周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

遊行と巡礼

  五来重『遊行と巡礼』(角川選書、1989年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 歩く宗教

P8 1 一所定住と一所不住

 宗教には日常化された面と、非日常的で異常な面とがある。しかし本来宗教というものは、人間が日常から超脱しようとするはたらきである。現実の動かしがたい桎梏や束縛、脱れがたい煩悩や繋縛(けばく)、日々の行動を律する制度や道徳から解き放たれたら、どんなに自由で楽しいことだろう。それは理想といってもよいし憧れといってもよい。日常の束縛が苦しければ苦しいほど、この憧れは強くなる。中世や近世の農民が、一生涯、土地に緊縛された過酷な労働の救いを、伊勢詣でや金毘羅参、西国巡礼や四国遍路にもとめたのは、非日常をもとめるという宗教的行動の一つであった。

 宗教といえば神や仏への絶対的帰依といったり、唯一社だの超越者だの、解脱とか涅槃とか回心とか、どうして宗教をこんなに固苦しく、七面倒くさいものにしてしまったのだろう。これは少数の支配者やエリートが、愚昧なる庶民をだましたり、こけおどしをするための詐術だったにちがいない。ところがそのようなエリートは宮殿や大伽藍、僧院などに閉じ込められ、繋縛から絶対に脱け出すことはできなかった。そのうえ戒律などというものをつくって自縄自縛する。どうせそのようなものは守れないから、自責の念でいっそうくるしむのも、無知な庶民をだました報いというものであろう。

 

P18 4 回峰行と供花

 以上のことからわかるように、「行」とは「行道」すなわち歩くことであり、「歩く宗教」は「行力」「験力」「呪力」を身に付けることであった。「行」こそ宗教的実践の極致であって、人間のもっとも原始的な行動なのである。「行力」は超人的なカリスマであり、これなしに宗教は成り立たない。「行力」のない宗教者の、お為ごかしの説教ほど空々しものはないと思う。回峰行はこの「行力」を付けるための「行」であるから、人々も回峰行者の行力を信仰する。

 

P21 5 遊行と遊部

 宗教が歩かなくなってから久しい。神殿や伽藍をかまえて文化を生んだけれども、その代わりに信仰を失ったのではないかと思う。しかし歩く宗教は宗教、宗派を超えた庶民信仰として残留し、ひろく巡礼という現象を残している。

 

P22

 しかし遊行というのは、定まったコースがあったり目的があったりしないのが、本来の遊行であろう。

 

P24 六 鎮魂呪術者の遊行

 古代の鎮魂呪術者の遊行は、やがて大別して二つの遊行者を生んだものと考えられる。その一つは山を他界とする「山の司霊者」と言われる山伏で、その遊行形態は山岳抖擻または入峰という「歩く宗教」であった。彼らは地獄谷や賽の河原での亡魂供養から、進んで入峰そのものを死後の地獄遍歴として、十界修行という「擬死再生」と「即身成仏」の実践を行なうようになった。その入峰路には七十五靡とか二十八宿九十九王子というような拝所を設けて、これを巡拝する巡礼の形を整えた。また海を他界とする辺路の修行も逢って、四国の辺路や熊野の大辺路などが、霊場とか王子をめぐる遍路になった。

 

 

第2章 巡る宗教

P31

 どうして聖なるものを巡ることが最高の宗教的実践になり、信仰の表現になるかは私にもよくわからない。哲学的にはいろいろの理屈がつけられようが、円運動というものは無限を表すものだから、無限の尊敬を表現するものだったかもしれない。わが国では創造神話の「国生み」に、伊弉諾、伊弉冊の夫婦神が、天柱または国柱を旋って遘合(みとのまぐわい)し、大日本豊秋津州を生んだというのが、「巡る宗教」のはじめである。この場合に柱を右旋、左旋することを、陰陽、吉凶に当てたのは、中国の陰陽道の影響を表しているが、わが国では神霊の依代のヒモロギを踊り旋ったり、走り旋ったりするのが、鎮魂の呪術だったものと思われる。(中略)

 京都の葵祭は5月15日に勅使参向のパレードを、都大路に展開するけれども、すでに5月12日に上賀茂神社では「みあれ祭」、下鴨神社では「みかげ祭」で神祭は済んでいる。ことに「みあれ祭」には「みあれの御囲」が「みあれ野」に立てられ、中に角と称す二本の杉のヒモロギが立てられる。古図ではこれは二股の木の柱であった。この祭は十二日の深夜、すべての灯火を消して行われる神秘の行事であるが、私は白丁に化けてこれを見学させてもらったことがある。浄穢の神官10名余り、地面に腰を下ろして腊の飯を「摑みの御料」と称して手掴みで食べ、それから颯颯(さつさつ)という足音を立ててこのヒモロギを巡るのであった。「みあれ祭」は一種の鎮魂祭儀なので、このように巡ることが荒魂を鎮めて和魂にする咒術だったのである。

 

P39

 修験道では最高の実践は「捨身」である。私はこれは原始的宗教者が、共同体の危難に際して、事故の生命を神に捧げて神の怒りをしずめた自己犠牲から出たものと思う。これがキリスト教ではイエスの十字架となり、仏教では地獄で亡者の身代わりになる代受苦者、地蔵菩薩に表現される。巫女の捨身は若い女の人身御供の昔話に変化してしまったが、山伏の捨身は、文献的にも伝承的にも数多く伝えられる。それが実践されたのがこの平等岩の行道で、この下の阿古谷が「捨身谿」と呼ばれたことは、平安中期の日記『吏部王記』逸文に見えるのである。この逸文鎌倉時代の『古今著聞集』(巻二)の「金峯山神変ノ事」に引用されていて信用できる。このようなところから見て、行道岩の行道という巡る宗教は、捨身と隣り合わせ、命がけの修行だったことがわかる。

 

P42 5 野外の行道と室内の行道

 巡る宗教は四国や西国の霊場を巡る「巡礼」として、宗派・宗教の区別を超えた一大宗教的実践になるが、その起源は神や仏の宿る木や柱や岩や山を巡ることにあった、というのが私の考え方である。

 

P43

 「お百度踏み」というのはもと堂や祠を巡ったものが、山道の「百度石」の間を往復することに変わったまでである。いま京都では右京区千本通りの「釘抜地蔵堂」へ行けば、百本の計算木を持ってこの堂を巡る人をいつでも見ることができる。

 

P45 6 常行三昧の念仏行道

 踊り念仏を含む念仏芸能が、比叡山に伝えられた常行三昧から出ていることは、私がしばしば論じたところで、繰り返すのも煩わしい。しかし念仏という信仰と実践が浄土教教団によって「往生」のためとだけ解かれたために、いささか常識化してしまった蒙を啓いておかないと、話が前に進まない。まずわが国の念仏の源流をなす比叡山の常行三昧の念仏は、悟りを開くための方法としての四種三昧の一であったことを知らなければならない。したがってこれは「成仏」を目的とする念仏であったが、同時に歩きながら節を付けて詠唱する「歌う念仏」であった。私は恵心僧都以後盛んになった往生を願う念仏を「願生の念仏」と名付け、常行三昧の念仏やその系統の「歌う念仏」を「詠唱の念仏」と名付けて区別する。

 四種三昧というのは第一に文殊菩薩を本尊とする常座三昧、第二に阿弥陀如来を本尊とする常行三昧、第三に釈迦如来を本尊とする半行半座三昧(法華三昧)、第四に普賢菩薩を本尊とする非行非座三昧である。いま比叡山西塔には常行三昧の常行堂と法華三昧の法華堂が残っている。常行三昧は慈覚大師によって始められたもので、念仏を詠唱しながら阿弥陀如来のまわりを休むことなく巡り、無念無想の境界の中で悟りを体験する。その念仏の音曲は慈覚大師が入唐したときに、中国第一の霊場、五台山で行なわれていた法照和尚作曲の「五会念仏」であった。これがわが国のすべての念仏芸能の源泉になる。

 

P47

 常行堂の念仏詠唱と行道をする専門僧は「堂僧」と呼ばれ、学問よりも芸能を専門とするので、比叡山僧の中では低い身分であった。この堂僧の中から出て、後世に一宗の祖師と仰がれる良忍融通念仏宗)と親鸞浄土真宗)である。堂僧は定員四十八人が最も多く、二十四人のときと十二人の場合もある。四十八人が一剋(二時間)交代で、阿弥陀仏のまわりを四人で巡る。二十四人ならば二人で巡り、十二人ならば二人が二剋(四時間)交代で巡る。

 高野山でも中世には常行三昧による二十五三昧が行なわれたらしく、現在伽藍にあって高野山最古の建築(建久年間)とされる不動堂はもと阿弥陀堂(五室寂静院)であったと私は推定している。そして常行念仏交代僧のための控室(脇間)が四室ある。その他平泉毛越寺や日光山輪王寺、神戸垂水の大山寺などの天台宗の大刹に常行堂があり、真言宗でも備前牛窓町の千手山弘法寺にも常行堂がある。いずれも巡る宗教があった証拠であり、そこから日本の念仏信仰は地方へ広まっていった。そしてこの時の念仏は心の中で念(観念)じたり、口先で唱(称名)えるばかりでなく、身体の行動を伴うものであったことに、注目しておく必要がある。すなわち身口意の三密に相当する念仏であった。

 このことからかと思われるが、平安時代中期からの常行堂本尊の阿弥陀如来は「宝冠の弥陀」と呼ばれる仏像が多く、これは阿弥陀如来でありながら大日如来の宝冠を被っている。すなわち弥陀大日一体の姿である。これはまた「紅玻璃阿弥陀」や「日の丸名号」のような密教的浄土信仰を生み、太陽信仰と結合した念仏信仰に深く根を下ろしていった。

 

P48 7 九品念仏の行道

 比叡山の常行三昧の念仏行道は、日本のいろいろの宗教儀礼や芸能の源になったが、灯籠の大臣のような美女の念仏行道でなくとも、美声の念仏僧を行道させて、結縁と称して鑑賞する如法念仏というものあった。これは「九品念仏」ともいい「能声の念仏」とも言ったことが、中世の文献にたくさん出てくる。

 

P52 8 暮露と虫供養念仏

 九品念仏は「巡る宗教」と「歌う念仏」の結合したものであったと私は推定しているが、朱なる伴奏楽器は尺八であったと思う。尺八はすでに慈覚大師が常行三昧の念仏として、中国五台山竹林院の法照流五会念仏をもたらすとき、その調律楽器に持ってきたものである。したがって平安時代の「山の念仏」の文献には出てこないが、鎌倉時代まで継続して九品念仏(如法念仏)の伴奏楽器だったと思う。そうすると『徒然草』(百十五段)の暮露(ぼろぼろ)の九品念仏にも、尺八は吹かれていたであろう。尺八が正しくは歩行しながら吹くというのも、行道の伴奏だったからである。

 

P54 9 宮巡りと護法憑け

 巡礼の起源をなす「巡る宗教」はいろいろの形に見られるが、熊野詣は三山を巡るばかりでなく、それぞれの山で社殿を巡ったことが、後白河法皇の書かれた『梁塵秘抄口伝集』(巻十)に見える。現在は三山ともに社殿の前に瑞垣に立ててしまったので、とても近づくことができない。しかし那智大社の瑞垣の中に入れてもらったら、社殿はそれぞれ巡れるようにあっているばかりでなく、通夜する人が寝ることのできる張り出し縁まで付いていた。昔は参詣人本位だったことがわかる。(中略)神社に着けば宮巡りすることが当たり前の参拝であった。これが神を敬う心の表現だったのであり、神に願をかけるには宮巡りと通夜が必要であった。そのために那智の社殿には通夜の張り出し縁が付いていたのである。しかし多くは社殿を巡ってから、社殿で通夜するのが普通であった。後白河法皇の三日ずつの参籠とあるのは、三日間宮巡りと通夜を繰り返したのであって、宿坊の上段の間でぬくぬくと寝ていたわけではない。しかも通夜の間に千手経を三夜で千巻転読するのだから寝る暇もなかったわけである。法皇以外の参詣人もおって居眠りをはじめ、お供の通家は法皇の読んだ経巻を巻いていたが、これも眠りしはじめた夜中に、宝殿の御正躰の鏡(懸仏)が照り輝いたなどと、これほど詳しく自分の熊野詣を書いた上皇法皇も稀である。

 

P56

 巡るということはその中心になる人や木に、神や霊を降臨してもらうときにも行なわれる。依代や尸童(よりわら、のりわら、よりまし)を中心に置いて、大勢の人がぐるぐる廻っていると、神や霊が憑く。尸童の場合は目が回って異常心理になり、シャーマンならばトランス状態になるが、日本では参籠潔斎や精進したものでなければ、このようにしても神は憑かないと信じられていた。現在尸童を「護法実」(ごほうざね)といって、護法(天狗)を憑けて託宣を聞く行事は、美作(岡山県)の久米郡各地の山岳寺院で行なわれ、「護法飛」(ごほうとび)といっている。護法実は1ヶ月ないし10日の参籠潔斎をして、最後に本堂の外陣で篠と御幣を持って座っていると、山伏や村人、子供などがその周りを廻る。太鼓が急調子に鳴って、巡るのも急調になると、護法実に護法が憑いて外へ飛び出し、寺の庭を走り回る。多く旧七月十五日の満月の夜なので、その光景は壮観である。託宣は私が25年前に見てからは行なわれないということであるが、護法実に憑く護法様は烏天狗なので、両脇から捉えていないと飛んでしまうと信じられている。

 かつてはこのように託宣を聞くために尸童を廻って、神や霊を憑ける巫術は至るところで行なわれていた。人々が託宣を信じなくなると、この「巡る宗教」は子供の遊戯になり、「かごめかごめ」とか「中の中の小坊主」、または「お乗り(憑り)やれ地蔵様」という地蔵遊びにもなったのである。

 

P57 十 葬送と巡る宗教

 巡るという宗教的行為は、また目に見えない垣(結界)を結って、中の霊を外へ出ないようにする呪力があると信じられた。私はこれを封鎖呪術と名付けてきたが、いろいろの封鎖呪術があるなかで、巡ることを最もプリミティヴな結界として位置づけた。このようなことは宗教学の方でも規定しないが、私は宗教民俗学の立場から、足踏(だだ)とともに最も原始的な封鎖呪術と考えている。

 密教の結界には軍荼利法による金剛橛(地結)、金剛墻(四方結)、金剛網(虚空網)、金剛炎(火院)、大三昧耶の五種印明がある。しかし日本では巡ったり、踏んだり、注連を張ったり、忌垣を廻したり、鳥居を立てる結界法があったのである。こうした原始結界は、死者の霊や怨霊、御霊を封鎖するときに行なわれたもので、殯がその封鎖の場と構造物であった。殯を詳しく説明する余裕はないが、現今でも墓地に見られる霊屋や龕前堂(がんぜんどう)、忌垣、須屋、犬はじき、サンギッチョ、モンドリ、四十九院などはその名残である。

 

P60 十一 巡る鎮魂

 葬送に死者を巡ることは、史料の荒魂を鎮魂して和魂にする呪術であるが、いつの間にか葬列が棺とともに巡ることになったので、死者に方角がわからないようにして、帰って来られなくするという解釈もできた。わが国の葬送儀礼には、たしかに死者帰来防遏儀礼が多いが、巡るということは、死者を封鎖しておいて、そのまわりを呪術者が巡りながら鎮魂するのが、殯儀礼というものであった。

 

P67 十三 キリスト教の巡礼

 キリスト教の巡礼は神の恩寵を受けるために、キリストの受難の遺蹟を巡ることや、聖母マリアをはじめ、多くの聖者の墓や遺蹟、遺物を巡ることであるが、中世には滅罪の巡礼も多かった。巡礼をパルドンというのは「謝罪」の意味から出ている。文献にもその例は多いし、巡礼地にはこれを伝える遺物や伝説が残っている。

 

 

第3章 西国巡礼の成立

P93 3 巡礼の札打ちと山伏の碑伝(ひで)

 また巡礼の札打ちということがこのころ行なわれていたことを示すもので、これは納経とは別に祈願札を札所の木や建物に打ち付けていたのである。そしてこの札打ちは山伏の入峰にあたって、拝所の木に「碑伝」というものを打つことに、起源があったと私は考える。いま西国霊場に行けば屋号や商標の札が、柱をいとわず天井といわず貼られているけれども、その源は山伏の碑伝にあったのである。そうとすれば巡礼が専門の山伏の修行であったことがよくわかるし、巡礼のはじめから、札打ちがあったものと推定できる。

 現在入峰修行する山伏の碑伝は板製で、不動明王の種子(しゅうじ/梵字)の下に入峰者名(講名)と年月日を記してある。これを大峰七十五靡(拝所)ならば七十五枚を用意して、いちいち打ってゆく。しかしもとは木の枝に文字を彫ったらしく、永仁三年(1295)の真木碑伝(重要文化財)が、大峰山中第一の秘所である笙の窟に残っていた。これを前鬼山伏村の森本坊が保存していたが、現在奈良国立博物館に寄託されている。しかし私は碑伝にはもう一段前の段階があって、生木の枝を置いてきたものと思うが、今は触れないことにする。ともあれ巡礼札は紙の前は板(簡)であり、その前は木の枝であった。

 

P104

 私はこれらの事実から、平安時代の修行者には、修験派と巡礼回国派の二つがあったのではないかと考えている。これは修験派が密教に傾斜していたのに対して、巡礼回国派は法華経中心だったからである。観世音菩薩も法華経の普門品に説かれた仏であるが、日本回国も法華経六十六部を如法書写して、六十六ヶ国に納経することから始まった。この巡礼回国派が西国観音霊場巡礼を開いたために、三十三所に「納経」するという巡礼方式が出てきたものと、私は考えている。

 しかも面白いことに御室戸僧正隆明は「居おこない」で大峰抖擻はしていないので、もっぱら巡礼回国派を援助したらしい。これに対して一乗寺僧正増誉は大峰修行して修験派の偶像になった。このようなところからも叔父甥の争いになったのであろうが、注意すべきことは、辺路修行の延長の峰路修行と私が推定する葛城修験は、法華経の納経埋経を修行形態とし、巡礼回国派と一致する。そしてこの辺路と峰路に沿って、もっとも古い巡礼霊場の一番から八番まで布置されていることも、偶然とは言えなくなると思う。

 

 

第4章 四国遍路と辺路信仰

P137

 修行者というものは恐ろしいことをするものである。千仞の谷の上で、遊園地などにある回転鎖にぶら下がって回るようなものである。私は梯子があっても、とてもできる芸ではなかった。私は修験道の実践には行道が必須であることを力説してきたが、これほど厳しいものとは思わなかった。大峰山上ヶ嶽の行道岩(平等岩)でも私は戦慄した経験があるけれども、菅生の岩屋寺白山権現の行道は、もっと危険をともなうものであった。それは目を瞑って一心に神や仏を念じて、無心にならなければできない行道である。

 しかもこれは青年空海も遊行前の一遍も、ここへ来たからには、必ず行なったにちがいない行道なのである。そのうえ、そのころの行道には頂上の鉄の輪も鎖もなかったのであるから、必死で爪で石にしがみついて回ったはずである。空海や一遍の偉大な宗教的人格は、この必死の宗教的体験なしには生まれなかったであろう。近頃流行する甘い空海論や一遍観は、排除されなければならない。

 

P143

 いま青龍寺真言宗智山派になっているけれども、天台寺院だった時代に白山神社ができたのであろう。本堂と白山神社の間に小さな薬師堂があるのが、天台宗時代の本堂と考えて誤りはない。そして今の本堂、すなわち不動堂の左側の大師堂は、四国霊場札所としてできたものであろうが、不動堂がどうして本堂になったのか問題である。

 それはこの寺のある如意山と摩尼山の、向かって左手の、海に面した岬の上が独鈷山で、ここに奥之院不動堂があるからである。

 

P151

 (我拝師山/がはいしさん)稚児大師像があるのは、ここが「捨身ヶ嶽」と言われるところだからで、大師伝のなかで有名な空海七歳のとき、我が師釈迦如来に逢わんがために身を投げた山である。それで我拝師山というが、ここから腹這いになって下を覗くと、なるほど垂直の断崖である。このように谷を覗く「覗きの行」を「捨身行」と言ったのであろう。青年空海がこの捨身行を行なったために、捨身嶽の名ができたと推定できる場所である。これも辺路修行の一形態と思われ、実際には修行者の体を藤蔓などでしばり、断崖上の松の木の枝などから吊り下げたものと、私は推定している。

 

P153

 しかし捨身行は山岳宗教では滅罪行であって、罪穢に満ちたこの肉体を捨てて、成仏した精神が永遠に生き、無限の衆生済度をするための実践である。これを実際の捨身でなく、「業の秤」や「覗き」として行なう場合は、滅罪によって再生し即身成仏するためである。これが伝承化されて、七歳の空海が肉体を我が師釈迦如来に供養せんがために捨身して、釈迦と天女に抱きとめられたという大師伝の一節になった。

 しかし一般にこの山は「わしのやま」と言って霊鷲山に擬せられたので、釈迦如来に逢わんとしたと言われている。これもおそらく後世の伝承で、西行が「わかいし」と呼ばれたと書いたことから見て、もとは「わかいち」すなわち熊野若一王子(にゃくいちとも読む)が祀られていたのではないかと思う。若一王子は熊野の辺路に多く祀られているので、瀬戸内海のように熊野信仰が濃厚に伝播したところでは、若一王子がある可能性が強い、というのは熊野そのものが海洋宗教だったからである。

 我拝師山はやはり空海以前からの辺路の霊場であったので、青年空海がここで辺路修行したために、禅定院の本尊は求聞持法の虚空蔵菩薩になったのであろう。我拝師山捨身嶽の石の護摩壇は辺路の聖火跡と考えられるが、この山に連なって「火上山」があるから、これも聖火を焚いたものかもしれない。いずれにしても我拝師山は空海の生地に近いということもあり、彼の辺路修行の出発であったのではないかと思う。

 

 

第5章 紀伊の遍路と熊野詣

P161

 もちろん王子は辺路の拝所に熊野信仰がダブったときに名づけられるもので、国東半島の守江港(杵築市)にある王子社には、熊野の神木である梛(なぎ/竹柏)の木が神木となっていた。ここは海岸の陸繋島のようになった樹叢(楠・山桃・タブ・榊・ヤブニッケイネズミモチ等)の山で、鳥居には八幡宮とあったが、バス停は「王子」だったので、入ってみると「八王子八幡」の石額である。このように王子が他の神社と合併して名を変えることはしばしばあるもので、夷社や弁天社や八幡社、稲荷社に変わることが多い。単純な神道の常識では処理できないのである。「八王子」というのも掲額や絵馬が王子神社とあることから見て、八幡と合併してから、八幡の神紋の八の字形の鳩が、「八」の字になったものと推定できた。そしてこの鳥居内の十戸ほどの集落が「王子」であった。

 

P170

 阿須賀社(飛鳥社)の山を蓬莱山と呼ぶのは、これがもと海中の島であったからで、そのために徐福伝説もできたのである。

 この蓬莱山には弥生時代の遺跡も発掘されているが、熊野川の河口で瀬が変わりやすく、昨日の渕は今日の瀬となるような浅州(あすか)のために、この名ができたらしい。

 

P188

 そこで神社での行事は神に神饌を毎日差し上げたり、採点の準備万端を調えるものであるが、阿須賀社が「大行事」であれば、ここから新宮に対して神饌として懸魚(けぎょ)その他の海の幸を差し上げ、祭典には重要な役を務めたであろう。私はその名残りが先にあげた『和漢三才図会』(紀伊)の、「飛鳥社は祭神未詳で、九月十五日の祭典にはこの社の内陣から錦ノ袋を、馬で新宮内陣へはこぶ」とあるのに残ったのであろうと思う。ところが三山構成の中では承仕大行事が三所三殿の横に若宮として入り込んでしまったのである。

 私がこのように推論するのは、白山大行事の例があるからである。白山三所権現の中の白山大行事も従来解釈のできない神であった。したがって私の考えをここで簡単に述べても説明不十分の不徹底な理解に終わるかもしれないが、山岳宗教の立場からの見方を述べておこう。

 白山三所は中心に「白山妙理権現」(大御前峰)、左に越南知権現(大汝峰)右に「別山大行事」(別山)の三社から成っている。従来は白山妙理権現は菊理媛で、熊野新宮の速玉大神のように、伊弉諾尊の穢を払う神とされ、越南知権現は大己貴神とされて地主神と言われた。いずれも十一面観音、阿弥陀如来を本地とする。しかし別山大行事は別山に祀られる神で本地を聖観音とする。これは白山を開いた泰澄が、白山階層にどこから登ったかが明らかにされなかったから大行事の意味がわからなかったのである。

 平安中期に遡りうる泰澄伝では、越前の越智山から九頭竜川を遡って、石徹白から別山を経て登頂したと推定される。したがって石徹白中居神社は、白山妙理権現と越南知権現に奉仕する、大行事としての泰澄を祭神として祀ったことになり、開山堂(体調像を本尊とする)が中居神社境内にあった理由も明らかになる。

 このように大行事は本社の紙に奉仕する者が、神として祀られたもので、阿須賀大行事も王子神(夷神)が本社に奉仕する形をとって、神饌を捧げることからミケツカミ(御食津神・御狐神・三狐神)と呼ばれ、やがて稲荷神と成ったのであろう。

 

P190

 高倉下(たかくらじ)は「高倉主」の約音で、高倉(高座)すなわち今の神倉の主(神)ということになろう。

 

P191

高倉下の配下で、神武天皇の嚮導者(みちびきひと/先達)を命じられた頭八咫烏(やたがらす)は、神話では鳥の烏とされるけれども、「頭八咫烏」の文字が示すように、頭に大きな烏帽子を被った山伏で、山野を踏み分ける「先達」であった。烏帽子が熊野山伏のシンボルだったことは、「熊野那智参詣図」(那智曼陀羅)の滝本衆の烏帽子を見ればわかるが、山野跋渉に不便なこの烏帽子を被るのは、鵜匠や浦島太郎の絵に見られるように、海民の被り物が海の熊野の山伏の被り物になっていたのかもしれない。

 

P194

 今まで王子は伊弉諾命と伊弉冊命の間に生まれた王子、天照大神と説明されてきたが、これに疑問を持つものは多かったと思う。また熊野詣の途中で、熊野三所権現を遥拝する社とも説明されたけれども、これも間も無く到着する本社であれば、遥拝などせずに本社へ急ぐべきであろう。しかしこの「遥拝」を辺路の遥拝、すなわち常世への遥拝とすれば、海洋宗教の聖地とすることができよう。また第三の説明は熊野詣の途中で、休息したり宿ったりする社を王子とするが、海洋宗教ではそこに留まって修行する場所が王子なのである。このように見ると、三山信仰以前の海洋宗教の聖地が、その機能を保持しつつ、三山信仰の聖地に転化したことが読み取れるのであり、地形的にはほとんど変化がなかったであろうと思われる。

 

P197

 このように王子と稲荷は、食物を豊かにする神としての機能を一にするので、一体化したり、分離しても一方が失われれば、一方が残るという関係にある。(中略)王子と王子の間の距離には大小はあるが、4キロないし5キロが多いからである。

 

P198

 しかし東寺の鎮守に稲荷が出現するより前に、熊野の王子に稲荷が現れたという主張は、常世から去来する神(祖霊)が稲をもたらすという信仰を想定しなければ、あまりにも突飛な物語になってしまう。(中略)しかし王子が常世の海洋神であり、辺路の王子がその拝所であるとすれば、王子は「弥勒踊」(鹿島踊)の文言の示すように、米をもたらす神である。

 これを南島の古代伝承と類比すると、琉球に稲種をもたらしたのはニライカナイ根の国常世)から渡ってきたアマミキュ・シネリキュであったという伝承とも一致する。この去来神を『琉球神道記』(袋中上人著、慶長十三年)の巻五は、

  又ヲウチキウト云海神、長一丈許、キン大ナリ。

と書いているので、ヲウチと王子の共通性も考えられるかもしれない。キュ(キウ)は海から来るとの意である。

 私はこのアマミキュ・シネリキュが稲種をもたらしたという久高島の海岸に立ったことがあるが、その印象は熊野の海と同じであった。そうすると熊野の辺路の王子が稲荷とされ、王子が失われても稲荷が残る可能性はあると言わなければならない。

 

P209

 (「熊野那智参詣図」)そのほか大鳥居の前には3人の赤い帽子をかぶった山伏が立って読経しており、その後ろに余人の層が四本幡を捧げている。四本幡は葬式の幡であるが、これも生者の渡海を死者に擬して送ったかもしれない。しかしこの図の雰囲気は必ずしも生きながら渡海する者を送り出す生々しさが感じられない。これは補陀落渡海がもと死者の霊を常世へ送る水葬儀礼だったものが、中世には辺路修行者の捨身と入水往生に変化し、近世に近づくにつれて再び水葬儀礼に戻ったことを示すものと、私は見るのである。