときや連合体が攻撃を受けたときには腹を立てる。したがって、その意味では、一部の動物はその種に独特の直観的道徳を持っており、それはそれぞれの動物の社会的階層や行動を核とし、彼らの情動に影響される。

 違いは、人間が持つ羞恥心や罪悪感、きまり悪さ、嫌悪感、軽蔑、共感、思いやりなどの道徳的情動の幅広さと複雑さ、そしてこれらの情動に基づいた行動にある。こうした行動の中でも特筆すべきなのが、長々と続く互恵的利他主義だ。この点に関しては人間は文句なく秀でているが、私たちは見返りを期待せずに利他的行動をとることもできる。愛犬家のみなさんは、こう言うかもしれない。私の新品の靴をくちゃくちゃ噛んでいたところに私が戻ってきたら我が家の犬は恥じた様子を見せる、と。しかし、ハイトが自己意識的な情動と呼ぶ羞恥心やきまり悪さや罪悪感を覚えるためには、動物は目に見える自分の体を確認する以上の自己意識を持ち、その自己意識を意識していなければならない。自己意識と意識については8章でさらに論じることにするが、ここではとりあえず、他の動物にこうした自己の拡張された感覚はまだ見つかっていないことだけ述べておこう。あなたは噛みしだかれたグッチの靴を目にして顔をしかめ、そっけない言葉を吐くだろう。あなたの犬はそれに反応しているのだ。何と言っても、ご主人様がご立腹なのだから。羞恥心やきまり悪さなどの道徳的情動は、動物の従順な行動に端を発するものの、より複雑になっている。あなたは犬が神妙にかしこまっているのを見て羞恥心だと思う。しかし、羞恥心は犬が感じている情動より複雑だ。犬が感じているのは、打ち据えられたり、ソファから引きずり下ろされたりするかもしれないという恐怖心であり、罪悪感でも羞恥心でもない。

 しかし人間の場合は、こうした複雑な情動やその反動以外のことまで起きている。道徳的な判断や行動を事後に解釈する必要性があるからだ。人間の脳だけが、自分に理解不能な自動的反応の意味を知ろうとする。これは活動中の人間の脳が持つユニークな解釈機能だ。この時点で私たちは自分の行動に善悪の価値判断も下すのだと思う。価値判断が情動の「接近」─「回避」の尺度とどれほど一致するかという問題には興味をそそられる。しかし、合理的な自己が判断のプロセスに早々と参加し、行動を形成する場合もある。私たち人間は情動的な反応を抑制することができる。そこで、自己意識を持つ意識ある心が登場し、真正面から問題に取り組んで指揮を執る。これこそ人間ならではの瞬間だ。

 

P259

結論

 ディヴィッド・ヒュームとイマヌエル・カントは、ともにある意味で正しかった。道徳的行動の神経生物学が確立されれば、殺人や窃盗、近親相姦ほか多くの行動に対する私たちの反感の一部は、生殖器官と同様、自然な生物学的産物であるとわかるだろう。同時に、私たちが力を合わせて暮らすために作り上げる数知れぬ習慣は、人生の中で毎日、毎週、毎月、毎年経験する無数の社会的相互行為から生まれる規則であることにも気づくだろう。そして、これはすべて人間の心と脳から来るものであり、また両者のためのものでもある。

 私たちの人生は意識ある合理的な心と、脳の無意識の情動系との闘いに費やされると言っても過言ではない。あるレベルでは、私たちは経験からそれを知っている。政治の世界では、合理的な選択がそのときの国民感情と一致したときに良い結果が得られる。合理的な選択をしても、予期される結果が国民感情と相反する場合にはろくでもない政治判断となっている。個人レベルでは、違う結果となる場合もある。単純な合理的指令を強力な情動がはねつけたとき、人はお粗末な決断を下しかねない。あらゆる人の中でこの闘いはまだ続いており、消えてなくなることはなさそうだ。

 あたかも私たちは、自分の合理的で分析的な心がまだしっくり来ないかのように見える。進化の歴史を振り返れば、それは人間が見つけたばかりの新しい能力であり、私たちはそれを控えめにしか使っていないようだ。それでも、合理的な心を使うことによって、私たちは他にも人間ならではの形質を見出した。嫌悪感という情動や汚染に対する感受性、罪悪感や羞恥心やきまり悪さという道徳的情動、赤面、泣くことなどだ。さらに、宗教は心身の清浄という概念に基づく大きな社会集団であり、嫌悪感という道徳的情動をその基盤にもつ人間のユニークな構成概念であることもわかった。私たちには物知り顔の解釈装置が備わっており、無意識の道徳的な直観や行動を解釈する。そして、ときおり分析的脳が割り込んでくる。それだけではない。私たちが意識していないことはまだまだたくさん起きているのだ。この先に、乞うご期待。

 

 →不条理な境遇にあっても生きていけば、いずれは好転するという合理的判断を、羞恥心や罪悪感のような強力な情動がはねつけたときに、人は自殺するということか。

 ヘイザーマン曰く、人間は現在というバイアスに縛られてしまう。

 

 

第5章 他人の情動を感じる

P266

 私たちは皆、幼い子供たちが一緒にいるときどんなふうに遊ぶか見たことがあるので、驚くほどのことはないが、1歳半〜2歳半の子供たちは社会的交換の場で模倣を使い、かわるがわる模倣したりされたりして話題を共有する。要するに、コミュニケーションの手段として模倣を使う。他者の模倣は、学習と文化への適応における強力なメカニズムなのだ。

 

P269

 このようにあなたが誰かを真似ると、その相手は共感や好感、スムーズな相互作用を育み、あなたに対してだけでなくあなたの周囲の人に対してもポジティブに振る舞う可能性が高い。この、向社会的行動の強化を通じて人々を結びつける力は、集団を一つにまとめ、数の多さからくる安全を促進する社会的な接着剤として働くことで、適応上の価値を持つのかもしれない。行動面でのこのような帰結は、模倣の進化的な解釈に裏付けを与えてくれるように見える。

 ところが、誰かを意識的に真似るのは難しい。ひとたび意識的で随意の模倣行動をとろうとすると、やたらに時間がかかる。意識の働く経路は、全体に長すぎるのだ。ボクサーのモハメド・アリは「チョウのように舞い、ハチのように刺す」ことをモットーにし、その身のこなしは誰よりも速かったが、閃光を感知するのに190ミリ秒、パンチを繰り出し始めるのにさらに40ミリ秒かかった。一方ある研究によれば、大学生たちが無意識に動作をシンクロさせるのにはった21ミリ秒しかかからなかったそうだ。意識した人真似はたいてい裏目に出る。作り物めいて、相手のコミュニケーションがずれてしまうのだ。

 

 →人間のあらゆる行動は、脳のプログラム・本能(生きるために有利に働く感情や行動、考え方)によって説明できそうだが、それでは説明できないものが、人間どうしの交渉によって生まれた社会通念であり、それを説明していくのが人文科学の役割か。

 

P272

 アントニオ・ダマシオは「情動」と「感情」をはっきり区別して定義している。彼によれば「感情」は「特定の思考モードと特定の主題を持つ思考の知覚を伴う、体の特定の状態(情動)の知覚」となる。体は刺激に反応して自動的に情動を引き起こすが、脳が意識的にそれを認識するまで、あなたは感じを味わうことができない。情動が感情を生み出すのであって、その逆ではない点をダマシオは強調する。これは脳の働き方についてたいていの人が考えているのとは反対だ。

 

 →悲しいという感情(主観的な心情)が湧き起こって泣くという情動(観察可能な状態)が生じるのではなく、泣くという情動が生じてから悲しいという感情が湧き起こり、それを自分自身で感知する、ということか。

 

P275

 ノイマンとシュトラックは情動を、気分と、なぜその気分を感じているのかという知識の二つの構成要素からなるものと定義している。気分の定義は、知識を抜きにした経験的要素そのものとなる。

 

P277

 気分とは微妙なもので、ほんの一言や一枚の絵、一曲の音楽にも影響される。気分が伝染するのを心得ていれば、良い気分でいられる時間を増やすことができる。良い気分に感染している場所に身を置けば、自分もその気分に感染できるのだから! たとえば、演芸場、活気のあるレストラン、おもしろい映画を上映している劇場、楽しんだり笑ったりしている子供たちのいる公園、カラフルな部屋、景色の美しい場所などだ。このように、気分と情動は自動的に人から人へ伝染するようだ。そのとき、脳の中では何が起きているのだろう。

 

P280

 共感の定義に関して長々と述べるのは控えるが、少なくとも、共感を覚えるとは、他者から伝わる情動的な情報を正確に捉え、意識し、気遣うことができるという意味である点は衆目の一致するところだと思う。他者の状態を気にかけるのは利他的な行動だが、正確な情報なしには起きえない。もし私があなたの情動を正確に感知できず、実際は痛みに耐えているのに吐き気を催していると思ったら、鎮痛剤の代わりに吐き気止めの座薬を渡すような、不適切な対応をしてしまうだろう。

 

P281

 嫌悪感と苦痛の研究は、これらの情動のシミュレーションが自動的に行なわれることを示唆している。しかし、まず情動のシミュレーションが行なわれて、その後に自動的・身体的な真似が続くのか、自動的な真似の後に情動が続くのかという疑問は残る。腐りかけた牛乳の臭いを嗅いだ奥さんの表情を見たら、あなたは自動的に奥さんの表情を真似て、それから嫌悪感を覚えるのか、それても奥さんの嫌悪の表情を見てあなた自身も嫌悪感を覚え、そして自動的に不快な顔をするのか。この特定の事例における、ニワトリが先か卵が先かという問題は、未解決のままだ。

 

P285

 これらの知見から、右前島が認識可能な内臓反応(これは嫌悪感の実験ですでに見てきた)に関与しており、この反応を認識すると主観的な気持ちに繋がりうることがわかる。この体内の信号を認識するのが得意な人がいる。生まれつき島が大きいので得意だという人もいるが、過去にネガティブな経験を多くしたことでこの能力を獲得した人もいる。こうした実験の結果によって、なぜ自分の気持ちによく気づいている人がいるか説明がつくかもしれない。

 

P278

 前章で、嫌悪感は人間に独特の情動らいしと述べたのを思い出してほしい。

 

P298

 私たちはミラーニューロンの限界を理解する必要がある。ミラーニューロンは、行為を生み出しはしない。

 これまで見てきたのは、個々の情動が脳の特定部位の活動と結びついていて、特定の生理的反応と顔面の筋肉の動きが、特定の表情を生むということだ。他者があるタイプの気分や情動を示しているのを知覚したら、私たちは、生理的・身体的に、そしてある程度までは心理的にも、自動的にそれを真似する。通常そうした反応を支えている脳構造に何らかの異常があると、情動を体験する能力と他者の情動を認知する能力が影響を受ける。私たちには、行為とその行為の意図を理解するミラー・システムがあり、このシステムは模倣や情動の認識を通して学習にも関係している。これが情動認識その一、つまり基本的情動認識だ。私たちは、人から人に伝わっていくある種のシミュレーションの存在を裏づける有力な論拠を確立したかのように見える。

 

P310

 想像は意図的なプロセスだ。状況によっては、自動的な域を超えたシミュレーションを行ない、意識的な要素を使う。それによって私たちは、将来どう振る舞うかを計画したり、他者がどう行動するか予測したりできる。

 

P327

 人は随意に意図的に一つの抽象的な視点から別の抽象的な視点へたやすく柔軟に切り替えられる。私たちはシミュレーションしている情動を想像力だけで巧みに操れる。視点を変えれば違う情動のシミュレーションにつながりうる。これはただちに得られるような身体的刺激がまったくなくても可能だ。私たちは書物や歌、Eメール、会話を通して、言葉や音楽といった抽象的な手段で情動的知識を伝達できる。(中略)言葉や想像から情動をシミュレーションしたり、視点を使ってシミュレーションを変化させたり、未来や過去に自分自身を投影したりする能力は、私たちの社会的世界を豊かにし、自分のシミュレーションをほかの種のものよりも力強く複雑にすることができる。