周梨槃特のブログ

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楽音寺文書59 その1

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その1

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

           

  安芸国沼田庄李子羽郷内楽音寺縁起

         ノ リヲ                ノ ヲ

 右当寺者蒙朱雀院詔、支度司所建精舎也、扇毗首羯磨風

      ノ ル            フニ   

 稽文絵造霊像也、就中尋最初草昧建立濫觴、中比

                          タリ

 有平将門天慶純友云者、奢心勝項羽項庄武思越張良

                       ヲ サント

 樊會、依之将門与純友令一志同意城乱、然間

     シテ              シテ     

 将門統領東国留国々年貢、純友統領西国留国々

        ノ ノ カニ ヘ          

 年貢、純友備前国内釜嶋構城郭兵船、横抑留四国

              

 九国年貢、専断絶七坊九禁粮食

     (絵1)

 

 「書き下し文」

  安芸国沼田庄梨子羽の郷の内楽音寺縁起

 右当寺は朱雀院の詔を蒙りて、志度司建つる所の精舎なり、毘首羯磨の風を扇ぎて、文絵を稽え造る所の霊像なり、なかんづく最初の草昧を尋ね建立の濫觴を訪ふに、中ごろ承平に将門・天慶に純友と云ふ者有り、奢心は項羽・項荘に勝れ猛き思ひは張良・樊噲に越えたり、之により将門と純友と一志同意せしめ城を傾け国を乱さんと欲す、然る間将門は東国を統領して国々の年貢を抑留し、純友は西国を統領して国々の年貢を抑留す、純友は備前国の内釜が嶋に城郭を構へ、兵船を艤し、ほしいままに四国・九国の年貢を抑留す、もっぱら七坊九禁の粮食を断絶す、

 

 「解釈」

  安芸国沼田庄梨子羽郷の内にある楽音寺の縁起。

 右、当寺は朱雀天皇のご命令をお受けして、四度使藤原倫実が建てた寺院である。本尊は、仏師たちの気風を煽り、飾りや模様に趣向を凝らして造った霊像である。とりわけ、当寺が建立される以前の最初の頃や、建立の始まりを尋ねてみると、それほど遠くない昔、承平年間に平将門、天慶年間に藤原純友という者がいた。おごりたかぶる心は項羽や項荘に勝り、勇猛な心は張良や樊噲よりも越えている。このため、将門と純友は志を一つにして与同し、城を滅ぼし、国を乱そうとした。そうしているうちに、将門は東国を支配して国々の年貢を抑留し、純友は西国を統治して国々の年貢を抑留した。純友は備前国の釜島に城郭を築き、兵船を岸に着け、自分の思いどおりに四国や九州の年貢を抑留した。もっぱら南都七大寺や宮中の食糧を絶やしてしまった。

 

 「注釈」

志度司」─未詳。「四度使(しどのつかい)」の当て字か。

 

「七坊」─未詳。南都七大寺のことか。

 

 

*「楽音寺縁起絵巻」(『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』

            広島県立歴史博物館、1996)より

 

 寺社の創立の由来・沿革に、寺院の本尊や神社の祭神の霊験談などを文章と絵によって表現したものを縁起絵巻という。縁起絵巻からは、当該寺社やその地域の歴史が紐解かれるのみでなく、美術史の面からもの注目されることが多い。さらに、当時の人々の生活や風俗、建築、調度などが描き出され、様々な分野での史料的価値が見出される。

 この楽音寺縁起絵巻は、詞書六章と大和絵六図によって楽音寺建立の経緯を説いたものである。絵のうち第二・三・五・六図は、一図のなかに二ないし五場面を連続する構図として収めている。

 さて、本品は、寛文年間(1661〜73)の模写本である。原本は広島藩主浅野光晟(みつあきら)に取り上げられ、代わりにこれが与えられたという。奥書「狩野右京藤原安信筆」から狩野安信(1613〜85)によって模写されたことがわかる。狩野安信は、通称源四郎、右京進といい、永真、牧心斎と号し、十五世紀中頃に室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする狩野派の宗家〔流派の開祖(家元)を統括する家〕の継承者で、兄探幽・尚信とともに江戸にて幕府の画事に携わり、幕藩体制の中で御用絵師としての地位を固めた。ちなみに、寛文二年(1662)に法眼(法印に次ぐ第二位の僧位)についている。また、詞書は和洋漢文体となり、浅野家家臣杉岡六太夫の書写とされる。

 

  《絵巻の内容概略》

 この絵巻の内容を、詞書から概略すると次のとおりである。

 天慶年間(938〜47)の頃、瀬戸内海の水軍と共謀して西国の国々の年貢を抑留するなど、内海を横行していた藤原純友を制圧するため、朱雀天皇は、安芸国に配流されていた沼田氏の先祖となる藤原倫実(ともざね)にこれを制圧するよう勅宣を出した。倫実は固辞したものの、結果的にはこれを受けて、数万騎の兵を率いて純友の本拠地である備前国釜島(現在の岡山県倉敷市下津井)を攻めた。

 しかし、この戦いは、倫実の惨敗に終わった。純友軍は、倫実軍の兵の一人一人の死を確認すべく、死人一々を刺し留めるといった徹底ぶりであった、倫実は、元服の年から髻の中に籠めて深く進行していた一寸二分(約3・64センチ)の大きさの薬師如来像に願を掛けた。その加護を受けてか、まさに倫実が刺されようとした時に海中から亀が現れ、それを見た純友軍の兵がこれを嘲け笑って油断したため、倫実は一命を取り留めた。

 倫実は、京へ上り戦の結果を報告する。これに対し、天皇は激励し、それを受けて再戦を挑むこととなった。倫実は、河内・和泉・摂津・播磨(現在の大阪府兵庫県)において兵を集め、よく乾燥した茅萱・荻・薄などの草を刈って船に満載し、釜島に向かった。そして、烈風に乗じて船中の草に火をつけ、純友の陣中に突入させて攻撃の糸口とし、これが功を奏して純友陣営を攻め落とし、倫実は純友の首をとり京へ向けて凱旋し、天皇に献上した。

 この功績に対して、倫実は左馬允(政府の右馬の管理を担当する)に任じられるともに安芸国沼田七郷を与えられ、薬師如来の本願に報いるために楽音寺を建立し、丈六(約4・85メートル)の薬師如来像を本尊として造立し、その像内に髻の中の小仏を納めた。その他、日光・月光菩薩像、多聞天持国天など八天像、金剛力士像二躯も祀ったということである。

 ここで、絵ごとに場面の内容をもう一度整理すると、

〔第一場面〕藤原純友備前国釜島にて年貢の掠奪を行っている。

〔第二場面〕朱雀天皇から藤原倫実に対して純友追討の勅宣が出される。

〔第三場面〕倫実は、純友制圧のため釜島へ向かい海上にて戦いを挑むが敗北する。しかし、倫実は一命を取り留める。

〔第四場面〕倫実は、京へ上り戦の結果を報告する。再び純友追討の命令が出される。

〔第五場面〕倫実は、態勢を整え釜島へ向かう。戦略が功を奏し、純友を攻め落とし、純友の首を取る。

〔第六場面〕倫実は、純友の首をもって京へ向けて凱旋する。倫実は、楽音寺を建立する。

ということになる。

 

  《史実としての藤原純友の乱

 ところで、現在、史実として一般的に伝えられる藤原純友の乱の内容は次のとおりである。

 承平六年(936)から天慶四年(941)にかけて、伊予(現在の愛媛県)掾藤原純友は、瀬戸内海の海賊勢力と徒党を結んで日振島(現在の愛媛県宇和島市)を拠点として、国庁を襲撃したり、官物や私財を略奪するなどの行動を起こした。これに対して、朝廷はたびたび鎮圧の手段を講じたが、なかなか効果が上がらなかった。『本朝世紀』(平安時代末期・藤原通憲編)うあ『扶桑略記』(平安時代末期・皇円著)などによると、天慶三年(940)に小野好古源経基が追捕使として藤原純友の反乱の鎮圧に向かい、純友の配下である藤原恒利の離反もあって、純友は退散した。再び伊予へ戻ったところを、伊予国警固使橘遠保に捕らえられ、殺されたとされる。その後、純友の残党も各地で制圧され、この乱は終結した。なお、釜島は、純友の反乱の時に純友陣営が一拠点とした砦であったようである。

 

 したがって、楽音寺縁起絵巻の内容をそのまま史実として受け取るには注意を要するといえる。殊に藤原純友の乱は、瀬戸内海の歴史にとっては大きな事件であったため、後世この乱については誇張して伝えられたようである。

 しかし、この絵巻は、楽音寺及び周辺地域の歴史を解明する上では欠かすことのできない、一つの貴重な歴史資料であることには異論はない。

 このような歴史的価値のみならず、江戸時代の模写になるものではあるものの、筆の運びや彩色など鎌倉時代の絵画的特色を存分に伝えている点では、まったく遜色はないものとして美術的にも価値が高いことから、昭和五十年(1975)四月八日付で広島県需要文化財に指定された。