周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

人文・社会学系論文一覧

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
1987 佐伯啓思   時間の身振り学 筑摩書房 著作   おそらく、物を書くことの本来の意味は、人々が言葉に出さずに共有し、感じ取っている思考や雰囲気を表現することであろう。書き手は、民衆的な知恵、伝承された神話、社会の潜在意識の運搬者であるはずだ。このような知識こそ、もっとも商品世界のロジックにはまりきらないものなのである。それは、誰のものでもなく、また誰のものでもある。そのような知識に所有権はつかず、市場売買されることはない。それは「匿名」の知識なのである。このような知識の運搬人になろうとする時、人は「匿名」で描く以外になかろう。そしてこの場合には、「匿名」は、民衆的知恵という、〈知〉の起源を再び想起させるための仕掛け=仮面にほかならないのである。 フーコーが匿名で文章を書いたのは、市場社会で固定された「フーコー」という価値から逃れるため。
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 67 「広義の定義」自尊心とは、自己の価値を否定するような事態に遭遇したときに、そ れにもかかわらす、自己への肯定的評価を維持するへ作動する機制(あるいはその作動の覚識)である。自尊心は、否定に対する肯定という形で構成される現象として把握される。つまりそれは否定に対する相関項としてのみ現象するのであり、逆に言えば、否定が生起しないところに自尊心は生起しない。その意味で自尊心は単な る自己評価(self-esteem)とは区別され、その限りで日本語における用語法よりもややせまく 定義されている。  
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 69 「狭義の定義」自尊心は、自己の価値を証明・肯定しようとする試みが、当の価値への懐疑・否定を産出するようなポジティブ・フィードバック・ループを構成する。  
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 72 自己」とはく他者一自己>の関係を<me-I>の関係 へと、いわば、写像したものなのであり、Meadはそれを「役割の取得role-taking」と して概念化した。例えば「私は教師だ」という場合、ここには「私」を「教師」として指示す るという自己言及が成立しているわけだが、それは当該自己を「教師」として指示する他(例えば生徒や父兄)の役割=態度を「私」が 取ることができるときにはじめて可能になる。だから「自己」が成立するというのはそれ自身の内に他者の視点が取られることと相即的な事態なのである。  
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 74 自己の成立において「二人称」は「一人称」に対して常に先行しているのである。 要約しよう。自己投射は、他者からの指示を自己指示へと 転倒することで、「自己」を関係に先行す るものとして先取的に映現せしめる機制(自己が先行しているように見せているだけ)。このような「転倒」は本源的には身体の持つ基礎的な性能によって可能になっている(大澤真幸[1991](特 にp、104以下)参照)。要約すると、①自己現象とは不断の自己投射による転倒=先取の効果である。したがって、自己は必然的に自己の由来を錯認する。②自己へと投射されるのは他者からの指示 =メッセージである。このメッセージは自己現象の外部に由来する。  
1999 宇野邦一   詩と権力のあいだ 現代思潮社 著書   それゆえに、権力は本質的に、見えない力であり、潜在的にだけ存在して決して行使されることがない力である。抑止するとはこの場合、決して物理的に阻止するのではなく、権力の可能性を知らせることによって、違法な行為をあらかじめ禁止することである。このとき権力は作用しないことによって、作用するのである。権力は、少なくとも法を守る人間を形成するように作用するという点で、直接身体を拘束したり処罰したりするのではなく、まず精神に作用するのである。権力にとって、権力が不在であり、行使されることなく機能することが理想であるということは、権力をめぐるもう一つの〈逆説〉である。 権力は見えなとき、カモフラージュされているときが、最もよく機能しているから怖い。現在の天皇制・国家権力などこそが最も機能している状態かもしれない。
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 6 当時の権力構造は、「オホヤケ」や「ヲヤケ」が重層的に存在し、其主張が人的に結合している国政であったと考えられる。
ここで重要なことは、このヤケの重層構造として存在する国制は、中国的「公私」観念が成立してくる前提となるところの、秦漢帝国期に形成され宋代に完成される。国家(官)と社会(民)とが分離した二元的国制(それは統治身分の世襲を否定する科挙制すなわち統治の仕事をする官僚を民の中から能力試験をもって選抜するシステムに象徴される)とは異質であるということである。中国でも日本でも─そしてヨーロッパにおいても─、ある歴史的時点において、在地の諸権力体の重層構造として存在する一元的国制から、社会(市場社会)と国家(統治機構)とが構造的に分離する二元的国制への以降の歴史を経験することになるであるが、中国では、この以降を春秋戦国の交わりの頃から秦漢帝国の成立までの過程において経験したのに対し、中国文化を大規模に継受する7世紀から8世紀にかけての日本は、いまだヤケの重層構造として存在する一元的国制であった(日本が二元的国制を完成させるのは、はるか後年の明治においてであり、西欧においては、絶対主義以降、本格的には市民革命以降の市民社会と国家の二元的秩序の形成においてであった)。すなわち、社会と国家という二元的なシステムが未成立の国制の段階において、発達した二元的国制の形成を経験した後の中国的「公私」観念が掲示されることになり、ここに、複雑な問題が発生することとなった。
金泰昌「おわりに」
日本の歴史の発展過程において国家と社会との二元分離(私の個人的な見方からすれば国民国家市民社会と市場との三元分離・発展という捉え方がより現実的だと思いますが)が成立しても、「国家的公」とは別途の「社会的公共性」(私の見方では「市場的公共性」も付加するべきだとも思いますが)が確立するところまでは行かず、現在に至るまで「公・私」はもっぱら「国家(オホヤケ)的公」に一元化された認識図式の限界内にとどまっているということです。
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 11 古事記』および律令国家成立期の宣命(8世紀前半期の初期宣命)における「公民」は、一般庶民を指示する「人民」ないし「百姓」との対立において、貴族層を意味する語であった。国家の支配層の側の民というニュアンスであろうと思われる。
「公民」の対は「人民」である。
「私」は、ヒソカニ、というニュアンスであろう。とするならば、『古事記』において「公」と「私」は対概念ではないように思われる。
 
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 13 墾田永年私財法の影響。
このような「公私」構造の特徴の第一は、「公」が国家権力体系としてのみ存在するということである。ここには、非国家的社会的「公共」に連なりうるような契機が認められない。第二に、「公」と「私」が連続し、かつ浸透しあっていることである。ここでは、諸主体は、それぞれの「公」的地位を法形式上の拠点として、「私」領域をその外縁に開拓していった。実質的には「宅」「屋敷」を基地とする開墾と公領の取り込みの運動であるが、法形式的には「公」を拠点とする「私」の拡大にほかならない。したがって、ここでは「私」は「公」を離れては存在せず、「公」的なものから自立した世界としては成立していない。しかしそれは、反面からいえば、「公」の世界にも「私」が不断に侵入していくということでもあった。「私」的な宅ないし館を拠点として「公」的官職と「公」的な田とはそれぞれの家の財産(家産)と化していった。「公」の体系は「私」に簒奪され、「私」が「公」に侵入しているのである。
正村俊之の「代表・代行」論が日本的公私をつなぐ。
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 18 「公=私」権力体として存在する諸中間団体が縦に重層的に連なり、かつ、上位の権力体が強力であるという国制の伝統は、図5に理念的に描き出したような、「私人」が社会的次元で広く連帯的に結合して「公共権」を創出するという近代的国制のあり方とは対蹠的なものだからである。  
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 25 ヤマト言葉の「アメ」には漢字表記にすれば、「天」と「雨」おん意味があり(というよりも「天」と「雨」を区別する意識がなかったと思われる)、「ツチ」には大地の意味の「地」と土塊の意味の「土」が未分化なまま統一されていたのだと思いますが…。  
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 27 「公」と全く切れた純然たる「私」というものはない。「私」的なものがオーソライズ(公認)されるためには、何々職という「公」に連なる権威が要る。その意味ではまさに「私」の「公」化ということを常に孕みつつ「公私の二重構造」が続いていくんだと思う。個々の個人や家が常に「公」的な側面と「私」的な側面とを思っているということです。だから、「公」が特別な勢力としてどこかにあるということではなくて、常に公私の二重構造を抱えているものが重層的に連なっている構造システムだと私は理解しています。  
2002.1 小路田泰直 日本的公私観念と近代化 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 53 先程あげられた吉野作造南原繁矢内原忠雄丸山眞男はいずれもキリスト教の洗礼を受けています。「教育基本法」の制定に参加した田中耕太郎も最初は無教会員で、のちにカトリック教徒に転じられました。私たちが戦後の民主主義を主体化するには、日本的な流れのほかに、もう一度西洋の根源にさかのぼってキリスト教精神を受け止め直さなければならないのではないだろうか、そういう思いを私は持ち続けてきました。  
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 57 今までは、「公」はあらかじめ決まっているものだと思っていた。だから、私利私欲を否定しなければ成り立たない方向で理論構築されてきた。しかしここで発想を180度ひっくり返さなければならない。すなわちお互いがぶつかりあう中で、これだけは譲歩できないと守り続けるところを一応「私」と見て、どんなに小さくてもお互い譲り合って、この点だけは一緒に守っていこうというところを「公」と見るなら、もっと現時的な動きの中で「公」を探っていけるのではないかと思う。
本当の意味での「対話」が出来ていれば、最初は喧嘩をしたり争うことがあっても、結局「私の主張」だけでは通らない。「相手の主張」もある、ということが分かる。「あなたと私がどこで妥協すれば、互いに満足ではないにしてもそれなりに納得できるのか」という、ぎりぎりの部分が出てくるのではないか。私はそのような現実的な観点から見たいと思っている。
 
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 65 西欧知が輸入される際にしばしば捏造される「日本的なるもの」の危うさに無頓着のまま、「翻訳可能」などと言うべきではないと思う。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 67 網野善彦『無縁・公界・楽』ですっかりお馴染みになった「公界」という語は、現代人の感覚で捉えると、さもpublic sphere(公的領域)の直訳のようにも見えるのだが、残念ながらそうではない。くひょう・こうへい・偏頗ならざるもの、すなわちimpartialである。
読者は試みに、これまでpublic/privateと訳してきたものをimpartial/partialに置き換えてみるとよい。日本の歴史的な「公私」概念の対応物としては、はるかに的中率の高いこと、請け合いである。
 
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 69 中世史家の佐藤進一は、この「時宜」が、実質的には「時の為政者の意思」を表す、ということを解明したが、逆に言えば君主の意向がそのまま「時の議論」であり、「時の宜しき」に叶うものであるとして、justifyされる仕組みになっているわけである。つまり権力の正当性は、「公議」や「時議」を装うことによって、ディセプティヴに捏造されてきたのだといえよう。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 92 「江湖世界」は、14世紀にルーツをもつ、近代化を導入した後の、「江湖」の新しい表現型なのかどうか、そのことについてどのように考えておられるのでしょうか。
同じ答え方になるのかもしれませんが、これはやはり現実態ではなく可能態の問題であって、そうした観点から14世紀や戦国時代の資料を取り上げているに過ぎません。
「江湖」=「公共」は、現実に存在した実態ではなく、実在する可能性をもった観念にすぎないということか。
2002.1   発展協議 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 133 リチャード・ローティとジュディス・シクラーの二人の「公共性」概念は、「人間」として一番避けられるべき「悪」であるクルエルティ(心身に対する暴力)を蚊に回避するかにポイント置くべきだというもので、共通善の「実現」ではなくて共通悪の「回避」を語る。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 140 ポジティブに何かをしようとすると意見が分かれて、それぞれ「私」の世界に行く。だから親密空間でないとうまくいかないという場合もあるが、「危険」ということになると、それを共に感じた人は国境を越えることが出来る。そういう事例は幾らでもある。
最後に、なぜ国家は「敵」を必要とするのか。なぜ共同体は「敵」を必要とするのか。「権力」を形成し、維持し、保護するためには、上から下に向かう「公」に背反する共通の「敵」を作ることが一番手っ取り早いのです。しかし逆に、下から上に向かって公共性を蓄積していく場合には、敵ではなくて「リスク」が現実的な原動力として働くのです。
例えば私個人が中国人やチベット人を敵にすることによって自分の利己的(セルフィッシュ)なところを超えるということはない。しかし「民族」や「国家」になると、敵を作らないことにはうまくいかないから作るということがる。では一人の人間がセルフィッシュな方向から抜け出して、みんなと一緒にという発想ができるようになるのはどういうことかというと、最初はこのままやり続けていくが、これはうまいくいかないのではないかと危険を感じてやむをえず他者と手を組むことになるのです。
 
2002.1 黒住真 日本における公私問題 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 233 英語に置き換えるなら、述べてきた公共はpublic、私はprivate、共同はcommonにあたる。Publicとは、(ある内容が)開かれ、知らされていること、分配され、それに参加できることを意味する。しかし、その内容がそれぞれにすでに所有されたなら、その内容について自他はcommonすなわち、共通であり共有する関係になる。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 234 朱子学は、「天理の公」と「人欲の私」という対比概念において「道」を前者に求める。人々をして、「私」の情欲を抑制・排除しつつ「公」を探求させ、自らのうちに「公」を確立させた主体を社会改革に従事させようとする。  
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 30 分断できるという発想は、流れが等質的な単位に区分可能であり、なおかつこうした単位を見出すことにより、いっそう正確に記述できることを前提にしている。つまり流れとは、分断された基本単位の側から再構成できると考えられるのである。だが、そこでは流れは、否定的なあり方にさらされてしまう。これでは。流れのなかの流れない単位が存在の原型であり、流れはその劣った姿であるとみなされかねない。
ベルクソンは、単位の集積から流れを再構成するこうした発想とは、時間を単位の連鎖に解消する、量に基づいた思考であると批判する。そこでは時間の予測可能な展開と、それに依拠した決定論的な世界の理解が、幅をきかせることになる。しかしそれでは、新たなものが発生してくる、生成にまつわる事情はとり逃される。つまり流れのリアルさを形成する、その質的な側面が、議論からはこぼれ落ちてしまうことになる。
ある1点の状況を論証するために、それよりも過去の情報を利用しているだけではないか。
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 31 流れとは、それを形成する要素が分解不可能な仕方で溶け合い。連鎖するような連続性のことである。流れとは、分解してしまえば質を変え、別のものになるという意味で、分離不可能なものである。 メロディーと音符の関係。メロディーのリアルさは、それを構成する個々の単位に分割すると消滅してしまう。
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 39 生成や流れとは、見えるものであるこの世界を作り上げる、見えないものである。それは形として感性化されることはない。生成とは、新しいものの出現である以上、それが何であるかを理解すること(悟性によって把握すること)をも超えてしまう。だけれども、流れや生成は、この世界の成立を考えるときには、どうしようもなく考えなければならないものである。 言語で表現できるのか?
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 43 ポストモダンは、人間から根拠を奪った。不安の意識に苛まれ、根拠を求める現象学が目指したことは、世界と自己とが、実質的に触れ合う定点を回復することであった。フッサールはいける現在の探求を中心に据える。ハイデガーは、世界という場所のなかに置かれた現存在というあり方を重視する。メルロ=ポンティ有機的な諸連関としての身体の働きを主題化する。  
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 50 デリダは、フッサールが追究する現在を不在とし、不在であるからこそ語られうる他であることの力を探る。生成の流れを追究するベルクソンドゥルーズとは逆のネガティヴィズム  
2002 坂田登 セクシュアリティのエチカ(1) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅰ(哲学編)46 福井大学 雑誌 5 ゲープザッテルのフェティシズム論。(サディストなど)ほとんどすべての倒錯的快楽の根底には、「許されざるもの」に対する歓びが、それに対する恐怖とともに潜んでいるのであるという。歓びと恐怖が一つになることによって、倒錯的快楽が成立するというのである。これは人間を純潔から背徳に、エロスから単なるリビドの世界に、さらには、自己の「自然」の限界を超えて脱線させるところの不自然、嗜癖、頽廃への傾向である。 なぜ許されざるものに対する歓びが生じるのか?
2003.9 金森修 純粋持続を探せ ベルクソン NHK出版 著書 25 問題は、僕たちの生きた体を、定量的アプローチや機械論的な理解の仕方で把握できるか、できないか、というところにあるのではないということだ。ベルクソンの議論の要点は、定量分析では逃れてしまうものへの注目と、逃れてしまうはずのものが、定量分析で説明されたようになってしまうことにあった。  
2003.9 金森修 純粋持続を探せ ベルクソン NHK出版 著書 36 要するに、純粋持続は、質的変化が次々に起こること以外のものではないはずであり、その変化は互いに溶け合い、浸透し合い、正確な輪郭を持たず、互いに対して外在化するといういかなる傾向もなく、一人のいかなる近親性もない。それは純粋な異質性だ。 現在までにできあがった自己のうえに、新たな異質な瞬間が次々と自己に付着し、自己化していく。できあがった現在の自己は、過去の自己とは異質なものになる。その変化の可能性は予測できない。
2003.9 金森修 『創造的進化』にまつわる間奏曲 ベルクソン NHK出版 著書 56 榴散弾のようなエネルギーに溢れた生命が、無機物に侵入し、そのエネルギーの働きに応じて物質を多様に有機化していく。この場合の有機化とは、単なる死んだ並列的な物質組成ではなく、生き物の体をつくる組織に変わるという意味だ。だが、生命の力は無限ではなく有限である。そのため物質の抵抗を受けて、三つの方法に分岐し、そこで定常化する。定住とまどろみの中に沈む植物と、極めて発達した、しかし特定の道具的機能しか発揮できない本能と、不完全な、しかし、その分、融通無碍な製作能力かかえた知性の三つ。
本能を最大に体現するのはアリやハチなどの膜翅目であり、知性を最大に体現するのは人間である。生命は弾みであり、榴散弾のような弾け方をするので、物質世界の決定論からは逃れた予見不可能性や偶然性を抱え込む。絶えず動き回る活発な動物の行動を制御する神経系は、決定論的な物理世界に挿入された不確定性の貯蔵庫である。その場合、神経系が複雑化して意識を生み出したというよりも、意識という生命エネルギーが物質と格闘しながらそれぞれの段階の生物を生み出し、ついに人間に至って意識は本来の自分を取り戻したというべきだ。意識は進化の運動原理なのである。
生命力は、植物、本能、知性の三つ。本能はアリやハチ、知性は人間。生命は弾み。
2003.9 金森修 『創造的進化』にまつわる間奏曲 ベルクソン NHK出版 著書 59 ベルクソンは、確かに科学とは離れる地点を目指しながらではあるが、科学に密着しながら仕事をした。そして、その過程で科学に寄り添うし姿勢を見せては、そこから少しずつ離れていった。実証主義を無視するのでも、敵視するのでもない、にもかかわらずそれに雷同しないこと。 人文科学者の最高のスタイル。
2003.9 金森修 押し寄せる過去と、自由の行方 ベルクソン NHK出版 著書 65 たとえば僕が部屋、飾り物、コンピュータ、門扉、道や自動車などを知覚するとき、僕は部屋と廊下の境目を見極めて敷居に足がつまずかないように注意するということを同時にしているし、道で自動車に配慮を払う時には、道幅と自動車のだいたいの速さ、車体のおおよその幅などを瞬時に知覚して、自動車にぶつからないように行動する。もしこれらの知覚が、僕が普段しているようには行われないとしたら、どうだろうか。僕はいたるところでつまずき、ぶつかり、ころび、怪我をするだろう。自動車の場合なら、命さえ危うくなるかもしれない。だが、僕らの周りのすべてのものが、微妙な違いやぶれを抱えて存在している。ちょうど僕らの純粋持続がたえず膨らみ、変転しながら続いていくように、僕らの周りの世界の物事も、微妙な違いを生み出しながら存在している。
だが、もし、それらすべてをその動きやぶれを全部すくい上げるような具合に知覚するとすれば、どうだろうか。まるでメリーゴーランドから眺める風景のように、微妙な変遷を繰り返す周りの世界。それは、もしそのぶれや揺らめき、動きや変化をすべて捉えるような超人的言語と、神のような知能を持つ特殊な存在者が記述しようとすれば記述できるものなのかもしれない。だが、それは、僕ら普通の人間には到底手のでない複雑怪奇なものになるはずだ。
だからこそ、僕らの知覚は、それらの微細な運動や変化を無視すること、微妙な違いを平準化し、平均化することを選んだのだ。知覚とは、何よりも対象の固定であり、対象の省略的で概略的な把握、対象の形骸化を意味している。知覚とは、本来そうであるはずの対象の豊かさを削減する行為だ。
知覚の定義と意義。ぼんやりとした輪郭で、たえず変化している輪郭、表現しきれないその豊かな姿を、だいたいこんな感じと輪郭づけするのが、知覚の本来の機能であり、それを概念化するのが言語ということか。
2003.9 金森修 押し寄せる過去と、自由の行方 ベルクソン NHK出版 著書 94 習慣を身につけれられるのは、ただ生物だけだが、習慣は、その生物のなかにある種の機械性を増幅させるように働きかけ、生物の中に自然を蔓延らせる。生物は、「いつも同じようなこと」を機械のように処理することによって、その生物にとって真新しく、的確な反応を瞬時に判断しなければならない状況のための余力をとっておく。生物が、習慣という機械性を内部で膨らませていくのは、機械的には処理できない事件や偶然に適切な対処をするためなのだ。習慣を持つということは、逆に、自分の習慣を離れて、習慣的とは言えない予想不可能な行為を行うことができるという自由を持つことが前提とされている。 対象を平均化する知覚を補強するのが習慣ということになるか。ただし、それは偶発性に対処するために仕方ない。でも、知覚と習慣を自然と思いすぎる、その擬似自然のようなものが増えすぎると、本当の自然(偶発性)に対応できなくなってしまう。人の作り出す制度はまさにその習慣であるが、作り出した人自身が変化するものであるから、制度が変化するのも当然。人が変化するのは人との関係性による。人がどう変化したのか、我がどう変化したのかを考えなければ、制度の変化だけを追究しても意味がない。
2003.9 金森修 押し寄せる過去と、自由の行方 ベルクソン NHK出版 著書 96 確かに、僕らの近くはその背後からどんどん湧き出してくる記憶の圧力に押され続けている。僕らは、いまこの瞬間を見ているようで、実は今までなんども見てきたもののようにそれを見、いままでなんども聴いてきたもののように、それを聴いている。その意味で、僕らは事実上、自分の過去の奴隷のようなものだ。しかし、それは絶対にそうでなければならない、というわけではない。なぜなら、空間された時間ではなく、本当の時間とは瞬間瞬間に産出能力を備えたものだからだ。
何か本当に新しいものが生まれるとい可能性が、全く排除されているような時間の流れはない。ちょうど、生物進化を引っ張っていく生命の力が、生命の弾みであったように。弾みは、榴散弾のように、ほぼ計算不可能な弾道を描く。予想できないということ、どうなるかわからないということ、それは生命の成り行きであり、同時に自由の発言そのものでもある。僕らは、めったに自由な状態にいることはない。にもかかわらず、僕らは本当は、存在の奥底から完全に自由なのだ。僕らは自分の過去の奴隷などではない。
何かものを見るとき、過去の経験を土台に見ていないか?初めて海を見るときには、近くで見た池や水たまりよりも大きな水たまりだ、などのように。
習慣や知覚によって、過去に束縛されてしまっている。
今の人間は自由を履き違えている。自由は義務を伴うなどというのは、ただの誤認で、人間の作り出した制度のなかで、自由という言葉を表現しているにすぎない。
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 11 攻撃を受けること(被害)は、必ずしも反撃としての怒りを導くとは限らない。怒り以外の、恐怖や驚きになる場合もある。恐怖に変わって怒りが励起される条件は、自分の存在の危機に対しては余裕がある場合と言える。怒りの感情を言葉で端的に表現すれば、「許せない」ということになる。「許せない」とは、「私は正しく、相手が悪い」という明確な倫理的状態であることを示している。すなわち、怒りには、聖者の所在と「許すことの可否」が前提になっており、その可否の基準で許せないのである。怒りとはいつでも「正義の怒り」なのである。  
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 12 最初の怒りは、「(今私は)不快である」ということから、「(私が)不快であることをは許せない」という規範化の発生の瞬間であり、欲求が規範化された原規範の成立(と同時に感情能力の構造化)を意味している。怒りの表出は攻撃ではなく、相手の「悪い」行動を阻止する反応であり、相手に自己の規範に従わせようとする反応である。怒りの表出は、おのれの原規範の表出・実現化への意思である。このような原規範は、社会化によって、欲求優位の原規範から、社会規範優位の原規範へ、さらには宗教的な超越的(超法規的)規範へと変化しうる。怒りは幼児の怒りも聖職者の怒りも等しく原規範の違反という現象であり、ただその原規範の構造が異なるのである。原規範の構造かというモデル的仮説は、怒りやすさ(易怒性)を個人のパーソナリティーではなく、準拠している原規範の構造の硬さで説明しようとする点で社会心理的である。 原規範の構造は、なぜ硬くなるのか?
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 13 怒りの感情の発生に前提されている要件には、基準となる原規範、違反の故意・過失性、存在の危機の程度、被害の回復可能性などが考えられた。  
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 14 感情には「蓄積性」という性質を仮定できる。蓄積性とは、時間を経過して存在し、時を異にする同じ感情が結合する性質を指す。すなわち、行為が終わっても感情が持続し、潜在化された強度(表出されていないが表出された時の強度)が強まる、という性質である。これは情感性の常在性に由来する。感情は蓄積によって深層化もされる。深層化とは、現在的・自覚的に体験していない状態になることで、感情は持続しているが表出も表象もされていない状態になる。それゆえに、爆発する怒りは、その場での怒りではなく、過去から溜め込んだ怒りを伴っている場合がある。その場合、その場においては不自然に強すぎる怒りとなる。  
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 19 怒りを正当化している原規範の抽出法。
①怒りの状況を語っている規範素を抽出する。すなわち「〜のとき・場合、〜することは、〜なので、許せない」という形式にあてはめる。
②条件素・行為素の連合と機能素(違反の根拠)との対応関係が正しいか吟味する。機能素には、感情的不快(嫌悪、屈辱、悲しみ)も含まれる。
③機能素と評価素の対応関係が正しいか吟味する。評価素は二価ではなく多価の程度表現にする。
④この規範素の構造的把握のために、条件素や行為素を変換した場合、機能素・評価素の値が変わるかを試してみる。たとえば同じ条件素で、どのような別の行為素であったならば、「許せる」という評価になるかを試行錯誤してみる。この代替行為が見つかれば、それは人を怒らせない行為素として一般的に採用する価値をもつ。
⑤どうすれば怒りがおさまり、感情の快適さが回復するか。怒りの規範素を無化するような別の規範素を考える。たとえば、「〜したとき、[行為を停止/謝罪/損害賠償]することで、〜なので、許すことができる。
 
2006.11 永井均 場所 西田幾多郎 NHK出版 著書 58 「SはPである」という判断において、主語はより特殊的なもの、述語はより一般的なものを指しており、主語のより特殊的なものが、述語のより一般的なものに包摂されるということによって判断が成立する、と西田は判断している。「日本人は人間である。」  
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 2 フェティシズムとは、単なるものが記号化、シンボル化されることによって初めて特別の価値あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。
性的対象のみならず、性的目標としての性行為もまたすべて、記号化されることによって初めて価値あるいは意味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシュ」としてのみ存在しうるのである。すなわち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。
「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求し、賛美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いに出すまでもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。人間のみが自らの死に方を選択したり、死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗していくのみである。
「死」も記号化、象徴化される、つまり、特別な意味を持つことによって、欲望の対象となる。「死」をどう定義づけるかは置いておいて、そこに逃避や復讐といった意味づけをするから、自殺が可能になる。
動かなくなり、冷たくなり、腐敗していくことを「死ぬ」と記号化した時点で、フェティッシュ化され、何らかの意味を持たされている。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 2〜3 私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッシュとして意味づけを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の対象にしたりする。一つの社会の中でほぼ同じようなものが崇拝されたり、欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものは言語的記号との分離不可能性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有している一つの社会、共同体の中では、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーと言われるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連するもの、例えば、死者の扱い方、弔い方に対するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。 言語がなければ、フェティッシュは存在しない。言語がなければ「死」という言葉も意味も存在しない。「死」という言葉がなければ、「死」の意味もない。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 3 ネクロフィリア(死体愛好症)の理由。死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、このことによって、「わたし」と死体との間には、情念と情念による、お互いの交流が成立しないからである。すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、初めて純粋性欲として自己完結することが可能である。死のなかにある他者を欲望を対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。
人形も少女も、自らは語り出すことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りなくエロティックなのである。女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤龍彦によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃え上がるというメカニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、そしてそのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲が極めて観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュであらざるを得ない。
愛という桎梏のない方が、性欲が満たされる。これは、性・性欲自体が言語化・記号化されたことが原因か。
男の性欲が観念的であるという前提は正しいのか?女の性欲は観念的ではないのか?であるならば、どんなものなのか?
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 6 フェティッシュとしての愛は、人間に本当の性の喜びも、死の喜びももたらすことはない。ましてや、その中に真の性的快楽などあろうはずがない。世にはびこるいわゆるところの「純愛至上主義」など、性の喜びそのものを禁忌の対象とすることに基づく偽善に他ならない。「愛」また、単なる記号、シンボルとしてのフェティッシュである以上、そこには何の実体もない。
このような偽善的「愛」から離れることができないキリスト教徒に対して、仏教徒たちが「愛」を自己中心的執着あるいは我執として、悪と見なしたのは、彼らに真実を見抜く目があったということだろう。
愛もまた記号にすぎない。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 7 人間を理性的存在者として捉えようとするならば、人間の本質とはまさに肉体的欲望とは対立するところの理性であり、理性によって、性欲をその中心とする半理性的な肉体的欲望を支配、コントロールすることにおいて道徳が成立することととなる。そのような道徳を自らの意志によって守ること、つまりは肉体的欲望によって支配されることなく、理性の自立によってのみ生きていくこと、このことに肉体的欲望から解放された真の人間的自由があると考えられてきた。 だが、これは虚構・偽善だった。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 8 理性によって何かを認識するということは、本物(実体)を失って、記号を獲得するということである。そのような理性のはたらきによって、われわれによって生きられている世界の全体が、我々自身の身体をも含めて、記号に置き換えられ、記号化されていくのである。そして、記号はもはやその指示対象としての実体からは分離され、浮遊する記号、シンボルとなり、我々にとっての世界及び身体は記号あるいはシンボルによって虚構されたものとなる。 記号化された虚構を、実体と思い込んで生活していることがわかっていない。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 8〜9 虚構の世界および身体において、生もセックスも死もまたその実体性を離れ虚構されたものとなってゆく。人間にとって、その生もセックスも死も、記号化されたシンボリックな虚構としてのみ成立するのである。人間のみが生きる意味を問い、それに悩む。そもそも「生きる意味」などどこにも存在しない。われわれはもはや真の意味で「生きる」ことなどできず、「生きる」という記号の中にさらに「生きる意味」という記号を探し求めているだけなのである。セックスもまた、生物学的意味での生殖行為という実体から切り離され、極めてシンボリックな意味を獲得するようになった。女性差別主義社会においては男が女とセックスするということは、その男がその女を自らの所有物として獲得するという意味を持つものであり、婚姻制度に関するモラル、「たとえば「汝、姦淫することなかれ」という戒律は、他人の所有物であるところの女(夫の所有物または、結婚前の娘であれば、父の所有物)を勝手に盗んではならない。という意味のものであった。 不倫は窃盗罪か?
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 9 人間のみが死を恐れ、死の恐怖から逃れようと必死でもがく。たとえ、今ここに死が現前しなくても、人間は、古代ギリシャ人たちがそう考えてように、「死すべき者」としての自覚を持ち、死への不安と向き合いながら生きていかなければならない。しかし、他の動物たちにとって「死」は存在しない。ただ、彼らは死の危機に直面したときにのみ、本能的にそれを回避しようとする行動を取るだけである。彼らは「死を恐れる」ということはしない。人間が恐れているのは、あくまで記号化されたシンボリックな「死」なのである。記号としての「死」に取り憑かれて、人間は不安と恐れの中で生きていかねばならない。それゆえ人間のみが死の恐れから逃れるために、死者の弔いなどを必死で行うのであり、死についての物語(神話)を語り、死と和睦しようとする。
世界と身体とが記号化される(意味をもつ)。そこで、性のエネルギーが向かうところの対象となるのは、世界あるいは身体の中に成立する、指示対象としての実態を伴わない記号であり、さらには想像力の中でそれらの記号は無限に自己増殖していく。それゆえ、人間のみが記号、シンボルをその欲望を対象とすることとなり、実体的な生殖行動と性欲とは分断され、人間の性欲はその対象としてのシンボルを求めて、浮遊し、さまよい続けることになる。その彷徨の過程は一人ひとりにおいてすべて異なり、ここに人間の性というものが有する、無限の多様性が成立し、一人ひとりの人間がそれぞれ異なったセクシュアリティを獲得することとなる。こうして、人間の有する性欲は生殖をその唯一の目的とする生物学的本能とはまったく別物に変貌する。
自死を欲するのはなぜか?
死を言語化・記号化・虚構化できるから、自死ができる。死に死以上の意味を付与している。逃避・怨念など。
虚構化した死とは何か?
死以上の意味とは何か?

言語によって表された概念が、他の言語によってさらに意味付けられ、実体をとして認識されるから、実体があるわけでもないのに、欲望の対象となる。

死に対するイメージも欲望も、無限の多様性が成立する。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 16 我々人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値も我々にとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、何の意味も価値もない絶対虚無のなかにおいてのみ生命の意味は充実し得るのではないか。 不可知だからこそ、意味が増える。分かりきっているものに、意味は増えない。
2007 山根一郎 恐怖の現象学的心理学 人間関係学研究5   雑誌 6 逃避(恐怖)は、攻撃(怒り)とは逆に対象から遠ざかろうとすることであり、方向は正反対だがともに対象と対峙している事態からの脱却を志向している。対象を撃退しても脱却は達成できるのだが、逃避することは、対象を撃退する力のなさを露呈している。 自殺とはどういう行為になるのか?逃避、あるいは攻撃、その両方か?
2007 山根一郎 恐怖の現象学的心理学 人間関係学研究5   雑誌 12 不安は自己を不安がり、恐怖は他を恐れる。  
2008 山根一郎 愛の現象学的心理学 人間関係学研究6   雑誌 73 相手の行為に対する「原規範」的評価としての怒り(「許せない」という気持ち)が、たとえばその行為の高頻度化によって、その行為者自身に帰属された場合、その行為がされなくなっても、行為者が存在する限り、その「許せない気持ち」は持続される。それが憎悪である。憎悪は怒りの準備状態などではなく、怒りが解消されずに持続しさらに深刻(深層)化する過程である。憎悪における許せない対象は、行為者の「存在」になる。存在を憎むことは存在の無化(殺意)へと導かれる。憎悪は「存在否定」の感情である。 自己愛の否定、憎悪の自己対象化、怒りの自己対象化、自分が存在する限り、自分を許せない気持ちが持続される。それが自殺につながるのか?
2009.1 浜田寿美男 「わたし」の生まれるところ 子ども学序説 岩波書店 著書 35 赤ちゃんは受動の嵐にされされるなかで、最初に他者の能動(わたし)に気づくようになる。 科学的知識がない時代、気象や災害に能動的意思(神の意志)を感じてもおかしくないのではないか?
2009.1 浜田寿美男 「神のうち」から「人の世」へ 子ども学序説 岩波書店 著書 72 誰にも「死」は経験できない以上、「死」はどこまでいっても観念でしかない。しかし、この観念のゆえにこそ、人は意図して死を選ぶ。自殺の最低の必要条件は、「自分の死」を考えられるということだからである。自殺可能性は、その意味で、おとなへの移行の一つの指標なのである。 他者の死を経験し、それをイメージできることが必要。おとなでなければ、自殺はできない。言葉を通して外の世界へと広がりなら、自己の内面世界へと向かう内向きのベクトルが働いて、初めて自死へと向かう。
2009.1 浜田寿美男 「神のうち」から「人の世」へ 子ども学序説 岩波書店 著書 91 昨今では物が豊かになり、残されたのは精神の問題、あるいは心の問題であるかのように言われる。自我形成や人格形成の問題があちこちで喧しく論じられるのも、そうした趨勢の一つの表れなのであろう。しかし、今日、本当に物は豊かになったのであろうか。そして、それにもかかわらず心が貧しいのであろうか。今日の物の豊かさは、はっきり言ってしょ商品の豊富さ、いや氾濫であって、けっして人が物と関わり、自然と関わる、その関わり方の豊かさではない。
物は豊かになったにもかかわらず心が貧しいのではない。心の貧しさには、それに見合った物への関わり方の貧しさがあると言わねばならない。
豊かさは多様な関わり方。
労働は賃金を稼ぐため。自己の労働がどのように社会と関係性を持っているのかが見えにくい。これは子どもだけなく大人もそう。したがって、有能な賃金労働者になるための勉強も、その意義が見えづらい。学校の存在意義の希薄さの要因でもある。
2009.1 浜田寿美男 学校のまなざしとその錯覚 子ども学序説 岩波書店 著書 106 少年事件の背景を「障害」と説明し、それでわかった気になるというのは、どうもおかしい。仮に発達障害があったとしても、それが事件にどのような関わりがあるかを見ておかないと、とんでもない誤解に陥りかねない。
常に守られるだけの存在だった子どもが、突然そのセーフティーネットを剥がされ、剥き出し個として社会に放り出される恐怖・苦悩を考えるべき。
人は手持ちの力を最大限に使い、今のできなさを適当にやりくりしながら生きていく、そうしているうちにその結果として次の新しい力が伸びてくるということになる。もちろんそれが伸びてこないことだってある。そういうものではないか。
発達障害者」がすべて犯罪予備軍になってしまう。「障害」で片がつくほど、少年事件やいじめは簡単な問題ではない。自我や個は他者との関係性でかろうじて支えられているような、極めて不安定なもの。
2009.1 浜田寿美男 学校のまなざしとその錯覚 子ども学序説 岩波書店 著書 116 発達とは結果であって、目標ではない。そこのところを逆立ちして、発達を目標に掲げ、ただただ「力を身につける」ところに邁進して、どこまで力が身についたかをテストで測り、その点数や順位にこだわってしまえば、それがいかに善意であれ、子どもたちは「力を使って生きる」本来の姿を見失い、人間としての自然を壊してしまいかねない。
人は自分の力を使って相手を喜ばせることが嬉しい生き物だ。「力を使って単独個体で生きる」にとどまらず、「ともに生き、共有の生活世界を立ち上げる」。この共同のありようこそが発達の原則にかなったことだし、これが発達の自然だということにもなる。
学校は集団生活の場でありながら、単独個体の能力を伸ばすことに目的にしているところが問題。
2009.1 浜田寿美男 いじめという回路 子ども学序説 岩波書店 著書 140 学校を生き物の集団として見た時、これだけたくさんの子どもたちが一つの場に集まるというのは、めったにあるものではない。子どもばかりがこれだけの大集団をなすというのは、極めて例外的な事態だと言える。
人間の世界に、このように年齢層を揃えた子どもの大集団ができたのは、学校が大衆を巻き込む制度となった近代以降のことである。つまり、それ事態が人為による歴史的形成物である。
かつての学校は生活の一部に過ぎなかった。一部の例外を除けば、学校の成績や学歴が子供達の将来を決定づけるようなことはなく、勉強が嫌なら、その場を適当にやり過ごしても問題はなかった。
パラダイムシフト!

安定した将来へのパストートを得る学校という位置づけが、子どもたちを学校生活一色に塗りこんでしまっている。将来への不安ゆえに、辛くてもそこから逃れられない。しかし、学校の勉強は生活感がないため、何をしているのか分からない。子どもが今を生きられない。まだ見もしない将来のためにしか生きられない。そこに、イライラや不満が生じる。ぶつける先は生身の人間ではなく制度。当たりどころさえ欠いている。
2009.1 浜田寿美男 学校は子どもたちの生活の場になりうるか 子ども学序説 岩波書店 著書 182 子ども学は、主観の科学として構想すべきもの。単に外から眺めた子どもの現象を記述し、問題を客観の目で整理して、解決すればいいというわけにはいかない。学校の問題に立ち戻って言えば、「学校のまなざし」は得てして普遍を求め、客観を求める。それゆえに「客観の科学」が馴染みやすい。しかし一方でその代償として、主体の位置から広がる遠近法の世界を押し殺し、日々を生きる子どもたちの「生活のまなざし」に正当な位置を与えたはこなかった。 個を徹底追究することで、理論も生まれてくるか。芸術・文学研究はこのようなものでなくてはならない。
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 1 近代においては、社会のすべての規制権限を集中した国家(「主権国家」)が構築されて、身分制とともに社会のなかの中間団体が解体され、そこに統合されていた個人が「自由な個人」として解放される。ここでは個人は例外なく、自己の労働力を自由に所有する自由な個人として位置づけられた。このようにして、一方では自由な個人と、他方では権力を独占して個人の自由を保障すべきものとされる国家が向き合う構造が生まれた。 近代以前は中間団体が身近な公として存在し、自由を規制していた。また、中間団体のせいで、自己の労働力を自由に所有する自由な個人ではなかった。
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 3 公共性を考える前提となる人間の集団意識には、自他の区別がある。共同体内部で殺人を犯せば法によって裁かれるが、敵との戦争で殺人を行っても罰せられないばかりか、英雄として賞賛されさえする。つまり、人間の集団意識に自集団と他集団との峻別が存在して、公共性はもっぱら自集団の内部でしか成立してこなかったのである。それゆえ、今日、多集団をも含めた公共性の拡張をどのように可能にするかという点の検討が課題となる。その際には、人間の集団意識の単位が歴史的に変化してきた点に注目する必要がある。 同レベルの集団が闘争を繰り返し、より大きな集団に包摂される?そもそも公共性は何によって示されるのか?法律か?
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 21 国家とは、社会という抽象的・構成的な概念を背負って、立法機能・司法機能・行政機能を果たす機構に他ならないことになる。 近代では、社会は抽象概念で、国家は実体となる。前近代では、身近な共同体が公の実体となる。では、国家は?
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 24 国家の構造的特性は、暴力を集中すること、暴力行使の正当性認定権を独占すること、支配領域内における全個人の自力救済を制約することの代償として全個人の保護義務を負うことにある。市場における経済権力による搾取・抑圧や、中間共同体の社会的専制から個人を保護しうるというメリットをもつ反面、それ自体が物理的暴力を背景にして専制化する危険を常にもつ。 国家の特質。
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 25 共同体的秩序形成は、相対的に濃密な信念・感情の共有と一般化された互酬実践による共同体的結合を基礎とし、逸脱者に対する非難やゴシップ、互酬実践からの排除、さらに追放という制裁を社会統制手段とする。共同体は、無資力なものも保護するという点で市場アナーキズムの欠点を補い、誰もが共同体的制裁に参与でき、また強者といえども、共同体的制裁を免れないという意味で、平等性をもつ。それは、市場における富の格差や国家における権力格差がもたらす階層的差別や不公正を避けうるというメリットをもつ。しかし、その反面、「よそ者」や内部の「異端者」に対して閉鎖性・排他性・抑圧性を示すという欠陥がある。
共同体的専制とは、中間共同体が跋扈し、その内部における異端者・告発者への社会的専制(内部的専制)に対する国家的統制を排除するばかりか、自己の集合的特殊権益を一般社会にコスト転嫁して享受するために、組織票・組織的集金力などの政治的組織力を濫用して国家の規制権力を私物化し(外部的専制)、国家的規制の公共性も市場の公正競争システムも掘り崩す状態である。いわゆる「日本型システム」期の日本はその一つの典型をなす。
中世村落に、無資力なものを保護する機能はあったか?ないなら、いつからそんな機能が加わったのか?日本にはそんな機能は存在しないのか?
2011.10 富増章成 ニーチェ 哲学者の言葉 角川ソフィア文庫 著書 120 ニーチェによれば、真理が存在するわけではなく、真理を知りたいという人間的・生物的な「真理への衝動」が存在するだけなのである。だから、道徳は時に権力として作用する。  
2011.10 富増章成 ハイデガー 哲学者の言葉 角川ソフィア文庫 著書 132 ハイデガーによると、存在者と存在とはべつのもの(存在論的差異)。人間が「ある」(存在の働き)を作り出している場だ。存在とは時間だ。  
2011.10 富増章成 レヴィナス 哲学者の言葉 角川ソフィア文庫 著書 160 私たちの存在は他の誰とも交換できないから孤独だ。それゆえ、存在(イリヤ)の無意味さがあらわになる。レヴィナスによると、他者は神秘・未知・未来だ。生きているうちに体験することができない死と同様に、他者は未知の領域であり、超越的で神秘的な存在である。ただ存在するだけの私は、完全な受身の状態である。他者が到来してくるからこそ、「イリヤ」という無意味な存在である私に意味が与えられる。他者が私をつくってくれている。  
2013.3 澤美帆・杉山崇 人の攻撃性と自尊心について 心理相談研究4 神奈川大学 雑誌 50 「自尊心」には、“自分自身の価値を認める自己”と、“自己一他者関係の中で評価される自己”といった二側面があるということが窺え る。  
2013.3 澤美帆・杉山崇 人の攻撃性と自尊心について 心理相談研究4 神奈川大学 雑誌 55 自己愛の定義を、“自己の満足を得るために自己注目や他者卑下を使用し、他者の気持ちを尊重せず、自己が望ましい特徴を有している存在であるとする実感”とする。  
2013.3 澤美帆・杉山崇 人の攻撃性と自尊心について 心理相談研究4 神奈川大学 雑誌 56 自尊心は他者からの評価を積極的に取り入れ、それらの「他者による評価」を基盤に高めていくことのできる概念である。自己愛は自己の満足を得るために必要以上に自己に注目し、そのために他者を卑下したり下方比較したりするという手段を用いることがある 。つまり、他者との比較は単なる手段であり、そこに基盤となる評価が含まれるわけではない、という点で両者は異なっているといえる 。  
2013 山根一郎 恐怖の現象学的心理学2 人間関係学研究12   雑誌 105 行動を動機づける心的状態すなわち動因として感情を位置づけた場合、恐怖は逃避行動を動機づける感情=「逃げ出したい気持ち」と捉えられる。すなわち、恐怖の対象は解釈された「危険」ではなく、目の前に出現している異様な他であり、その対象から逃げ出すことを動機づける感情(動因)である。  
2013 山根一郎 恐怖の現象学的心理学2 人間関係学研究12   雑誌 111 まずは、苦痛(身体的不快)体験による新たな恐怖対象が学習される。幼児が予防注射に示す恐怖反応は、針を刺すという視覚的違和感だけでなく、痛覚の経験によるところが大きい。すなわち、恐怖は苦痛という経験的根拠を持ちはじめる。恐怖が学習可能となれば、学習された恐怖対象の出現の予兆だけで恐怖を発動することが可能となる。これは対象の現前による恐怖1とは異なる、表象(準現前)だけで発動される恐怖であり、これが恐怖2の発生を準備する。さらに、人間では自己の存在への認識も恐怖の在り方を変える。様々な他者・他生物の死を知ることで、人は幼い時期から自己の存在の危うさをゆっくり時間をかけて理解していく。やがて、恐怖とは、怖い「対象」の現れではなく、むしろ「自己」の死の恐怖を意味するようになる。この恐怖対象の「他」から「自己」への転回こそが、恐怖2の発生契機である。恐怖の本来的機構が「危険に対する反応」であることの知的理解は、この恐怖2の体現者(成熟した人間)のみに可能である。恐怖2は実存的恐怖なのである。 では、自己の死が恐怖でなくなるとはどういう状況か?死の恐怖を他の恐怖が超えるのか、死の恐怖を何が超えるのか?
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第1章 基本理念 道に従って生きよ 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 12 老子における「道」は、儒家の「道」とも異なります。儒家と同様に、人としてのあり方を示してはいますが、さらに大事なものとして、天地や万物が生み出される際の根本的な原理、あるいは根拠という意味が含まれています。儒家の「道」を一歩進めて、人間社会のことだけではなく、はるか宇宙に至るまで、ありとあらゆるものの生成や存在は「道」によっていると考えたのです。儒家が「道」を「人間学」としてとらえたのに対し、道家はそれを無限に広げて「自然科学」的にとらえたといってもいいでしょう。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第1章 基本理念 道に従って生きよ 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 19 最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって「無」を指します。それを姿かたちのない存在として認識したものが「一」としての気。さらにそれが陰陽の二つに分かれて「二」となり、沖気(陰と陽の気を作用させること)が作用して「三」隣、そこから万物が生まれてくるというわけです。「無」から全てが生み出されるというと、なにもないところから生まれるはずがないだろうと思ってしまいますが、老子は「無」というものを、なにもないものではなく、ありとあらゆる可能性を含みもつ状態だとしているのです。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第1章 基本理念 道に従って生きよ 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 22 人間の場合は、意図的、作為的に善い行いをするわけですが、「道」の場合は、そこに意図や作為は一切存在しません。「道」の営みは「ありのままの営み」であって、万物を育てても、それは作為的なものではなく、当たり前のことなのです。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第2章 生きるための哲学 上善は水のごとし 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 55 老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。これは、一切なにもしないということではなく、作為的なことはなにも行わないことと、とらえてください。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第2章 生きるための哲学 上善は水のごとし 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 83 孫子には、逃げることについての「恥」の意識はないのです。 逃げることに対して、いつから恥の意識が生まれたのか。
2017.6 釈徹宗 第1回 仏教思想の一大転換 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 23 布施とは、「自分の持っているものを手放す」ことを意味します。「持戒」も、ただかたくなにルールを守って生きるという単純なことではありません。自分への「執着を捨てて」、相手のことを思いやりながら、譲り合って生きるというのが持戒の意味です。つまり六波羅蜜大乗仏教が定めた修行のことで、「布施(施しをすること)」「持戒(戒めを守ること)」「忍辱(よく耐え忍ぶこと)」「精進(よく努め励むこと)」「禅定(心静かに瞑想すること)」「智慧(物事の実相を体得すること)」)には「自分の都合を小さくするための智慧」が結集されていると考えればよいでしょう。そうした執着を捨てるトレーニングを日々積み重ねていくことで、自分の都合はどんどん小さくなっていくと、ここで釈迦は説いています。 六波羅蜜の定義。
2017.6 釈徹宗 第1回 仏教思想の一大転換 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 25 つまり、本来は美しいこの世界も、偏った見方や執着した眼で見れば不浄となり、醜く見える世界も執着から離れれば仏国土だというのです。(中略)自分というフィルターを通してものごとを見ていては、本質は見えてきません。自分というフィルターを外すこと、つまり「とらわれを捨てる」ことが、まずは大切なのです。このように、何事にもとらわれずにものごとを見ることが、仏教でいう「智慧」です。  
2017.6 釈徹宗 第2回 「得意分野」こそ疑え 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 27 私たちは〝自分というもの〟を頼りにしてしまうと、貪りの心や迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの身体は四つの元素(地水火風)の集合体として成り立っていて、さまざまな因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。〝単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係していない存在〟など、この世にはないのです。そして、この集合したものの本質を『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるのですから、私たちはそれを願い求めなければなりません。  
2017.6 釈徹宗 第2回 「得意分野」こそ疑え 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 35 仏教では「生きることは苦である」と考えます。この場合の「苦」の原義は、「思い通りにならない」といった意です。人生のすべてを思い通りにできる人はいません。だから、「思い」のほうをなんとかしなければならないのです。ここでは〝ありのままの姿〟という言葉を使っていますが、〝ありのままの姿〟とは、「こうすべき」とか「こうありたい」といった自分の「思い、執着」を捨てた状態のことです。維摩はそれこそが仏教が理想とする到達点だと言っているのです。 苦の根源は「思い・執着」。
2017.6 釈徹宗 第2回 「得意分野」こそ疑え 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 36 乞食行は日々の食料を得るために行うものではなく、自分の本当の姿、本性を知るために行うもの。施す側も施される側も、施される物も、損も得も、すべては私たちが作り上げた虚構の価値観にすぎないということに気づき、すべての執着を捨て去るために行うのが乞食行だとここでは説いています。(中略)乞食行は施す側のものでもあるというのは、誰かに施すという行為が執着を捨てるトレーニングになることを言っています。「これは自分のものだ」というい思いが強ければ強いほど、人の苦悩は大きくなります。しかし、施しを通じて「握った手を離すトレーニング」を積んでいけば、執着を低減したり調えたりできるのです。 食べなければ生きていけないという存在以外の何者でもないこと、他の人間の作り出した価値観・執着は無意味だということか。
乞食行は、乞食をする人ではなく、施しをする人のための修行。
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 57 「空とは無分別(はからいをすべて捨てた状態)のことです。空は、認識したり思考したりすることはできません。認識すること自体が空ということにならなければ、無分別とは言えないからです。」(中略)仏教では、存在というものには実体はなく(無我)、すべての存在は要素の集合体にすぎないと考えます。いろんな要素が集合すれば何らかの存在が形作られ、ばらばらになればなまた別の存在となります。あらゆるものごとは刻々と変化し続けているのです(無常)。また、なにものにも依存せずに存在しているものはひとつもなく、すべては連続性、関係性の中に存在(縁起)しているととらえます。 無分別=無分別智。主観にとらわれた自分というフィルターを通して得られる認識ではなく、ものごとをありのままに認識する智慧の働きの意味。
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 81 縁起とは「あらゆる存在や現象は関係性によって成り立っている」という仏教の立場なのですが、これを積極的に解釈して、「他者と関わる態度、姿勢」を「縁起の実践」と呼んでいます。  
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 84 続けて徳頂菩薩はこ語ります。「汚辱と清浄は相反します。でも汚れの正体(絶対で不変の本性)などは存在しません。浄らかさの正体もありません。悟りも同じです。このように体得できれば、不二の法門へと入ることができます。」(中略)菩薩たちはものごとを二つにはっきり分ける「二項対立」の考え方を否定しているのですが、これは私たちの身のまわりでもしばしば気づかされる問題でしょう。たとえば、愛する人が髪をとかしている姿を見ると「なんて美しい髪なのだろう」と思うのに、その人の髪の毛が抜け落ちてお風呂の排水溝にたまっているのを見ると「汚いな」と感じる。髪の毛自体の物質性はまったく同じなのですが、意味づけが大きく異なる─同じものを見ても、自分のとらえかた次第でまったく別のものに見えてくるのです。 その汚い髪を性的対象と見ることができる。すべては認識の問題。
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 87 維摩の一黙、雷の如し  
2017.6 福岡伸一 第1章 脳にかけられた「バイアス」 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 38 記憶は細胞の外側にある。正確にえば、細胞と細胞とのあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連携を作って互いに結合している。結合して神経回路作っている。神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・科学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。(中略)あるとき、回路のどこかに刺激が入力される。それは懐かしい匂いかもしれないあるいはメロディかもしれない。小さなガラスの破片のようなものかもしれない。刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られたときと同じ星座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する。 記憶の生物学的説明。
2017.6 福岡伸一 第1章 脳にかけられた「バイアス」 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 50 人類の祖先は過去何百万年もの間、常に環境の変化と闘いながら生き残ってきた。そのときに複雑な自然界の中から、何らかの手がかりをつけることが、生き延びていく上でとても大事だったのである。その進化の過程で、私たちの脳にはランダムなものの中に、できるだけ法則やパターンを見出そうとする作用が加わってきた。私たちの脳にそういう水路がつけられてしまったのである。暗闇に潜む敵を発見する上で、あるいは生きるか死ぬかの瀬戸際では、そのような瞬時のパターン化が役に立つことも多かったに違いない。 バイアスの形成要因。
2017.6 福岡伸一 第4章 その食品を食べますか? 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 147 生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその「効果」のほうにある。つまり、このように例えることができる。テレビを分解してどれほど精密に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。そして、その効果が現れるために「時間」が必要なのである。より正確に言えばタイミングが。あるタイミングには、この部品とあの部品が出現し、エネルギーと情報が交換されて、ある効果が生み出される。その効果の上に、次のステージが準備される。次の瞬間には、別の一群の部品が必要となり、前のステージで必要とされた部品は不必要であるばかりか、そこにあってはならないのだ。このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は成立する。(中略)近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。部品は多数タイミングよく集まって初めて一つの機能を発揮する。 生命現象の定義。
2017.6 福岡伸一 第5章 生命は時計仕掛けか? 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 177 つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能─それを、私は「動的平衡」と呼びたいのである。  
2017.6 福岡伸一 第8章 生命は分子の「淀み」 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 263 可変的でサスティナブル(持続可能)を特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。