周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

マイケル・S・ガザニガ その2

マイケル・S・ガザニガ『人間とは何か 脳が明かす「人間らしさの起源」』上・下

             (ちくま学芸文庫筑摩書房、2018年

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第6章 芸術の本能

P35

 芸術の起源は、体の装飾、創造への衝動、退屈からの脱却、コミュニケーションなど、ただ一つ動機だと多くの人々が考えてきたが、ディサーナーヤカは、芸術とは巧みな技、知覚、情動、象徴主義、認知など、多くのものでできており、道具の制作、秩序への欲求、言語、カテゴリーの形成、象徴の形成、自意識、文化の創出、社会性、適応性などのような、人間のその他の特徴と並んで生まれたと主張する。そして、人間の進化の観点から見た場合、芸術の創出は、「社会的に重要な行動、とくに儀式のように、神聖あるいは霊的な性質を持つことの多い集団の価値が表現・伝達される行動を容易にしたり、その見かけをよくしたりするためのものだ」と述べる。

 

P44

 ダンスをするのはおもしろい。つまり、気分が良い。だから私たちはダンスをする。これは、外部世界への代償がそれほど大きくなく、食べ物や配偶者、住居を獲得する競争にそれほど心を砕かなくてもいい場合に起きる。そのような状況は、子供時代に最も頻繁に見られる。

 トゥービートコスミデスの結論は、この議論のとりわけ重要な見解だ。「このような投資は、一生のうちの非常に早い段階、つまり、競争する機会は少なく、適応力もあまり発達していない時期に行なわれたときのほうが見返りが大きい。そして、神経・認知の組織の拡充へ投資しておけば、その後の長い人生にわたってその恩恵にあずかることが見込める。このため、私たちは、子供は美学に満ちた世界で、行動に必要不可欠な美的感受性に従って生きるべきだと考える。彼らが楽しい、美しいと思う基準は私たちの基準とはいくぶん異なるだろうが」。おもしろいことに、オスのチンパンジーは成長して配偶者や社会的地位を得るために争うようになると、絵を描くことへの興味が薄らいだ。外部世界への代償があまりに大きくなってきたのだ。

 

 →学習には臨界期があり、言葉の習得も幼いときが大事。「アヴェロンの野生児ヴィクトール」の事例がまさにそう。

 

P45

 生まれか育ちかという議論(もういいかげん、終止符を打つべきだろう)に対して、トゥービーとコスミデスはこう答える。私たちは特定の適応力をコードする遺伝子を持っている(生まれ)が、それを最大限に発揮させるためには、特定の外部条件が満たされる必要がある(育ち)ということだ。「生来の考え(と動機)は不完全なもので…私たちの進化した遺伝的性質は、白紙状態と比べれば非常に豊かだが、最大限まで発達した人と比べると非常に貧弱だ」。二人は、芸術とは粉砂糖ではなく、重曹のようなものだと考えている。

 二人はさらに、それほど有用でないと認めつつも、美の進化説を提唱する。「人間は、何か美しいものを見つけるべきだ。なぜなら、美しいものは合図を提示してくれ、そうした合図は、かつて人間が進化した環境では、たとえ有用な理由がなくとも、継続して感覚的な注意を向けると得するだろうことを知らせてくれるからだ。それには、異性や獲物となる動物から、他者の見せる高度な技術までが含まれる…。しかし、美しいものの範疇は膨大で雑多であり、統一的な原理といえば、私たちが進化させた心理構造の働きぐらいのものだろう。この構造は、美しいものに継続的な注意を向ける経験を本質的に報いあるものとすることで、そうした注意を払う気を起こさせるようにできている」。彼らによれば、美に普遍的な規範はないが、性的な魅力のように応用先ごとに異なる括弧とした原理を持つ下位の範疇はいくつかあり、風景もそうだという。

 二人は、満点の星空や自然の風景、雨音、流水など、自然現象の多くが美しいと考えられていることを例として挙げている。暖かい夕暮れに長椅子に座っているときや、キャンプファイヤーを囲みながら砂漠の夜空(実際に星が見える)を見上げているとき、あるいは椅子にゆったりと座って葉の生い茂るプラタナスの木を見上げ、エクサンプロヴァンスの広場の噴水の音に耳を傾けているとき、私たちが経験しているのはリラックスして注意を払う喜び(情動的にポジティブな反応)なのだ。しかし、なぜリラックスしているのだろうか。トゥービーとコスミデスは、これはこのような不変の現象に対する生来のプログラムを私たちに与える組織モードの適応力が引き起こすのだと考える。

私たちは、そうした現象がどのように聞こえ、見えるはずなのかを無意識のうちに知っている。それらは最初から設定されているモードであり、美的な心地良さを与えてくれる。それらはテストパターンとして使われ、実際の知覚と比較される。目の前の場面が、流れる小川や緑の葉が生い茂る樹木に関する成徳の原理と一致する。強い注意が呼び起こされるのは、プログラムされている規定値とは違う刺激に接したときだ。鳥やカエルが鳴くのをやめたときや、星が消えたとき、あるいは、せせらぎがうなりに変わったとき、私たちの注意力は高まる。

 

 →「コードする」=利用する?

 

P47

 それでは、これらはみな、私たちが架空の経験に惹かれることとどういう関係があるのだろうか。トゥービーとコスミデスは、架空の経験に惹かれれば、適応力を組織する経験を持つ機会が増えるという。「生まれ」を土台に「育ち」が起きるわけだ。かくれんぼのようなごっこ遊びは、実際にその能力が必要となるかもしれない状況よりも、遊びの中でのほうが身に付きやすい技能を発達させられる。生き延びるうえで実際にその能力が必要になる前に、隠れたり捕食者から逃げたりすることや、忍び足で歩いたり食べ物を探したりする術を学習すれば、適応度が高まる。ご記憶だろうか、脳の大きさと相関することの一つに遊びの量がある。私たちは遊びを、実生活のための練習、ストレスの軽減、性淘汰という観点で論じたが、想像力の観点からはまだ見ていなかった。子どもの頃、オオカミが来たぞと叫んだ少年の物語を読んだ私たちは、物語の中で少年のみに何が起きたかを覚えているので、このつらい教訓をわざわざ身をもって学ぶ必要はない。私たちは架空の物語を聞けば聞くほど多くの状況を、実際に経験しなくても知ることができる。もし実生活で同じような状況に出くわしても、豊富な背景知識に頼れる。「これと同じようなことがあの映画でサリーの身に起きたぞ。サリーはどうしたっけ? ああ、そうだ…それがとてもうまくいったんだ。僕もそうやってみよう。世界中の文学を見ても、筋書きの数はそう多くなさそうで、どれも、捕食者から身を守ること、親の投資、親族や親族ではない人との適切な関係、配偶者の選択など、進化上の関心事にまつわるというのはおもしろい。そして、架空の物語はすべて、これらを題材にして書かれている。

 

 →やはり、情報量は少ないよりも多いほうがよいということか。それも偏った情報ではなく、多様な情報を持っているほうが生き延びやすいということか。自分に都合のよい情報ばかりを持っていると、バイアスがかかってしまい、考えを改める機会を失うので、誤った選択をしがちになる。

 フィクションでもノンフィクションでもいいが、さまざまな生き方のテンプレートを持っていることが、社会への適応度を高めることになる。状況に応じて最善の身の処し方を考え出すことができる。テンプレートが少なすぎると、方策を見つけられなかったり、謝った方策を立てたりすることになる。

 

P48

 私たちがこういった架空の情報をすべて活用するのを可能にする能力の核心は、レスリーが提唱する分離装置で、これが脳の中で現実と虚構を区別する。この装置は人間特有のものらしい。トゥービーとコスミデスは、人間は、条件付きで正しい情報の利用量という点で、他の種とは根本的に違うと述べている。私たちは情報を、つねに正しいもの、木曜日にだけ正しいもの、親族が言う場合にだけ正しいもの…(中略)というふうに分類することができる。条件付きで正しい情報を使う私たちの能力は、独特のものだ。私たちの脳は、絶対的な事実だけでなく、時や場所、特定の人物に関してだけ正しい情報も保存している。私たちは情報を細かい要素に分解し、他の情報とは切り離して保存しておくこともできる。そして、異なる時や場所、入力タイプの情報を混ぜたり照合したりすることも、その出所をもとに推論することもできる。そのおかげで、事実を虚構から切り離せるし、ある店が夏は毎日開いているが冬はそうではないことも理解できる。この能力のおかげで、私たちはとても柔軟になり、異なる環境に適応しえたのだ。

 

P50

 そういうわけで、芸術は学習の一形態として有用なのかもしれない。ハンフリーが言うように、芸術は私たちが分類するのを助け、予見する能力を高め、異なる状況うまく反応する手助けとなる。だからこそ、トゥービーとコスミデスが主張するように、生存にもたしかに寄与するのだ。

 

 つまるところ、こうなる。私たちが美しいと感じるものは、恣意的でもランダムでもなく、ヒト科の動物が何百万年もかけて感覚や知覚や認知を発達させる中で進化してきたのだ。適応上の価値のある(つまり、安全性を高め、生存や繁殖を助ける)感覚と知覚は、美的に好まれるようになることが多い。これにはどんな証拠があるのだろう。まず、どんな決定も、脳の中の接近/回避モジュールで、安全かどうかの篩にかけられることを思い出してほしい。そして、こうした決定は速やかに行なわれる。

 

P55

 自然界に存在する物の多くは、フラクタル幾何学として知られる特徴を備え、次々と拡大を繰り返すパターンから成る。山、雲、海岸線、支流に分かれる川、枝分かれする樹木はすべてがフラクタル幾何学で成り立っている。(中略)じつは「D(フラクタル密度)」と呼ばれる尺度がある。白紙はD=1であり、真っ黒に塗りつぶされた髪はD=2となる。(中略)人間は一般的に、D=1.3で、複雑度の低い景色を好み、そうした景色を見ているときのストレス反応は弱い。

 

P57

 このように、私たちの好みや本能的な反応に影響を与えている、生得のプロセスがあると言う証拠に事欠かない。しかし私たちはみな、自分の美的な好みが、年齢に重ねるにつれて、あるいは、ひょっとすると何らかの芸術を学んだせいで、変化したことを知っている。私たちはオペラは好きではなかったが、今は好きだ。アジアの美術は好きではなかったが、今は好きだ。アンディ・ウォーホルは好きではなかったし、今でも好きではない。コロニアル様式の家具が好きだったが、今は好きではない。私たちの好みは時とともに変化する。その原因はなんだろうか。(中略)

 このように、美的判断の土台となるのは、滑らかさだけではなく、何かが素早く処理されるときに私たちが感じるポジティブな反応と滑らかさの組み合わせなのだ。これは、私たちが好むのは、刺激ではなく処理のプロセスであることを意味する。

 

P58

 私たちは慣れ親しんだものを好む。初めて見たり聞いたりしたときにはあまり好かなかったのに、時がたつにつれて気に入ってくるという経験は誰にでもあるだろう。接する機会が多いほど、処理が滑らかになる。慣れ親しんだものを好んだり、新奇なものを警戒したりするのは、明らかに適応の形態という可能性がある。慣れないものに接するときには、私たちの記憶や学習や文化が関わってくる。それらは私たちが接しているものについて過去に得たデータを与えたり、新たな情報を受け入れるための新たな神経接続を創り出したり、また目新しい刺激の処理を加速させたりしている。これは知覚とはまた別の滑らかさのタイプ、つまり概念の滑らかさで、刺激の意味にまつわるものだ。意味を伝えるためには、より複雑な刺激が必要な場合もある。これは、ドナルド・ノーマンが「深層の美、意味と含意における美」と呼んでいた「思慮深い美」だ。

 

P70

 私たちは簡単に処理できるものを、結果的に好む。私たちの聴覚系と視覚系がともに自然の風景と音をもともと好むようにできているというのはとても興味深い。辞書による芸術の定義の一つが、「自然を模倣しようとする人間の取り組み」となっているのもおもしろい。

 

P72

 音楽は、一部の視覚刺激と同様、ポジティブな情動を増大させる。

 ポジティブな情動を増大させることは、それが聴覚からでも視覚からでも、あるいは他の感覚的経験からでも、良いことに変わりない。良い気分でいれば、多くの異なる場面で認知が柔軟になり、創造的な問題解決ができる。言葉が流暢になることもわかっている。ポジティブな情動を持つ人は、物や人や社会的集団の間で多くの類似性を見つけることによってカテゴリー別の集団枠を広げ、社会的にはっきりした外集団を、自分と共通性を持った、より大きな内集団に組み込める─「まあ、あいつがレイカーズファンなのはわかってるけど、少なくともあいつは魚釣りが大好きだからな。」おかげで対立が減る。ポジティブな情動をもっていると、課題が実のある興味深いものになる。課題が興味深いと、仕事は報いが多くなり、問題解決のときに、より良い結果を見つけられる。課題が興味深いと、仕事は報いが多くなり、問題解決のときに、より良い結果を見つけられる。人は良い気分でいると、無難な仕事にも多様性を求めるようになり、デートのときにも創意を発揮する。一緒にいるのが楽しく気楽な人間に自ずとなれる。それ自体が、適応性を高めるだろう。

 

 

P79

 芸術の創造は、動物の世界では目新しい現象だ。今では、この人間独特の貢献は、私たちの生物学的基盤にしっかり根ざしていると認識されている。他の動物にも、私たち同様、知覚処理能力がある程度備わっているのので、動物には、いわゆる「美的好み」さえあるのかもしれない。しかし人間の脳では、何かそれ以上のことが起きている。そのおかげで、アラン・レスリーが言うように私たちは虚構に耽ることができるようになった。神経回路の配線が変わり、真実と虚構を分離できるようになった。そして、トゥービーとコスミデスが言うように、条件付きで正しい情報を活用できるようになった。このユニークな能力のおかげで私たちはとても柔軟になり、さまざまな環境に適応し、他の動物が縛られている硬直した行動パターンから抜け出せた。この想像力があったからこそ、大昔の人間が、フランスにある殺風景な洞窟の壁を見て、ちょっとしたフレスコ画で飾る気になったり、別の人間がオデュッセウスのさすらいの物語を語ったりしたのだし、大理石の大きな塊を見てダヴィデが中に閉じ込められていると感じる人間や、湾に突き出た土地を見てシドニー・オペラハウスを構想する人間が出た。なぜ神経回路の変化が起きたのかはわからない。わずかな遺伝子の突然変異の結果、前頭前皮質に変化が起きたせいなのか、あるいは、それはもっと緩やかな変化のプロセスだったのだろうか。誰にもわからない。8章で取り上げる左右の大脳半球の機能特化が進んだことが一助となったのだろうか。そうかもしれない。

 

 

第7章

P83

 意外かもしれないが、ここでは、心と体は本当に一つなのか別々なのかという話には入らない。これから取り上げるのは、どうしてほとんどの人が心と体が別々だと信じているのか、別々だと信じていない人でさえ、あたかも別々であるかのように振る舞うのはなぜかということだ。どうして私たちは、人間は体だけからなる存在ではないと考えるのだろう。

 

P85

 これまで見てきた他のシステムもそうだったように、新年形成のシステムも二つの種類がある。神経心理学ジャスティン・バレットはそれを「内省的システム」「非内省的システム」と呼び分けている。非内省的な信念は、即座に自動的に生じる。思い当たるものがあるだろうか。それはあまりにありふれた考えなので、信念として捉えさえしないかもしれない。

 

P86

 これまでに見たことのないものと遭遇するたびに、意識して特性リストをくまなく調べて学習しなければならないとしたら、面倒でたまらない。ホームセンターに入ったが最後、永久に出られなくなってしまう。それに私たちは誰一人、今ここに存在しなかっただろう。なぜなら私たちの祖先は、出くわしたライオンを見つめて釘づけになりながらも、自分の喉元めがけて飛びかかってくるものの正体を解明すべく、リストを確認していただろうから。あなたの脳は自前の探知装置を使って、知覚したものがどのカテゴリーに属すか判断してきた。あなたの脳の中では、「あれは誰/何?」という質問に答えてくれる物体探知装置、動物識別装置、人工物識別装置、顔探知装置などを各種取り揃えた探知システムが総力を挙げて任務を遂行している。脳の中には行為主体探知装置もあり、これは、「誰/何がやったのか」という質問に答えてくれる探偵のようなものだ。また、脳の中ではプロファイリング装置も働いている。探知装置がひとたび容疑者を特定すると、プロファイリング装置はそれに関する情報を推測し、記述する。バレットは各種のプロファイリング装置を動物記述装置、物体記述装置、生命体記述装置、行為主体記述装置(「心の理論」ともいう)と呼んでいる。こうした探知装置やプロファイリング装置にはもともと知識が備わっていて、あなたがさまざまなことを経験し学ぶうちに、その知識も豊かになる。これらの装置はみな、私たちが、いろいろなものをあるレベルや状態から自分の心理的な状態に変える変換装置の一部を成している。各装置が実際どのように機能するのかは、あまりはっきりしておらず、8章でさらに取り上げてみたい。だがまずは、脳にもともと備わっているものについて考えてみよう。

 

P87 直観的生物学

 人間は生まれながらの分類学者だ。私たちは頼まれもしないのに身の回りのありとあらゆる物に名前をつけて分類する。しかも私たちの脳は、これを自動的にやってのける。ある思考法が私たちにとって馴染みやすいとしたら、私たちはその方法で思考するように作られた認知のメカニズムをもっていると考えても、おおむね間違いだろう。

 

P88

 命ある物体は、命なき物体とは異なる。何かを命ある物体として捉える直感は、生得的な知識に基づく。それは、命ある物体には(スティーヴン・ピンカーの見事な表現を借りれば)「内在の、再生可能な活力の源」があるという知識だ。私たちは、動植物を種に似たグループに分類し、どの「種」も、それを下支えする根源的な性質、すなわち「本質」をもち、それがその「種」特有の外見や行動を決めていると推測する。

 この「本質」は非知覚的な特性であり、たとえオオカミがヒツジの着ぐるみをまとっていたとしても、それをオオカミたらしめている。外見は必ずしも真の姿ではないのだ。

 

P90・91

 あなたは、トラを見てトラだとわかる生得の知識は持ち合わせていないが、前向きについた目と鋭い牙をもつ大型の獣が忍び寄ってくるのを見たら、捕食動物だとわかる知識は生まれつき持っているかもしれない。あなたはひとたびトラを見たら、すでにそこに分類した獣と同様、捕食動物のカテゴリーに放り込むだろう。

 捕食動物に対するこうした領域固有性は、人間に限られたものではない。カリフォルニア大学デイヴィス校のリチャード・コスらは、隔離されて育てられ、ヘビを見たことのないリスたちを使って実験を行なった。初めてヘビに遭遇したとき、リスはヘビを避けたが、それ以外に始めた見た物体は避けようとしなかった。コスらは、これらのリスには、ヘビに対する生得の警戒心があると結論づけた。それどころか彼らは、生得の個体群がこの「ヘビのテンプレート(ひな型)」を消失するには、一万年にわたってヘビに遭遇しない生活を営む必要があることを証明した。ちなみに私には生まれつき、特大のヘビのテンプレートが備わっていることは請け合いだ。

 

P92

 赤ん坊を研究すると、どんな知識が人間に生まれつき備わっているかを確認するのに役立つ。すでに見たように、赤ん坊は、カテゴリー化するための領域固有の神経回路を持っていて、人間の顔を識別し、生体運動を理解する。

 

P93

 これらの研究はすべて、赤ん坊に、生物と無生物を見分ける生得の能力が備わっている事実を裏づけている。したがって、対象物がこうした知覚的な特徴を一つでも示せば、赤ん坊の探知装置がたちまち作動し、「それは生きている」と推測する。それとともに脳は自動的に対象物を生物のカテゴリーに入れ、その特性リストを思い浮かべる。人生経験を重ねるにつれ、あなたが想定する特性のリストは膨らんでいく。そうした知覚的特徴が何ら見られなければ、対象物は無生物のカテゴリーに入れられ、別の特性リストが引っ張り出される。さあ、ここでプロファイリング装置の出番だ。

 

 →バイアスがかかってしまう要因の1つは、生得的に備わっているカテゴリー化による非内省的な認知メカニズムが要因か。それなら、逃れるのは本当に難しい。

 

 特性を推測する? 了解! 脳はその生き物に、生物に共通する特性を自動的に当てはめる。それから、その生き物はさらに「動物」、あるいはもっと具体的に「人間」や「捕食動物」などに分類され、さらに具体的な特性が推測される。バレットとボイヤーは、こうした推論システムの特徴を次のようにようやくしてくれた。彼らの挙げる特性の一部は、ここでのテーマと具体的な関連がある。

 

(1)異なる領域がそれぞれ異なるタイプの問題を扱い、それぞれ特有のやり方で情報を処理する。それぞれの領域には特有の入力形式と、情報を推測する方法と、出力形式がある。たとえば、人間には人間の顔を認識するための特別なシステムがあると、ほとんどの心理学者が考えている。顔認識のための入力形式は、個々のパーツより、パーツの全体的な配置と、パーツ相互の関係とに集中している。脳が自動的に探す入力パターンは、明るく目立つ二個の点(目)と、その下の中央に位置する開口部(口)だ。たとえば写真が上下逆さまになっているなどして、入力形式がこれと異なると、顔を認識するのは難しくなる。

 

P95

(2)問題は、対象物に曖昧な面があった場合、システムは間違った推測をするかもしれない点にある。(中略)それでも人間の脳は、科学者のように厳密に正しい情報について生物と無生物を分けているわけではないことは心に留めておくべきだ。

 

 →シミュラクラ現象のように、3点だけで人の顔と見間違えることもある。

 

(3)領域固有のシステムは、あくまで自然選択のプロセスを経て出現した。したがって、そのシステムのもともとの機能は何だったのかに留意する必要がある(理由は事項を参照のこと)。

 

(4)私たちは、ある領域を、それが選択された方法以外に使うことがある。たとえば、私たちの耳は音波を捉えることで聴力を改善したため進化してきたが、今では眼鏡をかけるのにも使われる。また二足歩行は食物やねぐらを探すうえで生存に有利だったために選択されたが、それとは別にサルサを踊るのにも使われている。ある領域を進化させてきたそもそもの用途は、現在の用途とかけ離れている場合がある。

 

(5)あなたは(そして他のあらゆる動物も)、自分の脳がプログラムされているようにしか習得したり推測したりできない。(中略)脳が無意識のプロセスを遂行しているとき、私たちはその内容を意識的に感じることはできない。網膜上には平面的な像が統制されているのに、私たちは立体的に見ることができる。視覚上のギャップを埋める特別な視覚システムを持っているからだ。したがって動物に関して言えば、私たちは、それぞれの種の特性に応じた分類をする性質がある脳を持っているので、形や色、音声、動き、行動など、入力情報の全てを利用して、類似点と相違点を推測することができるのだ。

 

(6)脳の異なる領域はそれぞれ異なる方法で物事を習得し、また異なる発達のスケジュールを持ち、発達過程の特定の時期に最適な学習が行なわれる。

 

(7)遺伝的影響は、生物の一生を通じて見られる。その影響は誕生をもって終わりにはならない。遺伝子によって一定の発達手段がコード化されており、生物はそれをたどる。個人差はあるかもしれないが、すべての子供が、同じ一般的なタイムスケジュールに従って発達する。というわけで、どんなに飛び抜けて賢い子でも、生後3ヶ月でしゃべれるようにはならない。

 

(8)このシステムを発達させるためには、適切な刺激を入力するために正常な環境が必要とされる。

 

(9)生存や適応に有用な情報を推測するためのこうしたシステムは、ほぼ間違いなく相互に接続しているので、使われるときには、複数の脳領域が活性化する。

 

P98

 こうした事例を使って、イェール大学の心理学者ポール・ブルームは、実に興味深い著書『赤ちゃんはどこまで人間なのか─心の理解の起源』の中で、子どもたちは生まれながれに「本質主義」(五感で知覚できるものは、観察不可能であっても実在し具象化された本質をもちうるとする哲学の説)を信じていると述べている。ブルームによれば、本質主義は、すべての文化に何らかのかたちで洗われているという。

 

P105

 原因となる力に関して推論する能力は人間特有のものではないかと言われている。たしかに、リンゴが木から落ちることがわかっている動物もいるが、人間は、見えない力(重力)とその働きについて推理できる唯一の動物なのだ。すべての人間ができるわけではないが。

 

P106

 「あれは誰/何?」とか「誰/何がやったのか?」といった質問に、脳の探知装置が答えると、その情報は記述装置へと送られ、識別されたものの特性がすべて推測される。朝食のときの話に戻れば、あなたが窓の外の空中を移動するソフトボール大の正体不明の物体を見つけると、物体の探知装置はそれを無定形の物ではなく、はっきりとした境界をもった物体として識別する。そして、おっ、待てよ…。その物体が独自の動き、生物タイプの運動を始めたので、探知装置は「生き物だ!」と信号を送る。動物識別装置も調子を合わせるように「あっ、あれは鳥だ」と知らせる。鳥と識別されると、動物記述装置が、その動物は、それが属す種のすべての特性を持っているだろうと推測する。すなわちその生き物は、空中にある物体のあらゆる物理的特性に加えて、動物の特性、さらに鳥の特性をもっているだろうと推測する。その動物自体を見るのが初めてでも、この認知作用はすべて自動的に起きる。探知装置が、それは「何」ではなく「誰」の問題だと言って、ターゲットを認識すると、今度は「行為の主体的記述装置」、すなわち「心の理論」がかかわってくる。これまた直観的な知識の一領域で、「直観的心理学」として知られ、これも私たちの非内省的な信念の形成を助けている。

 

P107

 私たちは「心の理論」システム(他者が目に見えない状態─信念、願望、意図、目的…をもっており、それが行動や事象の原因となりうると言う直観的な理解)を使い、こうした特徴は他の人間ばかりか生き物全般にあると見なす。(中略)また、人間が、自分たちの心理はユニークであることをなかなか受け入れがたいのも、同じ理由による。私たちの脳は、動物の心理も私たちの心理と同じだと考えるように配線されている。生き物はすべて「心の理論」をもっていると言う考え方が、人間には生まれつき備わっているのだ。私たちは、他の動物、とくに人間にとてもよく似ている動物は、自分たちと同じ考え方をすると思っている。つまり、私たちの直観的心理学は、他の動物が、人間と同程度の「心の理論」をもっていると考えてしまう。それどころか、意図や目的志向行動(動物がするような目的を持った動き)を示唆するような動き方をする幾何学図形の映像を見せられると、私たちは、その図形にさえ願望や意図があるように考える。他の動物もたしかに願望や目的を持っている。だがそれらは、生存や適応の諸問題に人間と異なる解決法を出してきた体と脳によって形作られている。動物の脳と人間の脳は、まったく同じように配線されているわけではないのだ。

 

P109

 大人も子供も、「肺は呼吸するためにある」といったように、生物学的プロセスに目的論的説明を使うが、子供は大人よりもっと多様な状況で目的論的思考に頼る。彼らには、あらゆる類の物体や行動は意図された目的のために存在しているように捉えるバイアスがある。彼らはこうした推論を自然物にも拡大して適用し、たとえば、「雲は雨を降らすためにある」「山はハイキングに行かれるようにある」「トラは動物園のためにいる」などと説明する。

 目的論的思考の起源をめぐっては今も論議が絶えないが、三つの仮説がある。第一に、目的論的思考は生得のものであるとする説。第二に、人工物は目的論達成のために作られているという理解に痰を発していると言う説。そして第三に、合理的行為に対して赤ん坊が示す理解から派生したもので、したがって「心の理論」の前身かもしれないとする説だ。

 目的論的思考は、意図された構想を拠り所として事象を説明する。しかし、私たちが、ある結果が何らかの原因によってもたらされたと説明しようとすること自体も、おそらくは人間特有の能力なのだ。(中略)しかし、直観的物理学の箇所で述べたように、人間以外の動物が、知覚できない事柄に関する概念を抱くという明確な証拠はない。あなたの犬は、自分が叩かれた目に見えない原因が、靴の値段や、犬は従順であるべきだというあなたの考えにあることを理解していない。(中略)このように、ひとたび「心の理論」が十分に発達すると、行動を予想する能力が大幅に高められ、観察可能な現象の域を超えるに至った。人間は、他の動物の心理状態を推測することによって、その動物の行動を予測できるようになった。

 

P111

 物事や行動の原因を、目的論的思考を使って説明したがる私たちの傾向は、ときおり歯止めが利かなくなる。一つには、行為主体探知装置がやたら年死んであるためだ。バレットは、それを「過剰反応」と呼んでいる。行為主体探知装置は、好んで仕事を創り出す。だから本当は行為者などいないときにも、命ある容疑者を見つけ出す。真夜中に物音を聞いたとき、あなたが真っ先に思い浮かべるのは、「何だろう」ではなく「誰だろう」という疑問だ。同様に、暗がりで何かぼんやりしたものが動いていると、とっさに「誰だ」と思う。探知装置が旧式で、時代遅れだからだ。私たちの探知装置は大昔に作られたもので、その頃には、自力で動いたり音を立てたりする無生物がまだなかったのだ。潜在的な危険を、生き物によるものとまず考えるのは適応性のある行為で、ほとんどの場合、それでうまくいった。そう考えた者が生き延び、私たちまで遺伝子を伝えたのだ。ときにはとんだ間違いもするが、たいてい、どういうことはない。ぼんやりと見えていたのは、誰かが木に掛けたまま忘れていたタオルだとわかる。また、真夜中の物音は、気温が下がるときに家が軋む音だったとわかる。

 過剰反応する探知装置は、説明をしたいという人間の欲求や目的的論的思考と相まって、創造説の基盤となっている。私たちが存在する理由を説明するために、過剰反応する探知装置は、そこには「誰か」が関与しているに違いないと言う。そして目的論的な推論は、意図された構想が必ずあるはずだと主張する。私たちが存在する原因は、その「誰か」の願望や意図や行動に違いない。したがって私たちは「誰か」の構想によって創られたというわけだ。

 これはみな、左脳の解釈装置がやりそうなことのような気がする。なぜなら、他の状況ではそうすることが実証されているからだ。次の章で、神経系疾患の患者の左脳解釈装置が過剰反応を起こす事例を検討する。意味不明の情報ああ絶えられた解釈装置は、つじつまを合わせるためにとっぴとも思える作り話をする。解釈装置と「心の理論」のモジュールはよく似ているようだ。(中略)また私たちが、知覚不可能なものから原因を探し出すシステムを持っているからといって、それをいつも使っているとはかぎらない。知覚不可能なものについての概念がどんなときに作動し、人間の行動をどの程度まで特徴づけるのかはまだわかっていない。多くの状況で、それがまったく作動していないということもありうる。また、誰もが同程度に「心の理論」を駆使する能力を持っているわけではないことも明らかだ。

 「心の理論」を使おうと使うまいと、私たちはしばしば同じ結論に達することが、このあとすぐにわかるだろう。

 

P115

 直観的心理学は、直観的生物学や直観的物理学とは別個の領域だ。これはとても重要だ。なぜなら、願望や信念は、「重力がある」とか「固体である」といった物理的特性や、「食べる」とか「性交する」とか、あるいは一番重要な「死ぬ」といった生物的特性を付与されないからだ。ルイージさんが新聞を取りに出たとき、あなたは、彼の願望が紫色だなどと思うだろうか。身を屈めて新聞を拾い上げる拍子に、彼の願望が頭から転げ出て下に落ちると思うだろうか。彼の願望はこれから朝食をとると思うだろうか。いや、そんなことは思わないだろう。彼の願望が壁を通り抜けられると思うだろうか。あるいは彼の願望が死ぬかもしれないと思うだろうか。願望は死ぬと呼吸をしなくなるのだろうか。ここまでくると、即座に答えが出てこないかもしれない。あなたの直観的メカニズムが、すっかりまごついてしまったからだ。

 

P119

 人間は生まれながらの二元論者だと主張するポール・ブルームは自閉症でない人の中で、社会的・心理的理解と物体的理解の処理が峻別されていることこそが、私たちの「経験の二元性」の源であると明言する。この世界にある物体、物質的・物理的な事物は、目的や信念、意図、願望などの目に見えない心理的な状態とは別個に、異なるかたちで処理される。それに関して立てられる推論も異なる。物理的世界の一部は、あなたが視線を落とせばすぐに目に入る、あなた自身の体─食べ、眠り、歩き、性交をし、そして死ぬ、物理的・生物的な物体だ。しかし、あなたの心理的部分は目に見えない。はっきりとした物理的実体を持たず、また、物体とは異なる処理や推論の対象となる。すなわち、それは物理的・生物的な物体ではなく、物体と同列に推論されているものではない。人間は、物理的な体と意識のある本質とは別物だという非内省的・直観的な信念を持っている。

 

P120

 あなたは、人間の物理的な体と目に見えない本質を心の中で分離できるから、この二つのどちらも単独で存在しうると想像できるのだ。本質を欠いた物理的な体はゾンビやロボットであり、体を持たない、目に見えない本質は魂や精神だ。私たちはこのほかにも、幽霊や精霊、天使、悪霊、悪魔、神々や創造主といった、物理的な体を持たず、願望や意図を持つ目に見えない主体を思い浮かべることができる。というわけで、ポヴィネリの推論から次のことが言えるだろう。もし動物が近く不可能な存在やプロセスといった概念を形成しえないとしたら、そして「心の理論」を十分に持たないとしたら、動物は二限論者になりえず、いかなる種類の精神という概念も抱けないだろう。それは人間だけに備わった特性なのだ。

 

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 五感を通じて入ってくる情報が全て取捨選択され、さまざまな直観的システムと記憶によって処理された後、その一部があなたの意識ある心に浮かび上がってくる。どのようにしてそうなるのかは、今もって大きな謎だ。情報がひとたび意識ある心に達すると、物知り顔の解釈装置が登場し、その情報をまとめてつじつまを合わせようとする。探知、プロファイリング、予測というこの一連のプロセスはすべて自動的に行なわれる。処理は迅速で、たいていは正確だ。しかし、いつも正確とはかぎらない。ときには、探知装置が間違えることがある。たとえば、茂みの中でカサカサと音がし、あなたは跳び上がる。あなたの「誰/何がやったのか」探知装置がへまをして、音の原因は風だというかわりに動物だと告げたからだ。だが、かまいはしない。ときどき間違っているが迅速なほうが、滅多に間違わないが遅いよりも無難だ。あるいはあなたの探知装置が間違っていて、自分のコンピューターを生き物として識別したとする。自分がしたはずのないことを、コンピューターが一人でしでかしたので、あなたのプロファイリング装置は、コンピューターに「心の理論」があると判断したのだ。そこであなたは、コンピューターに、その行動を起こす願望があるに違いないと信じ、あなたの解釈装置はつじつま合わせをする羽目になる。そして、「このコンピューターは私をやっつけようとしている!」などということを考えつく。すべては、様々な領域から情報を与えられたあなたの自動的・非内省的な信念システムの仕業なのだ。

 しかし何かを想像できるからといって、それが事実であるとはかぎらない。たとえばあなたは一角獣や、森の精サテュロスや、口を利くネズミを想像することができる。何かを信じているからといって、それが事実であるとはかぎらない。そこで私が今、あなたの非内省的な信念に挑むような問題を提起したら、どうなるだろう。もしあなたが、心と体はべつだ、人間はたんに脳細胞と化学物質からなるだけでなく魂を持つと信じるなら、人格変化や意識変化、あるいは脳の病変や損傷とともに発症する変化をどう説明するのか。脳に大けがを負った後、もはや同じ人間ではないと言われたフィニアス・ゲイジはどう考えたらいいのか。彼の本質は、脳の物理的変化に伴って変わったのだ。彼の本質は、脳の物理的変化に伴って変わったのだ。こうなるとあなたは、熟考したうえで、自分の考えを変えるか変えないかの決断を余儀なくされる。

 内省的な信念はそれと異なる。何かを信じていると言うとき、ほとんどの人はおそらくこの手の深淵を意味しているのだろう。内省的な信念は意見や好みを形作る。迅速で自動的には機能せず、意識的で、形成するまでに時間がかかり、自動的・非内省的な信念と一致する場合もあれば、一致しない場合もある。あなたは情報を慎重に考慮し、証拠を検討し、賛否両論を考え、何かを信じるかどうか決定を下す。そう、たしかに私たちは4章で、大半の人がその際にどの程度まで踏み込むものか、合理的な判断を下すのがいかに難しいかについて学んだ。内省的な信念も同じだ。道徳的判断を下すときのように、内省的な信念を形作るときにも、正しいこともあれば、そうでないこともある。証明や正当性の判断ができる場合もあれば、できない場合もある。

 この二つのタイプの信念システムのどちらが採用されているか判断しようとすると、興味深い違いが見えてくる。自動的・無意識的・非内省的な信念システムが採用されているときは、たいていその人の行動によってわかる。一方、意識的な信念システムが採用されている最高の証は、言葉による表明であり、その言葉は、その人の行動と一致していることも、していないこともある。あなたは幽霊など信じないと言いながら、夜に墓地のそばを歩くときには早足になる。たとえあなたが、脳と心、体と魂には何も違いないと考えていたとしても、あなたは依然として、細胞と化学物質の集まりにではなく、心に話しかけているように振る舞う。

 バレットは、非内省的な信念が内省的な信念にどう影響を与えるかを述べている。そもそも非内省的な信念は、脳の初期設定モードだ。あなたは、自分の非内省的な信念を疑わざるをえない状況を突きつけられるまで、その信念を持ち続ける。あなたはハエジゴクという食虫植物を知るまで、植物は肉食性ではないという直観的信念を変えないだろう。また、外部からの刺激に反応する植物を知るまで、植物は自力で動かないという直観的信念を変えないだろう。直観的信念は最善の推測だ。この二つのタイプの植物は稀なので、植物は肉食ではない、植物は動かないというあなたの最善の推測でもふだんは事足りる。新しく植物を見つけるたびに、いちいちハムの切れ端をかざして肉食かどうか判断するよりずっと楽だ。

 

 →心身が疲弊し、うつ状態にあるときには、内省的なシステムが働かなくなり、非内省的なシステムで自動処理してしまい、自殺に至るのか?

 「夜に墓地のそばを歩くときには早足になる」のは、言表とは裏腹で、非内省的なシステムが採用されているということか。行動によってわかる、というのはそういうことか。大丈夫だと言表しながら、大丈夫ではなさそうな行為をしている場合は、非内省的なシステムが働いているということか。

 命を大切にする、死を回避するという初期設定モードは、その信念を覆すような状況を突きつけられることによって、自殺が妥当と考える信念に変化してしまうのか。それは、生き続けることは死よりも苦痛であるとか、生き続けることよりも死ぬほうに価値があるという状況や知識が、人間の直観的信念を変えてしまうのか。

 

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 また、内省的な信念は、非内省的な信念と符合すればするほど、もっともらしく思われ、より直観的に理解でき、よりたやすく習得され、受け入れられる。もし私があなたに、机は固体で、動かないと言ったら、それは命のない物体に対するあなたの直観的信念と一致する。だから簡単に信じられる。しかし物理学者から、じつは物体はすべて個体ではなく、動き回っている原子の集まりにすぎないと告げられたら、信じるのは難しい。道徳的判断にたどり着くときと同様に、内省的な信念が、あなたがすでにもっている物の見方を裏付ける物ならば、受け入れやすい。非内省的な信念は、記憶や経験を形作ることによっても、内省的な信念に影響を及ぼす。記憶を形成するとき、あなたはまず何かを知覚する。知覚されたものは、瞬時にあなたのさまざまな探知装置とプロファイリング装置に送り込まれ、そこで識別され、編集される。解釈装置がそれをすべてまとめ、つじつまが合うように要約し、記憶の中に整理してしまい込む。つまり、記憶された内容はすでに非内省的な信念システムによって編集されており、あなたはそれを真実の情報として引き出して、それに基づいて内省的な信念を形成する。ところが、その情報は完全に間違っているかもしれない。道徳的判断を形成するときに、事例証拠を使って誤った原因を結果に結びつけているかもしれないのと同じだ。そればかりではなく、ひとたびあなたがその情報に基づいて内省的な信念を形成し、それが他の内省的な信念と噛み合おうものなら、その信念はいっそう強められたり、別の内省的な信念を強化したりすることもある。

 友人が、自分は高所恐怖症なのだと言い、あなたはどうかと尋ねてきたとする。私は質問に答えるために、グランドキャニオンの崖っぷちに立っていたとき、カテコールアミンが急激に分泌され恐怖を感じたことを思い出すかもしれない。私の脳は、その感情をグランドキャニオンに立ったことによって引き起こされたものと解釈したが、本当の原因はカテコールアミンの急増だった。実際には、過剰分泌の原因はグランドキャニオンに立ったことではなかったかもしれない。縁から身を乗り出したときに心に浮かんだ、梯子から落ちたときの記憶が原因だったかもしれない。カテコールアミンがどっと分泌された本当の原因はあなたが自覚したものではなく、グランドキャニオンを原因とするのは、過剰分泌に対する脳の解釈だ。それは正しい解釈ではないかもしれないが、状況にはうまく合う。そこで、あなたは間違った信念を持つ。つまり、あなたは恐怖心はグランドキャニオンの淵に立ったことで引き起こされたと考える。すると、この間違った信念は、将来、あなたが高さについて意識的に考えるときに使われうる。あなたはグランドキャニオンに立って恐怖を覚えたことを思い出し、その記憶のせいで高所を避けるようになり、ひいては、あなたは高いところが怖いという内省的な信念を形成するかもしれない。

 内省的な信念の形成には時間がかかる。質問を受けてから二、三秒で答えるように強制されたら、あなたは非内省的な信念によって答える可能性が高い。

 したがって、初期設定の非内省的な信念が現れず、「深い」洞察ができるとき、あるいは、何らかの理由で自動的な信念を疑問視しているときで、しかも、私たちが見識ある信念だと軽率にも思い込んでいるものを形成すべく、現に時間をかけて熟考しているとき─こうした珍しい事態が起きたときに、私たちが記憶や過去の経験から引き出す情報の多くは、非内省的・直観的な信念によって大いに色付けされていて、一部は間違っているかもしれないことが判明する。直観的な信念と検証可能な信念を切り離すのは、たとえ自分ではそうしていると思っていても、至難の業なのだ。それはちょうど、いくつかの段階を踏んで解いていく数学の問題に似ている。最初の段階の答えが間違えているのに、自分ではそれが正しいと確信していて、問題の残りすべて解き終えるまでそれを使ってしまうようなものである。しかも、そのプロセスに情動が入り込んでいることを忘れてはならない。何と厄介なことか!

 

 →1億円の借金を背負ったAさんが電車に飛び込んで自殺した。「Aさんは借金で苦しんで、絶望したから自殺したのだ」などと識別・編集・要約されて記憶の中に整理してしまい込む。この情報は非内省的な信念システムによって編集されたもので、自分自身が類似の状況に陥ったとき、それを真実の情報として引き出して、自分も自殺するべきだという内省的な信念を形成するということか。

 だが、実際は自殺したのではなく、事故死だった可能性もあるし、借金が原因ではなかった可能性もあるし、絶望からの逃避よって自殺したわけでもないかもしれない。また、自殺によって絶望からの逃避できるわけではないのに、逃避できたとする誤った事例証拠を使って、誤った判断を下しているかもしれない。

 自分も自殺するべきだという信念が形成されてしまい、たとえば「借金返せないなら死んで詫びろ」のような他の信念と噛み合おうものなら、自殺願望はいっそう強められることになるのかもしれない。

 Aさんがうつ状態になり自殺願望を抱いたのは、1億円の借金を背負ったことではなくなく、ノルアドレナリンの低下が原因だったかもしれない。返済できないという絶望感が生じたからかもしれない。返済できない責任をとったのかもしれない。原因の自覚は脳の解釈によるもので、正しいかどうかはわからないが、状況にはうまく合う。この間違った信念は、自分が自殺について意識するときに使われうる。自分はAさんの自殺事例を思い出し、それを自分の状況に当てはめて、自殺を企図するようになるかもしれない。

 

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 幸い、このプロセス全体が、生存能力と適応度を高めるために改良されてきたので、いつもではないが、たいていの場合には正しい結果が得られる。いや、それは私たちが進化してきた環境では、まずまず正しい結果を出せたというべきだろうか。検証可能な信念と検証不可能な信念を区別するのは意識的で退屈な作業で、ほとんどの人がしたがらない。あるいは、することができない。それを行なうにはエネルギーや忍耐や訓練がいる。それは、直観と相反することもある。それは、分析的思考と呼ばれるもので、日常的ではなく、骨が折れる。ときには高くつくことさえある。しかしこれこそが科学というものであり、人間ならではの行為なのだ。

 このように私たちの持っているこのシステムは総じてうまく稼働しているが、ときにエラーを犯す。そうしたエラーが誤った信念をもたらす。古いことわざにあるように「行ないは言葉より雄弁」だ。私たちの行為は、自動的で直観的な思考や信念を反映する傾向にある。私たちが二元論者なのは、脳のプロセスが、この世界のあらゆるものを具体的なカテゴリーに分けて系統立て、それぞれのカテゴリーに異なる特性を割り当てるように長い歳月の間に選択されてきたからだ。そして私たち自身も、特性の異なる二つのまったく別のカテゴリーに分類される。私たちは命のある物体であり、生物の物理的法則に支配されている一方で、物理的法則に支配されることのない、知覚不可能な心理的特性も持っている。だが、問題はない。こちらを少し、あちらを少し持ってくれば、ほらできあがり。物理的で生物的な体と、観察不可能で心理的な本質の二つが一つになっている。デカルトもきっといっただろう。「問題ない!(パ・ドゥ・プロブレム)」と。

 

 →人間が自殺してしまうのは、現在の人間社会が、私たちが進化して環境とは異なる状況にあるから、間違えた判断を下してしまうのかもしれない。これは下園著書の見解とも一致する。人間はその都度その都度考えられれば、自殺をしないのかもしれないが、うつ状態で精神的に疲れ切っているときには、以前に形成してしまった自殺に対する信念・思考が自動的に反映されて、自殺が遂行されてしまうと考えられる。そうすると、自動的に反映してしまう自殺に関する直観的な信念(社会通念を反映した思考)がどのように形成され、どのような状況で強く影響しているのかを明らかにしなければならない。

 

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 この章では、私たち人間も他の動物も、へびにおびえ、他の捕食動物を認識するなど、きわめて領域固有性の高い能力を共有していることを見てきた。私たちは、たとえば物体の永続性や重力に関するものなど、直観的物理学の一部も他の動物と共有しているし、これまでの章で見たように、初歩的な直観的心理学(「心の理論」)もいくらか共有している。しかし、種によって領域固有性は異なる。他の動物と違い、私たち人間は物理学に対する直観的理解を拡張してきた。私たちは、目に見えない力があることを理解している。これまでに得られた証拠によれば、人間は、観察不可能な力に関して推論する唯一の動物らしい。人間だけが、知覚できない事物に関する概念を形成し、因果関係を説明しようと試みる。私たちはまた、知覚できないものについて推論し、説明するこの能力を、生物学的領域や心理学的領域でも使う。私たちは他の生き物が、外見から独立した、目に見えない本質を持つことを理解している。ただし、この本質の解釈については、度を越してしまう部分もあるようだ。知覚できない力について疑問を抱いたり、推論したりするこの能力は、実に重要だ。問題なくこの能力が好奇心に火をつけ、それが意識的・分析的な思考と相まって科学の礎となったのだが、その同じ好奇心が、神話や根拠の乏しい科学や都市伝説など、知覚できない力に関する、正確さを書く説明方法も生み出してきたのだ。

 

 →目に見えない本質や主体が存在することを知覚できるがゆえに、その感覚が度を越してしまうがゆえに、強く実在感をもち、良くも悪くも逃れられなくなる。社会的虚構である「責任」などがまさに典型的なもの。