周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

ディスタンクシオン

 岸政彦『ブルデュー ディスタンクシオン』(100分de名著、20020.10)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1回 私という社会

P15

 ブルデュー社会学のことを、「お邪魔な学問」と表現したことがあります。特権を享受している人にとっては明るみに出してほしくないことを、平然と暴くことが学問だからです。ブルデュー自身、学問の世界ではエリートだったわけですが、彼の仕事にはそうした構造を批判する政治的コミットメントがあったと私は考えています。その根底にあるのは、階級格差に対する強い怒りです。

 一方で、ブルデューには特筆すべき特徴がありました。それは、彼が庶民階級に対してもほとんど幻想を持っていないことです。これはおそらく、ブルデュー自身が庶民階級の出身の当事者だからでしょう。インテリ階級の学者は庶民に対するロマンが強く、ややもすると「民衆たちが立ち上がっていつか革命を起こす」と真顔で主張しますが、そのような庶民階級に対する幻想を、ブルデューはいっさい持っていませんでした。

 そのためにブルデューは一部のインテリからは嫌われていたようです。ブルデューはものすごく孤独な人だったと私は思います。民衆に対する幻想もなく、一方で自らもその一員であるインテリ階級の足元を掘り崩すようなことばかりを書いていたのですから。

 しかしとくに晩年のブルデューは、民主主義と社会的平等を断固として擁護する立場で、積極的に政治的問題にコミットするようになります。街頭デモや集会に参加し、グローバリズム新自由主義、大企業による搾取に猛然と反旗を翻しました。

 

P17

 ロマンや幻想に逃げず、まずは実態を知ろう。これがブルデュー社会学の原点です。では、社会問題を調査・研究するにあたり、どのようなアプローチがありうるか。大雑把に言って、社会学には大きく二つの視点があります。

 ひとつは、全体的な現象を見るという視点です。たとえば少子化問題について研究するのであれば、家族という制度が歴史的にどう変わってきたのか、結婚している人のうち子どもがいる割合はどのように増減してきたのかなどを調査・研究します。制度や現象、構造そのものについてのデータを集め、分析するやり方です。多くの人々にアンケートを取ったり、歴史的資料を大量に集めたりします。マクロな社会構造や歴史的変化がその考察の対象です。近代化とは何か、グローバリズムとは何か、戦争とは何か。

 もうひとつは、その問題の中で人々が実際に何をやっているかを調べる視点です。「参与観察」(特定の集団や組織や地域に実際に入り込んで、そこで行なわれているコミュニケーションを記録する)や聞き取り調査をしたりして、たとえば「家族をつくる(つくらない)」ことについて、人びとの行動や価値判断を地道に調べています。いわば、人の行為に照準を合わせるタイプの社会学です。私たちはどうやって人生における選択をしているのか。私たちは他者をどのように理解し、コミュニケーションをしているのか。私たちは何を信じて、どんな動機や理由から、何を行なっているのか。私たちの日常生活は、いったいどんなものなのだろうか。

 社会学はおおまかにこの二つに分かれますが、ブルデューはこの両方をやろうとしました。彼は一匹狼タイプではなく、どちらかというと中小企業の社長タイプというか、大勢の共同研究者と一緒にチームをつくり、大規模な調査を何度も行なうような社会学者でした。

 大きな歴史や構造。人々の実際の行為や相互行為。その両方を視野に入れたブルデューですが、やはりその中心には、人間の行為に関する理論があります。とくにブルデューは、私たちが自分でも気づかないような、日常的で無意識的な「実践」というものが、階級や国家などの大きな社会構造のなかでどのように産出されるのか、そしてその行為のもとになる規範や価値観や態度、さらには感受性や「能力」までもが、大きな社会構造のなかでどうやって規定され条件づけられるのかを描いたのです。(中略)

 

P19

 そして、『ディスタンクシオン』が単なる趣味や文化活動の分析を超えて、現在まで読み継がれる(そして批判される)歴史的な名著になったのは、ブルディーがこの本において、人間の自由とは何か、あるいはもっと言えば、人間とはそもそも何なのか、という問いに正面から取り組んだからです。私たちの行為がどれくらい構造に規定されているのを知ることは、言い換えれば、私たちがどれくらい「不自由か」を知る、ということに他なりません。ブルデューは、一見逆説的ですが、私たちがどれくらい不自由であるかを明確に知ることが、私たちが自由になるための条件であると主張したのです。

 したがってこの本は、ややこしい言い方になりますが、「私たちがどれくらい不自由なのかが描かれた、自由についての本」なのだと思っています。

 

 →自殺行為・自殺念慮、それらを是とみなす価値観も非とみなす価値観も、社会構造(出身・生活階層や環境)に規定されている可能性がある。どうすれば、それを明らかにできるか?

 

P20

 すばらしい芸術や音楽との、突然の出会い。それは魂を震わすような、ドラマティックな瞬間です。彼はこの出会いの瞬間、何か霊的な、偶然の、心と心とが直接ぶつかり合うような触れ合いを「稲妻の一撃」と言い換え、そしてあっさりとそれを否定します。(中略)芸術作品に自然に出会うということそれ自体が幻想だというわけです。この偶然の神話の否定が、『ディスタンクシオン』全体を貫いています。

 

  正統的文化に関わる趣味を自然の賜物と考えるカリスマ的イデオロギーに反して、科学的観察は文化的欲求がじつは教育の産物であることを示している。アンケート調査を見ると、あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書すること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好(プレフェランス)は、まず教育水準(学歴資格あるいは通学年数によって測定される)に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついているということがわかる。

 

P21

 私たちの日常的な文化的行為、すなわち趣味は、学歴と出身階層によって規定されているというのです。(中略)

 

  芸術を愛することの喜びである感情的融合、感情移入Einfuhlungという行為も、じつはひとつの認知行為、解明・解読作業を前提としており、そこには遺産として受け継いだ認識法や文化的能力の活用が含まれているということである。

 

 要するに、芸術作品のすばらしさを心から受容できるのも、その知識や態度、構えなどの出会いの前提となるものを家庭や学校から学んでいる、言い換えれば芸術と出会うための「遺産」があるからだと言うのです。

 

 →ひょっとすると、自殺既遂者・未遂者の学歴や出身階層を調べることで、何らかの特徴が現れるかもしれない。一昔前の日本は、一億総中流と呼ばれていたが、そうであるがゆえに、自殺者の数が多かったのかもしれない。だが、現代では富裕層と貧困層の分離が際立ちはじめている、戦前のように、学歴や出身階層による分断がより明確になれば、自殺者の数や傾向にはっきりとした特徴が見られるようになるかもしれない。日本の場合、自殺念慮は、一部の特殊な(たとえば、生活に余裕があって、知的レベルの高い)階層の、特殊な思想や価値観が、一億総中流時代に、教育という手段によって、一挙に蔓延したのではないか。

 私は労働者階級の家に育ち、三流私大卒だったからか、インテリ坊ちゃんの三島由紀夫の自決に憧れたことは一度もない。だが、時代劇をよく見る家庭に育ったからか、罪や失策、恥辱を理由に自害する人間には共感の念を抱く。三島を知ったのが自意識の芽生えた青年期で、時代劇を見始めていたのが自我形成以前の幼少期だったから、前者が受け入れられず、後者を無意識に規範としてしまったのか。罪を犯した人間のニュースを見ては、「生きている価値などない。恥ずかしげもなく、よく生きていられるもんだ。世間様に顔向けができないだろう。さっさと死んでしまえ!」という言葉が飛び交う家庭で育ち、今でもそういう考えが頭をよぎる。自分自身が他人様に迷惑をかけたとき、死にたくなる気持ちが無意識に浮かんでくるのは、こうした出身階層や生活環境が影響しているのか? こういう単純な還元主義を、ブルデューは否定している。

 

P26

  「眼」とは歴史の産物であり、それは教育によって再生産される。

 

 つまり、純粋無垢な眼など存在しないというわけです。私たちの眼、つまり見たものに好感を持ったり嫌ったりする姿勢(性向)は、私たちそれぞれが享受してきた社会環境、つまり歴史によって作られるとブルデューは主張します。

 この議論において、ブルデュー本質主義と還元主義を退けています。本質主義とは、「それがいいからいいのだ」という考え方です。「私がバッハを好きなのはバッハの音楽がいいからだ」という本質分析をブルデューは退けます。と同時に、たとえば「年収が一千万円を超えるとバッハが好きになる」というような、社会階級と個々の文化実践を直接的に因果的に結びつけてしまう単純な還元主義にもブルデューは与しません。

 ただ、ブルデューはやはり、私たちの行為や感覚、判断や評価、好き嫌いというものまでも、社会構造や歴史によって規定され、構築されているのだ、ということを主張します。それはいったい、どういうことでしょうか。「いいものだからいいのだ」ではなく、なぜ「眼は歴史の産物」だと言えるのでしょうか。

 ブルデューは、私たちの行為だけでなく、態度や能力、主観的な判断や評価、無意識の感覚や身体所作までも、社会や歴史によって規定され、構築されたものとして捉えます。それが彼にとっての「人間」の本質なのです。この人間の本質を描くためにブルデューが導入したのが、「ハビトゥス」「界」「文化資本」という独自の概念です。

 

P31

 まずはハビトゥスから説明しましょう。ハビトゥスラテン語で、英語のhabitやフランス語のhabitude(ともに習慣、くせの意)の語源です。ブルデュー理論におけるハビトゥスとは、簡単にいうと「傾向性」「性向」です。私たちの行為や価値判断には傾向性が存在し、私たちはその傾向性に動かされてあるものを好きになったり嫌いになったりするというのです。演歌ではなくジャズを、フットサルではなく散歩を好む私には、それらを好むハビトゥスがあることになります。

 

 →自殺念慮者は理想の自分を追い求める傾向が強い、あるいは理想的であったかつての自分へのこだわりが強く、そこからかけ離れてしまった現在の自分を受け入れられず、怒りのプログラムが働き、自分いじめへとつながり、絶望のプログラムが働く? こうした傾向性にも、社会構造や個の歴史に規定されているのか。死を選好する教育を、知らずしらずのうちに受けている可能性がある。

 

P32

 なお、この部分の訳者はこの定義のなかで「心的」という言葉を使っていますが、ハビトゥスは心理学的な概念ではありません。それはむしろ身体的なもので、社会的な行為のレベルで出現するものです。

 『ディスタンクシオン』においては、ハビトゥスは非常に深いレベルで私たちの嗜好や行動を方向づける「身体化された必然」であると書かれています。つまり私たちは、意図することなく自然に、無意識に、反射的に、ある選択や評価をしているというわけです。(中略)

 ところがブルデューは、それら(その場その場での行為)を積み重ねてマクロレベルで見ると、私たちの行動やものの捉え方には一定のパターンがあるのだと言います。そのパターン、つまりハビトゥスからは、完全に自由になることはありえない。そういう意味で、「身体化された必然」と言っているわけです。

 「必然」という言葉は、確率論的というよりは因果論的な言葉です。もちろんブルデューは、構造と行為とのあいだに一対一の強い因果関係があるとは考えていません。しかし彼は、ハビトゥスが私たちをかなり強く規定すると考えているがために、このような表現になるのだと思います。ここから「自由とは何か」という問いにつながるわけですが、それは第4回で考えることにします。

 

P33

 ブルデューはこうも言います。「(ハビトゥスとは)現に所有されている諸特性の習得条件に固有の必然性を、直接に獲得されてきたものの範囲を越えて、体系的かつ普遍的に適用することができるようにするものである」。少しわかりづらいので具体例で考えてみましょう。

 お金持ちの家に生まれた子どもがピアノを習わされたとします。このとき、この子は何を体得しているのでしょうか。もちろん、ピアノを弾く技術だけではありません。

 

P34

 その子どもは、世の中には芸術と呼ばれる者があり、そのひとつに音楽があることを学びます。そして音楽にもクラシックやジャズやロックや演歌などのさまざまなジャンルがあり、それぞれに「社会的意味」が異なることを学ぶでしょう。それらのジャンルがそれぞれどのような場で生産・消費され、どのような人々によって受容されているかを学びます。さらに、それぞれの社会的な価値づけ、つまり権威の高さや低さ、堅苦しさ、高級感、安っぽさ、荒々しさ、洗練度などの違いについての感覚を身につけます。

 さらにここが非常に重要なところなのですが、その子は「何かを努力して身につける」という過程を体験します。目の前の楽しみを先送りにしてでも、いま努力することで技能を習得する。そういう態度を学ぶわけです。この態度、あるいは傾向性は、おそらく将来、学校教育をはじめとするさまざまな場でも有用であるに違いありません。

 つまり子どもがピアノレッスンを通じて獲得するのは、これから生涯にわたって他の場面や状況でも役に立つような教養や態度なのです。先の引用で「体系的かつ普遍的に適用することができる」とあるのは、まさにこの点です。

 オーストラリア出身の哲学者ウィトゲンシュタインは、人間は有限の規則から無限の行為を引き出すのだと述べています。言語には文法という規則がありますが、私たちはその規則の範囲内で、新たな言葉や言語表現を日々生み出しています。

 

 →何かの習い事のように、じっと座って我慢することができるのは、自分の世代では女子に多いか。女子は、コツコツ勉強して成績をあげるタイプが多い気がする。一方、男子は習い事よりもスポーツに取り組んでいた人が多いように思う。だからか、集中的に勉強して、一挙に成績をあげるタイプが多いように思う。

 

P35

 つまり、それまでの人生における有限の体験の中で構築され、その後の人生のさまざまな状況のなかで応用が可能な規則性・傾向性の束がハビトゥスなのです。ある人物が直接体験できることは限られるので、ハビトゥスは履歴的には有限です。しかしながら、場面ごとの固有性を超えた、「世界」に対する基底的な関係の仕方のようなものまでが身につくため、まったく新しい状況に直面した際にも、身についたハビトゥスを応用して対処できるわけです。

 

 →幼いころから塾に通ってきた人間が、必ずしも難関大に合格するとは限らない理由がここにあるか。要は、目の前の楽しみを先送りにしてでも、いま努力することで技能を習得するという態度が、好感情とともに身につけられさえすれば、幼いころの習い事などなんでもよいことになる。それがいずれ大学受験のときに花開けばいいだけのことだから。一方で、いやいや塾に通わされたら、そのときの負の感情が悪影響を及ぼし、いざというときに頑張れないかもしれない。幼いころに普通の子どもだったが、大学入試を意識してから突然成績が爆発的に向上するタイプは、そういう履歴を背負ってきた人間かもしれない。

 

P35

 ブルデューによれば、ハビトゥスは社会関係の中でつくられます。その人のパーソナリティはあまり関係ありません。あくまで人々の相互行為のなかで、社会的・歴史的に構築されるのがハビトゥスです。

 ハビトゥスが構築される具体的な場所は、家庭と学校です。そしてここがおもしろいのですが、家庭で身につけるか学校で身につけるかによって、ハビトゥスは変わってくるとブルデューは指摘しています。たとえば、同じように「高級文化」を嗜好するハビトゥスでも、それが家庭の中で小さいときから自然に身についた上流階級(ブルジョワ)のハビトゥスと、学校で教えられ自ら努力して身につけた中間層(プチブル)的なハビトゥスは異なると言うのです。

 家庭の中で身についたハビトゥスは、まるで空気のように自然で、その人をのびのびと自由に振る舞わせます。「文化的正統性を手にしているという確信に伴う自信と、優秀性と同一視されるゆとりとを与えてくれる」からです。一方、学校の中で意識的な努力を媒介にして培われたハビトゥスは禁欲的な規範として働きます。

 

P37

 しかし、ブルデューは、ハビトゥスの形成には家庭や学校が大きな役割を果たしているとしつつも、幼少時の経験だけで一生固定化されるとは言っていません。『資本主義のハビトゥスアルジェリアの矛盾』(1977年、邦訳は1993年)という本の中では、都市の工業化が進んだとき、人々のハビトゥスは農村的なものから近代的な工業労働者のそれへと変わっていくだろうと述べています。それは単に働き方が変わるというだけではなく、貨幣や労働に対する関係性、将来への期待や予想の仕方、雇用や契約という概念の捉え方など、広範囲にわたる態度や能力の変容を引き起こすのです。

 このようにハビトゥスは、ひとりの人間の人生においても、また一つの社会全体を巻き込む巨大な歴史的変動においても、常に組み替えが起こったり、変化したりすることがあるのです。おそらく、高度経済成長期の日本にも同じようなことがあったでしょう。『ディスタンクシオン』は階級システムの機械的な再生産論として読まれることもありますが、それはブルデューの本意ではないと思います。

 

P38

 ですから、ハビトゥスは世界を分類していくものであると同時に、それによって行為者が分類されていくものでもあります。傾向性(dispositions)の体系としてのハビトゥスに分類されることによって、その人の位置(position)が確定され、同じハビトゥスを持つ者たちの集団(クラスター)ができていきます。こうして似たもの同士の集団が作られることによって、人々は何者かに「なっていく」のです。

 本人としては主体的に選びとっているつもりでも、一歩引いて全体を眺めてみると、共通のパターンが見えてくる。そして、ある階層やクラスターに分類される。今回の冒頭で私が吐露した悩みは、まさにハビトゥスの社会的に機能によるものだったわけです。分類すると同時に、分類される。それがハビトゥスという概念の強力なところです。

 

 

第2回 趣味という闘争

P40

 ハビトゥスは人々の行為や感受性を、いわば個人の側から分析するための概念です。それでは、同じようなハビトゥスの人々が自らを分類しながらクラスターを形成していく様を、「社会の側」から見たとき、それはどのように見えるでしょうか。

 おそらくそれは、さまざまな座標軸によって構成される、ひとつの「空間」のように見えるのではないでしょうか。そして私たちは、この空間のなかで、お互いの資本やハビトゥスを「武器」として、なんらかの「ゲーム」に参加しているのです。ブルデューは、私たちがゲームに参加しているこの空間のことを、「界」と呼びます。それは、非常に簡単に言えば、たくさんのさまざまな人々が集まって、この音楽は好きとか嫌いとか、この映画は良いとか悪いとかと主張しあっている、たくさんの広場というか市場のようなものです。

 芸術、学問、スポーツ、政治、文学のように、小さなものから大きなものまで、この社会にはたくさんの界があります。それぞれが微妙に重なり合いながらも、界というものは相対的に自律的な存在です。そこには独自のゲームがあり、独自の「賭け金」(ブルデューがよく使う言葉です)があり、独自の判定基準があります。

 

P42

 ブルデューによれば、数ある音楽のなかでも、たとえばグレン・グルードのピアノが良いと判断することは、必ず他者に対する差異化や卓越化(ディスタンクシオン)の動機が含まれます。ブルデューはこれを「象徴闘争」と名付けました。象徴をめぐる闘争ですから、勝ったからといってお金が儲かったり、実際に権力を得たりするわけではありません。シンボリックな利益を求めて闘争するのです。

 つまり、人がなぜ好き嫌いの判断をするかと言えば、自分のハビトゥスの優位性の押し付けをやっているからである。それがブルデューの説明です。

 

P44

 続けてブルデューはこうも述べています。

 

  趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなければならないときに、まったくネガティヴな仕方で、つまり他のさまざまな趣味に対して拒否を突きつけるという形で自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である。

 

 ここでいう差異とは、人に対する差異と考えてください。趣味は人に対する卓越化の肯定であり、それは場合によってはネガティヴな形で行なわれるというわけです。要するに、バッハを好む人はチャイコフスキーを嫌うと言ったように、必ず否定がセットになるのです。「いや、私はバッハもチャイコフスキーの聴く」という人は、おそらく最新のポップスを聞かないのではないでしょうか。世界に存在するありとあらゆる音楽を、まったく同じ強度で好きになるという人は、ゼロではないでしょうが、かなりありえないことのように思えます。何かを「いいな」と思うことは、必ず他の何かを否定することでもあるのです。

 

P45

 ここで重要なのは、趣味に関する「いい/悪い」の判断は、単純な記号のレベルではなく、自分の生き方そのものが関わっている点です。なぜならば、私たちはハビトゥスによって方向づけられているため、私たちが好きになる音楽、映画、絵画、食べ物、服装などには共通の傾向性があるからです。そして同時に、すでに述べたように、そのハビトゥスによって私たち自身が分類され、一定のクラスターを形成してしまうのです。

 ですから、自分が好きな映画作品を他者に否定されると、自分が好きな音楽も絵も食べ物も連鎖的に否定される可能性がある。ひいては自分そのものを否定されることにつながるわけです。

 みなさんも映画や音楽の話をしていて、自分が好きな作品やアーティストを「まったく駄目だね」などと言われ、自分でも意外なほどに深く傷ついた経験があるのではないでしょうか。下手をすると、人間関係が壊れ、深刻な喧嘩に発展してもおかしくはありません。

 ブルデューは、「芸術をめぐる闘争というのは、必ず同時にひとつの生き方を相手に押し付けようとするものである」と言っています。趣味は、生き方そのものが肯定されるか否定されるかの闘争である。そう聞くと、「たしかにそうだな」という気がしてこないでしょうか。

 

P46

 その象徴闘争が繰り広げられる場が、ブルデューの言う「界」(フランス語ではchamp)です。『ディスタンクシオン』の邦訳版では「場」と訳されていますが、社会学では「界」の訳語が定着していますので、本書では界に統一して説明します。(中略)

 ブルデューによれば、界とは、ある「賭け金」や「ルール」で構成された、相対的に自律的な場、あるいは社会的な空間のことを指します。たとえばジャズ界、社会学界、芸能界など、ある共通項で括られる社会的な領域が当てはまります。人々はそこで「賭け金」をめぐる闘争を繰り広げているとブルデューは考えます。ここでいう「賭け金」とは象徴的な利得であり、平たく言うと、他者からの評価や承認、あるいは権威のようなものかもしれません。

 いずれにしても、ブルデューは界というものを、ただ趣味や規範やゲームを同じくする者たちが集まっているだけの、水平の広場のようなものではなく、象徴闘争のアリーナだと考えました。闘争であるからには、そこには勝ち負けが伴います。つまり、界には垂直的な構造があり、その中では自分こそが卓越しようとみんなが戦っているというのです。

 

P49

 界には縦の構造があり、みんながその中で卓越化の闘争をしていることは、先ほどの説明でお分かりいただけると思います。しかしブルデューのさらにおもしろいのは、横軸を置いて、界の構造を横に広げたところです。これにより、闘争の戦略の多様性、参加メンバーのハビトゥスの多様性が表現されます。つまり、私たちは、垂直方向だけでなく水平方向にも広がった界のなかで闘争をしているのですが、そこでの「勝ち負け」は単に上下一直線に連なっているのではなく、その戦略には非常に広くて複雑な「横幅」があるということになります。なお、そのほかに時間軸などが加わり、多次元になることがあります。

 

P52

 ここで「上」とか「下」とかいうのは、作品や表現活動そのものの「質」について言っているのではなく、社会的にどのように評価されているか、あるいは実際にどれくらい「売れているか」ということについて言っています。そしてその「上下」は固定的なものではなく、簡単に逆転します。そのことも念頭に置いてください。

 

P53

 ブルデューの理論とは少しずれますが、音楽界のような大きな界でなくても、会社や学校も界として考えられるかもしれません。たとえば学校では、教室という社会空間における自身のポジショニングが児童・生徒の関心事となるでしょう。その過酷さは、近年「スクールカースト」とも表現されます。

 教室にあるのは、勉強ができるか否かという評価軸だけではありません。そこには横軸がたくさんあり、「勝ち方」がいろいろあるわけです。たとえば、運動神経が良くて生徒会長もやっているという王道の「勝ち方」をする子もいれば、アニメや漫画などサブカルに詳しいというキャラで勝つ子もいます。もちろん、ひたすら勉強の成績で勝とうとする子もいるでしょう。

 これは少し残酷な言い方になるかもしれませんが、学校の教室も象徴闘争の場にほかなりません。いや、界という社会的な空間の中で行為する以上、そこでは必ず象徴闘争が繰り広げられるのです。

 

P54

 少し話が広がりすぎたので、ふたたび趣味嗜好の話に戻りましょう。文学や音楽、映画やスポーツというさまざまな趣味によって行為者が分類される空間を考えるときに重要なことは、ブルデューの根底には、すべてのものは他のものとの関係性のなかで意味をもつという構造主義的な発想があるということです。

 趣味というものは、それ自体ではなんの意味ももちえません。たとえば音楽を聴くのが趣味として成り立つのは、それが他の趣味、たとえばスポーツとか文学と比較されたときです。すべての趣味は、高級な/安っぽい、優しい/激しい、内省的/外交的、精神的/肉体的などの二項対立のなかに置かれ、他の趣味との関係のなかではじめて意味をもつようにあります。

 

 →自殺というものは、それ自体ではなんの意味ももちえません。たとえば他殺・老衰、生存と比較されたときです。自殺の社会学は、こういうところからスタートするのか。人々が自殺をどう評価しているか、を明らかにすることが目的になるのか。ブルデューは、ハビトゥスのような傾向を発見し、その背後には家庭環境や学歴といった社会階層の影響があること(実体論)を証明したところが評価できるということか。であるなら、自殺にはどのような傾向があり、その自殺が起きる社会背景は何かという実体論にまで踏み込む必要がある。経済不況で自殺者が増えたという傾向を指摘しただけなら、それは単なる現象論で、何も明らかにしたことにはならない。どうして不況になると自殺したいという発想が湧きおこるのか、その背景を明らかにして初めて意味のある指摘ができるのか。

 

P55

 そして、界という闘争のモデルのいちばん重要なポイントは、私たちが(もっとも広い意味での)利得を追求するという動機を持っているという点です。人々は界でのポジショニングに実存をかけているのです。

 たとえば(たとえ話ばかりしていますが)、いわゆる「現代アート」というものがありますが、非常に難解で、わかりにくいものばかりです。すでに「絵」でも「彫刻」でもないような、一見しただけでは「作品」であることすらわからない作品がたくさんあります。なぜそんなに分かりにくくなっているのでしょうか。

 あくまでもブルデュー風の解釈ですが、それは現代アートというものが他のジャンルから独立したものではなく、たとえばフランス印象派絵画のような、もっとも値段も高くて社会的権威付けもされているジャンルへの象徴闘争として構築されているからです。わかりにくい作品というものは、言い換えれば、「わかりやすい作品への抵抗」として作られているのです。ですから逆に、ゴッホピカソのような、すでに十分権威づけられていて、途方もない値段がついている、最も象徴的な利得を多く所有している作家や作品に対する反抗なのだということが理解できれば、現代アートの難解な作品も、とたんによくわかるものになります。

 いずれにしても、文化的表現というものは、既存の枠組みや方法論を根底から疑い、それとは異なるアプローチをとることで、界に自身をマッピングし、自らの地位を少しでも押し上げるための象徴闘争をしているわけです。

 それにしても、このような美術界を分析していくと、芸術表現という営みを台無しにしてしまいかねないと思うことがあります。純粋な芸術的意図をもっている現代美術家に対して、脇から「これは売れている主流派の作品に対する抵抗で、それによって自らを逆に権威付けしようとしているのだ」などと言うわけですから…。まさに社会学が「お邪魔な学問」(ブルデュー)である所以です。

 

 →画家も作家も、学者も?、本来は自分の思うままに描きたかっただけなのに、いつのまにか「界」の中での象徴闘争に巻き込まれて、知らずしらずのうちに自身の意図するものとは違うものを創り出すようになっているのかもしれない。売れるためには、評価されるためには、そんなものを創っていてはならない、そんなものをテーマにしていてはならない、のような感じか。

 自殺はよく個人の資質の問題だ、などと言われるが、そうではない。自殺は社会問題であり、それが社会の責任であることを暴露されると困る連中がいるのではないか? それは当然、現代において富と権力を握っている人物ということになる。

 

P60

 そして、そのズレの経験が私のハビトゥスをつくりかえていきました。ブルデューは「ハビトゥスの履歴効果」と言っていますが、どういうところをたどってきたかがハビトゥスに反映されるのです。私の場合、日雇い現場の仕事や、その他にもさまざまな経験をしたことで、エリートコースを歩んできた人々とは異なるハビトゥスをもつ社会学者になったと言えるでしょう。私は建築現場で懸命に働きながら、一緒に働く労働者たちの相互行為を参与観察して論文を書き、その後は生活史の聞き取りをライフワークとする社会学者になりました。だからいまでも、世間を知らない頭でっかちの社会学者には、複雑な感情を抱きます。

 

P62

 このように、異なる界の異なるポジションに同時に所属することが、その行為社のハビトゥスを変容させ、その行為や表現を構成していく、ということがあるのです。

 第1回で、ブルデューは趣味とは何かを考える際、還元主義を退けたという話をしました。還元論に陥らないためにブルデューが導入した概念が界なのです。上流階級は必ずバッハが好きとは限らないように、趣味は社会階層という縦軸だけで決まるものではありません。社会階層と個人のあいだには、芸術という界、音楽という界が成り立っています。その界の中でバッハはどこに位置づけられるのか。私たちはそのことを実践感覚で捉え、自らを卓越化させるためにバッハを選んでいる(あるいは選ばない)のです。このように、二重、三重のプロセスを経て決まっているのが趣味なのです。

 趣味嗜好が闘争である理由、複数のゲームが同時に行われているということ、さまざまな構図に詳しくなることの意味、そして、私が私になる軌跡─。ブルデューが導入した界という概念によって、いろいろなことが見えてくるのです。

 

 

第3回 文化資本と階層

P65

 そもそも文化とは何でしょうか。これまで、人類学や社会学のさまざまな研究者たちが、さまざまに定義をしてきました。これらに対して、ブルデューの発想は極めて特異なものです。ブルデューは、行為者が身につけた文化は資本として機能すると考えて「文化資本」という概念を創出したのです。

 文化資本とは、経済資本と対比させることで社会や界の横幅を描くための概念です。ハビトゥスに近いものでもあるのですが、もう少し具体的で、それは文化財、教養、学歴、文化実践、文化慣習、あるいはブルデューがいうところの美的性向などを指します。美的性向とは、美的なものを美的なものとして評価する傾向性や能力です。絵を見てその美しさがわかるかどうか、音楽を聴いてその美しさがわかるかどうか。ブルデューはそうした美を受容する能力を含めて、文化資本という名前をつけました。

 

P66

 たとえば、絵画作品を所有することは、作品の市場価値にふさわしい額のお金(経済資本)を用意できる、ということだけを意味するのではありません。絵画の所有は、それを所収する人々が、その芸術的価値を見極める鑑賞眼(文化資本)をも所有していることを表しています。

 あるいは、すでに述べたように、家庭や学校でこのような上流階級や中産階級ハビトゥスを植え付けられた場合、それはその後の人生において非常に価値のある資本として、その行為者にとって有利に働くでしょう。ですから文化資本という概念には、個々の具体的な文化的財や学歴や称号も含まれますが、より広義には、界において資本として機能する身体技法、あるいは行為や評価の傾向性のことを指します。

 

 →高校までに培われた田舎者気質の影響が強すぎて、大学で上品な社交性や研究姿勢をうまく身につけることができなかったのが、自分の失敗か…。

 

P67

 芸術に対する評価図式を、ブルデューは別の言葉で美的性向と言っています。これは先ほど言ったように、芸術を芸術として受け取る能力のことですが、ブルディーは美的成功とは生まれながらに備わっているものではなく、歴史的につくられるもので、しかも階級に相関性があることを指摘しています。

 

P68

 ブルデューが『ディスタンクシオン』より前に著した『美術愛好─ヨーロッパの美術館と観衆』(一九六六年、邦訳は一九九四年)によれば、美術館に行く回数には露骨な階級差があると言います。上流階級ほど行く回数が多く、下層階級の人はあまり行かない。これはフランスに限らない話だと思います。

 また『ディスタンクシオン』でおもしろいのは、映画に関するアンケート結果です。映画館に足を運ぶ頻度は、収入や居住地に左右される割合が高い。しかし映画監督についての知識は、映画を見る頻度に関係なく、学歴が高い人ほど多い傾向がありました。つまり、それは「密接に文化資本の所有量と結びついている」のです。

 ブルデューは、芸術に対する「正統的性向」、あるいはそれについて詳しくなるような能力は「だいたいにおいて、それと気づかぬうちに習得されてゆくものであり、それは家庭や学校で正統的教養を身につけてゆくなかで獲得される一定の性向によって、可能になるものである」と述べています。

 

 →芸術家になる人と芸術を楽しむ人、役者になる人と映画を楽しむ人の違いもあるのだろう。美的性向はどちらかというと、「楽しむ人」の説明になるのか。

 自分の周りにも、映画好きで俳優に詳しい人はいたが、映画監督に詳しい人間はいなかった。たとえば、洋楽好きを称する人間もたくさんいたが、アーティストが使用している楽器、楽曲に関わったプロデューサー、録音したスタジオに至るまで、詳細な知識を備えた人間はいなかった。自分が生活してきたのは、その程度の階層だったということか。中流でミーハーな階級のなかで、マウントの取り合いをしていただけかと思うと、かなり恥ずかしい…。

 

P69

 ブルデューは、美的性向とは端的に言って、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受容する能力のことだと言っています。内容ではなく形式。絵画で言えば、描かれているテーマや対象ではなく、その「描き方」、つまりそれぞれの作品が持つ、描線や色彩のスタイル、技法、流派、「見せ方」を鑑賞し評価するための知識や態度のことです。

 

 →画家を目指す人間がこのようなことに詳しいのは当然。純粋に絵画を楽しむためだけに、こうした知識を受容できる(経済的・精神的・時間的)余裕があるところに、上流階級の上流階級たる所以があるということか。貧乏人である自分がこうしたものを好むのは、下層階級のなかで、自分は他の人間とは違うことを自他に示し、マウントをとることによってアイデンティティを保とうとしているのか。

 

P70

  美的性向とは、日常的な差し迫った必要を和らげ、実際的な目的を括弧に入れる全般化した能力であり、実際的な機能をもたない慣習行動へ向かう恒常的な傾向・適性であって、それゆえ差し迫った必要から解放された世界経験のなかでしか、そして学校での問題練習とか芸術作品の鑑賞のようにそれ自身のうちに目的をもつ活動の実際においてしか、形成されえないものである。言い換えれば美的性向は、世界への距離(中略)を前提としているのであり、この距離は世界のブルジョワ的経験の原理なのだ。

 

 つまり、必要性から距離をとることが美的性向をつくりだすというのです。それは、経験と教育の結果だとブルデューは言います。このように、美的性向を含む文化資本は、大きくは階級によって形成されます。それは文化的な評価と意味づけとの実際のシステムであり、私たちはそれによってあらゆる趣味や文化を分類します。そして、私たちもまた分類される。すでに何度も述べているとおり、そこには「利得」があるのです。絵や写真の見方に限らず、マナーや立ち居振る舞いも含めた文化的な態度は社会的機能をもっており、それ自体が「賭け金」になるというのがブルデューの考えです。

 

P71

 美的性向がそうであるように、文化資本はそれが得やすい環境にある人ほど多く所有しています。また所有するための努力ができる人、努力することが当たり前だという態度が身についている人ほど、苦もなく所有できます。この態度、あるいは性向は、おそらくその人の人生の軌道を有利に導くでしょう。

 たとえば、学歴という資本を得るためには勉強をしなければなりません。しかし、そもそも机に向かって勉強することができる、そうすることが当たり前であるという態度をもっていることが学歴を得る場合には有利に働きます。すなわち、どんな態度やハビトゥスをもっているかが、露骨に資本として機能するわけです。

 勉強とはある種の投資です。机に向かって参考書を開いて投資する。そうすると学歴というリターンが得られる。しかも、勉強することができる人はどのくらいのリターンが得られるかをおおむね予測できる。これができないと、どうして学校の授業では我慢して着席していないといけないのか、日常生活の役にも立たない勉強など無意味ではないか、と思ってしまうわけです。重要なのは、それが知的能力の問題ではないことです。机に向かうことがそれほど苦痛ではないような身体的技法と、机に向かうことが何の不思議もない当たり前のことであるとする感覚をもっているかどうかなのです。

 このように、出身階層に傾向づけられる性向が海藻を再生産するという見方を、教育社会学では文化的再生産論と言います。『ディスタンクシオン』のメインテーマは必ずしも文化的再生産論ではないのですが、教育社会学ではその枠組みで読まれることがしばしばあります。以下では、ブルデュー文化資本という概念を生んだ理由を考える一助として、文化的再生産論について取り上げることにしましょう。

 

P72

 一般的に、学校教育には階級をシャッフルする側面があると考えられています。貧しい家庭の子でも裕福な家の子でも義務教育は等しく受けるものですし、家にお金がなくても成績がよければ奨学金を得るなどして進学することが可能となります。ブルデュー自身がまさにそうでした。

 ところが、いくつかの教育社会学的研究では、学校にはまったく逆の機能があることが指摘されています。つまり、学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化的資本(身体化された文化資本)であるため、その資本が多いか少ないかによって学校での序列が決まり、ひいては社会での位置も再生産されるというものです。『ディスタンクシオン』から引用します。

 

  学校教育制度は生徒たちを種分けして、ある者は正統的慣習行動を行なう者として評価の高い位置づけへ、またある者はこれを行なわない者として評価の低い位置づけへと振り分けていくことにより、彼らの抱いているさまざまな希望や要求、自己イメージや自己評価を操作している。

 

 さらにブルデューは、学校教育で固定化される序列が、その人の趣味やライフスタイルにも影響を及ぼし差異を再生産するとして、こうも述べています。

 

  そして学校による分類=等級づけが生みだすさまざまな公認の差異は、分類された各個人の心のなかに、誰もが認めかつ支持する信念として、これらの差異はたしかに存在するのだと信じる気持ちを起こさせ、そうして自分の現実の存在をしかるべき公認の存在に近づけるための行動をとらせることによって、結局実質上の差異を生産する(あるいはこれを強化する)方向へと向かってゆく。だから教育機関が明確にかつ厳しく要求しているということとはおよそ縁の薄い行為、たとえば日記をつける、厚化粧する、劇場やダンスホールに通う、詩を書く、ラグビーをする、などといったもろもろの行為も、教育機関の内部で当人に割り当てられた位置づけのなかに、暗黙の要求として含まれていることがありうるのだ。

 

P74

 (ポール・)ウィリスによれば、労働者階級のいわゆる不良の男の子たちは、自分から進んでグレていき、自分から進んでドロップアウトし、自分から進んで親と同じブルーカラーの労働者になっていくと言います。マッチョな労働者文化の中で育った彼らには、じっとしていることは苦痛でしかなく、おとなしく座って勉強することなんかできないという価値観があります。

 

 →こういう階層は、消費行動にも共通性がある。田舎マイルドヤンキーは、ことごとくミニバンに乗っている。ひと昔前なら、中古のクラウンアスリート、セルシオ、シーマだったような気がする。自分の所属している階層が居心地よく、それを誇りに思っているから、自身のアイデンティティを誇示するために、みな同じような車種を購入しようとするのか。

 

 

P75

 また、彼らにとって身近な大人である家族や親戚も一様に学歴が低くて、ロールモデルになる学歴の高い人がいないとなれば、不良少年たちには、教室で我慢してみんなに合わせて勉強する意味がわからない。

 これはブルデュー的に言えば、知的能力ではなく、ハビトゥスのレベルでの排除です。つまり、彼らは、学校において知的能力で排除されているのではなく、身について文化によって勉強するかしないか以前に排除されているのです。彼らにとっては、むしろグレてドロップアウトするほうが合理的です。ただし、その時点では合理的な行為でも、長い目で見ると、不利な立場を自分から選んでいることになります。

 こうした、不平等な階級格差が、むしろその下位の人々の「自由意志」によって再生産されているという、きわめて皮肉な現実があることを、ウィリスは詳細なエスノグラフィーによって見事に描き出したのです。

 

 →自分の階層は、このちょっと上に当たる。勉強する意味はわからなかったが、好きな科目と嫌いな科目があり、不良少年の友達もいれば、秀才の友達もいた。結局、大人になった今も、そういう中途半端な階層に位置している。

 あえて「自由意志」に括弧をつけているように、人間に「自由意志」はない。小坂井敏晶にも書いてある。自由意志によって選択しているかのように見えて、ハビトゥスによってそう選ばされているだけ。人間はそれに気づけていない。

 

P76

 近代的な社会において、初等教育中等教育の多くは義務教育です。本来は階層に関係なく優秀な人を選抜することが目的であり、海藻をシャッフルする機能が期待されていたはずです。しかしブルデューが指摘しているように、そこで行なわれているのは選別と格差の維持にほかなりません。学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本を、そのまま自動的に親と同じように高い地位に押し上げるための装置だということになります。

 

 

第4回 人生の社会学

P81

 私たちは、自分で意図するかどうかに関係なく、卓越化を目指して闘争をしています。むしろ、自分たちが「闘争なんてしていないよ」と思えるぐらい自然なかたちで文化資本を身につけることができる階級出身の人々こそが、社会空間の象徴闘争でもっとも利得を得ることができる人々でしょう。彼らは、自分が今のポジションにいること、他人が自分とは違うあのポジションにいることは「自然なことだ」と考えています。ブルデューは、支配層のこうした見方は「現実の差異を自然化する」と言っています。

 

P82

 すなわち、自分と他者とを区別する境界を感覚として身につけてしまうわけです。この感覚は「秩序関係への賛同」へと転化します。

 

  したがって彼らはまず分布構造が自分に割り当てているものを自らに割り当て、自分に拒否されているものを拒否し(「それはわれわれ向きではない」)、自分に与えられているものだけで満足し、自分の抱く期待を自分に与えられている機会に釣り合わせ、規制秩序が彼らを定義しているとおりに自己を規定し、自分自身に対して下す決定のうちに社会構造が彼らに対して下している決定を再現し、要するに一言でいえば結局のところ彼らに帰するもの(中略)に身を委ね、自らのあるべき姿、すなわち「謙虚」で「慎まし」くて「目立たない」存在であることを受け入れるのである。デュルケームが「論理的適合性」と呼んでいたもの、すなわち社会界の多様な知覚カテゴリーの統一的編成が、社会秩序の維持にどれほど決定的な寄与をもたらしているかがこれで見てとれよう。つまりこれらの知覚カテゴリーは規制秩序の分割状況に(したがって規制秩序を支配する人々の利害に)適合させられ、これらのこれらの構造に合わせて構造化されているすべての人間に共通しているので、いかにも客観的必然性をもっているかのような外見をもって人々に押し付けられているのである。

 

 →「謙虚」「慎ましさ」「目立たない」という言葉が最も相応しくない、自己顕示欲の塊のようなイキリまくったヤンキーでさえも、自分に割り当てられている「不良」側面に満足し、「謙虚」に「慎まし」く、(社会的にはまったく)「目立たない」存在であることを受け入れている。犯罪や困窮以外で彼らにスポットが当たることはない以上、「目立たない」存在ということになる。目立っていたのは、中学生までか。かつて、世の中のルールには従わないと嘯いていたヤンキーたちも、見えないルール(ハビトゥス・界・文化資本)にしっかりと影響され、従わせられていたということになる。やはり、自由意志などどこにもない。あるのは、事後的な客観認知だけ。

 

P84

 非常に乱暴にいえば、ハビトゥスとは、最も広く捉えられた意味での「合理性」ではないでしょうか。冷静で客観的で科学的な合理性ではなく、もっと慣習的で、日常的で、実践的な合理性です。人々がその毎日の生活のなかで、そしてその人生を通じてそれぞれにもつ理由、必然性、動機。あるいは信念や価値観。ハビトゥスを、そのようなものと考えることもできます。そしてハビトゥスは、もったりもたなかったりするものではなく、ある人がひとりの「行為者」であるかぎり、そこには必ずハビトゥスが備わっています。どのようなハビトゥスかについて違いがあるだけで、「ハビトゥスを持たない行為者」というものは存在しません。

 つまり、こういうことになります。あらゆる行為者は合理的である。少なくとも、その合理性を最も広い意味で捉えた場合、すべての行為には理由があり、根拠があり、動機があります。もちろん、人間というものは、非常に複雑で多様で流動的な状況のなかで、非常に複雑で多様で流動的な行為を産出します。その理由や動機を、他者が簡単に特定できるわけはありません。しかし、ブルデューの理論が教えてくれることは、私たちはすべて、それぞれが所属する界や場のなかで、私たち自身が信じる規範や価値にしたがって、自分たちの生を懸命に生きているのだ、ということなのです。

 

 →西洋近代の科学的合理性だけが合理性ではないことは自明の理。西洋的合理性が「未開」「後進」「非合理」として切り捨ててきたものにも、当然ながら合理性があったということ。西洋的合理性が世界中に広まるなか、それがうまく適合した地域もあれば、うまく適合しない地域もあり、逆に軋轢をうんでいる場合もある。各地域には、それぞれ固有の歴史や文化、自然環境や住環境があり、そのなかで最も理に叶った生活スタイルや価値観を育んできたはず。まったく異なる環境で生まれた西洋的合理性が、すべての地域に適合するわけがない。グローバル化の傲慢であり、大きな間違い。

 ただ、ローカルな合理性にも誤りはある。わかりやすところで言えば、身分・性別・民族差別など。これは各地域の支配層が自らにとって都合のよいように、自身の子孫がその地位に居続けられるように、既存の階層を再生産して秩序を安定化させるためにつくり上げられた考え方であるわけだから、大多数の人間にとっては不都合に決まっている。

 それを崩そうとしたのが、近代教育制度だったが、前述のようにこれも、既存の階層を再生産するだけだった。この近代教育制度のタチの悪いところは、学力を自分の努力や持って生まれた才能という「自己責任論」にしてしまったところ。大多数の現代人が見事にこのロジックに騙されてしまっているがゆえに、歴史上最もタチの悪い庶民支配システム(一部の富裕層が利益を確保し続けるシステム)になっているのではないか。小坂井著書参照。実は、この制度を生み出している支配層・富裕層も、代々受け継いできているがゆえに、そのシステムで恩恵を受けていることに気づいていなかったり、忘れたりしている。

 

P85

 ハビトゥスとは何でしょうか。それは、家庭や学校のなかで叩き込まれた性向、態度、傾向性です。つまりそれは、それまでの人生の履歴、蓄積なのです。私たちの態度や感情、そして身体には、「履歴」があるのです。それは行為のなかに蓄積された過去の履歴であり、学習と訓練によって長い時間をかけて獲得された身体の記憶です。

 この行為と認知の傾向性に導かれて、私たちは個々の相互行為に参与し、何事かゲームを成し遂げていきます。このゲームという概念も、最も広い意味に捉えてください。私たちはただ、その場の相互行為に参加して、ぽんぽんと記号や象徴を交換して抽象的なコミュニケーションに参加しているのではありません。そこにはもっとヒリヒリするような現実的な利害関心があり、私たちは切実な動機に突き動かされています

 

 →やはり自殺にもハビトゥスが影響を与えていると考えるべきなのだろう。ヒリヒリするような現実的な利害関心のもと行動していることが多くなりすぎ、慣れてくると、脳が自動処理するようになり、意識として顕在化しなくなるから、自分では気づかなくなってしまう。気づいていないだけど、脳や神経を含めた身体は、ストレスを感じ続けているのではないか。その蓄積が閾値を超えると、絶望のプログラムが発動してしまうのではないか。マイケル・S・ガザニガ、下園壮太参照。

 

P86

 私たちは、それぞれの人生の中で必死に獲得し、蓄積してきたハビトゥス文化資本を武器に、それぞれの界やその都度の場で、少しでも「利得」を得ようと努力します。利得とかゲームという言葉を使うと、いかにも冷徹で冷酷な、弱肉強食の、勝ち負けしかない世界を思い浮かべるかもしれませんし、実際にブルデューはそういう世界ばかりを描いたことで批判されたりもします。私たちは、毎日まいにち、人を蹴落とし自分だけの仕上がるような闘争や競争ばかりしているのではありません。したがって私たちは、ブルデューが好んで使う「利得」「資本」「闘争」という言葉をもっと広い意味で理解する必要があります。たしかに私たちはまいにち闘争や競争ばかりしているのではありませんが、それでも私たちは、自分たちなりのやり方で、自分たちの人生を「より良いもの」にしようと必死でがんばっています。ブルデューの闘争や利得という概念は、この、「必死でがんばっている」ぐらいの意味で捉えてほしいと思います。

 私たちは、自分たちの人生を、よりよくしようとがんばっています。これは見方を変えれば、私たちの行為や判断は、少なくともその本人にとっては、「より良くなるはずだ」という見通しのものとで選択されているはずだ、ということになります。それは、他者から見たらどうしてそう考えるのかわからないような、ただ非合理的でしかないような行為選択かもしれません。でも、ハビトゥスや界での闘争の賭け金は、人によってまったく違うのです。ですから、非常に遠い社会的距離を隔てて見た場合に非合理的に見えるような行為選択でも、近寄って詳しく見てみると、そこには「その人なりの理由」があるはずなのです。

 

 →当事者にしてみると、「自殺はよりよく生きるための合理的な手段」、「これから先の人生がよりよく生きられないために、それを円滑に終わらせる合理的な手段」なのかもしれない。ただし、その選択は誤りで、人間は忘れたり、変わったり、逃げたりすることできるのを忘れているために、そういう判断をとってしまうのだろう。

 

P87

 私は最近、「他者の合理性」という言葉をよく使います。これは明らかに、ブルデューの理論の、私なりの解釈に大きく影響を受けている。すべての人の行為や判断には、たとえ私たちにとって簡単に理解できないもの、あるいはまったく受け入れられないようなものでさえ、そこにはその人なりの理由や動機や根拠がある。つまりそれは、その人なりの合理性がある、ということなのです。

 合理的である、ということは、「理に適っている」「理由がある」ということです。その人はなぜその行為をするのか、なぜそれが好きなのか─その理由を「完全に」理解することはでいないにしても、もう少し「歩み寄る」ぐらいのことは可能だと、私は素朴に信じています。そしてそのときに、界、ハビトゥス文化資本という概念で構築されたブルデュー社会学理論は、非常に大きな手助けになるに違いありません。

 

 →使いやすいテクニカルターム

 

P90

 沖縄の共同体的な「つながり」は、ともすると包括的な、「温かい」ものとしてロマンティックに描かれがちですが、打越(正行)が描いたのは、そういうイメージからは遠く隔たった、きわめて暴力的で抑圧的な地元つながりの世界です。過酷なほどの先輩・後輩関係のなかで、彼らは地元のしがらみに縛られたまま、日々を暮らしています。しかしそれは絶望的な世界というわけではなく、むしろ彼らなりのハビトゥスと「実践感覚」によって、たくましく賢く、切り抜けているのです。

 マニラのスラムに住むローカルボクサー、つまり、世界チャンピョンを排出するようなメジャーなジムではなく、ドサ回りの賭けボクシングの試合に出るようなボクサーたちと生活を共にし、自らもそのようなボクシングジムに住み込んで参与観察を行なった石岡丈昇(とものり)は、チャンピョンになる見通しものないのに過酷な減量やトレーニングに耐えるボクサーたちの生活を見事に描いています。

 彼らはなぜそんな厳しい生活に耐えることができたのでしょうか。ボクサーのうちのひとりは、「リングに上がっているときだけ、俺たちには『名前』があるんだ」と語っています。リングで殴り合いをする、その一瞬の時間だけは、彼らはスラムの無名の人間ではなく、「リングネーム」をもった存在になれるのです。石岡の詳細なエスノグラフィーから、彼らの過酷な生活の「理由」が垣間見えます。

 

 

 →出世が望めない下級武士などが、血の気が多く、戦で命を張れるのは、戦争・闘争のときだけが、従属感・束縛感を取っ払うことができるし、また戦果を残せば一角の武士と認められるからか。普段は名もない、名も残せない人間。彼らのプライドの高さ、恥辱を受けたことに対する異常な復讐心は、誰からも一人前と認められない日々の鬱憤が爆発するからか。

 

P92

 こうした活動や著作においても、ブルデューの問いかけは現実的です。知識人たちのなかには民衆にロマンを抱く人も多いのですが、ブルデューは非現実的な認識に至る手前で踏みとどまります。人々が圧政に苦しむ社会でも、楽天的に「やがて下からの革命が起こるだろう」とは考えません。逆に、民衆は「愚かな」人々だから、ただ苦しみに甘んじているのだ、とも考えません。逆に、民衆は「愚かな」人々だから、ただ苦しみに甘んじているのだ、とも考えません。そこには彼らのハビトゥスがあり、相応の合理性があるのだとブルデューは考えます。「いったいどうして民衆は革命を起こさないのだ?」ではなく、「革命を起こさないことの理由があるはずだ。まずはそれを丁寧に理解しよう」というのが、ブルデューの貫く信念なのです。

 

P93

 「民衆」というものに幻想を抱くことがなぜ駄目なのか。幻想を抱く人は、すぐに幻滅します。勝手に幻滅して、「なんで抵抗しないんだ!」と憤る。それは民衆が愚かだと言っているに等しい。彼らはまるで合理的ではない、と言っているようなものです。

 

P94

 私は、米軍基地に反対する怒りは共有しますが、反対しない人を愚かだとはけっして言いません。話はそう単純ではないはずです。置かれた状況によっては、「基地をうまく利用して生きる」ような合理性が必ずある。「抵抗しない」という行為を含め、その背景にある合理性を探っていくのが社会学の役割だと思います。まさに、抵抗するためにこそ、それが必要なのです。

 この社会には、複数の合理性が存在しています。他者の行為というものは、傍から見ると「なぜそんなことをしているのか」と疑問に思うことがありますが、その人の立場になってみるとわかることがある。「私の合理性」とは違った合理性があるのです。しかし、ここで「私はあなたを完璧に理解できた」と言ってしまうのも、ある種の暴力でしょう。他者を完全に理解することは無理だと思います。

 

 →他者を完璧に理解したということは、他者に対する偏見ができあがったという意味でもある(ファノンの回での伊集院談)。

 

P97

 ブルデュー社会学が可能にしてくれるもう一つのこと、それは、自由とは何かを考えるということです。第3回の最後に、ブルデューの理論は決定論だと批判されることがあると述べました。これには仕方ないところもある。ブルデューが描く人間像は、やはりどう考えても不自由な存在です。私たちは深いレベルまでハビトゥスによって、社会構造によって規定されているのです。

 しかし私は、その事実を知ることの方にむしろ、ある種の「解放」を感じます。自由とは、何でも好き勝手にできるとか、どんな自分にでもなれるということではありません。持って生まれたものに方向づけられ、生きる社会の構造に縛られ、それでもそのなかでなんとか必死に生きている。自由とはそういうものだと考えているからです。

 私自身の趣味について考えてみると、好みの傾向はハビトゥスによって見事なくらい統一されています。だからと言って、たとえばグレン・グルードに心から感動する、その感動の量が減るわけではありません。自分の感受性は自分の感受性として持っているし、自分の倫理も自分の倫理として持っている。それはそれで正しいと思っているし、ときには主張もさせてもらうのですが、全体の構造の中で言うと、自分という存在はものすごく有限で限界づけられた存在である。その事実を知ることも、私は好きなのです。

 もしみなさんが『ディスタンクシオン』を読んで、自分のやっていることを台無しにされたような気分になったのであれば、自由の神話に囚われているのかもしれません。本質主義的な「稲妻の一撃」に囚われている。私たちは、自由とは何の規則にも従っていないことだと考えがちですが、何の規則にも従わないことはそもそも私たちには不可能です。すでに述べたように、有限の規則から無限の行為を産出していくこと、それこそが私たちに与えられている自由なのではないでしょうか。

 自分の自由を制限している構造的な条件づけの、その条件自体を知るということは、人間がなしうる最も知的で自由な行為であると私は思います。自分がどのくらい自由で何ができるのかよりも、自分の行為がどのくらい制限されているのか、どうやって制限されているのかを知るほうが、私たちを社会構造の鎖から解き放ってくれるのではないでしょうか。

 「重力の法則は飛ぶことを可能にする」とブルデューは言っています(『介入Ⅰ』)。幻想を持たずに希望を持つ。ブルデュー社会学が教えてくれるのは、その姿勢なのです。