周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

経覚

  酒井紀美『経覚』(吉川弘文館、2020年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

目次

はしがき

第一 父の遺誡と九条家での幼い日々

 一 経覚の誕生と九条家の相続関係

 二 九条家での幼い日々

 三 兄満教が九条家を相続

第二 大和国支配と興福寺大乗院門跡

 一 幕府と大和国との関係

 二 京都の御成敗への配慮

 三 三宝満済との親交

第三 大和永享の乱

 一 六代将軍足利義教のやり方

 二 「大和永享の乱」が起きる

 三 三宝満済との連携

 四 幕府軍が大挙して大和に入る

第四 満済の死と辺土への追放

 一 将軍義教との間合いの取り方

 二 満済の死と大和永享の乱の動き

 三 上意に違背して追放される

第五 突然の復活、再度の没落

 一 「嘉吉の乱」を契機に

 二 大乗院門跡への復帰

 三 龍田本宮への大行列

 四 菊薗山城を自焼し、再び没落

第六 安位寺から古市へ

 一 古市の迎福寺に住む

 二 古市の人びととともに

 三 筒井方との抗争と「神木動座」

 四 古市胤仙の死

第七 縁につながる人びと

 一 九条家家督相続問題

 二 東大寺東南院門主

 三 大谷本願院の蓮如

第八 大乱前夜の動き

 一 興福寺別当の地位

 二 土一揆とのかかわり

 三 両畠山の対立と大和勢

 四 寛正の大飢饉

 五 古市氏の当主、古市胤栄

第九 応仁の乱

 一 北国庄園支配と朝倉孝景

 二 応仁の乱、起こる

 三 焼亡する京都を遁れて

第十 戦乱の中での晩年と死

 一 四度目の興福寺別当

 二 坪江郷政所職をめぐる対立

 三 朝倉孝景、東軍方に寝返る

 四 踊り念仏と林間

 五 経覚の死

おわりに

 

 

P5 はしがき

 経覚(きょうがく)は室町時代の僧侶である。室町幕府の三代将軍足利義満がおおいに権勢をふるっていた応永2年(1395)の11月6日に生まれ、応仁の乱のさなか、文明5年(1473)8月27日に死んだ。79歳であった。

 経覚は前関白九条経教の末の息子として誕生し、父は経覚が6歳の時に死去した。13歳で奈良興福寺の大乗院に入室し、出家以後は経覚と名乗るようになる。それまでの幼名については不明である。大乗院門跡には、代々九条家から入ることが慣例となっており、当時は兄の孝円が門跡だった。この孝円が若くして死亡したので、経覚は16歳で大乗院門跡の後を嗣いだ。中世の大和では守護が設置されず、事実上は興福寺が一国の支配権を握り、一乗院と大乗院の門跡がその権限を分掌しながら一国支配を行なっていた。それゆえ、興福寺大乗院の門跡なるということは、通常の門跡寺院における門跡とは違った力を持つことを意味する。経覚は、その生涯のうちで、興福寺の最高職である別当(寺務)の地位に四度にわたって就任した。

 醍醐寺三宝院門跡の満済は、室町幕府の三代義満・四代義持・六代義教の代々の将軍に仕えて大きな政治的手腕を発揮した。経覚は若い頃から、この満済の知遇を得て、その政治姿勢を身近に感じ、彼を尊敬し、さまざまなことを学びながら自らの大和国支配に力を注いだ。そのなかで、六代将軍足利義教とは多くの場面で密接に関わり合うことがあった。足利義教といえば、まわりの人々に「薄氷を踏む」ような思いを抱かせる過酷な政治を行ない、「将軍犬死」と評される最期(嘉吉の乱)を迎えた将軍である。義教は大和の国人たちが筒井方と越智方の二大勢力に分かれて争っているなかに介入、筒井方へ肩入れし、大勢の幕府軍を大和に派遣して反筒井勢を鎮圧する動きに出た(大和永享の乱)。経覚は次々に無理な要求を課してくる義教との関係維持に苦慮し、満済の死後、永享10年(1438)にはついにその不興を買って大乗院から追放され、大和西端に位置する立野(生駒郡三郷町立野)へと落ちていかねばならなくなった。経覚、44歳、波乱の後半生の幕開けである。

 この経験は、経覚に大きな転機をもたらした。対立する大和の武士たち双方を調停する立場で物事の解決を測ろうとするこれまでのような姿勢を捨てて、むしろその対立の渦中に自らが参加し、そのどちらかの側に自分の立ち位置を定めて、事を決着させようとする方向で動くようになる。将軍義教のやり方に翻弄されながらも、社会全体がすでにこれまでとは違う方向に走り出していることを経覚は強く感じ取ったののかもしれない。嘉吉元年(1441)に義教が暗殺された後、大勢の武士を率いて大乗院に乱入した経覚は、一条家から大乗院に入っていた幼い尋尊を支えるかたちで、再び大乗院門跡の地位に復帰を遂げた。尋尊にとっては、これが経覚との複雑な関係の始まりとなる。

 ところで、経覚は日記『経覚私要鈔』を残している。これは「後五代院殿記(のちのごだいいんでんき)」「安位寺殿御自記」と呼ばれ、現在は内閣文庫の所蔵となっている。後五代院は経覚の諡号(死後の贈り名)であり、安位寺は彼が二度目に没落していった葛城郡の寺院の名である。現在までに部類記をも含めて、経覚の日記の残存分のすべてが『史料纂集 経覚私要鈔 第一〜第十』として刊行されており、そこには、応永22年(1415)10月から、最後は死の前年の文明4年(1472)9月までの記事が見られる。

 このように経覚の日記は、彼が二十一歳のとき、応永22年10・11・12月の記事が今に残されている最初である。10・11・12月とも朔日には「朔日、事常の如し」と記され、この時点から日記を書き始めたのではないことがわかる。それでは、経覚はいつから日記を書き始めたのだろうか。応永24年7月朔日からの「秋部」の日記には自筆の表紙があり、右図のように記されている。そこで仮に、毎年、春夏秋冬と一冊ずつ書き記して応永24年「秋部」で第十四に達したのだと考えれば、逆算すると応永21年夏部が第一になり、経覚はこの二十歳の夏に日記を書き始めたと見ることができる。ただ、東京大学文学部所蔵の経覚自筆「日記目録断簡」から、最初は巻子に日記を記していたが後に冊子に変更したと推測される(細川武稔「東京大学文学部所蔵興福寺大乗院関係史料について」)ので、日記を書き始めた時期について確定はできない。

 経覚の日記の残存状況を年次順に表示(28〜9頁参照)してみると、前半部分の日記がほとんど残存していないのに対して、文安以後の時期の分は、ほぼ連続して残っている。この偏った残存状況については、経覚が書き残した文安二年(1445)から同6年に至る抄記の最初に、

  愚記の事、文安以前分は、禅定院に於いて焼失の時、失せ散じ了んぬ、文安二年分よりこれ在り、

  文安二年九月十四日卯刻(午前六時頃)、菊薗山(きおんざん)城自焼(じやき)せしめ没落し畢んぬ、古市胤仙申す子細有るに依る也、六方衆も同前、先ず古市に於いて朝飯以下これを服用し、山内(さんない)に向かう、今夜苣原(ちしゃわら)の庵室に宿し了んぬ、

  同十五日、苣原を立ち長谷寺に向かう、則ち宿し了んぬ、寺より一献以下を沙汰し進らせ了んぬ、十六日、安位寺に着し畢んぬ、

  (『史料纂集 経覚私要鈔』第二、東京大学史料編纂所架蔵写真帳によって刊本の読みを改めた箇所がある)

と記されており、自身の日記の文安以前分は、文安二年九月十四日に菊薗山城を「自焼」し、禅定院から「没落」した際に散逸してしまったのだという。「自焼」とは、敗北した側が自らの城に火を放って崩壊させ、敵方が後にそのまま城郭として転用できないようにすることであり、「没落」とは、自らの拠点を離れて辺境の地へと落ちていくことである。武士の人生ならば「自焼没落」は何度か経験するかもしれないが、経覚のような高位の僧侶の身での「自焼没落」は珍しい。それは、彼の生きた時代が戦乱の時期だったというだけではなく、経覚自身の姿勢から生じた結果であった。

 将軍義教が暗殺された嘉吉の乱後、大乗院門跡の地位に復帰した経覚は、筒井方対越智・古市方という二つの勢力に分かれて対立抗争する大和国内の武士たちの争いに、自らも積極的に加わって、反筒井の立場を鮮明にする。そして、そのなかで、大乗院門跡の居所である禅定院の裏山に築いた菊薗山城(127頁「奈良周辺図」参照、地図には「鬼薗山」とあり)に自らも立て籠もって戦い、ついには筒井方に攻められて敗北を喫する。文安二年九月十四日の未明、経覚は菊薗山城に火を放ち、古市から東山内の苣原(天理市苣原町)、そして長谷寺へと、大和中央の平野部(国中/くんなか)を避け、その周縁部をぐるりとまわるようにして、葛城山の安位寺に落ちていった。ここに経覚は、五十一歳にして二度目の没落を経験するのである。その時の混乱で、二十歳の頃から書き継いできた日記も散失した。これが彼の日記の前半部分がほとんど残されていない理由であった。経覚の日記の特異な残存状況は、けっして平穏ではなかったその人生の象徴している。

 

P9

 これに関して、さらに後年の史料であるが、尋尊が日記『大乗院寺社雑事記』の文明六年(1474)閏五月三日条に描いた図とその注記が、重要な手がかりを与えてくれる。

 この日、尋尊は丞阿弥の墓に参るため極楽坊に出かけた。この図の右端に「丞阿」とあるのが丞阿弥の墓(五輪塔)である。そこに「文明六年(1474年)四月五日に毘沙門堂北の私宅で自害した。丞阿弥、童名愛満丸」と記されている。愛満丸は尋尊の寵童であった。四月五日に私宅で自害して果てたので、尋尊はこの日その墓に詣でたのだった。

 

P11

 尋尊の日記の中で、経覚の母については「正林」とも「上林」とも表記しており、ここに「上林」とあるのは経覚の母「正林」のことである。この注記によれば、按察局は、将軍足利義満九条経教が「お手を懸けられた」女房であり、そして正林の主人であったという。九条経教はこの按察局に仕える女子に、経覚を産ませたのだった。女主人の按察局は、自分の仕女が産んだ経覚を、まるで母のように慈しみ育ててくれた。この按察局は大谷で入滅したというから、正林は女主人の晩年を、自分の里の大谷で見守り、そして見送ったことがわかる。母正林と按察局、この二人の墓を、極楽坊に立てたのは経覚である。母正林の墓に詣でるとき、経覚は隣の按察局の墓にも手を合わせたに違いない。このように、九条家で過ごした幼い経覚には、その成長を見守る二人の「母」がいたわけである。

 

P12

 さて、この頃、九条家を惣領していたのは兄教嗣であるが、応永十年(1403)六月二十一日に奈良へ下向し、八月五日中山寺(内山永久寺、天理市杣之内町)に入り、翌十一年八月十五日、その地で死去している(「大乗院日記目録」「公卿補任」)。四十三歳であった。

 

P19

 衆徒とは、学問僧である学侶や六方とは区別される存在で、武力を行使し、興福寺の種々の雑行に従事する僧のことである。彼らは一乗院方被官や大乗院方被官などとして組織されていた。その活動基盤は寺内よりも寺外にあり、それぞれが拠点とする地域に根差した在地の武士であった。この衆徒の中から有力なものたちが「衆中」となって、奈良中検断権を握った。彼らは官符衆徒・官務衆徒と呼ばれ、さらに棟梁がこれを束ねた(安田次郎『中世の奈良』)。他方、国民は春日社神人として組織された、これまた在地の武士たちであり、本質的には衆徒と同様の存在である。他の国々では、守護が設置され、地頭以下の国人たちがその被官となって国の秩序が形成されてきたのだが、大和では興福寺という寺門が一国を支配する守護の立場にあり、衆徒・国民が在地の武士として国内の各地域に勢力を張っていた。こうした大和国のあり方に対して、幕府はくさびを打ち込もうと動いた。

 

安田次郎『中世の奈良』p142による

衆徒一覧(『大乗院寺社雑事記』康正三年(1457)四月二十八日条)

「一乗院方被官」

筒井・龍田・山田・同戌亥・井戸・菅田・櫟原・小南・高樋・杉本東・六条・岸田・唐院・秋篠尾崎・同南・鷹山奥・小泉次郎・池田下司・郡殿東下司・同西下司・幸前下司・木津執行

 

「大乗院方被官」

古市・小泉・同尾崎・番条・丹後庄・松立院・知足院・鞆田・同室・見塔院・法花寺奥・瓜生・北院・大安寺・向・箕田・庵治辰巳・鳥見福西・今市新・森本・山村・椿井・窪城・辻子・豊田・荻別所・福智堂・井上・長谷寺執行

 

 

P20

「是れ併せて(これあわせて)」

 

P26

「刷う(つくろう)」(『看聞日記』応永二十三年九月四日条)

 

P43

 三代将軍義満による大和を幕府の統制下に組み込もうとする動きから、義持時代の応永二十一年(1414)に衆徒・国民を京都に召喚して起請文を書かせたことに至るまで、一貫して大和国支配に幕府のイニシアティブを発揮しようと努めてきた。しかし、その試みは必ずしも成功したとは言い難い。その理由の一つに、在地の武士たちの間に根強く存在するこの「大和国民らの作法」がある。大和国の国人たちは国外勢力による介入に対して、強い拒否反応を示した。たとえそれが「上意」であろうとも、それに応えて甲斐甲斐しく動くようなことはなかったのである。

 

P45

 成身院光宣(じょうしんいんこうせん)は、一乗院被官の衆徒の筆頭である筒井氏の出身で、興福寺子院の成身院を拠点とする六方衆であった。筒井氏は、大乗院方衆徒の筆頭古市氏や国民の越智氏と並んで、室町時代の大和を二分する大きな勢力を張るのであるが、筒井氏がそうした存在にまで成長を遂げるうえで、成身院光宣の力が多く寄与したことは確かである。のちのち、この成身院光宣は、経覚にとって最大の敵対者になっていく。

 

P56

 それにしても、「内々御奉公」の関係を結んで将軍に直接嘆願してくる筒井や、将軍御所に自由に出入りが許され、筒井の窮状を代弁して訴えるような西室大夫坊見賢という僧がいたりする。やはり、将軍義教が取り結んでいた関係は、それまでの公方を軸にしたあり方とは違う面を有していた。この見賢というのは、東大寺僧でありながら土倉業を営み、奈良・京都・坂本に拠点を構えて大量の米銭を蓄え、将軍義教の金銭も預かって運用するような金融業者であり、義教の南都に対する政策決定にも深く関与したという(桜井英治『破産者たちの中世』、西尾知己『室町期顕密寺院の研究』)。

 

P66

 「見所す(けんぞす)」=「判定する」

 

P86

 このとき(永享八年/1436)、経覚は四十二歳。母の正林禅尼はすでに労協に達していた。『経覚私要鈔』嘉吉四年正月二十六日条には「故禅尼の第三廻也」と見えるので、母はこれから六年後の嘉吉二年(1442)正月二十六日に死去したことがわかる。

 

P90

 京都から大乗院に永享十年(1437)八月三日付で、次のような幕府の奉書が到来し、それが八日に大乗院御坊中に披露された(「後五大院殿御伝」)。(中略)

 ここで形の上では「大乗院門徒の申し請わるる旨に任せ」としながらも、上意に背いた大乗院門跡経覚とその後継者尋実の「停廃」と「追放」を決めたのは、もちろん将軍義教であり、烏丸資任に命じてこのような奉書を欠かせたのである。

 すでに経覚は八月七日の夜に、大乗院門跡の居所である禅定院を離れ、奈良からほど近い大安寺の己心寺に自ら移住していた。しかし、九日には京都からの命令を受けて、興福寺の「衆中」(衆徒らの中から選ばれた官符衆徒らの組織で、奈良中検断権などの権限を行使した)が、経覚の側近たちの住屋を破却した。こうして将軍義徳は、経覚が己心寺に留まることを断じて許さない、という強い意志を示したのである。そのため経覚は十二日、宮鶴丸と堯阿の二人だけを伴って、奈良から遠く離れた平群郡立野(生駒郡三郷町立野)の宝寿寺へと落ちていった。後継者であった弟子の尋実も、九日未明に奈良から上洛、以前に在国していた加賀国小坂へ隠居した(「大乗院日記目録」八月十七日条)。

 

P94

 この立野で、経覚はこれまで出会ったことのない不思議な人物と出会う。その人は幼名をムスルといい、成人後は天次と名乗っていた(以下、彼の来歴は、『大乗院寺社雑事記』康正三年三月十一日条・文明十八年二月十五日条による)。

 天次の父は、三代将軍足利義満の時代に「天竺」(インドおよびそれ以西の国)から日本に来て相国寺に住んでいた。そこで将軍義満に初めて見参し、北山御所に伺候することになった。義満が日明貿易に乗り出すと、この天竺聖は京都三条坊門烏丸に「唐人倉」と号する土倉を営み、活発な貿易商業活動を展開した。しかし、順調に見えた天竺聖の活動は、四代将軍足利義持の時代になると一変する。義持は父義満の政策の多くを否定し、日明関係も断交、天竺聖は上意に背いたとして処罰され、一色氏に預け置かれることになった。活動の自由を奪われた天竺聖は、そこで死を迎えることになる。父の死後、残された家族は赦免され、天次は京都を離れ大和国に下向した。義満の時代に名乗っていた天竺という名字を、母の出身地である河内国楠葉郷(くすば・大阪府枚方市)にちなんで楠葉と改め、奈良から曲川(橿原市曲川町)、そして立野へと移り住み、立野氏の女子を妻に迎えた。この頃の天次は、曲川や立野に自分の田を持ち、大和国内に確かな根を下ろす存在になっていた。しかし、おそらくは、天竺人の父から受け継いだ異国人の風貌を、その面に強く残していたにちがいない。

 経覚と天次、奇しくも二人の年齢は同じだった。立野で経覚と交流を重ねるうちに、天次は出家を望むようになり、経覚の計らいで出家した。法名の西忍(さいにん)も経覚が名付けたものである。以後、二人は強いきずなで結ばれ、経覚の傍近くには、常に楠葉西忍の姿が見られるようになった。ただ、この時期の経覚の日記はまったく残っておらず、天竺聖の存在も、その後の家族たちの経緯も、さらに経覚と西忍との関わりも、そして遣明船に乗って二度の渡航を果たしたことも、すべては経覚の死後に尋尊が西忍から直接聞いて日記に書き残してくれたおかげで、今の私たちが知ることができるのである。

 

P98

 (『福智院家文書』中に残されている「大乗院門徒評定事書案」)この文書を紹介した安田次郎氏は、経覚の大乗院への復帰を強く要請する門徒たちの主張を評定事書案にまとめ、それに推敲を加えているのが、その筆跡から見て、「ほかならぬ経覚その人なのである」と指摘された(安田次郎「これも自力救済」)。これはなんとも驚くべきことである。しかし、この時期は、自分を支持する門徒らの評議の内容を慎重にまとめあげ、支持勢力を拡大して大乗院への復帰を果たすことが何よりも必要だった。そのための方策として、門徒評定事書案の作成に、経覚は自ら積極的に関与したのである。そして、十一月十五日、経覚は大安寺の己心寺から奈良の禅定院(大乗院門跡の居所)への帰住を果たした(「大乗院日記目録」)。

 

P110

 (嘉吉三年/1443)また、経覚は管領畠山持国と申し合わせ、「奈良中雑務」を小泉重弘・豊田頼英・古市胤仙に仰せ付けることにした。以後、この三人が衆徒を統括する「衆中」(官符衆徒)の棟梁の地位に占める。十二月十日、筒井光宣・尊覚・実憲・順永らの兄弟、箸尾宗将や野田東長専を治罰すべしとの綸旨や御教書が到来した。これは寺門からの要請であり、両門跡も承知のうえでのことだという。こうして河上関務は、再び寺門の直務となった(「大乗院日記目録」)。

 この一連の動きの背後には、明らかに経覚がいた。成身院光宣を中心とする筒井勢を一掃し、古市・豊田・小泉を軸とした体制を築くこと、しかもこれを幕府の管領畠山持国との連携によって実現すること、これが経覚の目指すところであった。復帰後の経覚は、大和国内の対立する二つの武士勢力のうち、はっきりと反筒井の立場を選び取り、その旗を掲げたのである。

 

P113

 嘉吉四年(文安元年/1444)正月二十三日、京都から、筒井討伐の綸旨・御教書が下されるとの知らせがあり、経覚は、「当国衆急ぎ馳せ向かい、筒井を責め落とすべき由」を衆徒・国民ら十六人に下知した。その面々について、

  宝来 龍田 古市 小泉 木津 豊田中 十市 箸尾 岡 嶋 片岡 超昇寺 番条 布施 越智

   已上十六人

 

P122

 以前に、供のもの二人だけを伴って平群郡立野の宝寿寺に落ちていったときにも傍近くに仕え、ここ安位寺へも付き従ってきて、常に経覚と一緒に行動してきた宮鶴丸が、京都で出家し、対馬公覚朝となって戻ってきた。

 

P122

 文安四年(1447)二月十七日、古市胤仙から安位寺にいる経覚に書状が届いた。経覚はさっそくに返報した。その内容については日記に何も書き留めていない。けれども、経覚のまわりでは確かに何かが企てられ、その実行に向けて人々が動き始めていた。越智春童丸・楢原永遠・小泉重栄との関係も密である。今は筒井方が押さえている奈良に向かって、豊田と古市が甲三百余りの軍勢で押し寄せ、奈良の町の転害郷を焼いたとの報がもたらされた。楠葉西忍と元次親子は、立野衆と連携しながら、経覚に多くの情報を伝えてきた。

 

P123

 事は敵方に察知されないように隠密のうちに進められ、そして成功裏に終わった。尋尊がまとめた「大乗院日記目録」四月十三日条には、

  安位寺殿、古市迎福寺に入御す、七人衆以下、内々に勧め申すと云々

とあり、経覚の古市への移住を内々に勧めたのが「七人衆」であると記している。この「七人衆」とは、以前から寺門内で、光宣方の学侶・六方と対立してきた集団で、これ以後も反光宣派、つまりは親経覚派として動くグループである。(中略)こうして経覚は、奈良の町のすぐ南に隣接する古市の迎福寺に入った。大和国の政治の表舞台に再び戻ってきたわけである。このとき、経覚は五十三歳。以来、七十九歳で死ぬまでの後半生を、ここ古市を居所として過ごすことになる。

 

P145

 しかし、尋尊の「大乗院日記目録」享徳二年(1453)六月二十四日条に「胤仙入滅」とあり、また、翌享徳三年六月条に「享徳二年廿四日、古市胤仙入滅す、大明神御罰と云々、随って学侶・六方衆以下五个関務相論衆、悉く以て罷り出で、光宣と和与し了んぬ」とある。尋尊はここで、経覚と密接につながり古市に止住していた学侶・六方衆のことを「五个関務相論衆」と呼んでいる。彼らこそが「七人衆」であった。胤仙の死後、彼らは奈良に出てきた光宣と和解した。

 

P156

 九条家越後国白川庄は近年有名無実で、年貢もわずかに三千疋に減少してしまっていたが、越後守護上杉と畠山持国の家臣誉田全宝が繋がりをもち、その全宝と古市胤仙が「無双の知人」だというので、経覚は古市を通じて越後守護上杉方へ働きかけることにした(『経覚私要鈔』宝徳四年四月二十六日条)。

 

P158

 五日の午初点(正午前)に室町殿が到着した。(中略)経覚自身は「老情、事の外の間、斟酌」(まったくの老体にて、ご対面はどうか差し控えさせていただきたい)と申し入れたが、「如何様(いかさま)お目に懸かるべし」と日野勝光が取り計らい、経覚も公方の前に参上することになり、直接盃を賜った。翌六日に、九条政忠は室町殿に赴き、将軍義政と対面。「愚老、同じく御対面」と、経覚も将軍に対面した。

 

P159

 「迷惑極まり無きもの也、無用に上洛するもの歟」(本当に困ったことになった。この上洛は無駄足だったのではないか)と経覚は嘆き、それほど長く在京するわけにはいかぬと、十九日に古市迎福寺に帰ってしまった。

 

P164

 ところが、経覚にはもう一つ頭の痛い問題があった。すでに述べたように、加賀小坂殿(実厳)の子息は、正長元年(1428)十一月に九条満教(満家)の猶子となって大乗院に入室し、尋実と名乗って経覚の「附弟」(弟子で後継者)となったが、永享十年(1438)に経覚が失脚すると同時に、加賀に隠居した。この実厳のもう一人の子息は、同じく九条満教の猶子として、正長二年に東大寺東南院に入室している(『満済准后日記』六月二十七日条)。この東南院珍覚は、文安元年(1444)七月から同四年十二月まで東大寺別当の地位にも就いた。

 

P165

 (宝徳三年十二月十九日)珍覚の「附弟」として九条家の若君が入室することになった。この若君は政忠の弟で、珍済と名乗ることになるのだが、これがまた、なかなかに風変わりな若者で、経覚があれこれと苦労しなければならなくなる。

 

P166

 東南院門主珍済の前で坊官所永深と修学者宰相公祐済が博奕を打ったので、興福寺の官務衆徒が二人を罪科に処したというのである。何とも奇妙な話である。東南院門主の御前で坊官(院家の家政を担う僧)らが「博奕」を打つことと自体、通常はありえない話で、事の次第は不明だが、とにかく東南院門跡珍済とその坊官たちとの間には、尋常ではない対立や軋轢があることをうかがわせる記事である。

 

P167

  冥顕と云い、人口と云い、存知し難きの間、是非を申し難し、

と返事をした。「神仏の冥慮や現世の判断、さらに人の口にのぼってどのように語られるか、いずれも自分たちでは知りえないことだから、是非の判断はできない」と述べたのである。

 

P170

 この不動寺聖円は、実厳の弟で、兄と同じく禅僧であった。尋実と珍覚にとっては叔父にあたる。

 

P184

  下として上を計らうの条、下極上の至り、狼藉所行未曾有のもの哉、黒鼠牛腸を食らうべきの由、野馬臺に見ゆ、明文偽りに非ざる哉。(中略)土一揆の分際を払い沙汰せずして、武家の為体無きがごとき歟、

と、経覚は未来記「野馬臺詩」の一文「黒鼠が牛腸を食らう」を思い起こしながら、「下の者が、上の者をないがしろにして、物事を取り計らうことこそ、下剋上の極みである」との思いを綴り、「土一揆の分際如きを打ち払えないようでは、武家たるものの資格などない」とまで、言い放っている。

 

P187

 この「外聞実儀」は、これまでも経覚が物事を決する時の重要な判断基準をなしている。たとえば、兄の満家が二人の若君に家督を譲ると約束してしまって、双方の母が相論するに至った時、「御遺跡事、両若公相論、外聞と云い、実儀と云い、沙汰に及ぶべきの条、然るべからず」として、兄に代わって自らが解決策を提示したことがあった。「外聞実儀」とは、世間の評判も実際の内実も、ともに満足させるべきだというもので、室町・戦国時代の史料などには、数多く出てくる。その後には、「然るべからず」(よろしくない)、「穏便ならず」(穏やかではない)、「面目無し」(恥ずかしい)、「珍重」(めでたい)、「本意に非ず」(望むことではない)、「曲ごと」(道理に背く、けしからんこと)などの語が続き、当時広く物事を判断する際の基準となっていた。

 

P242

 ここに名前の出てくる勅願納所宗秀は、神人・力者・仕丁・承仕などを管轄し、興福寺の惣蔵司として力をふるい、五師一﨟や学侶使節も勤める重鎮であった。しかし寛正六年(1465)十一月に、坪江郷年貢収納をめぐる不正が発覚して失脚していた。(中略)

 寺門の両使は、「不法越過」により宗秀の「納所職の事、早々に改めるべし」との裁定を下し、六方衆と学侶は「神水集会」を開き、「納所宗秀罪科」として、所従徳丸の住屋を破却、宗秀は地下本復後に供料を返済することで決着をつけた(『大乗院寺社雑事記』十一月二十二日・二十六日条)。この時、楠葉西忍は経覚に、勅願供衆が宗秀の下人に対し、住屋破却のうえに、「即躰」(身体、身柄)においては「非人に賜う」という処罰を科したと語っている(『経覚私要鈔』寛正六年十二月二十九日条)。

 

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 五月になると、寺門から越前国内の所々に「楠葉備中守元次を討て」「そうすれば二千疋の褒美を与えよう」との下知があり、さらに加えて、「親父の西忍は非人に給う」との処断が下されたという。ここで、寛正六年に宗秀の下人徳丸に下されたのと同様の、即躰は「非人に給う」という処罰が、楠葉親子に対して執行されることになったのである。

 これについて尋尊は日記に、「旁もって安位寺殿(経覚)、御面目を失われ了んぬ」と記し、こうした事態が引き起こされたのは経覚の側近であり畑経胤(はたきょういん)と楠葉元次との不和が原因で、畑が「私の意趣」のために主君の面目を顧慮しないで動いた結果によるものであり、「希代の事」だと記している(『大乗院寺社雑事記』五月二十一日条)。

 しかし、まったくこれは事実ではない。別当の地位にあることを恃んで側近の楠葉元次を強引に坪江郷政所職に任じた経覚と、本来それを職務としてきた寺門の勅願衆納所とのあいだの、深い対立が引き起こした事態である。そのことは翌年文明三年八月十五日に、坪江郷の現地に納め置かれている年貢を、寺門が収納できるよう許可してほしいと勅願衆使節が要請してきたときに、経覚が、

  楠葉父子、非人に行い頭を高札に載する事、其の科何事哉、その科無きを沙汰致すは、併しながら愚老の所を面目を失わせんがために沙汰致す事也、此の張行は納所宗秀僧都の所行なり、然らば納所を改め罪科に行なわば、収納の事子細有るべからず、

と返答している点に明らかである(『経覚私要鈔』文明三年八月十五日条)

 何の罪科もない楠葉父子を「非人に給う」と処断した張本人の宗秀を、納所職から追放し罪科に処するなら、地下に納め置かれている年貢の収納を許可してもよいというのが経覚の返事だった。ここで「地下に納められている年貢」とは、この年に百姓から収納された坪江郷の年貢である。この現地の蔵に納められている年貢を、興福寺勅願衆は自力で収納できなかったので、経覚に許可を求めてきたわけである。現地で納入された年貢を押さえているのは、楠葉元次とそれを支える朝倉型の勢力であることは明らかである。経覚の許可がなければ、勅願衆納所は年貢を収納し奈良まで運上することができなかった。経覚はそれを許可する条件として、納所宗秀を解任し罪科に処するように求めたのであった。このように経覚と激しく対立した宗秀であったが、文明四年二月二十三日に七十八歳で死んだ。

 それにしてもその身を「非人に給う」とは不思議な罰である。これを課せられた楠葉西忍・元次父子のその後のあり方を見ると、特段の変化もなく、これまでと同じように生活し職務に励んでいる。しかし、「高札に載せ」て、その者が非人の集団に属するようになった旨を広く周知するわけで、その影響力は大きなものがあった。

 「即躰」を「非人に給う」という例は、「『大乗院寺社雑事記』に数例(文明三年十一月十六日、延徳三年〈1491〉正月九日、明応五年〈1496〉正月二十九日、同八年六月、同八年十一月五日)ある。下﨟・坊主・所従・尼公など、いずれも下層身分のものがこの罰を受けており、それによって本当に非人の集団に属するというわけではなく、ある種の不名誉刑のようなものである。

 しかし、実際に非人がその身をもらい受けにくる例が、『経覚私要鈔』文明四年正月二十八日条に見える。

  禅定院力者一﨟兄部法師正陣、老躰の者也、然るに悪瘡出来せしむるの間、此両三日以前、坂の者共寄せ懸くるの間、今日荒野に登ると云々、如何様の宿因哉、不便

と経覚は嘆いた。同じく尋尊も「力者一﨟正陣法師、癩病を受くるの間、今日より紀州高野山に登る」(『大乗院寺社雑事記』正月二十七日条)と記している。

 癩病ハンセン病)発症と同時に奈良坂の非人が寄せ懸け、自らの集団に引き入れる動きを見せており、それを遁れるために、力者一﨟の正陣は高野山に登る道を選んだという。一方、こうした現実があるなかで、「非人に給う」という刑罰が楠葉父子に課せられたのだから、実際にの生活に変化が生じないとしても、その重みは大きなものであったと思われる。考えてみると、朝倉孝景に課せられた「名を籠める」や、ここでの「非人に給う」など、大和国の刑罰には他ではみられない特異なものが多い。