周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ロジェ・カイヨワ Part2

 ロジェ・カイヨワ戦争論法政大学出版局、1974年

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1部 戦争と国家の発達

 第1章 戦争の原形態と小規模戦争

  1 原始的戦争

  2 戦争と国家の発生

  3 帝国戦争

  4 貴族戦争

 第2章 古代中国の戦争法

  1 戦争は災厄である

  2 戦争の倫理

  3 名誉の規則

  4 暴力の萌芽

 第3章 鉄砲 歩兵 民主主義

  1 槍から火縄銃へ

  2 歩兵と民主主義

  3 貴族歩兵創設の試み

  4 上流社会の戦争

  5 変革の徴候

 第4章 イポリット・ド・ギベールと共和国戦争の観念

  1 アンシャン・レジームの理論家

  2 革命主義者

  3 国民総武装の予見

 第5章 国民戦争の到来

  1 市民兵

  2 戦争の激化

  3 戦争と民主主義

 第6章 ジャン・ジョレスと社会主義的軍隊の理念

  1 人民の軍隊

  2 全体主義の趨向

第2部 戦争の眩暈

 第1章 近代戦争の諸条件

  1 極端への飛躍

  2 戦争の形而上学

 第2章 戦争の予言者たち

  1 ブルードン

  2 ラスキン

  3 ドストィエフスキー

 第3章 全体戦争

  1 戦争の新次元

  2 全体戦争の倫理

 第4章 戦争への信仰

  1 ルネ・カントン

  2 エルンスト・ユンガー

 第5章 戦争 国民の宿命

  1 戦争のための政治

  2 戦争のための経済

 第6章 無秩序への回帰

  1 根底にある真実

  2 兵士の本性

  3 兵士の陶酔

  4 きびしさと熱狂

 第7章 社会が沸点に達するとき

  1 戦争と祭りはともに社会の痙攣である

  2 聖なるものの顕現

  3 祭りから戦争へ 

結び

 

第1章 戦争の原形態と小規模戦争

P7

 戦争は集団的、意図的かつ組織的な一つの闘争である。(中略)

 戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。

 

 一 原始的戦争

P11

 未開社会がその最高潮に達するときは、戦争ではない。それは祭りである。祭りは、最高度の社会的きずなであり、集団的存在の至高の点をなしている。その社会へのつながりの、その社会での活動の、その社会での消費の、頂点をなしている。祭りは多くの個人を集合し、攪拌し、その感情を熱狂的な沸騰にまでもってゆく。日常生活上の諸々の規律をひっくり返し、一瞬のうちに彼の活力と富とを消費する。これとは逆に戦争は、日々の単調さを辛うじて断ち切るだけである。平時からはっきりと区別されるような戦争ではない。宣戦布告や休戦調印といったようなおごそかな行為によって、一つの状態から他の状態に移行するということもない。戦時と平時は合致しており、二つながら常に存在する。極端な場合には、一つの集団が、大規模な軍事行動を行なってはいないにもかかわらず、近隣の集団に対して恒常的な敵対関係にある場合もある。そこで一人びとりが他部族のものに出会った場合には、相手を殺すか、さもなくば殺されることになろう。それらの戦いは、腕力による戦いか待ち伏せ程度のもであって、それに参加する戦士の数も少ない。戦争は、一血族にとっての問題であり、あるいは一宗団にとっての問題である。また多くの場合、かくかくの略奪行動あるいは報復行動を目的として組織され、それがすみしだい解散するような、一時的な集団にとっての問題なのである。

 

 →中世の紛争に似ている。

 

P12

 そこには、組織的な軍隊は存在しない。外敵の侵入や近隣村落への略奪などで戦争が起これば、成年男子人口の全部が戦いをする。定期的に遠征を行ないそれによって資材の大部分を獲得するような、交戦的な部族もある。一般にこれら部族は、遊牧民あるいは山地住民である。農耕民は、多くの場合平和的である。南アフリカのマナンサ族のように、戦闘を拒否し、平和を金で贖うような部族さえある。

 戦争の原因となるものも数多くあり、とらえ難い。単に戦闘を好むという性質や、栄光への欲望も、かなりの大きな役割を果たす。これらの社会のうちには、若者が、人を一人殺してからでなければ成年のうちに伍すことを許されない、といった社会もあることを記憶せねばならない。族長の威光が、その家の閾をかざる頭蓋骨の、塚の高さによって計られるようなところもある。放牧地や狩猟区域の区分け、水源の所有、鮭をとるに必要な堰の位置、家畜の分配なども、武力抗争のもととなる数多くの動機を与えている。また別の場合、奴隷や婦女を得ることが、また人身御供や保存用の人頭を得ることが、同期となっていることもある。婦女を獲得することは、褥の伴侶を得るためよりも、むしろ労働力を得ることが目的であった。戦争と狩猟との間の区別も、常に明確だとは限らない。とくに、敵を追いたてることが快楽として求められているような場合や、食人の風習が捕えた人間を獲物として食うところにまで至った場合はそうである。

 

 →海賊・山賊・馬賊などは、こういう人たちなのだろう。農耕民は協働が必要だから、平和的なのか。

 

P13

 戦争の行為にしてもいろいろある。小は偶然のぶつかり合い、ののしりや打撃を早々に交し合う単なる小ぜりあいをはじめとして、男という男をみな殺しにし、婦女子を連れ去り、村を焼くような、殲滅的遠征に至るまで、さまざまである。とはいえ戦争は、これらの極めて異なった現われ方のなかに、いくつかの変わらぬ特性を保っている。反逆、策略、待ち伏せなどは、ほとんどいつも行なわれる。敵を待つため、急をつくためには、身をかくす。身をかくすことなく敵を襲うことは、滅多にない。整然たる戦闘や、平等な条件での戦いは、敬遠される。同じような防具をつけ同じように武装した相手が、合図とともに対峙するというような、個人的決闘、集団的決闘の形はとられず、狩猟や暗殺者のような条件で、おのれの姿を見られぬようにして相手を殺すことが、むしろ本則とされる。

 といはいえ、原始的戦争は、ごく急速に進化して、より微妙なものとなる。そこでは、より複雑な、あるいはより安定した社会体制と名誉感が、前提とされる。戦争に関する法が成立し、戦争のための固有の手段、すなわち規律をもち訓練を積んだ軍隊が現われた段階に至っては、おそらくもうこれを、原始的戦争と呼ぶことはできない。もはや、無差別的社会について語ることはできない。法的規律の介入と正規軍の召集とは、この社会すでに一つの国家となったことを証している。

 

P14

 ときには、危険が感ぜられるために、住居地を変えることもおこる。常々はいくつかの離れた部落に分かれて住んでいた同血族のいくつかの集団が、一時、隣りあって村をつくり住むことがある。同時に人々は、種々の制約を課されることも、比較的容易に了承する。そして条件のよい場合には、専門化した本当の強制権力が出現する。戦争が長びけば、この権力は恒久的なものとなる。種まきや収穫の時期にまで戦闘行動が続く場合には、農耕従事者と戦士とのあいだで、社会的業務を分担する必要が生じる。また、戦いに勝ち、敗者を従属させた場合には、賤民あるいは奴隷といった下層階級が生じ、これを監視し働かせることが必要となる。多くの歴史家にとっては、この事実が決定的なものであるように思われたのである。社会のなかに抑圧搾取機構が生まれるのは、制服の結果である、とディーリーは考えた。ジェンクスは、諸々の社会の諸々の制度は、軍事的な原因から生まれる、と考える。〈国家は、一つの人間集団が他の人間集団を支配するところから生じた。国家の存在をその根本から正当化する理由、つまりその存在理由は、被征服者を経済的に搾取することにあったのであり、それはいまもそうである〉、とオッペンハイマーは書いている。

 

 →戦国・織豊期がこれに当たる。

 

P15

 つまるところ、支配民族と被支配民族とを無理に組み合わせ、そこに自動的に国家の起源を当てはめることは、経験的に事実というよりは、むしろひとつの見解に過ぎない。これに比べれば、ここの確かな場合について、政治制度は戦争を行なうことによって着実に進歩するということを、確認することこそ肝要である。たがいに隣接し近親関係にあるバ・ヤカ族とバ・ムバラ族の二部族について、トーデイとジョイスが行なった指示に富む研究は、この点とくに貴重なものである。この二つの部族のうち、後者は平和的な部族であって、社会的分化のほとんどない状態にとどまっている。これに反し、前者は非常に戦闘的な部族であって、きびしく分層化した封建的構造をもっている。

 

P16

 いわゆる国家というものの形成には、まず、その組織が固定化することが前提とされる。そうしてはじめて、領土関係が、部族的組織の特徴である血族的つながりを、徐々に凌駕してゆく形になる。第二にそれは、政治体制の複雑化が始まることを、前提としている。この複雑化は、国家形成の結果として始まることもある。まず民衆は、武士狩猟民と農耕牧畜民に分裂する。この二者のほかに、より少数の祭祀階級が存在することもある。また社会的な仕事を分担することにより生じたものかは、あまり重要なことではない。まず銘記すべきことは、この分裂という事実である。居住地が固定していることと、補助的諸階級が存在することは、国家の基礎となる二つの条件であるが、この二つはともども、戦争と密接な関係を持っている。新しく生まれた国民国家が、防衛にあるいは領土の拡大につとめるのは、そのためである。一つの社会が、戦闘者階級と生産者階級という連帯的な階級に分裂するという現象は、戦争が原因となって起こるのであり、また戦争によって維持されるのである。

 

 

P18

 歴史の流れのほぼ全体を通じて、空間的距離という力と、地表の障害物という抵抗とは、容易に乗り越えられぬ障害として、戦争を制約した。よりすぐれたより殺傷力のある兵器によって優勢を保ち、遠距離大量輸送に適した輸送手段によって優位にあろうとも、この二つの制約に打ち勝つことはできなかった。

 

P19

 そうなるともう戦争は、安定した複雑な制度などもたない部族同士のあいだに行なわれるような、小ぜりあいや待ち伏せの連続ではなくなってしまう。それはまた、二つの軍団の衝突でも、二つの国民の衝突でもない。この種の戦争の特徴は、本質的な不均等性にある。それゆえこれは、むしろ一種の警察行動に似ている。一方には、はじめ弱小かつ単純なものではあったが、後にだんだんと拡大し強力になったところの、制度の整った国家がある。他方には、この国家とは同じ水準に達していない民族がある。そして、前者は後者を服従させつつ吸収し、後者に対して、前者の持つ習俗、技術、制度、信仰、偏執、はては悪徳までも、学ばせあるいは強制する。

 

P23 四 貴族戦争

 歴史的にみると、戦争は、狩猟と武芸試合とのあいだを、また殺戮とスポーツとのあいだを、振り子のように揺れ動いている。敵対状態は戦争にとって基本的な要素であるが、この要素は戦争を、陰謀という形態の方に向かわせることもあり、また決闘という形態の方に向かわせることもある。実際上自立的ないくつかの藩領に分かれ、戦うという仕事がある特権的カーストによって占められているような封建制社会においては、この第二の傾向が著しく助長される。その場合戦争は、一つの規律ある抗争という形で現われ、そこには、遊戯にみられるようなすべての約束事の性格が見出される。戦争は、ある限られた時間・空間のなかで、厳密な法にのっとって行なわれるということが、了解されている。ある種の戦法は禁じられている。無防備の敵を攻撃すること、また予告なしに攻撃を行なうことはない。そればかりではない。そこで求められているものは、相手を殺すことでも抹殺することでもない。相手が降伏したと申し出れば、それでよいのである。意識的に課されたこれらのいろいろな制限は、ごく古くから見受けられる。宣戦布告をすることは、まぎれもないその一つの現れである。このおごそかな通告により、攻撃する者は、不意打ちするという有利な戦法を、みずから放棄する。原始的な戦争は、戦いというよりもむしろ待ち伏せが多かったので、不意打ちこそ主要な戦法であった。その後においては、均等な機会、同等な武備をもって遭遇できるような場に、敵を招致するようになる。メキシコでは、宣戦布告の際、贈り物をおくる。しるしばかりの食糧、衣服、武器などを、相手方に送るのである。戦力のない相手と戦うことは、名誉が許さぬからだ。

 

 →日本中世の戦争はどうなっているのか。降伏の証明が切腹だったのか。戦争を主導した武士層と付き従った実行部隊の民衆との間で、認識の違いはないのか。近代戦争のほうが、被害量の面だけでいえば、よっぽど残酷な気がする。

 

 

P26

 一般に、戦いは多くの死者をともなうものではなかった。一人の人間も、一党の馬も失われずにすんだことさえある。戦争は、賃貸借のようなものであり、また競売における落札のようなものであった。傭兵たちの戦いかたには戦意がなく、一度敵と遭遇すればたちまち部署を放棄した。彼らの行なう戦いは、しばしばみせかけだけのものだった。合計二万の軍勢が四時間にわたって戦いながら、わずか一人の戦死者しか出なかったという例を、マキャヴェリは引いている。しかもそれは、落馬したためだったという。

 

 →日本の場合はどうか。

 

P27

 戦争は、時として多くの民衆の命を奪った。しかし戦闘員の犠牲者は、多くはなかった。貴族たちは、たがいに相手を殺すことを避けた。相手を抹殺することよりも、捕虜をつくることこそ理想であった。

 

P28

 貴族気質、中庸、形式を重んずる風潮、勇気と寛大さを競い合うという独特な闘争心。これらは、戦争のもつ貴族的な面のみを構成している。しかし、仕来りや礼儀を重んずるこの風潮とても、殺人、強姦、略奪、放火を、いささかも妨げるものではなかった。騎士は、相手の騎士を捕らえようとしてそれに成功すると、すぐこの捕えられた者を乱戦の外に連れ出し、安全な所に置いた。貴族の捕虜は、利益の源だったからである。けれども、従卒や金で雇われた兵士は、殺されたり、以後役に立たなくなるよう肩輪にされた。食糧の調達は現地の住民に頼っていたので、占領した国に入るやいなや、凶悪な行為が行われないためしはなかった。農民の大量殺戮、村落への放火、家畜の略奪は、普通のことであった。都市に対して行なわれた略奪がどんなものだったかは、よく知られている。とはいえこれらの暴挙は、農民にせよ市民にせよ、勝負に関わらなかった平民に向けられていた。貴族は彼らを軽蔑していたので、怒り狂った凶暴な兵士を、わざとなすがままにしておいた。一般に、敵は粉砕するものではなく、罰するものであった。すなわち、収穫を焼き、家を焼けばよかったのである。貴族の戦争は、それなりに社会構造を反映し、またそれをあらわにしている。貴族の戦争は、貴族社会の構造を支え、またそれを強化するものだった。貴族戦争にみられるはなはだ精緻な諸規則は、同じ水準にあり同じ文化に属するもののあいだでのみ、意味をもっていた。同じ仕来りのうちに育ち、それらの仕来りを重んずることを誇る者の間でのみ、意味を持っていたのである。民衆は、その埒外にあった。といってもそれは、外国の民衆のことではない。別の習慣に生きる者は、野蛮人同様にみなされたのである。異なった階級の同国人に対してよりも、同じカーストに属する敵に対して、かえって連帯感が見出された。

 

 →自害・切腹も、結局、一定の上流階層の文化にすぎない。おそらく、民衆にはそういう発想はなかったのではないか。一億総中流社会であった記憶の残る日本人には、これが理解できないかもしれない。階層分化が進めば、また理解できるようになるのだろう。

 

P29

 未開人たちは、しばしば二種類の戦争を区別している。その一つは、同じ部族のなかの異なった氏族の間に無制限容赦なしの殲滅戦であって、これは第一の種類の戦争から生じることもあるが、ほとんどの場合、未知の種族に対してのみ行なわれる戦争である。中国においても、帝国内の藩臣の間で行なわれる貴族的な試合のほかに、国境地帯で異民族に対して行なわれる仮借なき戦争が、いつの時代にも存在した。異民族は、獣あるいは悪魔のような性質を持つものと、考えられていた。それゆえ、彼らを抹殺するためには、いかなる手段をとってもよかったのである。後にこれらの異民族は、辺境の軍隊に組み入れられるようになる。それにより、やがて戦争の性質も変化する。王国と王国とがぶつかり合う闘争は、苛酷な、血みどろな闘争へとかわる。これはもはや、名誉のための単なる抗争ではない。これは、互いに敵対する国民と国民との衝突である。そこでは、策略と暴力が用いられる。ここに至って、はじめて敵を粉砕することを求められる。殺戮は頻繁に行なわれるようになり、一種の力のモラルが生まれる。このモラルは、かつて行なわれていた騎士道的習慣に付随して現れることもあるが、またこれにとってかわって現れることもある。

 

 →そうすると、前近代の戦争はすべて貴族的な戦争であり、仕来りを重んじるのは当然で、切腹・自害事例が頻発するのは、戦争の定義として当然ということになる。

 

P30

 ここでよく考えておかなければならぬのは、貴族社会の戦争規則は一つの理想を表わしているにすぎない、ということである。これらの規則は、征服欲というものを均衡のとれたものとし、また不完全な形でしか内包していない。これらの規則は、いつも消失直前の状態にあり、これを存続させるに適した要素がない限り存在し得ない。封土所有者の独立性、不断の紛争にもかかわらず彼らをたがいに結びつけている連帯性は、貴族のあいだにみられる名誉感の偏重、遠征のために雇われた傭兵たちの貪欲さ。これらが、貴族社会の戦争規則を存続させた要素である。傭兵たちにとって、戦争は一つの請負い仕事にすぎない。それは金で雇われた人間の集団により、憎悪も戦意もないままに行なわれる。金が問題となる以上、倹約も必要となる。のちに国家が常備軍保有するようになってからは、国民の全資材を戦争に投入しなければならなくなる。戦争は国家の圧力手段にすぎない。兵員の数は、事実上、はじめから限られている。戦争続行中に兵員数を増大することは、ほとんどできない。それ故、兵力はできる限り温存せねばならぬ。訓練を積んだ軍隊は、一種の確実な資本である。この資本を、一つの戦で危険にさらしてしまうのは、狂気の沙汰と見られていた。

 〈当時、戦争はまったくの遊戯であった。そして、そこでカードを混ぜていたのは、時と偶然出会った〉。クラウゼヴィッツは、こう述べている。彼がこのような方式を書きしるした頃、鉄砲、歩兵、民主主義精神等の面で多くの進歩がなされ、それによって、これまでとはまったく別種の戦争が生まれるまでになっていた。この重要な変遷について調べるまえに、若干の時をさいて、古代中国の場合をみておきたいと思う。古代中国において、武力抗争の凶暴さを和らげるために行なわれていた試みは、人類が知る限りでの、最も忍耐強い、最も組織的な試みであった。

 

 

第二章 古代中国の戦法

P39  二 戦争の倫理

 一人の王、一人の将が、戦争をせざるを得ない立場におかれたとする。このとき彼は少なくとも、流血を見ることなくこの戦争に勝ちうるよう、すなわち、戦闘をまじえることなくこの戦争に勝てるよう、努力しなければならない。彼はそうすることにより、おのれの有能さを証しする。こうすることにより、最高の王、最高の将となることができる。そう孫子は説いている(「孫子」、第三章)。すぐれた兵法者は、一切を無用無益に損なうような危険な戦闘を行なうことなく、勝利を得ることができる。彼が原則とするところは、人は自らの過失によってこそ滅ぼされ、他者の過失によって勝者となる、ということである。勝利とは、徳と能力との当然の結果、と見られている。彼はまた、勇者、英雄、常勝不敗、といった空虚な呼び名を軽蔑する。そして、小さな過ちをおかさぬことこそ、栄誉であるとする。勝利はかならず、そこにつき従ってくるという。兵法とは、相手の士気をくじき、相手を狼狽させ、相手を倦み疲れさせるところにある。勇気のいうことには耳をかすべきではない。有能なる戦士が、ひとり壕よりおどり出でて敵に向かって挑戦し、一騎討ちを試みようとする場合には、これを押しとどめなければならぬ。以上のような勧告は、無用無益なものではまったくなかった。なぜなら、死を賭しての勇こそが、英雄的栄光とみなされ、またその根源でさえあるとされていたからである。勇猛なる戦功こそが、貴族のしるしとされていたからである。

 

P46

 もちろん、アミオが司馬、呉子孫子のものとした戦争論は、理想をあらわしたものといってよいであろう。けれども、この理想自体が重要なものであった。またそれは、一つの文化をになう広範な人々によって理想とされたものであった。公に認められ、教えられ、また広められたこの理想は、風俗に影響を与えずにはおかなかった。最強の者であることよりも、儀式にのっとっていることの方がよしとされた。孔子以来、〈人それぞれの力量は同じでない〉ということは、知らぬ者とてない事柄だったからである。弓術の競技においても同様であった。競技者の端正な態度の方が、的を射たという事実よりも重要なこととされたのである。

 哲人たちの意見もこれと同様であった。孔子によれば、〈真に偉大なる将は戦争を好むものではない。熱にもえ、復讐の念にかられて戦争をするのではない〉。孟子も同じようにいっている、〈私は完璧な仕方で戦闘を行なうことができる、と口にするような人間がもしあるとしたら、これは大罪人である〉。このような賢者は、軍事的勝利の効果について何の幻想も抱いてはいなかった。〈人々を抑圧し、武力によってこれを従える者も、その心を従えることはできない。それゆえ力というものは、たとえ如何に大きかろうとも、所詮は不十分なものである〉。別の賢者は、戦いに勝った武将たちを呪ってこういっている、〈勝者には葬礼をこそ捧げるべきである。彼のおかした殺人をおもい、涙と嗚咽をもって彼を迎えよ〉。弓術の競技において、一本の矢で七つの鎧を射通した勝者たちは、賛辞ならぬ叱責の的となった。〈汝らは国に対して大きな不名誉を与えるものだ。将来矢を射ることにより、汝らの技の被害者を死なしめることとなるのだから〉。つまるところ、技も力も、それだけでは長所とされなかったのである。

 

 →『臥薪嘗胆』の世界観とはかなり違う。実態としての戦争は苛烈であるからこそ、資源としての兵士を失うような戰は避けるべきとする兵法書ができたということか。

 

P47  三 名誉の規則

 この理想は、かなりの程度風俗のなかにまで浸透していた。古代の史書を研究する現代の歴史家は、みなそろって、紀元前八世紀から紀元前三世紀におよぶ封建時代の戦争を、中庸の精神と名誉の規律によくのっとったものとして描いている。

 H・G・クリールはこの時代の戦争を、武士道精神と作法に従った仕来りの体系、と定義している。その目的とするところは、礼儀と寛大さによって相手を恥じいらせることであった。軍団の兵員数は、実際にはさして大きなものではなかった。クリールはこれを、三千から五千のあいだとしている。武将たちは、いろいろな前兆に対しても気を配った。占いの役割は、ことに重要なものであったらしい。戦いは春に始められた。軍団は一糸乱れぬ秩序をもって移動した。部隊合流の時刻を決めるために、伝令が交換された。部隊の長たるものは、神の加護を願う祈りを唱えた。はじめの攻撃は、戦いの前途を卜するものとして重視された。とはいえ、このようなきらびやかなヒロイズムの裏では、侵略、速攻、待ち伏せ、夜襲なども行なわれていたのである。

 マルセル・グラネは、一九三六年オスロにおいて講演を行なった。その後彼が死んでしまったために、この講演は書物にまとめられずに残されたしまったが、そのあらすじを記したなかで、彼は封建時代の闘争の主要な性格をつぎのように要約している。〈⑴戦闘を一種の武芸試合にしてしまうようないくらかの規則があって、これが軍学の根幹を成している。⑵戦闘とは、たがいに礼儀を交換し、おのれの勇気を誇示しあうことである。戦を挑むにせよ降伏するにせよそれぞれの儀礼があって、その目的とするところは名誉を得ることであった。⑶威勢を示すこと。戦闘は、身代金、示談、女の交換、和睦のための酒宴等、たがいの贈答や一体化によって終わる。宗主たる王は戦闘を禁じていなかった。彼はただ規則が守られるように努め、勝者の越権をとがめているにすぎない。〉

 ここで一つ重要なことを指摘しておかなければならない。というのは、ここに挙げたような諸々の特徴は、中国の内部で行なわれた戦闘行為にしかあてはまらない、ということである。中国の法と文明から排除すべしとされた者たちや蛮族に対しては、熾烈な戦争が行なわれた。死ぬか生きるかの執拗な戦いが行なわれ、敗者は過酷な目にあわされた。この場合には、人本、慈悲、中庸といった諸規則は問題とならなかった。ここで用いられたものは、恐ろしい呪術であり、打ち消し難い呪詛であった。ローマ人が行なった捨身御供と同じように、またそれと同じ理由により、死を決意した兵士たちが敵の眼前に配置された。敵陣からよく見えるところ、なるべく敵に近く接近した彼らは、大声で叫びながら自分の喉を切った。彼らの自害は敵に不吉な運命を与え、敵を完敗に導くとされていたのである。

 このような場合を別にすれば、形式を重んじたがために、戦争が本当の戦闘とはならずに、威信を保つための試合となってしまった例が多い。このような場合、位の高い武士のみが戦った。位のより高い王侯に一礼した後、作法にかなった攻めが行なわれた。その後では、武器、食物、飲料、贈り物等が交換され、これを記念として平和時にもつづく交際が結ばれた。「司馬法」には逃げる者を百歩以上は追わぬという規則があるが、グラネはこれを事実行なわれたこととしている。そのほかにも、中庸の思想にもとづくものとして、彼が挙げている例がある。運命にすべてを任せるという点からすれば、貴族にとっては、矢を射るにしても、目を閉じて射ることこそ、ほむべきこととされていたというのである。またこの歴史家は、「礼記」の挿話にもとづいて、由緒正しい家柄の武士はとどめの矢を二矢と射ることを肯じなかった、と推論している。孔子の言葉とされているもののなかに次のようなものがあるが、そこでは右のような控えめな態度から次のような教訓を引き出している。〈人間を殺すような場合においてさえ、守るべき儀礼がある〉。そのかわりといおうか、身を勇敢にさらけ出し、旗の先端が敵の砦に触れるほど肉迫し、鞭をもって敵の門の板一枚一枚を数えることがよしとされた。敵との対決は、さほどに血なまぐさいものではなかった。むしろそれは、勇気と、挑戦と、敬意と、呪詛と、敵を困らせるような儀礼と、政略的な寛容さとを、たがいにかわし合うことであった。〈それは武力衝突というよりも、むしろ道義的価値を競う試合であった。この対決においては、名誉が競い合われたのである〉、とグラネは結んでいる。その目指すところは、〈他者をしのいで自らの徳をあらわす〉ことであった。ただ敵をしのぐというだけでなく、味方をしのぐことさえしばしば重要なこととされた、とグラネは記している。各人にとっては、自己の優越をあらわし、その高貴さと度量とをあかしすることが問題であった。王侯にとって戦争というものは、自己の立場を高め、新しい地位を獲得し、それを保持するための機会であった。

 これら武士貴族は、たがいに知己であった。平和時においては、しばしば彼らは招待主であり、友であった。戦場であいまみえたとき、彼らはたがいに尊敬の念であらわすために車を降り、兜をとって三度礼をかわした。「左伝」には、楚の国の一人の射手の話が載っている。敵に追われていたこの射手は、鹿によって車の行くてをはばまれてしまった。矢は一本しか残っていない。彼はこの矢で鹿を射て、それを仕留めた。彼とともにいた槍兵は車を降り、まだ猟の季節ではないことを詫びながら、的である晋の兵士に対してこの鹿を捧げた。そこで晋の兵士は相手の礼儀正しい態度をたたえ、追うことを断念したという。

 

P54

 古代中国は、戦争が完全に制御された時代の一つといってよいであろう。戦争が違った質のものとなり、本来の粗暴なものではなくなって、洗練された対抗行為となってしまっていたのである。次章に示すように、西欧においても、中世からフランス革命までのあいだ、これと同様のことが軍事習慣としてかなりうまく実行されていた。十八世紀には西欧でも、兵員数のあまり大きい軍団は、かさが大きいばかりで扱いにくいとされていた。実戦は、城塞の攻囲と、死傷の少ない理論的な操兵とから成り立っていた。同様にしてまた、戦闘は不可避なものではないとされ、戦闘を行わざるを得なくなるのは、えてして指揮官の落ち度によるものとされていた。戦闘は国境において、つつましやかに、礼儀をもって行なわれ、一旦戦闘行為が終わったときには、あえてこれを続けようとはしなかった。敗走する敵を追撃するものはなかったが、これは節度を守るということと、また脱走兵を出さないようにするという二つの理由によるものであった(モォリス・ド・サクスも孫子も、ひとしくこのことを述べている)。敵対して戦う双方の軍隊のなかには、憎悪も情熱もなかった。王侯の財政により補給を受けていたこれらの軍隊は、住人たちの生活と財産を尊重した。当時兵士になる者は少なく、兵士を養うには多額の金を要し、またそれを教育するには永い年月と難しい技術が必要だったので、王侯たちも兵士たちの命を粗末には扱わなかった。王侯たちが兵士たちにまず求めたことは、分裂更新や演習の際に規則正しく動くような、機械人形になることであった。これら分列行進や演習は、その複雑さと美しさにおいて、古代中国の軍隊の陣形変化に劣るものではなかった。要するに、孫子と司馬と呉子とが戦争について指摘したところのことは、ピュイゼギュール、ジョリ・ド・メーズロア、モンテククーリ、モォリス・ド・サクス等の指摘したことのなかに、ほとんどみな見出されるのである。

 これを封建時代の戦争と比較すれば、この比較はさらに意義深いものがある。欧州封建時代の戦争では、騎士たちのあいだでのいろいろな名誉を格づけることが重要な役割を果たしていたが、その一方歩兵は王侯の従者としてしか扱われていなかった。中国においてもこれと同様であって、歩兵は物の数には入らなかった。彼らはほとんど兵士としては扱われなかったのである。彼らは、従卒あるいは馬丁あるいは土工として、壕を掘ったり、馬や車輛の手入れをするのに使われていた。戦列を組む際には、無益な無駄口をきかせぬようにするために、彼らの口に枚をはませた。ヨーロッパの騎士たちは、戦争において彼らを補助する平民たちに対して、少なからぬ侮蔑の念をいだいていたのである。

 

P57

 封建制度の没落は、貴族的秩序と宮廷的な諸価値の没落をまねいた。ここで戦争はその性質を変えた。それは、仮借なき残酷なものとなった。戦争は、敵を破壊しつくすものとなった。虜をとらえ、それを種に身代金を取り、それによってそのつぎの戦闘に備える、といったことはなされなくなった。捕えられた者はみな殺された。勝つことがあらゆる闘争の目的となり、勇敢にして公正かつ大様な戦いをして、それによって威光や貴族の身分を得ようとする者はなくなった。紳士の本分たる名誉と節度を重んずる規則はすたれ、権力の意志と国民的情熱とがこれにとってかわったのである。

 

 →身代金をとっている状態は、現在でいえば、「パキスタンタリバーン運動」のようなテロ組織?の活動と同じか。

 

P58

 かつて、武器を取ることを生業とすることは、名誉を得るための試練であった。そしてそれは、名誉と勇気をもって武器を取り扱うことのできる、名誉ある男のみに許されることであった。重臣たちのみが対決するこのような戦いには、女子供や老人や病人は、はじめから除外されていた。資格のない外国人や平民も、そこから除外されていた。ところがいまや、執拗にして限りを知らぬものとなった戦争は、何びとの命も容赦せぬものとなった。〈力を持ちたくわえているものは、たとえ老人といえどもみな敵である。……まえに与えた傷が死に至らなかったからといって、今度傷つけてはならないという法がどこにあろうか〉。この言葉は、戦争というものが変化したその度合いを、よく表していると思う。

 西欧においても十八世紀の末以来、不思議なほどあい似た変化がおこった。決定的な改革が中国の場合とほぼ同様の仕方で行なわれ、その結果として、封建的特権階級の支配する位階制度はくずれ、そのかわりに、強い規制力をもつ国家が現れ、市民が国民行政に参画するようになった。二千年という時を隔てて、地球の両側において、同種の変革が行なわれたわけである。これら二つの変革は、同じようないくつかの要求に答えて行なわれたものであり、ともに同様の結果をもたらすものであった。両者の場合とも、民衆がいろいろな権利を獲得して平等なものとなったという事実は、戦争の様式をそれまでにはなかった激しいものにしてゆく、第一段階であったようにみえる。事実、民衆が戦争に参加するようになると、必然的に戦争は遊戯であることを止め、武芸試合であることを止め、分列行進であることを止めねばならなかった。戦争は、真剣なものになっていったのである。

 

 →切腹は、戦争を終わらせるときの儀礼・仕来りのようなもので、手続きに従っただけ。自身の暮らしている「界」の約束事に従っただけで、ルールが自分のなかで無意識的に内在化されているのではないか。勇気や名誉を示す貴族的な戦争の側面が残っている。身分の低い人間が自害することはなく、大将クラスの人間が切腹するわけだから、やはり自害には階層性があると言える。