周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

興福寺

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 

 「大乗院寺社雑事記」(『角川新版日本史辞典』より)

 興福寺大乗院門跡の尋尊・政覚・経尋3代の日記。約190冊。1450─1527(宝徳2─大永7)にわたる。しばしば興福寺別当を兼ね、寺内のみならず大和国内に大きな影響力をもつ門跡の自筆日記で、特に応仁の乱前後の基本史料。元本は内閣文庫蔵。このうち『尋尊大僧正記』『尋尊大僧正記補遺』『政覚大僧正記』が刊行されている。

 

 「尋尊」(『角川新版日本史辞典』より)

 1430─1508(永享2─永正5)室町期の興福寺大乗院門跡。大僧正。父は一条兼良。1438(永享10)足利義教の圧力で隠居した経覚のあとをつぎ、以来70年在院。1456(康正2)興福寺別当筆まめで多くの記録等を残す。特に日記『尋尊大僧正記』は室町期の社会全般に関する必須の重要史料で、『大乗院寺社雑事記』として公刊。

 

 「興福寺」(『奈良県の地名』平凡社

〔組織〕長官は別当といい、その任免は藤氏長者の執奏に基づく宣下職であり、宣下とともに長者宣も出され、一般に「三度長者宣」(大乗院寺社雑事記)といった。また竜門(現吉野郡吉野町)・竜蓋(現高市郡明日香村)両寺の別当をも同時に兼ねた。別当は権別当(宣下職)の補佐により寺務を主宰し、寺門(寺務)領を管し、権別当・五師・三綱(以上宣下職)、四目代・大供目代以下を任免し、また和爾・高樋両河用水、能登・岩井両河用水などの管理にも当たった。別当について、貞和四年(1348)の興福寺軌式(内閣文庫蔵大乗院文書)では「寺務 不論貴種凡人依器用被恩補所也」とみえる。本来は出自の貴卑にかかわらずその器量によって恩補されるものであったことがうかがえる。貴種(摂関家出身)の住房を門跡といい、一乗院・大乗院があった。良家(公卿出身)の住房を院家といった。中世では両門跡のほか諸院家からも別当が補任されることになっていたが(海人藻芥)、近世では両門跡交代となった(寺社分限記)。また鎌倉期を通じて荘園・末寺は寺務領・同末寺のほかに両門跡のそれが形成され、両金堂・諸院諸坊もそれぞれ分属していった。その過程は別当(寺務)に対して両門跡の台頭をうかがわせるが、それは反面別当の没落ともいえよう。

 別当は一寺の管理運営にとどまるものではなかった。寺門事条々聞書(内閣文庫蔵文書)の応永二十一年(1414)七月八日条には「大和洲者、承保之明時御寄附一国吏務於興福寺、元暦之往代重付守護職畢」とみえる。これによると、興福寺は承保いらい大和一国を宛行われ、元暦以来大和守護であったという。とくに鎌倉期以降は実質守護権を行使したといえよう。その権力基盤として同期中頃には衆徒・国民の制が確立したと考えられる。このうち衆徒は別当被官人であったもので、「寺務成敗之地悉以衆徒奉行之、七郷以下寺社諸検断也」(大乗院雑事記)とみえる。衆徒は軌式では「悉取弓箭之輩也」とある。国民は「悉号春日社白人神人」とあり、春日社の被官となったものである。前者は僧兵、後者は俗体の武士である。しかしこの守護権も両門跡の台頭により鎌倉末期以降両門跡、そのうち建武新政権のもとでは一乗院に移っていたと考えられる(建武元年の「坊領証文紛失状」吉水神社文書)。南北朝期、両門跡は両朝方に分かれ対立するなかで、衆徒・国民も両方に分属するようになる。軌式では衆徒について「多分雖属両門跡」とある。国民も同様。

 次に別当の寺務についての執行機関として五師・三綱があった。五師は別当の命により寺務を評定し、神事法会を主宰するもので、五口(人)よりなる。うち一口が別会五師で、五師の代表である。三綱は所司ともいわれ、庶務に当たった。上座一口、寺主二口、権寺主四口、都維那三口、計十口からなり、時に権都維那が置かれた(大乗院雑事記)。三綱について軌式では「多分両門跡昵近之候人也、良家諸大夫凡人侍也、両類有之、補任次第同前」とみえる。両門跡の勢力が寺務内に入ってきていることがうかがえるが、いずれ門跡の庶務にあたるようになる。寺務政所の他に両門跡にも政所ができてくる。五師・三綱のもとで寺務の処理を分掌したものに四目代があった。修理・会所・公文・通の四目代である。修理目代以外は三綱のうちから選ばれた。「興福寺年中行事」によると、修理目代は「寺社在々所々橋并諸会式仮屋以下作事方一切致奉行、料所杣以下自国他国在之、第一目代也」とみえる。目代の第一であり、作事奉行である。室町期には成身院光宣(六方衆)が長年任じている(大乗院雑事記)。

 会所目代は「維摩会以下諸会式莚畳以下并供料等諸下行致奉行之、料所自国他国及一・二百ヶ所」とあり、法会奉行である。公文目代は「一切検断方并諸書下廻文等致奉行之、料所自国他国在之」とみえ、文書奉行である。通目代は「七堂等并諸会式仏供灯明方悉皆致奉行之、料所同大略在和州」とあり、七堂・諸会式の仏供・灯明の調達に当たったものである。料所は寺務領荘園となる。そのほかに、大供目代(供目代)がおり、「鯰江庄大供料方致奉行号供目代、併寺務代官、寺門集議等趣下知成敗」とあり、孝謙天皇施入の大供管理者であったが、そのほか学侶集会の書記ともなった。また別当の秘書として出世奉行、同下人に専当がいた。中綱・少綱・下所司ともいう。そのほか、七堂の奉行である堂司、天文暦法をつかさどる陰陽師などもいた。堂司は大行事・行事僧ともいう。

 一方、僧徒の身分としては学侶・六方があり、軌式では学侶について「携学業不取弓箭輩」、六方は「学非学相交者也」とあり、ともに学業僧であったが、六方には非学のものもいた。いずれも寺中・寺外の院坊に住しており、老衆を学侶、若衆を六方といった。五師・三綱は学侶から出、六方とともに国中の検断にも当たり、有事に際しては郡使をもって衆徒・国民を動員したもので、守護権の行使ともいえるものである。

 七堂衆を堂衆といったが、これは東西の両金堂衆を指すのが普通のようで、軌式では「両堂々家 苦行与弓箭之輩也」とある。また講衆もいた。これは維識講衆の略称で、興福寺僧徒の汎称でもあり、﨟によって上中下に分かれ、上﨟は大僧正以下の僧官僧位を有するもの、中﨟は上臈以外の学侶・六方の学道、下﨟はその他で、前二者は決議機関、下﨟はその執行に当たったが、講衆としての権限は三ヶ大犯である児童・神鹿・講衆に関する犯罪に限定されていた(大乗院雑事記)。

 なお京都との関係で南都伝奏があった。もともと南曹弁ともいい、「大乗院雑事記」文明三年(1471)閏八月二十二日条には「南都伝奏事、上古ハ以南曹弁毎事申入公家、近来号伝奏、別而被付奉行、公家武家ニ伺申者也」とある。

 集会 集会には学侶・六方・堂衆・講衆・衆徒の集会があり、学侶六方集会・学侶衆徒群議などもあったが、その全体の集会は満寺集会等と称された。「大乗院雑事記」の長禄二年(1458)五月十日条には、能登・岩井両河用水争論について「両河用水事、為五師中令披露学侶集会、押而可給四十八町之由及評定、為寺務任先例成敗ノ上者、重而可及評定事、且不可然歟之由、学侶評定候(下略)」とある(→四十八町)。この両河用水は寺務(別当)の所管であった。番水について荘園相互間で問題が起こっている。寺務は先例によるべしといっているが、それでは解決しないままに五師が学侶集会に諮ったが、事態が紛糾している状況がうかがえる。ときに満寺集会も開かれているが、同書の寛正二年(1461)八月二十三日条には、春日社領摂津六車郷久米井事(用水の件)については「追而可及閇門等沙汰旨、任満寺群議、(中略)学侶集会評定候也」とみえる。学侶集会が満寺群議によって用水問題を解決しようとしていることがうかがえる。こうした寺院の運営は他寺のそれと相まって寺領内の諸郷等にも及んだ。

 同書の明応三年(1494)六月四日条には「就無縁堂紙屋小五月銭事、惣郷集会成之」とみえる。大乗院郷のうちの元興寺郷の小郷である無縁堂郷(現三棟町か)では大乗院から紙屋への小五月銭の賦課について惣郷集会をもっているのが知られる。さらに「多聞院日記」の元亀三年(1572)四月十二日条では「ナラ中集於南大門集会沙汰之、今度京ヨリ尾張衆下、可陳取之由(下略)」とみえる。これは外敵の侵入に対して奈良中の者が南大門で集会を開いて同心し抵抗を示したものといえよう。集会は奈良からさらに布留郷など各地に広まっていく(大乗院雑事記など)。なお文書のうえでの集会として落書起請文による票決があった。犯人不明の場合などの無記名投票といえるものであった(西大寺敷地四至内検断規式条々)。こうした寺院の集会は、「延喜式」に「凡諸大寺別当三綱有闕者、須五師大衆簡定、能治簾節之僧、別当三綱共署申送、東大寺知事亦同」とある点と関係するものと考えられる。別当以下寺院の中枢は五師・大衆によって選ばれたことがうかがえる。これは寺院の自治を示すもので、諸集会の根源と考えられる。もっとも興福寺は別であり、「延喜式」には「凡興福寺別当三綱者、不依諸大寺之例、随氏人簡定補之」とあり、藤氏一族の選び定めるところであったが、趣旨は諸大寺と同じであり、東大寺等諸大寺の影響もあり、興福寺内諸集会も同様であったと推測される。

 

 〔中心堂塔〕

 南大門跡 三条通の辷坂(すべり)の上にある。土壇・礎石が遺存し、築地塀の一部は旧位置に立っている。一名沢潟門(おもがた)という。南大門の西脇に額塚(茶臼山)がある。門前石段下の般若芝は明治維新まで猿楽四座の太夫が毎年二月に薪能を舞ったところ。

 興福寺薪能はもともと同寺に奉納された神事猿楽から発展し大成したもので、わが国能楽の歴史ともいえるほど古典芸能として価値は高く、能楽界ではこの薪能と春日若宮おん祭の「松の下の能」とは能役者の登竜門とさえ言われた。昔は修二会の期間中に行われたが、近年は五月十一、十二両日に催される。初日は昼間の演能で、古式にのっとり、春日大社拝殿で「呪師走り」の儀や「御社上り」の儀が行われる。古くは能楽四座が順に社頭で奉納した。続いて舞台は興福寺南大門跡に移され、能狂言五番が演じられる。午後三時頃に始まり、夕刻には最高潮に達する。あたりが薄暗くなり始めると、正面の左右に据えられた薪の火床と、篝に火が付けられ、その炎に映えて能面がつやつやしく浮かび上がる。

 

 中金堂(ちゅうこんどう) 和銅三年(710)藤原不比等の創建。東西両金堂ができてからは中金堂院と呼ばれていた。その後、永承元年(1046)・康平三年(1060)・永長元年(1096)・治承四年(1180)・建治三年(1277)・嘉暦二年(1327)・応永十五年(1408)・享保二年(1717)に焼失。現堂は文政二年(1819)の仮建築。俗に赤堂という。石基壇上に旧礎が整存し、左右回廊の復廊礎も一部残存する。中近藤仏壇に用いられた創建当時の格狭間付の羽目石は、現在堂裏の踏石の沓脱石に流用されている。本尊は木造薬王・薬上菩薩(国重文、鎌倉時代)木造四天王像(国重文)を安置。

 

 東金堂(とうこんどう) 神亀三年(726)七月、聖武天皇元正太上天皇のために創建。寛仁元年(1017)・永承元年・康平三年・治承四年・延文元年(1356)の五度の罹災を経て、現堂は応永二十二年の六度目の再建である。国宝。桁行七間、梁間四間、寄棟造・本瓦葺。前面一間通りを吹放しにし、唐招提寺金堂にみる奈良時代の古様を伝えており、復古的な和様建築である。

 本尊の銅像薬師如来坐像(国重文)は応永二十二年の造立。銅像日光菩薩月光菩薩両脇侍像(白鳳時代)は文治三年(1187)に飛鳥の山田寺講堂から本尊とともに運び出された薬師三尊の両脇侍像と考えられている。昭和十二年(1937)の東金堂修理の際、本尊の台座下から世に「山田寺の仏頭」と呼ばれる銅像仏頭(国宝、白鳳時代)が、銀造仏手(国重文)などとともに発見された。また東金堂には木造四天王立像四軀(国宝、平安時代)、木造維摩居士像・木造文殊菩薩蔵・木造十二神将立像(以上三体国宝、鎌倉時代)を安置する。東金堂鰐口は建長八年(1256)の作。旧法華寺金堂鰐口で銘文は表面銘帯にあったものを一部分残し明治四年に改刻している。

 東金堂の主な行事としては、二月節分の夜、薬師悔過法要の後で行われている鬼追式、四月二十三日の文殊会がある。

 

 五重塔 天平二年(730)四月、光明皇后の建立、寛仁二年・永承元年・康平三年・治承四年・延文元年・応永十八年に焼亡、現在のものは応永三十三年六度目の再建である。国宝。三間五重塔婆・本瓦葺。総高約50メートル、現存塔婆中、東寺の五重塔に次ぐ高塔である。純和様で、天平建築の平面を守り、型式も復古手法をとる。堂内には、木造薬師三尊像ほか(室町時代)を安置。塔前に天平創建の際の石灯籠の基礎を残存、単弁蓮華に当時の特徴がある。ほかに天文十四年(1545)の石灯籠一基が立っている。

 

 大湯屋 五重塔の東にあり、室町時代の建築(国重文)。四間に四間、一重・寄棟造・本瓦葺。内部の大釜は口径四尺五寸、胴回り六尺一寸、高さ四尺一寸、厚さ二寸五分。浴場で、平等無遮施浴と称した。中世以後大衆蜂起の衆議所でもあった。大湯屋の前の道を東に出るところに大湯屋門があった。

 

 西金堂跡(さいこんどう) 天平六年光明皇后が前年に亡くなった母の橘夫人のために建立、釈迦丈六の像を本尊とした。堂宇は享保年間に焼失した。八部衆像・十大弟子像(国宝、奈良時代)などは西金堂に伝わったもの。土壇が残存、前方には鎌倉後期の石灯籠台石があって、その上に寛永十七年(1640)の石灯籠が立てられている。

 

 北円堂 養老五年(721)元明天皇元正天皇長屋王に勅して藤原不比等のため円堂院を建立。八角円堂・南門・四面回廊のほかに堂一基廊一条があり(諸寺縁起集)、永承四年に焼亡、寛治六年(1092)円堂の再建をみたが、治承四年の兵火で炎上した。現堂(国宝)は承元二年(1208)三度造営されたもので、興福寺現存中の最古の建築である。昭和の修理は四十年に完工。八角円堂で単層・本瓦葺。純和様。内陣天井の彩色文様に特有な手法が見られ、間斗束の笈形彩色も有名。

 本尊は木造弥勒仏坐像(国宝、鎌倉時代)。「猪熊関白記」建永二年(1207)条や本尊台座の墨書銘によって、無著・世親像などともに運慶一門の手になったことが知られる。台座内枠に源慶・静慶・湛慶・康運・康弁・康勝・運助・運勝たちの仏師名がある。堂内に無著菩薩立像・世親菩薩立像(国宝、鎌倉時代)、木心乾漆四天王立像(国宝、奈良時代)ほかを安置。

 

 南円堂 弘仁四年(813)藤原冬嗣の創建。現堂は寛政元年(1789)に再建をみた。堂は八角円堂で、単層・本瓦葺。西国三十三所第九番の札所である。

 本尊木造不空羂索観音坐像は治承の焼失後に再興、木造四天王像や木造法相六祖像(いずれも国宝、鎌倉時代)などとともに、文治四年から五年にかけて仏師康慶とその一門によって造られたものである。堂前の青銅灯籠(国宝)は、宝珠・石基壇は江戸時代の修補、ほかはすべて鎌倉時代の造補、火袋扉のみ弘仁七年在銘。六面のうち四面が残っていて、陽鋳銘がある。「銅灯台銘并序」弘仁七載歳次景申、伊」予権守正四位下藤原」朝臣公等、追遵」先考之遺敬志、造銅灯」台一所、(下略)」この銘の筆者は橘逸勢と伝えるが、確証はない。神護寺(現京都市右京区)の鐘銘、道澄寺の鐘銘(五條市栄山寺所蔵)と並んで「三銘」と称される。南円堂梵鐘は、永享八年(1436)の造立。

 

 三重塔 康治二年(1143)八月、皇嘉門院の願で創建、治承に焼け、鎌倉初期に再建されたもので国宝。心柱には天文十九年(1550)十一月の墨書があり、当時修理があったのであろう。三間三重塔婆・本瓦葺。塔婆は平安後期の優美さがあるが、構造手法は鎌倉初期。

 

 食堂跡・細殿(ほそどの)跡 細殿は東金堂の東北、食堂はその北にあり、この二堂跡を併せた位置に現在の興福寺国宝館が建っている。造営年代は不明であるが、中金堂院内の重要建築として、養老五年ごろにはほぼ完成していたものと考えられる。この二つの建物は昭和四十年、四十一年に調査された。食堂は九間に五間の礎石建物、細殿は九間に二間のこれも同じく礎石建物である。二つの建物はいずれも凝灰岩の壇上基壇であった。また食堂の中央には一間の仏壇があり、背面中央と西側前端間には軒廊(こんろう)が取り付いていた。

 

 講堂跡 講堂は中金堂の北にあり、天平十六年以前の造営とされる(興福寺流記)。昭和四十七年調査された講堂須弥壇付近では、弘安八年(1285)再建の須弥壇とそれを元徳二年(1330)拡張した土壇および講堂基壇の南面で、創建時までさかのぼるかもしれない玉石敷雨落溝を検出した。

 

 

 「興福寺」『国史大辞典』

 奈良市登大路町にある法相宗大本山南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)、さらに和銅三年(七一〇)平城遷都にあたって春日野の現地に移建されたと伝えるが、実は鎌足所願の釈迦丈六像を本尊とし、不比等が発願、平城京左京三条七坊(外京)を寺地に点じ、霊亀・養老の交に創建されたということができる。藤原氏の氏寺だが、養老四年(七二〇)には官寺に列せられ、皇室および藤原氏一族の堂塔造営・寺領寄進によって天平時代に七堂伽藍の盛容を現わし、なお造営がつづいた。また猿沢池(四条七坊所在)や東松林二十七町が寺地に付属した。平城廃都の打撃もほとんど受けず、弘仁四年(八一三)に藤原北家の冬嗣が南円堂を創めたが、これによって摂関家が開運したといわれるし、弘法大師の鎮壇勤仕が伝えられて密教隆盛の時運に乗り、興福寺の発展が決定づけられた。なお、天平宝字元年(七五七)、藤原仲麻呂鎌足発願と伝えられる法相宗大会の維摩会を興したが、これが御斎会・最勝会と並んで三会の一つに列せられたのも寺勢をあげた。ついで貞観年間(八五九―七七)、摂関家が春日社の祭祀を振興したり、大和国の領国化を進めたのに刺激され、興福寺は春日大明神を法相擁護の神と説き、これを鎮守神として春日社を支配しようとした。まず在地領主層の春日神人を手なづけたり、寛仁二年(一〇一八)には法華八講を社頭で修し、これを春秋二季として氏長者の使を迎えて春日祭になぞらえ、なお春日大明神が慈悲万行菩薩と託宣せられたと説いて神仏習合をはかり、さらには春日神木動座の強(嗷)訴を始めて春日社支配を達成する。康和二年(一一〇〇)、白河上皇が社頭一切経料所として越前国河口荘を寄せて興福寺(のち大乗院門跡)に検校させたのが興福寺の春日社領支配の端緒となるし、永久四年(一一一六)に関白藤原忠実が春日西塔を東松林の別当坊(鹿園寺)の跡に建立し、祭神本地の四仏を安置したのが興福寺の春日社支配を促進させた。保延元年(一一三五)、興福寺衆徒は春日若宮を創建、翌二年からこれを西塔近くの御旅所に迎えて若宮祭を始めたが、これで春日社との一体化やその祭祀参与を誇示し、摂関家代官の国司に代わって大和一国を支配する道理を主張したのである。かくて摂関家と春日社・興福寺の大組織が成り、七大寺をはじめ国中の社寺、これに連なる土豪(在地領主)らの屈従を強いた。ここに興福寺の全盛が訪れ、別当のもと権別当・五師・三綱の寺務組織が成り、なお学侶・六方および堂衆の三千大衆(講衆)が統括され、教学もまた振興した。折から平清盛大和国知行や南都焼討(治承四年(一一八〇))に遭うが、敬神崇仏の時運に恵まれたため、春日社の神威を被って復興工事は進み、法会も盛大化した。これは鎌倉文化の興隆に資したが、ここで興福寺は永遠不滅の精気を注入され、なお荘園大領主として大消費生活を展開したため門前郷奈良が発達する。また寺中では摂関家子弟の入室する一乗院・大乗院両門跡が成立し、公卿子弟の院家とともに正・権別当職を占め、なお学侶・六方および堂衆らの諸院・諸坊が繁栄した。折から鎌倉幕府から大和の守護職を委ねられたため、輩出する名主層を衆徒・国民に起用していわゆる僧兵団を組成、これを学侶・六方に付属して検断権行使にあたらせた。鎌倉時代末期に両門跡の対立が生じ、衆徒・国民がこれに絡んで武力抗争に発展、南北両朝の対立を抱えこんで抗争が激化したため、寺勢はとみに衰えた。室町幕府の成立で守護職(両門跡が分掌)に復し、その保護で動乱の傷も治癒して往昔の繁栄が期せられたが、衆徒・国民が大小名化を競い、近国大名の角逐に参じたため、大和に戦乱が導入されるし、諸国の社寺領を喪失して興福寺は気息奄々となり戦国乱世を迎えた。織豊政権によって俗勢力を削がれ未曾有の沈滞を示したが、一方、春日社支配の朱印領主寺院として更生が許されたのがむしろ幸いし、なお徳川将軍家の保護で寺観もほぼ旧に復した。しかし、朱印領領主の経済窮迫がつのるやさき、享保二年(一七一七)に講堂から出火して大焼亡した。このあと金堂は仮堂のまま復興も進まぬという悲運に陥った。観音札所の南円堂がひとり復興し、これが庶民信仰を受けたにとどまり、空坊や廃跡が続出した。明治維新神仏分離により、門跡・院家が還俗して華族に列せられ、学侶らとともに春日神官に転じたため、主を失って一山は潰滅した。『興福寺文書』など、唐院保管分が春日神社に移管された。明治十四年(一八八一)、寺院再興が許されたが、境内は官没縮減、堂塔傍らに公道が通じるしまつであり、わずかに堂塔や宝物の文化財寺院として存続した。近時、堂塔所在の寺地が返付され、宝物館を付設して、ようやく寺観を整えるに至った。[参考文献] 『奈良六大寺大観』七・八、大岡実『南都七大寺の研究』、永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)、同「興福寺の歴史」(『仏教芸術』四〇) (永島 福太郎)

 

 建築  伽藍は創立以後、たびたび火災にかかったが、そのつど再建され、享保二年(一七一七)の火災まで当初の規模を伝えてきた。したがって、再建されなかった建物も、礎石などがよく残り、『興福寺流記』に引用されている興福寺の資財帳の記事と併せ考えて、創立の伽藍配置を知ることができる。伽藍は外京の東端、三条七坊の地を占め、三条大路からやや入って南大門があり、中門・金堂・講堂を中心線上におき、回廊は複廊で中門から金堂左右に達する。金堂・講堂間の左右に鐘楼・経蔵があり、講堂を囲んで東西北の三面に僧房がある。東西の僧房は大房と小子房からなり、北室は南から大坊・小子坊・大房の三棟が列び、大房は南を上階僧房、北を下階僧房という。また平安時代、東にさらに僧房ができ、これを東室というようになったので、本来の東室は中室と呼ばれた。食堂は講堂の東方にあり、細殿その他を伴って食堂院を形成していた。金堂の東南に東金堂と五重塔があり、回廊と築地で囲まれていた。西南には西金堂があり、西の塔は建てられず、ここに南円堂が建立され、またその北方には回廊に囲まれた北円堂があった。この配置は大安寺・東大寺などと共通性が多く、奈良時代伽藍配置の主流となったものである。 [参考文献]『奈良六大寺大観』九・一〇、大岡実『南都七大寺の研究』、太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』、毛利久「興福寺伽藍の成立と造像」(『仏師快慶論』所収)、大河直躬「鎌倉初期の興福寺造営とその工匠について」(『建築史研究』三一・三二合併号) (太田 博太郎)

 

 一乗院(いちじょういん)  興福寺両門跡の一つ。権大僧都定昭(永観元年(九八三)寂)の創建。第六代覚信は関白藤原師実男で興福寺に貴種(摂関家子弟)の入寺の最初といわれ、貴種相承のゆえに鎌倉時代初頭から大乗院とともに院家の上位に位する門跡を称し、興福寺に属するが、独立寺院の格(別格寺院)となった。大和国中・国外の門跡領や末寺をみずから進止するし、興福寺の三綱ないし衆徒・国民らを坊官・坊人として門跡に分属せしめた。院家(公卿子弟が入室)も門徒としてこれに分属する。いわゆる五摂家分立にあたって近衛流(近衛・鷹司)が同門跡を管領(家門という)、特に近衛家が主となった。南北両朝対立に際し、門主覚実はその末寺金峯山寺検校の職に在ったため、後醍醐天皇吉野山に迎え、宮方となって武家方の大乗院門跡と抗争した。室町時代には大和守護職(大和平野部)を大乗院と両分(一乗院は西諸郡)、なお吉野・宇智両郡を管領した。また坊人の筆頭として衆徒筒井氏が発展する。戦国時代末に将軍足利義晴男の覚慶が近衛家猶子として入室、のち還俗して将軍義昭となったのが著名。なお、文禄検地で春日社兼興福寺領のうち別判物として千四百九十二石を充行われて近世朱印領主寺院として確立した。慶長十五年(一六一〇)、後陽成天皇皇子十宮が近衛家猶子として入室して、のち尊覚法親王となり、以来宮門跡として親王入室がつづいた。当代、別当職は両門跡の相承となった。当時、門跡には諸大夫・坊官・侍・北面などの家来が知られる。幕末、近衛忠煕男の忠起に至り、明治維新に際会して還俗、水谷川を姓として華族格に遇せられ、官幣大社春日神宮司となり男爵に列せられた。門跡は官没されて奈良県庁、ついで裁判所に転用、寝殿造の建物は現在唐招提寺に移建され、同寺の御影堂となった。なお門跡領荘園は、西は関白藤原基通から分与された島津荘から、東は下野塩谷荘に及び、大和国では千町歩の平田荘(近衛家領)ほか国中の三分の二を占めたといわれる。末寺は国外で大覚寺など、国中で金峯山寺当麻寺などを合わせ数十をかぞえる。ちなみに文書記録などの史料は大乗院門跡に比べて散逸がはなはだしいが、古来、名筆の所蔵が有名。なお近世の『真敬親王日記』が知られ、坊官二条家のいわゆる『一乗院文書』『一乗院記録』が分散現存する。また、『簡要類聚鈔』『古記部類』が一乗院門跡史料集成として貴重である。 [参考文献]永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)

 

 大乗院(だいじょういん)  興福寺両門跡の一つ。権大僧都隆禅(康和二年(一一〇〇)寂)が興福寺寺地の東方(春日野の西端)に創建した。関白藤原師実男の尋範のあと摂政藤原忠通男の一乗院信円が兼帯したため、貴種入室の門跡となった。治承四年(一一八〇)平氏の兵火によって両門跡も焼けたので、信円は隆禅僧都建立の元興寺別院の禅定院に移ってこれを大乗院家に定めた。大乗院門跡は興福寺からは離れた飛鳥山麓に位置し、宏壮な園池(旧大乗院庭園として名勝に指定)を囲む巨構を出現した。この移遷で大乗院門跡は元興寺郷をその寄郷として支配するし、奈良南郊に街区(大乗院郷)を発達させた。やがて、同門跡は摂家九条流(一条・九条・二条)の管領となり、近衛流の一乗院門跡に拮抗した。南北朝動乱には武家方に好意を寄せた。やがて足利将軍家から大和守護職(東諸郡)と宇陀郡とを給わり、一時は一乗院門跡を凌ぐ厚遇をうけた。しかし、門跡領は春日社一切経料所越前国河口荘検校職が有名だが、九牛の一毛と門主の尋尊が嘆じたように一乗院領には及ばない。末寺には長谷寺などがあったが、坊人も衆徒の古市氏が筆頭で筒井氏に劣った。この一乗院門跡との格差が、近世朱印領九百五十一石、そして摂家門跡となるゆえんである。なお、近世初頭にこれに入室する九条流は嗣を欠き、将軍足利義昭男が一時入室したりしている。やがて近衛流鷹司家の相承に委ねられた。なお、一乗院門跡と交代で別当に任ぜられた。幕末、二条家出身の隆温が入り、明治維新に際して還俗、松園氏を称し華族(男爵)に列せられた。門跡は官没、のち鉄道院の用地となった。ちなみに、室町時代筆まめな尋尊が公務日記(『寺社雑事記』)や『大乗院日記目録』『三箇院家抄』などの記録を多量に遺したのが有名。なお、近世享保年中(一七一六―三六)に隆遍が学問所を興して門跡内外の文書記録を整理ないし書写に努めた。これにより尋尊以降歴代の『大乗院寺社雑事記』や『大乗院文書』が現在に伝わったのである。 [参考文献] 永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三) (永島 福太郎)

 

 北円堂  元明太上天皇元正天皇藤原不比等の供養のため創立したもので、不比等の一周忌にあたる養老五年(七二一)に完成した八角円堂である。その後、永承四年(一〇四九)に焼け、寛治六年(一〇九二)に再建され、治承四年(一一八〇)に焼けて承元四年(一二一〇)宝形を挙げたのが現堂である。平面は当初の規模を踏襲しているが、平三斗(ひらみつと)を二段重ね、繋虹梁を二重にしていることや、内法長押裏に内法貫を通している点などは中世再建にあたり改められたところであろう。地垂木が六角形なのは、奈良時代の円、平安時代の楕円の形式を承けたもので、飛檐垂木を二重にし、軒が三軒となっているのは珍しい。内部に床を張らないのも当初からの形式で、内陣小壁の間斗束(けんとづか)両側に描かれた笈形は、法界寺阿弥陀堂のものとともに著名で、天井と板状の天蓋に装飾文様が残っている。国宝。 [参考文献] 奈良県教育委員会奈良県文化財保存事務所編『重要文化財興福寺湯屋・国宝北円堂修理工事報告書』、足立康「興福寺北円堂及びその仏像の再興」(『日本彫刻史の研究』所収)

 

 東金堂・五重塔  東金堂は聖武天皇元正太上天皇の病気平癒を祈り、神亀三年(七二六)に造立したものである。天平二年(七三〇)に光明皇后の発願により造立された五重塔とともに東院仏殿院と呼ばれ、北と西には回廊があり、南と東は築地で囲まれ、西回廊の東金堂・五重塔の前にそれぞれ各一門を開いていた。両者は接近して立っているので、罹災・再建をほぼともにし、寛仁元年(一〇一七)・永承元年(一〇四六)・康平三年(一〇六〇)・治承四年(一一八〇)・延文元年(一三五六)に焼け、その後まもなく再建されている(ただし、永承・康平の火災において両建物がともに焼けたかどうか、明らかでない点がある)。その後、応永十八年(一四一一)に雷火で焼失し、東金堂は同二十二年、五重塔は同三十三年に再興された。これが現在の建物で、平面はともに創建の規模をそのまま伝えるものと認められる。両者とも細部の様式手法は再建時の様式を示しているが、鎌倉時代に輸入された大仏様・禅宗様によるところはなく、純粋な和様を保っている。これは応永年代に復古的な傾向があったことを示すものではなく、罹災・再建に際して常に保たれてきた興福寺の建築のもつ伝統の強さの現れとみるべきであろう。ともに国宝。 [参考文献] 岸熊吉他編『興福寺東金堂修理工事報告書』、足立康「興福寺東金堂再建年代考」(『史蹟名勝天然紀念物』七ノ九) (太田 博太郎)

 

 南円堂  興福寺境内の西南隅に建つ八角円堂。同形の基壇上に建ち、正面(東面)には向拝風の庇屋根を掲げる正面一間、側面二間の拝所を付設している。弘仁四年(八一三)に藤原冬嗣が建立、亡父内麻呂発願の不空羂索観音像を本尊とし、四天王像を配祀、なお堂内には法相六祖像(いずれも鎌倉時代再興、国宝)を飾り、正面庭上に金銅燈籠一基(国宝)を供える。北方の円堂に対するものであり、ここで北円堂・南円堂が称されたが、北円堂にくらべ一まわり大きい。実は西金堂に配する西塔に代用するものであり、これで興福寺の堂塔は完成を示した。この南円堂建立の功徳で冬嗣は出世、その北家(摂関家)の全盛がもたらされたため、摂関家ではこれを氏寺信仰の中心とし、異姓の官使の登壇は許さず公家の祈祷も拒んだ。しかし、空海が創建に際して鎮壇に参仕したと伝えられ、なお観音信仰と相まって門戸はむしろ士庶に開かれ西国三十三所第九番札所として繁昌する。拝所の設備がこれを示している。永承元年(一〇四六)・治承四年(一一八〇)・嘉暦二年(一三二七)・享保二年(一七一七)の四回炎上するが復興は早い。現存の建物は寛政元年(一七八九)に竣工した。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』九、永島福太郎『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三) (永島 福太郎)

 

 三重塔  伽藍の西南隅の低地に立つ。皇嘉門院の御願により康治二年(一一四三)に創建されたが、治承四年(一一八〇)の兵火に焼け、その後再建された。再建の時期は明らかでないが、鎌倉時代前期と認められる。平安時代末から、三重塔は二重目から心柱を立てるのが普通になり、この塔もその形式によっている。平安時代創建のものであるから、内部に床を張り、周囲に縁をめぐらす。四天柱内は中心に細い柱を立て、これと四天柱とを結ぶ板壁を作り、千体仏を描いている。また四天柱・長押・幣軸などには、剥落しながらも当初の彩色が残っている。塔の組物は三手先(みてさき)が原則であるのに、この塔は初重だけ出組としている。これは軒の出は三重塔としての比例を保ちながら、初重の平面を大きくとるための工夫で、遺構ではこれと大法寺三重塔・那谷寺三重塔だけに見られる。国宝。 [参考文献] 足立康「興福寺三重塔の焼失年代」(『宝雲』二) (太田 博太郎)

 

 十大弟子像(じゅうだいでしぞう)  天平六年(七三四)、母橘夫人三千代の一周忌追福のため光明皇后が発願建立した西金堂の釈迦如来像を本尊とする群像の内、八部衆像とともに現存するもの。今、十大弟子のうちの六躯が遺り、それぞれ舎利弗・目〓連・須菩提富楼那迦旃延・羅〓羅の名がつけられている。いずれも袈裟をつけて立つ細身の姿にあらわし、モデリングも控え目にまとめながら、肉身の老・壮・若の区別を的確に造り分け、天平彫刻特有の格調ある写実的な作風をよく示しており、古代彫刻の名品として広く親しまれている。像内を中空とし、そこに木枠を組み込んだ典型的な脱活乾漆造になる。像高一四四・三~一五二・七センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』七、福山敏男「奈良時代に於ける興福寺西金堂の造営」(『日本建築史の研究』所収)

 

 八部衆像(はちぶしゅうぞう)  天平六年(七三四)光明皇后によって建立された西金堂とその釈迦如来像以下の群像中、十大弟子像六躯とともに現存する八部衆像。それぞれ五部浄・摩〓羅(寺伝では沙羯羅)・鳩槃荼・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅緊那羅・畢婆迦羅の名をあてている。これらのうち、五部浄はいま下半身を失った断片として残る。十大弟子像とともに仏師将軍万福の統裁下で制作されたもので、像内を中空とする脱活乾漆の技法や、控え目で親しみやすい表現は十大弟子像と共通のものである。特に阿修羅像は空間にひろげる六本の腕の布置や、その表情の美しさで、ひろく世に親しまれている。像高一四九~一五四・五センチ、五部浄は現状高五〇・〇センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』七、福山敏男「奈良時代に於ける興福寺西金堂の造営」(『日本建築史の研究』所収)

 

 四天王像(してんのうぞう)〔北円堂〕  木心乾漆像。増長天多聞天像の台座框裏に墨書の修理銘があり、弘安八年(一二八五)本寺の僧経玄得業がみずから斧をとって修理したと記すが、この銘中に本像はもと大安寺のもので、延暦十年(七九一)四月に造立されたことを併記している。技法や表現からみると、確かに八世紀末から九世紀初頭つまり奈良時代末から平安時代初期への転換期の造像とみてよく、しかも力強く充実した量感を示しながら、動きをひかえた安静な姿にまとめられている。奈良様式の正統を伝えたこのころの天部像の一典型を示す作例として貴重である。像高一三四・五~一三九・〇センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』七

 

 四天王像〔東金堂〕  いま東金堂に安置するが、当初からの伝来は明らかでない。四体ともそれぞれ足下の邪鬼を含み、檜の一木から刻み出したもので、頭髪や邪鬼の面相には木屎漆のモデリングがあり、また当初の彩色や切金もよく残っている。太くたくましい体躯や気魄のこもったきびしい面貌などに一木彫像ならではの力強さがある。九世紀四天王像の代表作の一つといえる。像高一五七~一六三センチ。国宝。[参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 四天王像〔南円堂〕  本尊不空羂索観音像や法相六祖像とともに、文治四年(一一八八)から翌年にかけて大仏師康慶一門の手で造られたもの。本像の製作担当仏師は『南円堂御本尊以下御修理先例』によると、康慶の弟実眼であったという。檜材、寄木造、彩色。その形制は天平古像のそれを踏襲するが、総体に動きが豊かで彫法には写実への志向が強く、新時代の忿怒像にふさわしい清新な趣がある。像高一九七・二~二〇六・六センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)  檜の平板に薄肉彫りで十二神将をあらわした珍しい作例。それぞれ正面向きや斜め向き、あるいは静かにあるいは烈しい動きを示すなど、さまざまな姿態をあざやかな彫り口で、長方形の構図の内に絵画的に巧みにまとめている。その大らかな彫り口からみて、製作は平安時代後期(十一世紀)と認められ、所々に遺る彩色や切金文様にも時代の特色がよく窺われる。もと東金堂のものと伝えられているので、あるいは本尊薬師如来像の台座に貼装されていたものかと思われる。縦八八・九~一〇〇・三センチ、横三三・六~四二・七センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』七

 

 十二神将像〔東金堂〕  東金堂の本尊薬師如来像に随侍する十二神将像。このうち波夷羅(ばいら)大将像の右足〓に、建永二年(一二〇七)四月に彩色を終ったむねの墨書銘があり、このころ像が完成したものと考えられる。鎌倉時代独特の烈しい動勢を巧みに示す当代初期の一典型といえる。各檜材、寄木造、彩色、彫眼。像高一二六・三~一一三・〇センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)  南円堂の本尊。治承四年(一一八〇)の兵火による興福寺焼亡後の再興事業の一環として、文治四年(一一八八)六月から十五ヵ月を費やして、大仏師康慶一門の手で随侍の四天王像や法相六祖像とともに造像されたもの。その経緯は『玉葉』にくわしい。本像は当初の南円堂(弘仁四年(八一三)創建)本尊の形制をよく襲いながら、清新溌溂とした趣に溢れるもので、鎌倉時代初頭を飾る記念碑的造像というべきものである。檜材、寄木造、漆箔、玉眼嵌入。像高三三六センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 法相六祖像(ほっそうろくそぞう)  南円堂本尊不空羂索観音像・四天王像とともに文治四年(一一八八)六月から十五ヵ月を費やし、大仏師康慶一門の手で造像されたもの。八、九世紀における法相宗の高徳である常騰・神叡(または信叡)・善珠・玄〓・玄賓・行賀の六人の肖像で、老若あるいは姿態の肥痩の別を巧みに刻み分け、特に衣や袈裟のさばきに変化をつけ、深く鋭く、流動感と変化に富む衣文を造り、前代の穏やかで形式の整った表現と全く異なる新しい試みを大胆に表現している。檜材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高七三・三~八三・〇センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)  東金堂本尊薬師如来像の左脇に安置され、右脇の維摩居士像と一具をなす。維摩居士の老貌と対照的な若々しい張りのある体貌を示し、台座や光背の形制も対照的に造るが、その作風から考えて、像内に建久七年(一一九六)の朱漆造像銘のある維摩居士像と同時期に、同じ仏師定慶によって造像されたものと考えられる。寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高九四センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 維摩居士像(ゆいまこじぞう)  東金堂本尊薬師如来像の右脇に安置され、左脇の文殊菩薩像と対をなす。像内に長文の朱漆銘があり、建久七年(一一九六)三月二十二日から五十三日間に彫刻され、ついで五十日をかけて彩色を施し完成したもので、仏師は法師定慶、彩色は法橋幸円であることが知られる。中国風の装飾の多い宣字座に坐り、病に苦しみつつ文殊菩薩と問答する老貌を写実味豊かに彫出した鎌倉時代初期彫刻の傑作とうたわれる。なお本寺の維摩会の歴史は古く、平安時代を通じて東金堂には維摩文殊の二像が在ったらしく、現存のものは治承四年(一一八〇)の兵火による興福寺焼亡後の復興像である。寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高八八・一センチ。国宝。 [参考文献] 『南都六大寺大観』八

 

 弥勒仏像(みろくぶつぞう)  北円堂の本尊。『猪隈関白記』承元二年(一二〇八)十二月条の記事や本像像内納入品にある建暦二年(一二一二)十二月の記事、台座内部の墨書銘によって、本像と両脇侍、無著・世親菩薩像、四天王像の九躯は大仏師法印運慶の率いる十五名の仏師たちによって、承元二年から建暦二年の間に造像され、本像の製作担当は大仏師源慶・静慶であることが知られる。運慶晩年の代表作であるとともに鎌倉新様式の完成された姿を示す重要な作品である。また治承四年(一一八〇)の兵火による興福寺焼亡後の復興造仏の内で、運慶の父康慶によって造られた南円堂不空羂索観音像以下の諸仏と並ぶ記念的造像である。桂材、寄木造、漆箔、彫眼。像高一四一・九センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八、西川杏太郎「運慶の作例とその木寄せについて」(『仏教芸術』八四)

 

 無著・世親菩薩像(むちゃく・せしんぼさつぞう)  五世紀ごろ北インド法相宗の教学を確立したといわれる兄弟の学僧、無著および世親の肖像彫刻。北円堂の弥勒仏の両脇侍として安置されるもので、いずれも『猪隈関白記』の記事や弥勒仏像内納入品などによって、承元二年(一二〇八)から建暦二年(一二一二)の間、仏師法印運慶一門によって造立されたことが知られる。弥勒仏台座のうすれた墨書銘によると、世親像は仏師運賀(または運勝)が製作を担当し、無著像の担当仏師は運助とも読めるが明らかではない。運慶様式の完成を示す典型として、また日本の肖像彫刻中の代表作として注目される。桂材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高は無著一九四・七センチ、世親一九一・六センチ。ともに国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八、西川杏太郎「運慶の作例とその木寄せについて」(『仏教芸術』八四)

 

 天燈鬼・竜燈鬼像(てんとうき・りゅうとうきぞう)  もと西金堂に安置されたもの。二匹の小鬼が仏前の燈籠を捧げる奇抜な意匠、ユーモラスなポーズや肉付けなどに鎌倉彫刻らしい特色をよく示す作品として名高い。竜燈鬼像内納入の墨書紙片によって、建保三年(一二一五)運慶の三男康弁が造ったものであることが知られ、彼の現存唯一の作として注目される。檜材、寄木造、彩色(もと天燈鬼は朱、竜燈鬼は緑青彩)、玉眼嵌入。燈籠は後補。像高は天燈鬼七八・二センチ、竜燈鬼七七・八センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 千手観音像(せんじゅかんのんぞう)  旧食堂の本尊。像内に籠められていた『大般若経』、鏡、毘沙門天印仏、その他の厖大な納入品に建保五年(一二一七)から嘉禄・安貞を経て寛喜元年(一二二九)に至る年記が記され、このころ本像が造立されたものと考えられる。『養和元年記』によると、養和元年(一一八一)他堂の仏像とともに御衣木(みそき)加持が行われ、仏師成朝が造像担当者となったが、何故か完成に至らなかったらしく、その後、成朝系のほかの仏師によって完成したのが本像と考えられている。光背・台座までを具備した四十二臂の堂々たる千手観音像で、鎌倉時代前期における南都復興造像の掉尾を飾る完好な大作として注目される。檜材、寄木造、漆箔、玉眼嵌入。像高五二〇・五センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八

 

 金剛力士像(こんごうりきしぞう)  興福寺における鎌倉時代前期の復興造像事業の一つとして造られ、もと西金堂堂内に安置されていた。『興福寺濫觴記』によれば定慶の作と伝えるが、確かではない。金剛力士像の作例中、最も動勢が豊かでリアルな作品として評価されている。吽形像像内納入紙片や足〓の墨書により、正応元年(一二八八)に大仏師善増・絵仏師観実らによって修理されたことが知られる。各檜材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高は阿形一五四・〇センチ、吽形一五三・七センチ。国宝。 [参考文献] 『奈良六大寺大観』八 (西川 杏太郎)

 

 観禅院鐘銘  現在国宝となっている梵鐘の刻銘。この梵鐘は観禅院にあったと伝えられる。梵鐘は高一四九センチ、口径九〇・三センチで、乳(ち)は各区四段八列、計百二十八個を鋳出し、撞座は十二弁で、竜頭の長軸に平行につけられ、銘文はこの一方の撞座の縦帯に一行二十字、四行にわたって刻まれている。銘の神亀四年(七二七)は東金堂建立の翌年にあたる。銘文は「〓〓神器金〓仁風声振鷲岳響暢竜宮奉為四恩/先霊聖躬遊神寿域晤言天衆釦輪息下折機清空/芥城伊竭弘誓無窮鋳銅四千斤白〓二百六十斤/神亀四年歳次丁卯十二月十一日鋳寺主徳因時」 (栗原 治夫)

 

 南円堂銅燈台銘  南円堂正面に建立された鋳銅鍍金の燈籠で、円筒形の火袋にはもと火口の扉二枚と羽目板五枚があったと思われるが、現在は扉二枚と羽目板一枚を欠失している。銘文のある羽目板は鋳銅鍍金、上部に菱格子を透して明窓を造り、下部に各面七行、一行九字の銘文を鋳出している。銘文によれば、この燈籠は弘仁七年(八一六)に正四位下伊予権守藤原公等が亡父の遺志によって造ったもので、東大寺大仏殿前の銅燈籠と同じく燈籠供養の功徳を説いている。造主の藤原公等は他に所見がないが、南円堂は藤原内麻呂が発願し、子の冬嗣が完成しており、弘仁七年に正四位下であった内麻呂の子は真夏のみであるので、公等は真夏とする説がある。銘文の筆者は橘逸勢と伝えているが、これは書体端麗で格調の高いことに由来している。国宝。銘文は「(第一面)銅燈台銘并序/弘仁七載歳次景申伊/予権守正四位下藤原/朝臣公等追遵/先考之遺敬志(志敬か)造銅燈/台一所心不乖麗器期/於撲慧景伝而不窮慈/(第二面)光燭而無外遺教経云/燈有〓〓命也燈延命/譬喩経云為仏燃燈後/世得天眼不生冥処普/広経云燃燈供養照諸/幽冥苦病衆生蒙此光/〓縁此福徳皆得休息/(第三面)然則上天下地匪日不/〓向晦入冥匪火不照/是故以斯功徳奉翊/先霊七覚如遠一念孔/邇庶幾有心有色並超/於九横無小無大共〓/於八苦昔光〓菩薩燃/(第四面)燈説呪善楽如来供油/上仏居今望古豈不美/哉式標良因胎厥来者/云大雄降化応物開神/三乗分輙六度成津百/非洗蕩万善惟新更〓/〓利示以崇神 其 一 薫〓福」。 (山本 信吉)

 

 寺領  平城京左京三条七坊の寺地(十六町)に四条七坊の四町(花園)と東松林二十七町とを付属して発足、これに藤原不比等らの施入の寺田(本願施入田畠)や官施入の墾田千二百町などが加わった。その千町の墾田は越前・加賀両国内に在ったが、大和国および摂津国沿海地方の獲得が競われた。藤原仲麻呂維摩会復興の際、近江国鯰江百町の故藤原鎌足の功田を料所として施入した(大供料所)。堂塔や祈願法会の寄進には料所が添えられる。天長十年(八三三)、伊都内親王が母藤原平子の遺言により墾田などを東院西堂に寄せた願文に春日四所明神も照鑑せられるとの語がみえるが、早くも春日社・興福寺の一体化ないし春日社兼興福寺領の出現が約束づけられている。興福寺大和国および近国の墾田の荘園化に努めて根本寺領を確立したが、さらに土豪(在地領主)層の春日神人をまず手なずけたのが幸いし、春日社支配の道が開かれるし、神人を起用して社寺領統制に宗教的威力を利用した(神宝を振る)。荘園上分米や諸職の寄進、末寺の帰属が盛んになる。保延元年(一一三五)の若宮創建で、摂関家のもとに春日社・興福寺の一体化が示されるが、この前後に大和国春日神国化や藤原氏興福寺の荘園鎮守に春日社が勧請されることになり、摂関家領などにも及んで春日社兼興福寺領が成立し、これが興福寺の支配に帰した。康和二年(一一〇〇)、白河法皇の春日社頭一切経転読料所寄進に際し、検校職が興福寺に付せられたのが興福寺の春日社領支配の公認といえるし、春日社に寄進された摂関家領の島津荘本所職や春日神供料所摂津国垂水東西牧領家職も興福寺に支配されることになる。なお、大和国一円にわたり雑役免田(負所)を獲得する。十二世紀、興福寺領の最盛が示され、東は陸奥国小手保荘(福島県)から西は九州の島津荘(鹿児島県坊津に至る)に及ぶ興福寺領が展開する。鎌倉時代興福寺寺門領(別当領)として近江国笠・岡田・淵・物部・安吉・浅井・鯰江・犬上、摂津国吹田・河南・新屋・浜崎・甘舌・沢良宜・猪名・溝杭、河内国足力・狭山、山城国加茂・瓶原・狛野・綺・大住・朝倉、播磨国吉殿・三箇、備前国小岡、安芸国日高、讃岐国藤原、丹波国三俣戸、和泉国谷河、大和国田村・京南・神岡・佐井・楢の各荘園や、竜門寺・竜福寺・竜蓋寺別当の荘園・末寺があげられる(『興福寺年中行事』)。これは維摩会などの十二大会料所などと称えられる根本寺領であり、なお雑役免荘数十所や南都七郷、さらには別当支配の堂塔料所や春日社領添上郡東山中の神戸四ヵ郷・宇陀郡など)・宿院佐保殿領などが加わる。またなお、別当領よりは広大な門跡・院家の荘園・末寺ないし諸院諸坊の寺僧田も興福寺領なのだから枚挙に遑がない(それぞれに土地台帳は存在した。たとえば大乗院門跡領は『三箇院家抄』)。荘園崩壊期に入っても、なお祈願料所の寄進ないし買得もある。この崩壊期に段銭・棟別銭や市・座および関などが寄進あるいは設置され、その銭貨収入が弥縫財源となった。なかんずく、段銭は国役として大和国に賦課ができたし、関銭では摂津国兵庫南関・河上五ヵ関の収納が大きい。ともかく、戦国乱世を経た天正八年(一五八〇)、織田信長の検地に際して提出した二万三千余石(守護段銭も含む)の指出が中世の春日社兼興福寺領の推測資料となる。ちなみに、これには末寺および他国所領は含まれない。ついで豊臣政権では曲折もあったが、文禄四年(一五九五)の太閤検地により、寺門(別当)領一万五千余石、別判物として一乗院門跡領約千五百石、大乗院門跡領九百五十余石、春日宮本領三千二百余石が充行われ、続いて江戸幕府の元和三年(一六一七)に春日社兼興福寺領二万千百余石の朱印が下付され、近世朱印領地が確立した。これに両門跡領も、奈良町の一角を占める春日社兼興福寺領の町も含まれたし、春日山の領有あるいは用益権も認められた。なお、祭礼の猿楽料や、また造営には造国制の伝統により料足が寄進される。これが明治四年(一八七一)、社寺領上知令によりわずかに堂舎を遺して官没された。 [参考文献] 永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)(永島 福太郎) ©Yoshikawa kobunkan Inc.(ジャパンナレッジ、https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=104)参照。