周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

盛本昌広著書

  盛本昌広『中近世の山野河海と資源管理』(岩田書院、2009年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 山野河海の資源維持

P80

 山野河海という領域では様々な生産活動が行なわれたが、資源の確保や維持をめぐり相論が繰り返されてきた。その過程で乱伐・放牧・乱獲・過度の藻草の繁茂が資源の枯渇を招くという認識を生み、資源維持を目的とする方策が行なわれてきた。その例として、伐採の禁止、放牧地の囲い込み、新規漁法や乱獲の禁止といった水産生物の生育の助長などがある。また、生産活動への従事の中で、自然条件に応じて動植物が棲み分けを行ない、そうした自然秩序を考察することが資源維持を可能にする認識も生じていた。海の場合、浜辺から磯→白洲→藻通→沖の順序、湖の場合は水深に応じて水産動植物の棲み分けが行なわれ、その棲み分けの在り方に照応して用益の在り方も異なっていた。海の場合では磯・白洲・藻通・沖、湖の場合は湖岸の藻草の採取権と湖上の漁業では、それぞれ用益権の主体が異なっていた。その一方で、用益権を獲得するために領主や他の村落に対して公事や対価を納入して、資源の確保を行なっていた。

 しかし、村落が常に資源維持を行なったとは言えず、引き続き乱伐・乱獲が行なわれ、深刻な問題が発生した。近世以降、植林・養殖といった人為的な手を加えて、自然の再生産を図る政策が行なわれたことは知られているが、こうした政策が当時の自然状況や自然認識にどうのように規定されていたかも重要である。また、近代以降の沖合・遠洋漁業も、水産資源の枯渇に対応したものとも考えられる。近代以降は外国にある資源を確保する指向性も生まれ、問題は国内のみでなく、世界的な広がりを持つに至った。

 こうした資源に関する問題では、都市と村落の関係に留意する必要がある。都市で消費される大量の物資は村落から調達されるものであり、都市で消費される大量の物資は村落から調達されるものであり、特に京都・鎌倉・江戸のような政権の所在地である都市には全国から物が集められた。その他、地方の小都市においても程度の差はあれ、同様の事態が発生していたと思われる。中世以降、都市がますます肥大化していくにつれて、村落と都市の関係は密接さを増し、資源利用と維持の問題は深刻な事態を迎えていく。各時代ごとの村落と都市の関係を、この点から位置づけ流必要もある。

 

 

第二章 北条領国における竹木資源管理と掃除

P88

 中世においては、現代以上に植物資源の利用度は高かった。軍事資財・建築資財・燃料・家具・日常用具に使用するため、大量の木が伐採され、山の荒廃を招いたことも多かった。また、台風などによる山の荒廃は中世社会に深刻な影響をもたらしたが、こうした状況に対して権力や村がいかなる対応をしたかを検討することにする。

 村落には燃料や肥料などを採取するための山が多くの場合付属し、寺には寺山と呼ばれる山があり、境内地として保護の対象となっていた。(中略)

 

P89

 従来、こうした文言を持つ禁制が寺に対して出されたのは、軍事用の竹木を戦国大名側が確保する目的で竹木の伐採を禁止したものと考えられてきた。(中略)このように、戦争の遂行には大量の竹木が必要であり、竹木の伐採を禁止したのは一面では事実である。しかし、竹木伐採禁止文言を持つ禁制が、すべて上からの強制によって出されたわけではない。

 峰岸純夫は従来、上意下達文書として捉えられてきた禁制が、寺や住民の主体的な要求によって交付されたことを明らかにしている。この指摘からすれば、竹木伐採禁止文言もしたからの要求があったと考えられる。

 

P104

 このように、神社・城・都市が戦国期の関東における掃除の対象であった。これらは、地域を代表すると言う意味をもつ点で共通する。こうした場は掃除をすることで、常に清められ綺麗であることは、領国の在り方や賢慮奥の状態を最もよく目に見える形で現したものであり、場の清浄性を不断に保つためには継続的に掃除が励行されなければならなかった。そして、武士や百姓が掃除役を負担したのである。

 

 以上、主に戦国期の関東における自然環境・人為的環境に権力が果たした役割を、在地の動きに留意しつつ検討した。戦国という時代背景が軍事的な要素を肥大化させ、在地において竹木伐採の頻発という事態をもたらした。しかし、竹木伐採は必ずしも軍事のみではなく、村から市場へ出す商品のための伐採という要素もあった。こうした動きのなかで一定の枠内ではあるが、村落は竹木伐採文言をもつ禁制を獲得し、山林資源を守ろうとした。一方、戦国大名は禁制や竹木伐採を免許する文書を出すことによって、在地にいる給人たちの山野への支配を制限して山野に対する支配を強めることができた。また、自然のままに任すのではなく、人が手を加えたりして植林を行ない、その行為が大名によって認められ山林に対する所有権を強化することにもなった。また、神社・城のような特定の施設においては、掃除の励行が役として民衆・武士によって負担され、人為的な環境整備が行なわれた。こうした掃除の励行によって、特定の施設が美しく飾り立てられることが領内の繁栄を目で見える形で示すことになり、大名の支配を安定化させる一つの要因ともなった。様々な形で行なわれた環境整備が誰の手によって遂行されたかは、さらに追求されるべき課題である。

 

 

第三章 戦国期関東における山野利用と植林

P113

 北条氏の御用の際に虎の印判状を発給するのは魚介や竹木の挑発の際も行なわれている一般的なやり方であり、この場合もそれを踏襲している。杉と檜はまっすぐ育つという特性により、長い柱に利用できるため建築資財として有用性が高く、寺社の造営、城郭や屋敷の建設に必要不可欠なものであった。もちろん、建築資財は柱のみでなく、建造物のさまざまな箇所において板材や加工品が使用され、それらにも杉や檜は使用された。

 杉や檜は針葉樹の代表で、近世は植林が盛んに行なわれたことが知られるが、後述するように、中世においても杉の植林が行われていた。

 

P116

 ところで、この立野とはどのような植生であったのだろうか。「シバ葉」という表現から刈った柴には葉がついており、晩秋にさしかかり、枯れ葉がついた柴を刈り、また落ち葉も掻いたのだろう。(中略)柴とは一般には小さな雑木を意味し、この場合も蚊まで切れるくらいの太さの枝木の雑木が生えていたようである。また、草刈りも行なっているので、これらの立野は主として草原で、その中に小木が混じっている植生であったと考えられる。一般に遷移は草原から山林に進行するが、この立野では毎年柴刈や草刈が行なわれるため、遷移の進行が抑えられ、草原の植生が維持されていたのである。

 このように、直轄林や立野には山守・山奉行人・野守が戦国大名や寺院によって設定され、山林資源の管理を行なっていた。山守や山奉行は日常的には伐採・材木の加工を行ない、多数いる山造(伐採専業者、p113)や人夫の統括者であり、山の様子を知悉しており、植林などの多様な樹木に関する知識をもっていたと思われる。野守も侵入者を監視するなど立野を管理し、刈り取った柴や葉を預かって、領主の必要に応じて、差し出すという機能をもっていた。

 

P118

 こうした日常的に必要な物資を調達し、調理を行なう家政機関を北条氏の場合は「御台所」、その奉行人を「台所奉行」と呼び、南条・大草氏が台所奉行、その配下に久保・内村氏がいたことが佐藤博信によって指摘されている。同様の家政機関は他大名にも存在し、それは中居と呼ばれていた。

 

P120

 男柱が栗に指定されたのは、塀の基礎をなす木として、頑丈な木が求められたためと思われる。栗は堅く長持ちし、腐りにくい性質があり、その特性を生かして、かつては鉄道の枕木などに利用されていた。

 

P122

 ところで、前述の尺木とはいかなる木を指すのだろうか。前述の朱印状(『戦』815号)には栗木は廻と長さ朗報が記されていたが、尺木は長さのみで廻の規定がなく、尺木の場合は廻の寸法が自明であったことを意味する。(中略)この朱印状(『戦』1131号)には、尺木に関しては「廻一尺木、何之山ニても見立次第可剪事」とあり、廻が一尺の木であることが明らかであり、それゆえ尺木と呼ばれたのであろう。

 

P124 三 植林と移植

 伐採が過度に行なわれると山林資源が枯渇するのは明らかであり、この点は北条氏など大名も認識しており、従来から指摘されているように、「はやしたて」が行なわれていたが、必ずしも「はやしたて」の内容が明らかになっているとは言えない。もちろん「はやし」の内容はひとつではなく、ケースにより多様な方法が採用されたと考えられる。(中略)

 栗は成長が早いことで知られ、林の育成には好都合である。深井氏は栗を中心にした植林と北条氏政の証文によって保証された伐採禁止を併用して、林の育成を行なっていたと考えられる。栗は薪炭にもなり、前述したように、硬質なため堀柱(尺木)などにも利用され、実は食糧となる有用な木であった。なお、中世の関東の史料に「新林」という文言が見られるが、これも何らかの手段で育成を行なって、新たに形成された林を指すと思われる。

 

P126

 さて、先に触れた永禄八年(1565)の『長楽寺永禄日記』には植林に関する記事が多数あり、植林の実態を知るうえで重要である。一口に植林といっても様々な方法があり、日記によれば、①種を蒔く、②苗木の育成→移植、③別の場所からの移植などがある。また、植林の対象となった木には、杉・サイカチ・アスナロ・槻木(ケヤキ)・漆・ヌデ・コナラがある。植林の目的も様々である。

 まず、種を蒔くのが最も簡単な方法である。九月二十六日条には「境之新宿之北ニ、コナラノミヲウヘサス」とあり、コナラの実を新宿の北側に植えたことがわかる。一般に新宿は戦国時代に各地に多く生まれた一種の町場的空間で、そこを拠点として周辺の土地の開発を行なっていたが、この新宿も同様の性格をもっていたと考えらえる。では、なぜコナラの植林を行なったのだろうか。上野国は上州名物空っ風と呼ばれるように、冬季の風が強く、実際一月九日条には「此日ハ大風ニテ、ホコリノ立コト無尋常」とある。冬季の風は越後から山越えで吹き下ろしてくる北風であり、ここでは北側に蒔いているので、防風林としての意味があったと考えられる。また、コナラの木は薪炭、落ち葉は肥料として利用されるが、平野部にある新宿の周囲には林が乏しかったと思われ、薪炭や肥料を供給する林として期待されたのだろう。

 

P131

 このように、由良氏は長楽寺に杉やサイカチの苗木を植えさせ、大規模な植林を行なっていた。苗木育成を行なっていたのは長楽寺や周辺の小領主の屋敷であり、彼らは苗木育成に関する知識や技術をもち、特に長楽寺は取木や挿し木も行なっており、その知識は周辺の小領主にも共有されていたと思われる。その知識を最初に獲得したのが長楽寺なのか小領主なのかは不明だが、中世において寺はさまざまな知識を集積し、それを広めるセンター的役割を果たしており、植林に関する知識を蓄積していたことは十分に考えられる。由良氏はこうした寺や小領主の知識や技術を取り込み、苗木の徴発を行なうことで、植林を実現していたと言えよう。他に由良氏は長楽寺に接木を行なわせており、これも寺がもつ知識の取り込みである。

 

  おわりに

P132

 大名の直轄林は目的により大きく二つに分かれ、一つは軍事資財や建築資財の供給地となる林で、主に杉・檜・樅・栂といった針葉樹であった。もう一つは日常的に台所や屋敷内で使用する薪炭の供給地たる林であり、中居によって管理され立山となっているケースも見られ、植生的には関東における主要な薪炭林であるコナラ・クヌギ・栗林であったと考えられる。もちろん、この二つの形態は画然として分けられるわけではなく、薪炭林が軍需や建築資財用に供給されることもあった。城郭建築や大きな戦争の際には、直轄林のみで資財を確保するのは不可能であり、その際には両国規模で挑発がなされた。その供給地は寺社境内の林、給人領内の林、村落内の林、小領主や百姓の屋敷内の林が主であったが、商人を介して確保させることもあった。徴発の論理は、公儀を体現した大名は領国内のすべての資源を利用できるというものであり、天皇のもっていた山野河海の領有権に源泉があり、王土思想とともに密接な関連をもっていたと推測される。

 徴発にあたっては、木の寸法や種類を指定することが一般的であり、用途に応じてふさわしい木が選択された。木は葉・実・根などにもそれぞれ有用性があり、そうした木の特性が最大限に利用されていた。本章では一部しか触れられなかったが、竹も有用性が高く、軍需・建築資財として重要であり、やはり種類や寸法が細かく指定されていた。一方、こうした徴発ではなく、購入も同時に行なわれており、材木や板・竹などの流通、流通の前提をなす寸法の規格化の内容も解明する必要がある。

 徴発の命令により、必然的に伐採が行なわれるが、その跡は裸地となり、いわゆる二次遷移が開始されることになる。裸地を自然のまま放置しておけば、一般的な二次林が形成されるが、そこに人為的な植林が行なわれると、普通の遷移とは異なる林が形成される。長楽寺の事例では杉の植林が行なわれているが、花粉分析で明らかにされた中世後期の杉の増加は、植林によるものと見られる。慶長二年(1597)に長狭の大山寺(鴨川市)は杉の苗木を購入しており、この時期には苗木の売買も行なわれていていたことがわかり、杉の植林の流星が苗木の商品化をもたらしたと言えよう。

 植林に関しては、長楽寺やその周辺では杉やサイカチなどの苗木の育成が盛んに行なわれており、寺内ではさまざまな木が植林されていた。植林の方法は種蒔き・苗木の移植・成木の移植が組み合わされて行なわれており、時期は一月から三月であり、春から夏にかけての生長期の直前に行なわれていたことが判明する。そして、こうした苗木は生長後に移植されるというサイクルになっており、苗木は取木や挿木によって再生産され、不断に苗木が供給されるシステムになっていた。こうした苗木の移植などにより、大量の植林が行なわれ、従来の植生が一変した場所も多かったと推測され、戦国時代が植生に与えた影響は大きかった。時期的な植生の変化とその要因、植林の知識や技術に関しては、未解明な部分も多く、さまざまな課題が残されていると言えよう。

 →寺には育苗業者の側面もあった。寺に中世由来(樹齢500年クラス)の巨木・巨樹が多いのはそのせいか。神社にも巨木・巨樹は多いが、これも単に御神木だという理由以外に、育苗業をしていたからかもしれない。

 

 

第四章 中世の鎌倉と山林資源

P143

 このように、松林は鎌倉のみでなく、各地で中世以降増加しているが、中世における松の増加要因を解明する必要がある。

 植物学的に言えば、主要な松には黒松・赤松がある。黒松は海岸部や海岸に近い山に生え、他の樹木が生えにくい砂地・岩地や砂丘上でも生長し、潮風への耐性が強い点に特徴があり、現在海岸部に生えている松はほとんどが黒松である。中世の絵巻物でも、松島や天の橋立といった、後に日本三景として位置づけられたところには多くの松が描かれているが、それらは実際には黒松である。現在に至るまで日本的風景の代表とされる海岸部の松林は、砂地のような痩せ地でも生える黒松の性質により形成されたものと言える。

 一方、赤松は痩せた尾根や岩山などでも生長し、比較的高地にも生える。赤松は陽樹であり、日光が直接照りつける場所に生え、特に伐採などの撹乱により、樹木が取り払われた場所にいち早く生え始める特性があり、一般に先駆種と呼ばれている。従来の森林が伐採などにより消滅したのちに成立する林を二次林と呼ぶが、赤松は二次林の代表的なものであり、赤松林の成立はそれ以前の伐採行為の存在を暗示する。ちなみに、赤松は次第に樹皮がむけ表面が赤くなるので、この名がある。このように、黒松・赤松はそれぞれ特性があり、鎌倉や関東における松林の増加はこうした特性と密接に関連している。

 

P146

 こうした小松の移植は毎年のように行なわれているが(『看聞日記』)、その時期はほとんどが二月であり、この時期が移植に最適の時期と認識されていた。植物は一般的に春から夏にかけて生長するので、生長直前の二月に移植を行なった方がその後の成長もスムーズにいくため、二月という時期が選択されていたと考えられる。この日記には九月ごろの松茸狩りの記事も散見し、伏見周辺の山は松が多かったことがわかる。ちなみに、伏見は内陸部であり、松茸は赤松に生えるので、京周辺の松は赤松である。

 

P148

 松明や薪としての松は、砂丘上や周囲の山に生えている赤松・黒松であったと考えられる。鎌倉市中に住む人にとって、近隣にある松の利用は容易であり、暇があるときに松明を採取していたと考えられる。また、松明が商品化していた可能性が高いが、商品化を示す史料自体はなく、この点は不明である。この点はともあれ、松明や薪としての松の利用は、鎌倉周辺の松林をさらに貧弱化させたと考えられる。その一方で、八幡宮境内地の松林は維持されているが、それは境内地であるがゆえに、俗人の立ち入りや利用が禁止されていたことに基づく。八幡宮境内地における伐採の禁止命令は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、度重なり出されている。

 

P149

 これにより、杉よりも檜がランクが上とわかり、針葉樹は松・杉・檜の順でランク付けがなされていたと言えよう。(中略)サワラはブナ帯という比較的高地に生育し、現在では中部地方や北関東の山地に分布しているので、鎌倉周辺で採れる木ではなく、遠隔地で伐採されていたことになる。鎌倉に運びやすい地域としては、富士山周辺などの駿河遠江の山地の可能性がある。このように、建築用の材木には主に針葉樹が使用され、ランク的には低かったものの、松も使用されていた。

 

P155 三 燃料と山林資源

 この法令(『吾妻鏡』建長五年(1253)十月十一日条)でわかることは、まず、炭・薪や蒭が商人による売買の対象になっていることである。萱木は一般に屋根葺に使用されるが、燃料にも転用されていた可能性がある。藁や糠は「馬蒭」と最初にあるように、馬の飼料用であるが、藁も燃料として使われていたかもしれない。また、薪以外はすべて駄が単位となっているので、馬で鎌倉に持ち込まれていたことがわかる。鎌倉の周辺の村では炭・薪の生産、萱の採取が行なわれ、稲作の付随品である藁・糠とともに商品となっていた。これらは和賀江津に船で持ち込まれる場合もあったと考えられる。一方、同じ一駄でも炭が他より倍の値段となっているが、これは炭の方が焼く手間がかかるため高額になっていると考えられる。薪は駄が単位となっていないが、やはり他の商品と同じく馬によって運ばれたと考えられる。一般に一束が十把なので、この記載は束と把が逆で、三十把が三束にあたり、結局一駄が三束で一〇〇文という意味かもしれない。この点はともあれ、一駄が一〇〇文なら炭と同じ値段となる。これは薪が重いため、同じ一駄でも藁や糠のような軽量な商品より高価であったことが考えられる。

 

P158

 前述したように松が薪として使用されたとも考えられるが、薪炭として最もふさわしいのは、コナラ・クヌギ・栗である。コナラ・クヌギは伐採しても根から株が出て自然に再生する性質があり(一般に萌芽林とも呼ばれる)、近世・近代にはこの性質を利用し、薪炭林として維持されていた。毎年三〇〇駄という薪を継続して納入するには、松では伐採が過度に行なわれると枯渇する危険性があるので、再生可能なコナラ・クヌギが有利であり、十二所村の山林もこうした樹種であったと考えられる。十二所村のような鎌倉の周縁部の山林と鎌倉市中周辺の山林では植生が異なっていたとも考えられ、こうした場所により植生の相違を明らかにする必要がある。

 

P159

 立山とは寺社や領主が設定した直轄林で、その内部の利用は制限または禁止されていた。一般に立山には利用を監視する山守・野守が設置されているが、ここでは寺領百姓が欠落したので、苅取が行なわれたと述べているので、寺領の百姓は山守の役割を果たしていたと考えられる。立山といえども伐採や利用が完全に禁止されていたとは限らず、ここでは寺領百姓は一定の用益を認められる代償として、山守的役割を果たしていたと考えられる。用益を完全に禁止することは、草木が生え放題になり、いざ利用するときには困難となり、植生の維持の面でも有害であり、一定の用益を認め、管理を行なう方が得策であるからである。ちなみにこの立山覚園寺(鎌倉の二階堂にある真言律宗寺院)の背後の山を指すと思われる。天正十九年十一月の徳川家康朱印状では、鎌倉之内で七貫一〇〇文が与えられていて、これが寺領百姓の所有した田畠の総体であり、これに加えて寺の立山が存在したのだろう。

 

P160 おわりに

 鎌倉中期以降には鎌倉は次第に松で覆われるようになったが、こうした植生遷移の進行とその原因を簡単にまとめておく。鎌倉初期には極相林である照葉樹、他には杉が多かったが、その伐採や利用により、次第に二次林としてのコナラや松が増加していった。杉は木製品や建築資材として利用され、特に初期には鶴岡八幡宮勝長寿院永福寺、将軍御所、それに加えて御家人屋敷や町人の家が急速に造られ、建築ラッシュが始まった時期であり、杉野需要も多かった。また、都市的発展により、火事も頻発し、これも杉の伐採に拍車をかけたと思われる。そして、薪炭として最適であるコナラの過度の利用により、その跡が松に置き換わっていく。これにより、鎌倉中期以降には薪の原料が栗・コナラ・クヌギから松へと転換し、同時に外部から薪炭の移入が増加していった。銭で薪炭を購入する人々が増加し、鎌倉幕府は価格統制を図ったが失敗した。そして、薪炭の生産地も次第に遠隔地に及び、有力な寺社や領主は自領から上納を行なわせる体制を確立していった。

 松林は自然状態のままでは、次第に落葉樹さらに照葉樹に遷移していく。だが、松のままで継続したのは、松や下草が盛んに利用されたことを意味する。史料的には明らかではないが、松葉も火力が強いため、燃料として使用された可能性がある。本章では検討できなかったが、松は祝儀の意味も強固であり、そうした中世の人々がもっていたイメージが、松の利用や植林・植生にも多大な影響を与えていたと考えられる。

 一方、材木に関しては、得宗は山林資源の豊富な場所を所領とし、給主を補任して管理を行なわせ、材木売却により多大な利潤をあげていたと考えられる。また、円覚寺得宗から分与された亀山郷から薪炭や材木を調達すると同時に、売却を行なっていたのだろう。狩野山や富士山麓では戦国時代でも材木が採取されていたので、伐採によって山林資源が枯渇したわけではなく、一定度の植生が維持されていた。維持には植林が必要だが、戦国時代には確実に植林が行われており、それがいつまで遡るかが問題となる。

 これに対して、鎌倉周辺のような山林資源が過度に利用されている場所では、松の植生が維持、さらにははげ山となる遷移的には対抗現象が起きていたと思われる。『吾妻鏡』によれば、鎌倉初期には洪水の記事はないが、中期以降に洪水の記事が見られるようになる。たとえば、寛元二年(1244)十一月三日条には「終日雨降、丑刻大洪水、道路悉為水底、家屋流失、資財粉散云々、近年無比類」とあり、大洪水が起きていた。大雨自体は程度の差はあれ、いつの時代でも起きるが、鎌倉中期以降に洪水が頻発したのは、松が増加したのと軌を一にしている。また、『吾妻鏡』建長八年(1256)八月六日条に、「甚雨大風、山岳大頽毀」とあるように、崖崩れの発生も山の保水力の低下を示し、松などの木が疎らに生えている状況を暗示する。さらに、『吾妻鏡』宝治元年(1247)九月二日条に「大風猶不休、樹木皆吹抜」とあるように、大風により大規模な倒木が発生しているが、疎林化の進行により、拡大したと考えられる。倒木の跡には先駆的樹種である松が生えるのが一般的であり、樹木の伐採と大風・大雨という自然現象があいまって、さらに松への遷移が進行し、それとともに洪水の頻発を招いたのだろう。

 

 

第五章 中近世移行期における野銭の成立

P170

 戦国時代には大名や領主・寺社が山野河海領域を占有し、直轄下に置く傾向が強まり、こうした場所は立野・立山・立川・立海と呼ばれていた。大名や領主による立野・立山の設定の直接的要因は、城郭・屋敷建築や武器など軍事的要請による。立野・立山などは大名や領主・寺社の占有状態に置かれたが、下草刈などは事実上許可され、農民による利用権は部分的に認められていた。立川・立海は川や海を禁猟区としたもので、大名や領主が直接漁を行なったり、漁を強制させて、魚介類を独占的に獲得していた。

 

  一 山野利用の公事の名称と採取地

 戦国時代における山野利用に関する公事の名称としては、野手・野銭・野札銭・野地山年貢・草銭・山手・山札銭・かやの銭などの名称がある。野手・山手は鎌倉時代から見られるが、利用地+手という名称になっている点が注目される。網野善彦伊予国弓削島庄関係の史料に現れる塩手米・麦手米・銭手米に注目し、「A手B」はBを渡して、代わりにAを受け取ることを意味すると指摘している。野手・山手の手も同様の意味で、銭や米を支払って、山野を利用することになる。同じ手が使われる関手は銭を支払って関所を通過するもので、交換対象が利用権になっている点で、野手・山手と本質的には同様の意味である。

 野札銭・山札銭は山野を理由するにあたり、銭を納めて代わりに札を受け取ることから生まれた名称であろう。

 

P176 野銭と知行制

 野銭には二つの意味がある。一つは利用者が占有主体に対して、納入するものである。占有主体は戦国大名、家臣、地侍や上級百姓、寺社、村があり、それぞれ占有の程度が異なる。立野・立山は占有状況の強さを端的に示すが、占有主体は戦国大名などさまざまである。もう一つは、戦国大名から家臣への充行のなかに野銭が含まれる場合である。一般の充行は田畠の年貢高を一定の基準で貫高に換算したものだが、戦国時代にはこれとは別に野銭が充行われる事例がある。

 

P185 おわりに

 山野利用に関する公事には野銭・野手・山手などさまざまな名称があり、札などの発給による許可を受ける場合もあった。札は近世・近代には鑑札と呼ばれ、主として営業許可証として用いられたが、中世にも供御人に対して、資格証明というべき札が発給されている。こうした鑑札の一種として、山野利用許可証としての札もあったと考えられる。山野の利用目的は大名・領主、寺社、百姓によって異なり、主として大名・領主は軍事、寺社は屋根の葺替えや燃料、百姓は肥料や燃料であり、その違いが同一の場における採取する植物の違いを生んだ。そのため、同一の場における重層的な利用が可能な場合もあり、それが立野・立山、さらには入会を生む要因ともなった。寺社に対しては、大名が特別な措置を取り、大名や給主知行の山野利用を許可したり、屋根葺きの材料として必要な萱を現物で支給することもあった。

 戦国時代の知行充行では貫高に加えて、山野河海を別に充行うこともあったが、それは戦国大名による山野河海領域の直轄領化と表裏の関係にあった。戦国大名は自らを公儀と自称し、公儀の論理を前面に打ち出して、山野河海支配を正当化していた。こうした指向性は豊臣政権下でさらに進行し、太閤検地による公事の再編成、「小成物」の把握が行われて、検地目録に「小成物」が明記され、慶長期には小物成の名称も史料に出現する。ただし、「小成物」から小物成への変化の理由は不明である。そして、江戸幕府体制下の関東では、幕領はもちろん、旗本領でも小物成は原則として幕府が収取している。

 野銭は充行の対象となると同時に、百姓が野の利用の代用として上納するものとなった。野銭の納入は大名や給人により野の利用が認定されたことを意味したが、野の利用は安定的なものではなく、野銭の増分を申請して、野の利用を奪取する動きも存在した。野の利用をめぐる競合は相論の頻発を招き、大名権力による裁定が要請されたが、その過程で野銭の納入は一般化した。こうした状況で、山野の面積や領域、境界がさまざまな方法で定められていった。

 

 

第六章 中世の山守

P194

 以上、『万葉集』に見える山守・野守に検討を加えたが、奈良時代において、山守は天皇や神社によって各地に設定されており、彼らは標を結んで山の領域を定め、普段に山を廻って監視活動を行なっていたのである。

 

P202

 彼ら(各郷に置かれた宿直人)の活動の中で特に問題になっているのが、野火であった。野火は光明山(木津市)の周囲で春になると行われていたが、その目的はなんであったのだろうか。一般的には野火は焼畑目的であるが、この場合は「皆悉焼畢」とある。焼畑はすべてを焼くのではなく、一定の場所を焼き、以前に使用した畑は焼かないで放置し、草や木が生えるに任せておくのが普通である。ここでは「すべてを焼いた」と述べているので、牛馬の採草地を維持する目的で行なわれたと考えられる。採草地の場合は春に枯れ草を焼くことで、新しい草の発芽・生育を促し、同時に草中に潜む害虫を駆除する目的がある。こうして火入れは、現在でも阿蘇山の牧草地などで行なわれている。

 

P210

 山守職は領主が山を守るために特定の者を任命する場合もあったが、在地側からの申請に基づき、任命する場合もあり、同じ山守職でも任命の経緯が異なることがあった点に注意すべきであろう。一つの荘園内には多くの山があり、山ごとに所有者が存在しており、同一の荘園の中でも山守職が任命されている山とされていない山が混在し、所有権や占有権の内実が異なっていた。

 

P211

 石清水八幡宮は各地に別宮と呼ばれる末社を設定し、それを梃子にして社領の荘園を獲得していた。それゆえ、別宮は荘園の中心として象徴的な意味を持っていた。また、一般的に境内地の林は神社を荘厳するための景観であり、そうした点でも保護される必要があった。ところが、地頭が勝手に境内地の林を伐採したため、相論となり、その結果伐採が禁止され、山守を設置することになったのである。神社の境内地は特別に林が保護されているため、良木が残りやすく、地頭など外部のものによる伐採の対象になりやすかった。また、神社では杉が神が降臨する木と認識されており、一般的に杉の木が多かったと思われるが、杉は建築資財として最も利用される木であり、他者から伐採への欲望を感じる木でもあった。

 →鎌倉時代でも、聖域の木々に対する畏敬の念を、すべての人間がもっていたわけではない。神仏への信仰心や畏敬よりも、実利を優先することは普通にあった。タブー意識は説話など、寺社側の史料に現れる言説であって、地頭側の史料では現れにくいのかもしれない。

 

 四 山守の多様性と両義性

P220

 史料上では山守は僧侶と在地の有力者の場合があり、寺領や神社領に設置される事例が多く見られる。東国の事例では下野国の樺崎寺や香取神社に、山守が設置されていたことが確認できる。寺や神社の場合は境内地の聖地性を維持することを主張して、他からの伐採行為などを防止し、聖地性の論理を境内地のみではなく周辺の山さらには荘園全体に拡大して、山林の維持を図っていた。中でも葛川明王院が霊地の論理を駆使していたことは有名である。石清水八幡宮の場合は、和与状で社頭林を「可専社頭庄厳」と述べている(第3節5)。「庄厳「(荘厳)とは飾り立てることを意味し、神社は山林で飾られるべきという認識が存在していた。神社境内の木は神木と呼ばれ、不可侵の存在とされていた。神木は神がそれに宿っていたり、神が降臨してくる木と認識され、帋と同様に扱われ、同時に神社周辺を飾り立てる装置としても機能していた。神木を伐採することに対する禁忌の意識は中世史料にしばしば見られ、特別な理由のないかぎり伐採は行なわれなかった。こうした神木の論理は、本社のみでなく末社や所有する荘園にも適用され、それを守るために山守が設置されたのである。神社の場合は神人が山守になることが多かったと見られ、黄衣のように神社ごとに定められている衣装を着て、自らが神人であることを他者に知らせ、山を巡回していた。

 寺院の場合も神社と論理的には同様であり、境内地は寺山とされ、寺領荘園の山林にも拡大された。これに加えて殺生禁断という論理が前面に出されることも多かった。言うまでもなく、殺生禁断には木の伐採も含まれ、境内の木は神社と同様に寺を荘厳する機能を果たしていた。この論理が明確に現れているのが勝尾寺の場合であり(第3節2)、四至内における伐木殺生を禁じ、山守が設置されていた。寺院の境内地における山守は基本的には僧侶であったと考えられるが、そのなかでも下級の僧であったろう。

 一方、在地の有力者を山守に任命する場合も多い。彼らは日常的に燃料や肥料の採取のために山野を利用しており、山野の状況を知り尽くしているので、山守の職務である山野の管理を行わせるのにふさわしい。山守の基本的な職務は勝手な伐採が行なわれないように監視することだが、まったく手をつけないと、木が生えすぎたり、下草や下木が繁茂しすぎたりして、それも有害となる。また、風や樹勢の衰えなどにより木が倒れることもあり、それらの処理も必要であった。つまり、木や下草・下木を一定度伐採することが山野の維持につながることであり、山守はそうした管理も行なっていたと考える。

 山科東庄では領主直轄の山が銭の納入により、伐採を許可されていたが、その際の伐採や納入する銭の差配を山守衆が行なっていた。また、明王院では山守が倒木を処理し、同時に倒木を獲得するための銭の納入を差配していた。このように山守はいろいろな職務を果たしていたが、そのためには山野の状況を知悉していることが必要であり、地元の有力者はその能力をもち、しかも下級の百姓に対して優越する立場にあったので、彼らによる山野利用を抑制することも可能であった。領主は在地の有力者の村落内での地位や彼らがもつ能力を利用して、直轄の山野や林の管理を行わせたと考えられる。

 しかし、山守は僧や神人、在地有力者のみでなく、特殊な身分に属するものや特別な能力をもつものにより担われることもあったと見られる。そうした山守とは、いかなる人物であったのだろうか。室町期に記された『貞観政略格式目』という書物は、僧侶の官位や位牌の書き方を記したものだが、差別戒名の手引書というべきものとされている。これには「三家ノ者」の代表として藁覆作・坪立・絃差、その類例として渡守・山守・草履作・結筆・墨子・傾城・癩者・伯楽が挙げられている。これらはすべて一種の職人とも言うべきものだが、石井進は各々に検討を加え、程度の差はあれ中世には卑賤視されていた人々と位置づけている。さらに近世の穢多頭であった『弾左衛門由緒書』にも、その配下として山守など多くの職人が列記されている点に注目している。また石井は、その中で坪立・山守・墨子が卑賤視されていたかは明らかではないとも述べている。とはいえ、他の職人のほとんどが卑賤視される存在であった以上、山守も同様に卑賤視されていた可能性は高い。この点を考えるうえで、参考になるのが次の結城氏新法度第一〇〇条である。

 人の立山・立野、其山廻・野廻、其所走廻候一類の外、野山にて人をあやしめ候はん事不可叶、慥山見候などゝかづけ、野山にひき籠、ばくちか追懸いたすべく候間、別人野山に綺ふべからず。

 内容は次のようなものである。立山や立野で山廻・野廻やそれに類する役目を果たす者以外が、野山で人を見咎めてはならない。ところが、そうした者が山を巡回すると称して山に入り込み、博打をしたり、通行人に対して「追懸」(強盗行為)をするので、山廻・野廻以外は山に入ることを禁止する。山廻・野廻とは文字通り山や野を巡回して監視を行なう者で、山守や野守と同様の存在である。この法令の直接的な対象は山守と称して山に入り込む者であるが、山守とこうした存在の区別はつきにくく、山守は博打打ちや強盗といったアウトロー紙一重の存在と一般に認識されていたと考えられる。

 だが、山守は、その荒々しい木こりも畏怖される存在であった。木こりは各地の山に入り込み、伐採を行なっていたが、そこにはいつ山守が現れて制止を加えるかもしれず、杖を持って身構えていなければならなかった。杖は本来的には休息する際に、背負っていた柴木の荷を支えるために使用するものだが、山守に対抗する武器でもあった。もちろん、山守も木こりなどの侵入者に対抗するために武器を持ち、山内への侵入を監視していたと考えられる。つまり、山守は武器を持ち、相手を恐れさせる存在であったが、こうした特徴は一種のアウトローが身につけているものでもあり、それゆえ両者の境界はあいまいであり、山の保護と犯罪予備軍という両犠牲を帯びていたのである。このように山守が両義性を帯びていたのは、中世の山が特殊な空間として認識されていたからであろう。

 中世の山には、山立と呼ばれる山賊がいた。たとえば、伊達氏の塵芥集第六十四条には「他国の商人、其外往復の万民、或は山立、或は事を左右によせ、人の財宝を奪ひとる事、後先の郷村の越度たるべし」とあり、山立が山中を往復する商人などから財宝を奪い取る事態が頻発していた。山守は山中を巡回し、物を取り上げるという点では山立と同様である。ただし、取り上げる物自体は山守が鎌や斧、山立が金品と異なる。一方、取り上げる理由は山守は山野への侵犯行為、山立も本質的には山をよそ者が通る際に通行料として物品を取るのであり、結局のところ、両者は類似している。山立は盗賊の一種として負のイメージを持っているように、それと区別しがたい山守も一般人、特に山を生業の場とする人にとっては負のイメージで認識されていた面もあったと思われる。この点からすれば、山守が一般の被差別民よりは程度は軽いとはいえ、卑賤視されていた可能性がある。(中略)

 この点からすれば、山守が寺内の建物を利用して、博打を行なうこともあり、それを寺が嫌ったため、こうした条項が含まれている禁制(里見義康が安房国円蔵寺に出した禁制)が発給された可能性がある。いずれにせよ、山守は寺が設定したのにもかかわらず、忌避される存在であり、その理由として、山守が博打うちに点火する実態があったことが考えられる。

 こうした両義性をもつ山守と同様の性格をもつものとして、墓守が注目される。墓守に関しては網野善彦多武峰の墓守に即して論及し、聖地である墓山を守衛・巡検する聖なる存在で、供御人・神人と本質は同じであると指摘しつつ、非人に近い墓守もいたことにも注意を向けている。また、被差別部落の源流が天皇の陵墓を守る陵戸・守戸とする伝承や考えがあることも、墓守が両義性を持っていたことを示すものである。戸田芳実は律令制下では墓地や墓山が聖地として天皇や貴族により占取され、他者の立ち入りや用益を許さぬ排他的独占が許されていたとする。この指摘からすれば、墓守は墓のみでなく、墓が設定された周囲の山を守る存在であり、この点では山守と同じ職務をもち、その両義性と合わせて両者の共通性が窺えよう。墓守が卑賤視される面があったとすれば、山守も同様であった可能性が高い。

 先述の『貞観政要格式目』では渡守と山守が列記されていたが、墓守も合わせて、あるものを守る職務を果たす者が卑賤視されていた点は注目される。渡守は文字通り川・湖沼・海で対岸に人や荷物を渡す職務を行なうが、当然渡し賃を乗客から取り、ときには強制的に金品を巻き上げる行為を行なうこともあったと思われ、この点では山立や海賊と同様である。また、渡しは境界地点に位置し、それゆえ渡守の職務は常に対岸という別の領域に渡るという一種の侵犯行為でもあった。結局、山守は山の境界領域、渡守は水辺の境界領域を生業の場としており、この点も共通する。このように、山守・墓守・渡守にはいろいろな面で共通性があり、聖地を守る点で聖性を帯びる一方で、卑賤視されるという両義性を持っていたのである。

 近世の山守は名主などの有力者が領主から任命されることが多かったが、そうではない場合もあった。常陸国龍ヶ崎村(茨城県龍ケ崎市)は仙台藩領で、村内には藩の直轄林である御林が設定されていたが、それを守る林守は本山派に属する山伏が世襲していた。山伏が林守とされた理由は明確ではないが、山伏が本来は山で修行を行ない、生活の場としていた点と関係しよう。山伏は特別な能力をもつと信じられている点で畏怖される存在であるが、その反面では常人とは異なる存在とも認識され、やはり両義性を帯びていたと言えよう。この点からすれば、中世の山守も山伏が務めていたケースが考えられ、山守を務める人物には多様性があったことがわかる。

 

P226 おわりに

 山守は領主が領有する山野を他者からの侵犯から守るために設置されたもので、古くは『万葉集』に詠まれ、その頃にはすでに存在していた。設定者は奈良時代には天皇・貴族であったが、寺院が寺領を所有するようになると、盛んに設置するようになった。寺院の場合は境内地を聖地とし、その性格を境内地周辺の山野、さらには所有する荘園にまで拡大し、聖地の四至内は殺生禁断であるという論理によって、伐木などを禁止し、山守をしてそのルールを守らせた。神社の場合も基本的には寺院と同じで、境内地や社領内の木は神木とされ、伐採が禁止された。一方、貴族や在地領主の場合は必要時には山林資源を利用するために、勝手な伐採を禁止する目的で、山守を設置するのが一般的であったと考えられる。この点は寺や神社でも同様であり、建築資財や炭・薪・松茸などを確保するために、領内の山野を管理する必要があった。また、東大寺の場合に見られるように、製塩用の燃料である塩木を確保するために山守が設置される場合もあった。

 山守が設置された山野はまったく伐採が禁止されていたわけではなく、一定の条件の元で領内の住人に使用が許可されていた。たとえば、山科東庄の場合は一定の年ごとに、金銭を支払うことで、領主直轄林の伐採が許可されていた。また、木自体の伐採は禁止されていても、下草や下枝の採取が許可されていた場合もある。さらには杉や檜のような有用な木の伐採は禁止されていたが、それ以外の雑木の伐採は許可されている場合もあり、山林資源はその有用性に基づき、領主による規制を受けていた。

 山守は僧侶・神人・有力百姓がなることが多く、領主から下文により山守職として補任されることもあり、荘園制下の職の一つでもあった。補任されたものは職の権限により、山野管理の職務を認められ、他の人々に対して、山野利用の面で優越した地位に立つことができ、自家の経営にも有利であり、職の補任をめぐって在地では争いが発生していたと想定される。一方、山守は卑賤視されていた面もあり、非人に近い人物や山伏が務めていた場合も考えられる。山守は山を生業の場とする人物から畏怖されると同時に卑賤視されるという両義性を帯びた存在であり、この点は墓守・渡守と同様であった。また、領域への侵犯者から物を取り上げるという点では山立(山賊)や海賊と共通性があり、正当なる職務と盗人・強盗は裏表の関係にあり、この点でも山守の両義性を窺えよう。本章では近世の山盛りについては扱えなかったが、その身分や両義性の面から解明する必要がある。

 山守と同様の職務を果たした存在としては、山預・山廻・林守・野守・野廻・墓守がある。野守は『万葉集』に見え、古くから存在したことが窺える。野は一般的には平らな土地を指し、関東においては台地上に広大な野が広がっており、現在でも武蔵野に代表されるように地名が残っている。その一方で、山麓などの傾斜地も野として重要であり、現在でも阿蘇山では放牧が行なわれているように、こうした土地が放牧地として利用されていたケースも多かったと思われる。野は『万葉集』などでは狩猟地とされていることが多く、天皇や貴族が狩猟ちとして設定した野が◯◯野と呼ばれていた。野は草地を主とし、一部に林があり、低木などが混じっていた植生であったと思われる。こうした野の植生や利用方法、それに対する野守の関与も今後の課題である。

 

 

 

  盛本昌広『草と木の語る日本の中世』(岩波書店、2012年)

序章 草木から見る歴史への招待

 

第一章 中世人は草や木をどのように認識したか

 第一節 神木をめぐる言説

  神木としての杉や松/神木と怪異/賀茂山の木が枯れる怪異/石清水八幡宮の木の顚倒/不成の木

 第二節 松の象徴するもの

  門松の祝儀性/歳末・正月の松と譲葉/常磐木の永遠性/松が生える/松を胞衣桶の上や塚に植えること/人生と樹木

 第三節 境界の木

  榎と一里塚・境界/戌亥の角の榎/領域の境界の木/大きな木の象徴性/大きな木のうつろ/

 第四節 荒野・荒廃の象徴

  荊棘の繁茂/荊棘を苅り掃う/荒廃の象徴としての葎と蓬/サイカチの木と防御性

 

第二章 草花と中世の日常生活

 第一節 草苅に従事する人々

  草苅童/下人・童による草苅と牛飼/職人としての草苅/草苅散所とは何か/草苅散所の実態/草苅散所の領有関係/御家人深堀氏と草苅村/山城国上野庄における草畠/

 第二節 年中行事と草花

  上巳の節供と草/上巳の節供と馬草/蕨の採取/七夕と梶の葉/七夕と草花の贈答/七夕と仙翁花(せんのうけ)/仙翁花の普及と生け方/大量の仙翁花の贈答/山科言継亭の花園/仏桑花(ぶっそうげ)と鶏頭花(けいとうげ)の贈答/菊の栽培と品種の分化

 第三節 薬草としての利用

  本草書の普及/薬としての朝顔の種/典薬寮と上納物/地黄の栽培と地黄煎の製法/地黄煎売りと糖粽(あめちまき)売り

 第四節 様々な草の利用

  葛の利用/食用としての葛粉/萱葺と萱山/萱の単位/染料としての茜/移花と摺染/信夫文字摺の謎/紅花と賦課基準/染料の流通

 

第三章 木の利用と流通

 第一節 木の様々な利用

  多様な木の利用/杉の板加工と大鋸引/松明の使用と確保/長講堂領の公事注文に見る松明/薪炭と年貢・公事

 第二節 材木や檜皮の規格・価格

  材木の単位と五六/柱の規格と産地/榑の規格と価格/板の長さと価格/檜皮の束ね方と規格

 第三節 京における材木の流通

  京の材木商人/山国庄と問/禅宗寺院と材木の運搬/大塔と北山殿の造営/南禅寺の風呂材木の採取地/木曽・飛騨の材木の採取と運搬/四国の材木の流通/室町時代における阿波・土佐の材木の流通

 第四節 鎌倉における材木・薪炭の流通

  花粉分析に見る鎌倉周辺の植生/北条氏による山林資源の掌握/上総国畔蒜南庄と材木・薪炭称名寺造営用材木と亀山郷/薪炭・材木の運送と米の下行/鎌倉における薪炭の流通/材木座と材木の流通/材木座とバサラ大名・佐々木道誉

 第五節 果樹の利用と育成

  諸国貢進菓子と楊梅/中世の楊梅(楊梅は実のみでなく、樹皮も利用価値があったので、各地に植えられて、分布を広めた)/甘さの追求/果樹の継木(接木は果実〈柿・桃・金柑・蜜柑〉のみではなく、他の木や園芸品種〈栗・梅〉でも行なわれ、中世前期には主として桜が対象であった)

 

第四章 植生の変化と資源管理

 第一節 植生遷移と植生に対する認識

  植生遷移の概念/台風による倒木/津波・噴火・虫喰による森林破壊/植生認識と深山・奥山/樹木繁茂の認識(樹木の繁茂は寺社や家の繁栄と結びつけて認識されていた)/植生衰弱の認識/伐採後の焼畑の開発/「興行」と「立てる」

 第二節 中世における松の増加

  花粉分析データに見る中世の松の増加/松茸と平茸/平茸に関する話/伏見における松茸と赤松林/京や京近隣の赤松林/京周辺や奈良の赤松林

 第三節 草山と野

  草地と草手/牛馬の放牧・鹿と草地/野焼きと草地の維持/野火と延焼/野山と松林

 第四節 植生維持と管理

  植生維持と神木・霊木/侵入行為の際に差し押さえられる道具/伐採の規制の掟/様々な山守/山廻と山奉行/木守の職掌/山手の納入と山の利用/山手と入会

 

終章 草木に関する課題

 

 

第一章 中世人は草や木をどのように認識したか

P19 不成の木

 神が降臨する木が神木であるが、その一つに不成(ならぬ)の木があった。『万葉集』(巻2、101)には玉鬘 実成らぬ木には ちはやぶる 神そつくといふ 成らぬ木ごとに」という歌があり、古代には実が成らない木には神が付くという意識があったことがわかる。この実が成らない木を不成の木とも呼び、『今昔物語集』にはこれに関する話が二つある。(中略)

 糞鵄(くそとび/ノスリチョウゲンボウ)(中略)

 いずれにせよ、二つの話は不成の木に神が出現するという認識を前提として作られたもので、神の代わりに天狗や翁が現れて人をだましているのである。下衆たちが不成の柿の木の下で休憩したのは、翁を出現させる場所としてふさわしいからである。不成の柿の木の下では、本来は実が成るはずがないのに、瓜が成ったという矛盾する事象を起こすことで、より翁の行動が妖術的なものであることを強調しようとしたと考えられる。

 そもそも不成の木に神がつくという観念がいかなる根拠で生まれたかは不明だが、不成の木と神には密接な関係があると考えられる。また、不成の木が柿である点はいかなる理由があるのだろうか。ある程度大きくなる木で実がなるものとしては柿が代表的である。しかも柿は赤い色によって、遠くからも実が成っていることが確認できるので、逆に実が成っていないのもよくわかる。こうした理由から、不成の木が柿とされたのかもしれない。

 

P26

 『枕草子』40段には、譲葉は大晦日に亡き人のための食物に敷き、さらには正月の歯固の具物として使うとある。前者は御魂の飯と呼ばれる民俗行事で、大晦日に白米の飯を白紙に山盛りにして、盆・鉢などの上に載せて、仏壇に供えて端を突き立てるものである(『日本年中行事辞典』)。『徒然草』19段には、大晦日が亡き人の来る夜として、魂を祀る風習はこの頃は京にはないが、東国では行なっているとある。つまり、『枕草子』の記述は亡くなった人を招く飯の行事の原型を示すのもので、飯の下に譲葉を敷いていたのである。後者の歯固は朝廷で正月に長寿を祝う行事で、鏡餅・大根・押鮎・猪肉・鹿肉などを食べるが、それらの下にも譲葉を敷くのである。

 

P27 常磐木の永遠性

 照葉樹は神木とされ、現在も神社の境内などでよく見ることができる。たとえば、楠は関東地方以西の神社の神木として多く見られ、樹齢数百年に及ぶものもしばしば存在する。楠は四方に長い枝を伸ばし、多くの葉を繁らせ、あたかも緑の塊のような印象がある。『枕草子』40段でも、楠は木立が多いところでも、格別混じって立っておらず、仰山に繁っている様子を思いやるのは嫌な気持ちだが、千枝に分かれて、恋する人の例にされるのは誰が数を知って言い始めたのかと思うと、趣があると述べている。この記述には①他の木から独立して屹立していること、②葉が多く繁っていること、③枝が多く分かれて伸びていること、といった楠の特徴が端的に表現されている。こうした性質と、樹齢が長く、成長を続けるという永遠性が、楠を神木の代表的存在としたのだろう。また、葉が生い繁る様は繁栄を体現したものともいえよう。

 

P29

 つまり、相生(あいおい)の松は富有を象徴する小道具としての意味をもち、最終的には万寿(「唐糸そうし」『御伽草子』の登場人物)が獲得する富有を暗示しているといえよう。結局、この話は当時の人々が小松が生えることを祝儀と認識していたことを表しているのである。

 なお、相生の意味の一つである二本の木が途中でくっついているものを、連理の木(図6)とも呼び、祝儀性の象徴である。古代には瑞祥として、朝廷にめでたいものを献上する習慣があったが、連理の木もその一つである。『続日本紀慶雲元年(704)六月条には、阿波国から「木連理」が献上されたとある。京の下鴨神社の境内には連理の木があり、現在は縁結びの木として信仰を集めている。これは二つの木が結ばれたことから縁結びへと転じたものである。

 

 P30 松を胞衣桶の上や塚に植えること

 横井清氏(『的と胞衣』)は室町幕府政所執事代を務めていた蜷川親元の日記(『親元日記』)の寛正六年(1465)の八月一日と十二月二日条に見える胞衣納の記事に着目して、考察をしている。その胞衣納のやり方は洗った胞衣桶を吉方の山中に運び、河原者が穴を掘って、底に壺を据えて、中に桶を納めた後に埋めて、その上に松を植えるというものである。

 横井氏は胞衣納が行われるのが境界的な場所であることに注目している。また、松を植えた理由に関して、上から踏まれ難く、根が土を固めるためと解釈したのち、死者を埋めた塚に木を植えた寛正の大飢饉の事例を引き、塚との関連性を考慮して、その意味することを追究すべきとしている。このように、横井氏は境界性や松を植えることの意味の解明を示唆しているが、それ以上踏み込んだ考察をしていない。そこで、以下ではこれらの点に検討を加えよう。

 

P32

 墓(塚)に木を植えるのは、一義的には目印とするためと考えられる。一方、墓(塚)は境界的な場所にあることが多く、胞衣納の場所とも共通する。また、塚は必ずしも墓ではなく、境界を示すために築かれることも多い。柳田國男は塚の意味について考察を加えたが、かつては村に多く存在した塚には境界的な意味があったとしている。実際、近世に村落間で山野の境界相論(訴訟して争い合うこと)が起きたときに、境界に塚を築いた事例は各地に存在する。

 墓は遺体、胞衣桶は胞衣を納めるのだが、ともに人体の一部を埋めるという点でも共通する。そこに植える木の代表が松であったのは、やはり今まで述べてきた祝儀性によるのだろう。胞衣納は出産という慶事の一端の行事であり、その関連で松が植えられたと思われる。その反面、胞衣には呪術的な要素があり、土中から出てきては困る。人に踏まれるところにあえて埋めるのは、しきりに踏むことで封じ込めを図る意味もあり、墓もこの点で同様である。一方、人生の最後を飾るものとして、出産という慶事と同様に墓に松を植えたとも考えられる。このように胞衣桶や墓のあるところに松を植えた理由はいろいろ推測できるが、松の象徴性や松の利用法全体のなかで広い視野から考えていく必要がある。

 

P33 人生と樹木

 前項では出産・死と松を植える慣習の関係を取り上げたが、人生を樹木や季節で象徴させることは中世によく行われていた。その典型が『熊野十界曼荼羅』(『熊野観心十界図』とも呼ばれる・図7)や「おいのさか図」という絵であり、これらに関しては従来から多くの人により言及されているが、ここでは樹木との関係を中心に改めて述べていこう。

 『熊野十界曼荼羅』は熊野信仰を広めるために、熊野比丘尼が絵解きをする際に使用される絵である。絵の上部には半円形の道があり、その上に人が描かれている。右下から赤子・幼児、さらには子供、青年、半円の最上部は成人、左下は老人、そして最後に死が訪れることが表現されている。道は坂を表現しており、坂を登っていき、最盛期を過ぎてからは下り坂となり、死に至るという具合に人生が坂道にたとえられている。また、道に沿って樹木が描かれ、その種類が人生の段階とともに変化していき、春夏秋冬の順で展開していく。つまり、人生の諸段階と樹木・季節が連動しているのがこの絵の特徴である。以下では各段階と樹木の関係について検討していく。

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 道の入り口には鳥居があり、ここを通過するのが誕生を暗示している。鳥居の前に小さな赤子、鳥居を過ぎたところに少し大きくなった赤子が見える。要するに、鳥居が人生の入り口になっている。次は幼児の段階で、脇には紅梅がある。勾配は二月ごろに咲くものであり、人生の最初にふさわしい。その次は子供で、脇には柳がある。柳が子供の象徴とされたのではなぜであろう。柳は「柳に風」や「柳の枝に雪折れなし」という格言に象徴されているように、柔軟な性質があるが、子供も柔軟な性質をもち、しつけや教育により素直になびかせて導くことができる。また、柳は春にあると若芽が出て緑色になり、春を象徴する樹木である。子供も人生の段階では春なので、こうした理由により柳にたとえられたのだろう。

 続く青年期の脇には開花している桜がある。言うまでもないが、これから開花して飛躍する段階にある青年期と桜が対応しているのである。そして、頂点にさしかかろうとする成人期には結婚して、男女が対になって描かれるが、その脇には生い茂る樹木がある。樹木の種類は明確ではないが、盛んに繁っている様は成人期の繁栄の象徴であろう。照葉樹のようにも見えるので、常磐木という永遠性を意味しているのかもしれない。

 半円の頂点は人生の絶頂期にたとえられるが、頂点には二本の杉、その両脇に赤い幹の松がある。二本の杉と松は夫婦を表すもので、相生の杉や松であり、やはり祝儀性が農耕である。特に松は祝儀性や永遠性を象徴するので、成人期の繁栄を事祝(ことほ)ぐために描かれたのだろう。杉は神が降臨する木と認識されているが、絵は全体が熊野信仰のためのものであることから、熊野の神が降臨して、夫婦を守るという意味が込められているとも考えられる。

 頂点を極めると下り坂になり、老年にさしかかる。頂点の左下は右下と同じ樹木が描かれ、ここは左右対称の構図になっている。続いて子供に手を引かれた女性と出家した男性、その脇には紅葉したカエデが描かれている。人生も終わりも近づきつつあるが、最後のきらめきが残されていることを紅葉によって表現しているのだろう。次には杖をついた老人、脇には雪をかぶった樹木が描かれ、人生の終わりである冬を象徴させている。そして、鳥居の下には合掌している男性が描かれているが、これはもちろん死に際して、神仏に祈り死後の往生を祈願している姿である。

 そして、鳥居をくぐると、死体が犬と烏によって食われており、脇には五輪塔が見える。中世には犬と烏が死体を食べていたことが知られており、その様子がそのまま描かれている。結局、鳥居は人生の出口であると同時に、死の世界への入り口の象徴である。その下部は地獄の世界を詳細に描いており、死後には地獄に落ちることが暗示されている。『熊野十界曼荼羅』は地獄落ちの恐怖感をあおることで、熊野信仰に導く目的で描かれたものであるが、その前提として人生の諸段階を樹木と対応させていると言えよう。こうした対応は中世の人々が日常的にもっていた意識であり、樹木の象徴性の一端を表現している。

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P36

 一里塚(図8)は街道を一理ごとに区切るものであり、それ自体境界性をもっている。また、前節で述べたように、塚は一般に境界に築かれるものである。よって、榎も境界との関係が深かったと推測される。そこで、榎と境界性の関係を追究していこう。中世史料には荘園・国衙領や田畠・屋敷地の四隅の境界、いわゆる四至の地名や目標物が記されているものがある。地名や目標物は山や木であることが多く、それらが境界を限るものとされていた。その中に榎に関するものがいくつかある。(中略)

 このように境界である堤の上に榎が植えられていたのは、榎が境界と密接な関係があったからであろう。安芸国世能村の場合もわざわざ榎を植えたのか、元からあったのかはわからないが、遠くからも目立つ大木の榎があり、それが北側との境界とされたと考えられる。

 

P38 戌亥の角の榎

 この二つの話は敷地の戌亥の角に榎がある点で共通している。角とあるので、やはり敷地の境界であり、そこに榎が植えられているのである。戌亥の角(隅)とは、西北の角のことで、陰陽道では東北の鬼門に対して、神門と呼ばれ、大黒天など福神を祭ったり、宝物を置いたりしていた(『日本国語大辞典』)。この語義からすれば、戌亥の角は屋敷の中でも特別な意味をもつ方角で、富を呼び込む性質があったようである。榎は戌亥の角と言う境界であることを示すもので、本来的には福神や宝物と一体のものとして、祝儀的な意味をもっていたと考えられる。しかし、二つの話は毒蛇が中に入っていたり、怪しげな衣服が飛んでいくといった怪しく悪いイメージであり、意味が逆転している。つまり、榎は境界・祝儀と悪所・怪奇という両義性を持っていたことになる。なぜ、こうした意味の逆転が起きたのだろうか。それは榎が境界に存在し、僧都の話に大きく高いとあるように、目立ったからであり、そうした性質のゆえに、毒蛇や怪しい衣服が集まる目印となったのではないだろうか。(中略)

 この話(『今昔物語集』巻19「東三条内神、報僧恩語」)でも戌亥の角に高い木があって、目標となり、その方角は神門であったので、神が住んでいた。また、宮殿は他界への入り口とも言え、この世と他界との境界でもあったのである。さきの怪しい衣服が飛んだ話も榎がこの世と霊界の強化であったことを示すとも考えられる。この話では、木の種類は明記されていないが、榎や松など境界的な意味をもつ木が植えられていたはずである。

 

P40

 櫟とはクヌギのことである。クヌギは椚・橡・櫟と書き、落葉樹で、日本では秋田県岩手県以南に分布し、関東などでは雑木林の典型的な樹種である。木は薪炭や椎茸の培養用、樹皮は染料、実は食用となる。「並立」とあるので、大きなクヌギの木が並んで生えていて、それが南側の境界となっている。(中略)

 以上、文献史料に基づいて、荘園や田地・山で樹木が境界とされている事例を紹介した。樹木の種類は多様だが、すべて成長すると高くなる木である。史料には大松・大櫟・大榎・大杉とあるように、当然ではあるが大きい木が境界となっていた。大とは付いていない場合も実際には大きい木であり、遠くから目立つ木であったと考えられる。一本杉の場合は文字通り一本だけ目立つ高い杉であり、境界の目標としては最適であった。おそらく、これらの木は普段から境界の木として大切にされ、わざと伐採せずに残しておいたものであろう。

 

P42

 このように、大きな木は修行の場とされると同時に、仙人との交流の場でもあった。仙人が高い的存在とすれば、大きな木自体が他界への回路といえよう。これは先述した戌亥の角の榎と似たような機能である。(中略)

 このように、大きな木に住むことで、人が神仏お関係を結べる点からすれば、木自体に神仏が住んでいてもおかしくない。実際、大きな木には神が住んでいると信じられていた。(中略)樹神は「こだま」のことで、一般には樹木に宿る精霊の意味とされているが(『日本国語大辞典』)、ここでは文字通り木に住む神と介してよいだろう。

 

P43

 ここでは樹神が木に住む存在であり、木の伐採を歎いている。ただし、僧の方が樹神より優越しており、その栖たる木を寺の造営用に利用している。中世には神仏間で優越性をめぐり争いがあったが、ここでは神祇体系の末端に位置する樹神が哀願していることから、仏より序列としては下になっている。『沙石集』は仏話を集めたものなので、仏が優越するのは当然であるが、実際には神が優越する場合も存在し、樹神の栖たる木が守られることもあったろう。こうした神仏間の争いは中世にはよく発生し、木の伐採や利用に重大な影響を与えたが、この点は後で後述する。

 

P44 大きな木のうつろ

 大きな木には根もとに空洞ができるが、それをうつろ・うつぼ(空・虚・洞)と呼んでいる。(中略)つまり、そこは二重の意味で修行の場を象徴していたと言える。うつろが修行の場として選ばれたのは、雨風をしのげるという実用的な意味もあるが、閉鎖的空間に入ることで、外部との接触を絶ち、仏の世界(他界)と交流する目的もあったのだろう。洞穴や井戸が別の場所に通じているという言い伝えは現在も各地に残るが、別の場所は他界ともい言い換えられる。井戸もうつろの一種と言え、こうしたうつろは他界ヘの入り口という境界的な意味をもっていたのである。

 

P46 第4節 荒野・荒廃の象徴

 平安時代や中世の史料には「荒野」という言葉がしばしば見られる。「荒野」は単なる荒野ではなく、以前に耕作されたが、さまざまな理由で廃棄された土地を意味し、再開発の対象と史料に現れる。黒田日出男氏はその荒野を象徴するのが、荊棘(けいぎょく)と猪鹿で、荊棘は稲や麦などの作物にかわってはびこり、人間の来住をこばみ、傷つけずにはいない荒廃した土地を体現する植生、猪鹿は住人に代わって新住者となり、荒野を象徴する獣と述べている(黒田、1984)。

 

P49

 以上の三つの事例は草木や荊棘を切り払うという共通の表現が見られる。空閑地や深山が、開発前は荊棘で覆われていて、それを切り払うことで、荘園や草庵が作られるのである。深山という表現はよく見られるもので、文字通り深い山、人が容易に立ち入ることができない山というニュアンスがあり、立ち入りができないことを荊棘という言葉で象徴させている。僧侶が山中深くに粗末な庵を構えて住み、修行をし、仏の道を極めることがよく行われていたが、その場合も深山の一角を小規模とは言え荊棘を切り払って開発する必要があったのである。

 

P50

 荊棘以外にも荒廃を象徴する草がある。それは古典文学によく見える葎と蓬である。

 

P52

 葎と蓬は棘のあるなし、薄気味悪さと優雅さのように逆の要素をもつ草だが、そのイメージに応じて、同じ後輩を表現する場合でも使い分けられていたようである。葎はとげとげしいイメージから近寄りがたさを、蓬の方は優雅さを保ちつつ、落魄した様子を表現しているのである。

 

P53

 サイカチ(図10)はマメ科の落葉高木で、高くなると10メートルにもなり、幹や枝に鋭い棘がある。幹は器具や薪炭、実は染料や利尿などの漢方薬に使い、現在は庭園樹や街路樹として植樹されている(『日本国語大辞典』)。このサイカチの木が戦国時代には各地で植えられていた。近江国堅田滋賀県大津市)は戦国時代には寺内町として発展していた町だが、屋敷の周囲の土居にはサイカチの木が植えられていた。(「本福寺跡書」)。植えた理由は鋭い棘が防御性を発揮するためであろう。

 

 

第二章 草花と中世の日常生活

P58

 (宇治川の河原)この草の用途は、後述する『七十一番職人歌合』の草苅の画中詞に伏見草が秣としてもてはやされているとあるので、秣用であったと推測される。伏見のすぐ北にある京都には武士や馬借(馬を使う運送業者)の馬が多く飼育されているので、秣が大量に必要であり、伏見はその供給地であったといえよう。もちろん、京周辺の他の場所からも秣は供給されていたはずである。(中略)

 

 童が年齢的秩序の中で最下層にあり、それゆえ草苅のような過酷な労働に従事していたとすれば、身分的秩序の中でも最下層の下人も同様に草苅を行なっていたと推測される。(中略)雑色・下部は下人の代表的存在であるが、それとは別に草苅が挙げられているのは、草苅が下人労働の典型的なものと認識されていたからであろう。(中略)

 

 この両話から童が牛飼で、朝には山や田に牛を放ち、夕方には厩舎に追い込む仕事をしていることがわかる。つまり、草苅と牛飼は童がしている点に共通点がある。これも網野氏が指摘しているが、京の貴族に仕える牛飼は童形をしていて、◯◯丸と言う童名を名乗っていた(網野、1986)。農業用と貴族の牛車用では用途は異なるが、同じように童が牛飼を務めていた点が注目される。これは下人の仕事でもあり、童と下人が身分的に下層にあり、それゆえに仕事の中でも下位に位置する草苅や牛飼を行なっていたといえよう。

 

 

第四章 植生の変化と資源管理

P233 「興行」と「立てる」

 また、(常陸国鹿島神社の前大宮司中臣)則光は代々の神主が宮山の「木竹」を興行し、行場の侵入を禁止してきたとして、これに反する現神主(中臣則幹)の行為を非難している。興行にはいくつかの意味があり、中世では①儀式を催すこと、②事をおしすすめること、③失われた所領などを本来あるべき姿に戻すことなどがあるが(『日本国語大辞典』)、この場合は①②③が入り混じったもので、具体的には竹木を保護し、竹木が生い茂った宮山として本来あるべき姿を維持することを意味する。つまり、興行こそが神域を守る行為であり、それを行なわず、私的に山林を利用した現神主は荒廃を招いたという論理が提示されているのである。そして、牛馬の侵入は草を食べることで、山林を荒らすと認識され、侵入が禁止されたのだろう。寺社の禁制に牛馬の侵入を禁止する条項が多く見られるのは、山林の保護が直接的な目的である。(中略)

 荒廃状況に対して、是光(山守職)に山を生い立てることを命じているが、これが山守職に託された任務であった。荒廃状況から脱するには、山林の伐採が草の採取を規制し、山林の育成を行なう必要があるが、それを「生立」と表現している。「生立」は「おいたて」と読み、古くは『古事記』にも見える表現で、草木が成長するという意味である(『日本国語大辞典』)。「生」は「生う」で、これのみで成長するという意味だが、「立」にはいかなる意味が込められているのだろうか。

 「立つ」「立てる」には多様な意味があるが、戦国時代によく使用される「立山」、「立野」との関連が注目される。「立山」、「立野」は領主によって伐採・利用が規制された山野という意味だが、この「生立」との関連で捉えるならば、山や野を草木が茂った状態に存立させる、または成長させるという意味が含まれていると考えられている。規制なしに山野を利用できる状況に置くと、過度な伐採により荒廃の地となるので、山林や草地を「生立」るには、山守職を設置したり、立山・立野を設定して、伐採規制を行なう必要がある。立山・立野とは「山や野を立てる」ということだが、「立てる」の語源として「生立」も候補の一つになるのではないだろうか。この点はともあれ、「生立」が山守職の任務とされていた点は注目される。「生う」や「立つ」「立てる」は植生や山林資源の状況を表現するキーワードとして位置づけられよう。