周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

双頭蓮

  康正三年(1457)七月十九日条  (『大乗院寺社雑事記』1─193頁)

 

    十九日

   (中略)

 一去十三日上北面専親大安寺ノ東池ヨ杉山ノ池リ双頭蓮ヲ取進、希代ノ蓮也、今日

  家門一条殿ニ上進之、去年相国寺ノ山門ノ前ノ池ニ開了、一天下ノ為見物了、

  又去月末東大寺八幡社ニ双頭蓮ヲ立之云々、或人云、室町殿ヨリ東北院ニ給之、

  東北院八幡ニ進之云々、於京都者何池ニ不知開云事者也、大方希代事也、

 

 「書き下し文」

 一つ、去んぬる十三日上北面専親大安寺の東池〔杉山の池〕より双頭蓮を取り進らす、希代の蓮なり、今日家門一条殿に之を上進す、去年相国寺の山門の前の池に開き了んぬ、一天下の見物と為り了んぬ、又去んぬる月の末東大寺八幡社に双頭蓮を立つと云々、或る人云く、室町殿より東北院に之を給ふ、東北院八幡に之を進らすと云々、京都に於いては何の池に開くと云ふ事を知らざる者なり、大方希代の事なり、

 

 「解釈」

 一つ、去る七月十三日に上北面の専親が大安寺の東の池〔杉山の池〕から双頭蓮を取って差し出した。珍しい蓮である。今日、実家の一条邸にこれを進上した。去年、相国寺の山門の前の池で双頭蓮の花が開いた。国中の見物となった。また先月末、東大寺の手向山八幡宮で双頭蓮を立てたという。ある人が言うには、室町殿から興福寺東北院にこれをお与えになった。それを東北院が手向山八幡宮に進上したそうだ。京都ではどの池で花が開いたのかということを知らないのである。およそ珍しいことである。

  

 「注釈」

「上北面」

 ─大乗院家の経営に当たる坊官や侍の下で、雑務にあたった僧。随身や使者として活動したり、儀式や風呂の執行や準備に当たったりしていた。上北面・下北面に分かれている。稲葉伸道「鎌倉末期の興福寺大乗院家の組織」(『中世寺院の権力構造』岩波書店、1997年、315・317頁)、森川英純「中世興福寺の法衣と袈裟、そして自治」197頁・同「室町期興福寺住侶を巡る諸階層と法衣」1・12・28頁(『大乗院寺社雑事記研究』和泉書院、2016年)参照。

 

「八幡社」

 ─手向山神社。現奈良市司町小字手向山。手向山を背にしてその西麓にあり、手向山八幡宮東大寺八幡宮などと呼ばれる。東大寺の鎮守社であったが、明治維新神仏分離によって独立した。(中略)

 〔祭礼〕 神社の祭礼で中心をなす碾磑会は転害会・手掻会とも記し、古くは勅祭であった。八幡神を宇佐から影向勧請した行列を再現したもので、東大寺佐保路門が御旅所隣、転害会が行なわれるので転害門と呼ぶようになった。勅祭にはあらかじめ東大寺僧が会行事のために任命された。祭礼は九月三日(現在は十月五日)で、宵宮には田楽や舞楽が催された。当日は畿内と伊賀の六カ国で摂政が禁断された(嘉元二年「官宣旨」当神社蔵)。早暁から北廊で七僧法会が行なわれる。行列の道順は神社から大仏殿、それから南を水門町に折れ雲井坂に出て少憩、ここで田楽・細男の舞がある。北に進んで転害門で少憩、昼頃となる。楽人が乱声(舞の出の雅楽)を奏し、神輿を壇上におく。そして神供・祭式・舞楽を行なう。ここから東へ入って鼓坂(つざか)をのぼり、慶雲楽を奏する。文明十四年(1482)の行列次第(東大寺雑集録)によると、行列は一番の御前から競馬十騎・騎兵二十騎・番匠両座十騎が続き、十五番には一神輿、二十番目に二神輿、二十五番目に三神輿の渡御があり、二十九番細男・三人乗馬、三十番新座田楽・白幣・次群参とあり、長い行列であった。転害会は「東大寺要録」などに散見するが、その最も古いものは「寛平年中日記」で、諸費用が記されている。南都の祭礼としては最も古く盛儀であった。勅祭の儀は天文八年(1539)まで行なわれ、以後神社や東大寺、郷民などの手で行なわれるようになった。神仏分離で祭礼は経済的事情もあってむしろ衰退した。

 二月三日の御田植祭は、新刊を中心に神社所在地の雑司町と近くの川上町の氏子が参集して行なわれる。他の神社の御田植祭と変わらないが、田植えの言葉のやり取りは古い謡曲口調の候文で行なわれている(『奈良県の地名』)。

 

「東北院」

 ─興福寺の院家の一つで、主に名家出身の僧侶(良家身分)が入室する(呉座勇一『応仁の乱中公新書、2016年、7頁、森川英純「室町期興福寺住侶を巡る諸階層と法会」『大乗院寺社雑事記研究』和泉書院、2016年、1頁)。

 

 

*一つの茎に二つの花が咲く。そんな珍しい蓮のあることをまったく知りませんでした。「双頭蓮」で検索をかけてみると、古いところでは、『日本書紀』も瑞兆として記載されているそうです(「花蓮の歴史ごよみ」京都花蓮研究会、http://www.ihasu.net/history.html)。今回の史料を見ると、古代で吉兆とされた双頭蓮は、中世でも珍重され、贈答品として献上・下賜されていたようです。