周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小坂井敏晶著書 その4

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫、2020年) その4

  

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

補考 近代の現原罪

P410

 遺伝/環境論争が心理学で繰り広げられてきた。それは家庭環境や学校教育など外力によって人間の性格や能力を変化できるかという問いだ。遺伝も外因であり、内因はどこにもない。ところが、いつしか遺伝が内因と誤解され、不変/可変の構図が内因/外因のパラダイムにすり替わる。それは偶然ではない。神の死がもたらした近代のエピステーメーがそこに隠れている。超越的源泉が消え、根拠が外部から内部に移動したからだ。

 各人固有の要素が成長を司るという意味では遺伝子決定論は内因説だ。だが、遺伝子は両親から受ける所与である故に、実は外因説である。偶然の作用を加えても外因しかない。つまり各人の身体と精神は外部要素の沈殿物だ。この外発的所与を内因と取り違えることで、遺伝/環境の対立構図が、内部/外部の二元論に変身する。

 

P415

 どんなに拡散され、ダイナミックに形を変えてもシステムは実在物だ(河野哲也の心=主体概念の定義)。対するに私論が言及する虚構は実在物ではなく、解釈である。意志や主体は心理状態でないし、メカニズムやプロセスでもない。殴る・銃撃する・強姦するなど、ある身体行動を受動的出来事でなく、積極的に選ばれる自主的行為だとみなす社会判断そのもの、人間存在のあり方を理解する形式が主体や意志と呼ばれるのである。責任概念の歴史変遷を見たように、近代のエピステーメーが導く社会制度であり、政治装置である。

 こんな比喩が理解を助けるだろうか。主体はどんな構造をしているのかと河野は問いかける。対して私論にとって主体とは構造ではなく、世界を見る眼鏡だ。そびえ立つ摩天楼の屋根に美しい虹が架かっている。虹というシステムを河野は同定しようと努める。対して、虹を錯覚するのは、どのような眼鏡をとして見ているからなのか。これが私論の問いである。

 

P418

 人格や能力は外部の力で変化可能かと科学は問いかけた。だが、内因/外因の思考枠に当てはめられ、意味がすり替えられる。人格や能力の形成責任を当人が負わされ、経済格差が正当化される。貧富の差を個人の資質に帰する社会では、社会構造の変革を目指す集団行動が起きにくい。顕著な格差にかかわらず、米国社会で革命が起きない理由は、各自の能力が公平に評価され、努力次第で社会上昇が可能だと市民の大半が信じるからだ。階層上昇が可能であるか、あるいは実際にはそうでなくとも、可能だという幻想がある時、社会構造の正否は問われない。負け組は自己責任を負わされる。メリトクラシーは不平等を正当化するイデオロギーである。

 過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性として機会均等の理念が導入された。だが、それは巧妙な罠だった。家庭の貧困が原因で進学できず、出世を断念するならば、当人のせいではない。不平等な社会は変えるべきだと批判の矛先が外に向く。対して、自由競争の下では違う感覚が生まれる。成功しなかったのは自分に能力がないからだ。社会が悪くなければ、変革運動に関心を示さない。メリトクラシーの普及を通して学校制度は不平等を正当化し、近代個人主義の社会の安定に寄与する。平等な社会を実現するための装置が逆に、不平等な社会構造を固定する土台として機能する。

 近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が変わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。詐欺まがいの論理が社会を支える。リバタリアンのロバート・ノージックだけでなく、環境の影響と自己選択の区別に依拠するロナルド・ドゥオーキン、そしてジェラルド・コーエンやリチャード・アーネソンらが主張する「運の平等主義」(luck egalitarianism)」もすべて、主体概念を擁護し、格差を正当化するイデオロギーである。政治哲学や法学の様々な試みはどれも、瓦解する砂上の楼閣を押しとどめるための虚しい抵抗だ。正義論の正体は神学であり、自由と平等は近代の十戒である。

 近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う強迫観念が登場する。

 

 →人格や能力は外部の力で変化は可能。だが、遺伝という外因によって制限も受けているから、無限の可能性をもっているわけではない。少なくとも、突然変異でもしなければ、人間の形を超越することもないだろう。ただ、所与(外因)としての遺伝が、内因と勘違いされたことが問題。

 ここ最近、トランプが人種差別や経済格差を煽ってくれたおかげで、アメリカ人自身が不平等な社会であることを認識しはじめた。デモが頻発しているのはその証拠。日本人などは、完全にこの虚構を信じ込ませられている。

 教育学者はこのことに気づいているのか?気づいていながら、美辞麗句、虚言を交えて、このシステムの固定に勤しんでいるのか?自分たちの立ち位置を守るために?ただ、本当に悪い虚構だとも言えない。多くを望まなければ、食いっぱぐれることのない人生を、経済的に安定した人生を送るための技術と地位を、現代の教育システムは提供してくれるわけだから。いや、ヤングケアラーと、塾・予備校にガッツリ通いながら大学に行ける人間との格差を生み出し続けてる現在の教育システムは、かなり問題がある。学資云々ではない。勉強する時間が取れる人間と取れない人間との間で、格差が生じているのことは気の毒な気がする。この書では、虚構システムの是非を問うているわけではない。この是非を考えるのは政治や、現代を生きている我々自身ということか。

 機会均等こそが平等社会の根幹のように見えるが、それ以前、つまり遺伝レベル、育成環境レベルで不平等が起きているわけだから、そうした不平等を前提に、機会を平等に与えても、不平等は是正されない。むしろ不平等が助長されてしまう。

 近代社会という砂上の楼閣(虚構)を維持するために、政治哲学や法学という虚構が必死になって、新たな虚構を生み出し続けている。こういう状況を認識したうえで、テレビの情報番組や討論番組を見ていると、ちょっと恥ずかしくなってくる…。

 

P420

 自由や責任が決定論問題と無関係だと分かっている哲学者は少数だ。シュリックは『倫理問題』第7章「どのような時、人は責任を問われるか」をこう始める。

 

P421

 強制を感じるか否かが自由と不自由とを分ける基準であり、行為の決定論も非決定論も、自由かどうかの判断と無関係である。決定論問題と自由を結びつけるのがそもそも的外れだ。こう論じるシュリックの文章は1930年、つまり1世紀近く前に書かれた。それでも相変わらず多くの思想家がこの疑似問題に囚われている。

 正しさを保証する超越的源泉が失われた今、誰もが安定を求め、どう生きればよいのかと模索する。だが、この強迫神経症に哲学者こそが罹るのはなぜか。それには理由がある。ほとんどの人間は近代の原理的矛盾に気づきもしない。論理飛躍を気にしなかったり、宗教や迷信に逃げ込む。だが、緻密に考える哲学者にそんな安易な解決は採れない。普遍と自由の矛盾の前で右往左往する姿は、彼らの洞察力と誠実さの現れである。それを理解しなければ、近代の奈落は見えない。

 シュリックの考察は決定論との矛盾を避けるための規範論ではない。社会において自由や意志がどのように理解されているかという客観的事実の考察である。第1章「倫理学は何を求めるか」でシュリックは倫理学の課題を明示する。

 

 (中略)規範科学にできることは、規範を知ることだけだ。規範を自ら定立したり、生み出したりはできない。(中略)規範科学にできるのは、人の判断基準の発見だけであり、そこから現在の事実がどう生まれるかの分析だけである。規範の起源は常に科学や知識の外にあり、科学や知識に先行する。つまり科学は規範の起源を認知できるだけであり、規範の根拠は科学の中にない。

 

 →ある概念がどのようなものであるか、どのように生まれるのかを突き止めるだけ。その概念を生み出したものと、生み出した過程を認知するだけで、その概念の是非などの根拠を見つけるわけではない、ということか。

 

P423

 我々は自由をこう理解している。自由という言葉を社会はこう使っている。これがシュリックの分析だ。自由の正しい定義を提案するのではない。具体的に例示しよう。協調箇所に注意されたい。

 

 (中略)自由は強制の逆を意味する。強制なしに行為するとき人間は自由であり、自らの自然な欲望に従う行為を外的手段によって妨げられるとき、人は強制されており、自由ではない。したがって閉じ込められたり、鎖に繋がれたり、あるいはピストルの脅しの下に、そのような命令がなければ取らなかった行為を強要される場合、人は自由でない。このことは完全に自由であり、責任を問われると考えられている。その中間のケースもある。例えばアルコールや覚醒剤の下で行為する。その場合、当人がある程度自由でなかったと社会が宣言し、責任が緩和されるべきだと考える。

 

 →自殺について自由意志を問題にするのは、自殺遂行の責任を誰に取らせるかを問題にしているから、因果を検証したくなる。自殺を疑似犯罪と見なし、自殺者を被害者・加害者のように、理解しようとしているのか。自由意志を捨てて、自殺を検証すると、どういう記述の仕方ができるのか。

 

P424

 すでに参照した黒田亘の立場も確認しよう。

 

 (中略)意志という事象が客観的に存在し、作用しているということを立証するのは不可能であると思う。というより、「原因としての意志」はあくまで擬制的存在であって、この事情を見抜くことこそ哲学的行為論の第一歩というべきであろう。だがそれと同時に、意志なるものが存在し、原因として作用するという観念ないし信念が、われわれの生活を動かしている重要な因果的要因である、という事実を直視しなければならない。すなわちわれわれは意志が実在し、作動しているかのように感じ、考え、作動している。(中略)「原因としての意志」という観念は、意志行為を取り巻き、支えている慣習ないし制度の重要な一部であり、その観念の実在性と効力を認めないわけにはいかないのである。(中略)

 

 →本来意志など存在しないが、実際に意志が存在し、それが原因として実社会で機能すると、人間全体が共同幻想し盲信している。つまり、あるはずのないものが実在して、実効性を発揮してしまっているのが人間社会。そうすると、そのことを伝えることだけで研究は役割を果たしたことになり、それ以上の何か(規範論・対策・処方箋)を求めるべきない、ということか。

 

 要するに意志の記述は、その結果とみなされる行為の記述と一致する。(中略)すなわち「記述を同じくする二つの事実の因果結合」という論理形式は、知覚や記述だけでなく、意志行為に対してもたしかに当てはまる。当てはまるのは当然で、意志とは、行為と記述を同じくすることを第一の定義的な条件として設定された制度上の存在以外のものではない。つまり、あの志向的因果の論理形式によって行為を語ることができるように、という目的でわれわれの言語に導入されたのが「意志」というタームであるといえよう。

 黒田もシュリックと同じアプローチであり、規範論でないのは明白だ。だが、社会問題を扱う本はたいてい規範論を練る。状況分析の後、解決の処方箋が必ず出てくる。対応策が見つからなければ、出版を躊躇するほどだ。一般書はそれでいい。だが、物事の根本を見据える哲学者までもが規範論に惑わされるのはなぜか。

 

 →つまり、実態として自由意志があり、それが原因で行為が生じるわけではない。その逆で、行為が生じたからには、必ず自由意志があるはずだと理解するように、われわれが考えるように仕組まれているだけ。そのように理解するように仕込まれているだけ。

 

P428

 近代は無理な要求を掲げる。普遍と自由は、どういう関係にあるのか。人間が自由な主体ならば、作り出される世界はどんな形をも取りうる。世界の原初が真理に支えられていたとしても、人間が生きながらえるうちに世界は次第に真理から離れてゆく。プラトンが立てるイデア論や、知恵の木の実を囓ってエデンの園を追い出されたというキリスト教の物語が、その典型だ。逆に、時間が経つにつれて真理に近づくと考える思想かもいる。ヘーゲルマルクス、あるいはオーギュスト・コント進歩主義がよく知られている。弁証法により真理に近づくとヘーゲルは考えた。アリストテレスの目的因は万物の本質に向かう運動を起こす。ヘーゲルの着想はこれに似ている。だが、真理が未来で人間を待ち受けるなら、自由の意味がない。自由と普遍は相互排除の関係にある。

 普遍と主体、この原理的に矛盾する二つの信奉が近代を特徴づける。神の臨終を聞いたとき、これからは自分たちが世界を築き上げるのだと人間は誓った。意志の力を信じ、歴史変遷は人間が司るのだと了解した。理性を通じて真理が明らかにされ、世界は次第によくなると確信した。哲学者の多くはこのエピステーメーに搦め捕られ、自由意志を擁護し、普遍を志向する。そこに自由と責任の規範論を練り上げる罠が待ち受ける。

 神がいない世界で秩序をどう根拠づけるか。普遍を求める哲学者にこそ、この問いは深刻になる。神の権威を認めなければ、道徳や法は人間自身が制定しなければならない。ところが人間の判断が正しい保証はない。正しさの根拠が明示された瞬間に、ではその根拠はなぜ正しいのかという問いが繰り返される。これが真理だと議論を力ずくで打ち切る審級はもうない。

 神のいない世界で普遍を求める試みには原理的な無理がある。だから神が化けた個人主体にしがみつき、決定法則と自由意志の両立論のような苦しい言い訳を捻り出す。規範論を旨とする法哲学や政治哲学にとって主体の否定は、神の存在を神学が否定するに等しい暴挙なのだろう。

 脳科学認知科学社会学社会心理学において主体はすでに舞台を降りている。だが同時に、日常感覚の自由や責任は別次元の問題として専門知識と噛み合わない。自由や責任に触れるやいなや、感情的な反応を伴って主体が呼び戻される。時代や世界の相対性を知る歴史家や文化人類学者も同様に、身近な問題となる途端に自由と責任の擁護に回る。行為の因果論を否定し、主体概念を批判する哲学者も市民としては、近代社会で責任を支える自由意志を手放さない。だから主体や責任の虚構性に言及すると強い反発が返ってくる。

 近代のエピステーメーが我々の目を覆う。新奇な事物の受容や異質な解釈の理解を妨げるのは知識不足ではない。逆に知識の過剰、常識が邪魔をする。科学理論や社会に普及する過程で歪曲が起こったり、第三世界への新技術導入がしばしば失敗する原因は人々の知識欠如ではない。学術理論や異文化要素と相容れない通念・宗教・迷信・風習があるからだ。

 多くの人々が正義を求め、より平等な社会を作ろうと努力する。だが、規範論は人間の現実から目を背けて祈りを捧げているだけだ。集団現象を胎動させる真の原因は、それを生む人間自身に隠され、代わりに虚構が現れる。規範論の素朴な善意の背景に蒙昧、傲慢、そして偽善が潜む。それをまず自覚しなければ、何も始まらない。

 汚れていると信じ、いつまでも手を洗い続ける強迫神経症。疑似問題に惑わされ、偽の解決に逃避する。乗客の半分が死亡する航空機事故が起き、家族の名が生存者リストにあるようにと手を合わせる。受験結果を見に行き、合格を願いながら自分の受験番号を探す。事態はすでに確定しており、今更何をしようと変わらない。それでも我々は祈る。未来だけでなく、過去さえもねじ曲げようと呪文を唱える。規範論は雨乞いの踊りだ。不都合な事実を隠蔽するために動員されるイデオロギーである。

 

 →普遍(世界に共通の本質・真理)と自由(多様・特殊)は、矛盾する。ゴール(普遍的な真理)が決まっているのなら、自由(多様性や特殊性)が途中の過程に現れても、何の意味もない。端から普遍など求めなければよい。そんなものないのだから。日本は先進国で、ずいぶん科学的な発想ができる国民が多いと思っていたが、どうやら未開の先住民族とあまり変わらないようだ。世の中に出回っている生き方本のような新書は、ほとんどゴミだということになる。迷信に囚われた、非科学的な日本人のなんと多いことか…。

 

P434

 禁止のない社会は存在しない。社会に生きる人間にとって禁止行為は絶対悪であり、相対的判断はなされない。だが、何が禁止されるかは時代・社会に左右される。殺人でさえ全面的に禁ずる社会は存在しない。死刑や戦争は国家による殺人だ。ある条件下で殺人を許容し、殺人を命ずる制度である。江戸時代の仇討ちもそうだ。親の仇をうたない選択肢を選択肢は武士にはなかった。殺人は義務だ。人身御供という習慣もかつてあった。供犠の拒否が逆に犯罪をなす。ヨーロッパ中世の魔女狩りも同様である。

 美人の基準を考えよう。顔をどれだけ眺めても美しさの理由はわからない。美意識は社会規範の反映にすぎない。善悪の基準も同じだ。悪いこうだから非難されるのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのである。真理だから受け入れるのではない。共同体に認められた価値観だから真理に映る。第4章(254−260頁)で示したように、真善美は集団性の同義語である。

 普遍的だと信じられる価値は、どの時代にも生まれる。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえない。相対主義とは、そういう意味だ。何をしてもよいということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要性と相対主義は何ら矛盾しない。人間は歴史のバイアスの中でしか生きられない。社会が伝える言語・道徳・宗教・常識・迷信・偏見・イデオロギーなどを除いたら、人間の精神は消滅する。考えるとは、感じるとは、そして生きるとは、そういうことだ。

 

 →自殺も同じ。時代によって推奨されることもあれば、非難されることもある。自殺における歴史のバイアスを明らかにするのが、研究意義の1つ。

 

P435

 科学認識論における構成主義も誤解されている。相対性が顕わになっては科学が成立しない。知識、少なくとも学問としての知識は普遍性を志向する。科学の定義からし相対主義は受け入れられない。こういう批判がある。だが、それは勘違いだ。構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。

 新しい科学理論が提示され、古い説が乗り越えられてゆく。つまり科学は常に真理を未来に先送りする。科学の本質が反証可能性にあるとカール・ポパーは主張した。科学的真理は定義からして仮説の域を出ない。命題を満たす全要素の検討は不可能だ。「Aという種別はすべての個体が白い」という命題を証明するためには、世界中に現存するAを見つけて、それらがすべて白い事実を確認する必要がある。だが、それでも十分ではない。観察した個体以外にAが存在しない保証はない。どこかに隠れる個体が黒いかもしれない。死に絶えたAの中に黒い個体が含まれていた可能性も否定できない。将来生まれるAの中に黒い個体がないとも言い切れない。しかし、逆に命題を否定するのは簡単だ。白以外のAが一つ見つかるだけで、命題の誤りが証明される。このように科学の真理は原理的に不確定である。反証性は科学的思考の定義だ。

 未来に答えを預ける科学に対して、宗教の真理は過去に刻まれる。ユダヤ教にとってはタナハ(旧約聖書)、キリスト教にとっては旧約・新約聖書イスラム教にとってはコーランが真理の源泉をなす。教義内容が毎日変わるようでは宗教の権威が崩れる。プラトンイデア論のように、宗教では全体構造が原初に与えられる。社会は閉鎖システムとして立ち現れる。普遍的価値は宗教であり、閉ざされた社会に現れる蜃気楼である。

 古代ではプラトンが、近代に入ってからはルソーやカントなど思想家の他にも、ロベスピエールヒトラースターリン毛沢東金日成など多くの政治指導者が正義の理念を掲げた。宗教裁判や魔女狩りを通して中世キリスト教も正しい世界を守ろうとした。善悪の基準や施策を誤ったのではない。普遍的真理や正しい生き方がどこかに存在するという信念自体が問題だ。アイザイア・バーリンの警告を忘れてはならない。「〜への自由」と呼ばれ、到達すべき理念を想定する積極的自由は全体主義につながる思想である。普遍を求める努力に自由の本質があるとする考えは、まさしく近代が罹った病理だ。

 あり得る誤解をもう一つ解いておこう。本書は社会決定論ではない。「お前の本は評判高いが、神の役割はどこにあるのか」と尋ねた皇帝ナポレオンに、「陛下、神などという仮説は私に無用です」と物理学者ラプラスが答えた。同様に、主体も自由意志も無用な仮説である。だが、ラプラスと違い、本書は作動因の一つとして偶然を重視する。自由意志や主体を否定しても決定論ではない。無意識を実体視するフロイトや、遺伝子に主体の位置を与えるリチャード・ドーキンスのように、内なる他者、つまり寄生虫かエイリアンが我々を操るような不気味な認識論とは違う。

 偶然が果たす役割にもっと注目すべきだ。ほんの小さな出来事をきっかけに異なる道を歩み出す。偶然に翻弄される受動的イメージと異なり、予言の自己実現あるいはピグマリオン効果を通して、変革プロセスに人間が積極的に参加する。偶然出会った人や本が人生を大きく変える。才能を発掘する指導者に出会い、スポーツ選手・研究者・芸術家のアプローチや技術が劇的に変化する。自分の隠れた才能に気づき、新しい挑戦を始める。今まで当然視していた思考枠を疑問視して、それ以降、違う人生を歩む。

 人間が知らないだけで、実は過去の状況により全てが決定されている、偶然は存在しないとラプラスは考えた。だが、クールノーが説いたように、独立する二つの系がそれぞれ内部の因果関係によって完全に決定されていても、二つの系が出会う場面では偶然が生ずる。瓦が屋根から落ちて通行人の頭を直撃する場面を考えよう。雨で屋根が次第に傷み、瓦がいつか落下する。その時その場所で瓦が落下した事実は決定論的事象だ。他方、天気の良い日に通行人が散歩に出る。その時その場所を彼が通ったのも決定論的事象だ。だが、屋根の傷み具合と通行人の散歩は互いに独立した系をなす。瓦の落下と通行人の位置は無関係であり、瓦落下による怪我は偶然起きた事故である。宇宙の全素粒子が瞬間に相互作用を起こすことはできない。光速度の限界からも、それは無理だ。独立系は無数に存在する。したがって偶然は実在する要因である。欠如としてだけ偶然を把握してはならない。神秘的な内因を認めなくとも、人間と社会環境の多様性が過去に還元不可能な未来を用意する。

 虚構と表現するから誤解が起きるのであって、フィクションと書くべきだと助言する人もいる。だが、カタカナ言葉を使って意味をぼかしても解決にならない。『般若心経』の章句「色即是空 空即是色」のように本書は実態論を斥け、関係論を採る。世界は夥しい関係の網から成り立ち、究極的な本質はどこにも見つけられない。だが、その関係こそが堅固な現実を作り出す。空は無とは違う。どんなモノも出来事も自存せず、他の原因によって生ずる。本質や実体は存在せず、関係だけが現れる。これが空の含意だ。曖昧な表現でごまかすのではなく、逆に立場を鮮明にする目的で虚構という表現を本書は使う。

 虚構という表現は意味が強すぎるから擬制の方が良い勧める人もいる。だが、擬制と虚構は違う。「事実に反することを事実であるかのように扱うこと。事実に反することが誰にも自覚されていない『神話』や、相手に自覚させないようにする『嘘』と異なり、誰もが、それが事実に反することを知っている点に特色がある」と説明されるように、擬制はその虚構性が意識されている。だが、虚構性が明らかになっては道徳や宗教は機能しない。虚構が生まれると同時に、その虚構性が隠蔽される。支配もそうだ。安定した支配は被支配者の含意に支えられ、支配の存立構造が隠蔽される。理想的な状態で保たれるとき、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のように作用する。

 法制度は擬制であり、機能を担保するために警察という暴力装置を必要とする。だが、宗教・道徳・権威は虚構であるゆえに、内面から自主的な服従を促す。擬制と虚構の違いは権力と権威の違いにも似ている。

 

P441

 権力は擬制であり、合理的判断に支えられる。他方、権威は虚構であり、信仰として機能する。権力(暴力と契約)と権威(ヒエラルキー)の違いに関するルイ・デュモンの指摘を思い出そう。

 

P444

 恋と呼ばれるのは、打算や具体的理由を超えて相手自身が好きだという感覚だ。とにかく好きだという、曖昧で同時に揺るぎない確信だけがある。根拠が隠されるおかげで、恋が生まれる。贈与・貨幣・支配も同様だ。虚構性が隠されるおかげで循環運動が成立する。

 社会制度の虚構性を認めた上で、だからこそ、より良い虚構を作るべきだと説く社会学者や哲学者は勘違いしている。道徳は合理的判断と違う。慣習であり、信仰だ。それゆえに強大な力を行使する。パスカル箴言をもう一度思い起こそう(343頁)。道徳・真理・裁きに根拠はない。だがそれにもかかわらず根拠が存在すると勘違いされなければ、人間生活は営めない。

 道徳は人間が作り出した規則にすぎない。その事実を認めながらも、人間の手に届かない、物理法則のような普遍性を生み出すためにはどうすべきか。これがルソー最大の課題だった。第6章で疎外=外化の役割を分析した。ルソーの問いへの答えがそこにある。各人の主観が相互作用を通して普遍的価値を仮現するプロセスである。

 人間行動を律する信仰の力に驚く。宗教・お守り・占い、墓・仏壇・神棚などの社会装置、冠婚葬祭の儀式、割札と女性器切除の風習、性タブー、七五三・元服・洗礼・入学式・卒業式・入社式・成人式などの通過儀礼、豚・牛・犬・猫・蛇の食物禁忌、抑止力を持たない死刑や復讐の制度、原爆犠牲者追悼の祈りやホロコースト慰霊碑、靖国神社参拝、国歌斉唱と国旗掲揚天皇制や王制、信頼や赦しの慣習、自由・平等・正義・人権などの概念…、どれも迷信であり、虚構だ。だが、それら恣意的で無根拠な慣習や禁止抜きに人間社会は成立しない。

 

 →道徳は、ある人間にとって不条理であるにもかかわらず、それを受け入れさせる力を持っている。それは何か。主観の相互作用によって普遍性が生じるということか。

 

P445

 哲学や科学の合理性に人間がしたがうならば、社会学文化人類学・心理学・精神分析は存在意義を失う。倫理は信仰であり、根拠は存在しない。殺人や強姦など、議論の余地ない犯罪だと認識されるのは理由が明白だからではない。逆だ。禁止する本当の理由が分からないからである。「悪いに決まっている」。思考が停止するおかげで規範の正しさが信じられる。ジンメルの循環的推理を思い出そう(342―343頁)。判断基準は歴史・社会条件に拘束される。この答えが正しいと今ここに生きる我々の目に映る。これが真理の定義である。

 

 →普遍性と追究する前者と、個別性・特殊性を追究する後者の違いか。前者こそがすべてであるなら、すべてのものが普遍性に収斂する、すべてのものが普遍性で説明できるのなら、後者の分析視角など不要になってしまう。

 理由はわからないが、とにかくその行為は悪いんだと、思考停止になって信じるからこそ、犯罪だと認識される。

 

P446

 道徳が機能する上で、その虚構性が隠される必要について述べた。残る課題は、(1)なぜ虚構が生まれ、消えないのか、また虚構性が露呈しないのか、(2)人間生活にとって虚構が不可欠ならば、虚構を暴く本書に意義があるのか、という問いに答えることだ。

 虚構性が隠される必要があるからといって、その通りになるとは限らない。必要条件と十分条件は違う。虚構が生まれるのはなぜか。そして同時に虚構性が必ず隠されるのはなぜか。実はすでに各所で説明しているが、正確を期して要点をまとめよう。

 第6章で説いたように、道徳・宗教・言語など集団現象は人間の意図を離れて自律運動する。歴史の偶然に左右されながら人間世界は変遷する。最終根拠は論理的演繹によって成立せず、社会現象に根拠は存在しない。したがって道徳などの社会制度が成立する際、どの形に落ち着くか原理的に不可知である。ところが人間は合理化=正当化せずにいられない。ゆえに、秩序を支える本当の仕組みは明らかにされぬまま、社会と時代の常識に応じた物語が紡がれる。人間の意識に上らない実際の構造と、制度を説明する虚構はこうして齟齬をきたす。

 虚構の不可欠を説きながら虚構を暴く本書は自己矛盾でないかという疑問には、もう少し詳しく答えよう。処罰の仕組みを暴いて何かの役に立つのだろうか。第4章でデュルケムを引いて詳述したように、社会規範からの単なる逸脱が犯罪の本質だ。Aという理由で悪であるなどと、定まった内容で犯罪は定義できない。要点を再び引用する。

 

 禁止行為をしないよう我々が余儀なくされるのは、単に規則が我々に対して当該行為を禁ずるからにすぎない。

 

 すべての人々の精神を支配し、同じ行動を引き出す完全な全体主義社会を樹立する以外、社会規範からの逸脱を防ぐ方法はない。必然的に逸脱が生じ、誰かが処罰される。集団的存在である人間にとって悪と処罰は原罪であり、避けられない。ならば、本書の議論は無駄なのか。

 不平等を隠蔽する虚構はどうだろうか。正義論に戻ろう。ロバート・ノージックのようなリバタリアンジョン・ロックの所有権論を踏襲し、自らの精神および身体の完全な所有者として人間を捉える。したがって各自の能力に応じて貧富の差が生じるのは当然だ。他者の自由を侵害しない限り、獲得した富はすべて自分の労働の産物であり、その所有も消費も正当である。所得への累進課税は富の収奪であり、不当な強制労働に相当する。

 ところで能力の多くは誕生の時点ですでに決まる。その原因が遺伝であれ、家庭環境であれ、どちらにせよ当人に選択できない要素だ。そこで、生まれつきの不運を補償すべきだとロナルド・ドゥオーキンは主張する。家庭環境や遺伝など偶然の外因と、当人の意志決定とを峻別し、自己制御の利かない前者から生ずる格差を不当とする一方、責任を負うべき後者から派生する格差は正当と認める。

 だが、意志の強さ、努力する能力、好みも外因が育む。人格形成責任論の詭弁は確認した。自己責任の根拠はどこにもない。ここから三つ目の正義論が導かれる。イングマール・ペルソンは、だから富の均等分配が正義だと説く。だが、勤続30年の熟練従業員と同じ待遇を新人に与え、社長も部長も平社員もすべて同じ給料にすべきだと考える者は少ない。それに、才能に恵まれた者は均等分配を受け入れない。したがって不満が渦巻き、社会が安定しない。それでも均等分配を維持するためには圧倒的な強制力が要る。幼少の頃からイデオロギー教育を施し、造反者は強制収容所に閉じ込め、再教育する。それでも態度が改まらなければ処刑する。つまり全体主義社会でなければ、ペルソンの説く正義は実現できない。

 全員に均等な所得を分配する社会では、高い能力を持つ者の労働意欲を削ぎ、生産性が悪くなる。そこで各人の能力に見合った労働を引き出す誘因を与え、社会全体の富を増やす。そして累進課税を介して富の一部を再分配すれば、能力が低い者も結果として、より良い生活を享受できる。質と量に優れた労働をなす事実から、より多くの富を得る権利が高能力者に付与されるのではない。各自の能力は外因の沈殿物だから、生産物への請求権は誰にもない。下層者の生活を向上させる手段としてのみ、格差は正当化される。これがジョン・ロールズの論法である。だが、すでに確認したように、この構想は自ら墓穴を掘る。秩序原理が完全に透明化した社会は、未来への希望が完全に断たれる過酷な世界だ(367−369頁)。

 

 →累進課税は低所得層による反乱を防止するために、高額所得者が支払っている代償のようなものか。

 

P449

 袋小路から逃れる術はない。封建制に代わり、資本主義が生まれた。一方で家計を基に人間を格付けし、他方では能力による格差を認める。ヒエラルキーを正当化する仕方は違ども、欺きなのはどちらも変わらない。

 マルクスエンゲルスが夢見た共産主義の実験は失敗したが、法の下の平等という理念の欺瞞が誰の目にも明らかになり、他の平等観に取って代られる日がいつか来るかもしれない。

 だが、それでも虚構はなくならない。正義とは何か、公正な社会はどうあるべきかと、人間関係を権利概念によって理解するアプローチにそもそも無理がある。政治哲学は正しい公共空間として社会を構想する。普遍的解を求める以上、時間が抜け落ちる。権利や権力という明示的関係だけでなく、時間を経て沈殿する権威という、宗教に比すべき物語が加わって初めて正統性が感知される。幾何学の公理がそうであるように、最終根拠は論理によって成立しない。根拠は信仰であり、論理を閉じるための虚構である。

 社会は矛盾を内包する関係態であり、多数派支配に少数派が異議を突きつける。支配者と被支配者とを交代させながら、時間が経てば他の支配形態に変わる。だが、支配の具体的な形は変遷してもヒエラルキー自体は決してなくならない。そしてどの支配が正しいのかという問いに答えは存在しない。ならば、私論は無意味なのか。

 

 →普遍とは、いつでもどこにでも存在するものであるから、時間概念が不要になる。でも、そんなものは人間には、人間の営む社会には存在しない。必ず時間の制約を受ける。その時間の制約を受けた、特殊な存在としての人間の姿を明らかにするのが歴史学ということになるか。

 民主主義も、結局は一部の特権層による支配形態にすぎない。被支配層が支配されていることに気がつかない巧妙な仕組みを持っているだけ。それが、平等・自由という虚構。結局は、過去の制度や他国の制度と比較して優れているかどうかを判断しているにすぎない。すべてにおいて相対主義

 

P450

 だが、それは勘違いだ。人間生活に虚構が欠かせないと説きながら、その仕組みを暴くのは自己矛盾だと断ずるのは、本書を規範炉として誤読するからだ。試論を貫く通奏低音は認識論としての相対主義である。道徳や理念は思想家が編み出すのではない。集団現象は人間から遊離して初めて機能する。そうでなければ、恣意性が意識され、普遍性が感じられない。社会規範の遊離は機能するための必須条件である。長い年月がかかって言語が定着し、変遷していくように、旧い常識が崩れては新しい常識にとって替わられる。

 万物は流転する。人間の信ずる価値は時代と社会が作り、また時代と社会が変えていく。食物の好みや恋愛相手、スポーツや芸術の好き嫌いも自分が決めるのではない。だが、外来の欲望だからと切り捨てるならば、タマネギの皮を剝くように後には何も残らない。人間が社会・歴史的存在であるとは、そういう意味だ。

 キリストやカンディーは正しく、ヒトラースターリンは悪人だというのは後世が出した審判にすぎない。キリストもガンディーも社会秩序への反抗者だった。対してヒトラースターリンは当初、国民の多くに支持された。多数派には多数派の立場、少数派には少数派の考えがある。どちらが正しいかを決定する中立な位置はない。両者を超越する神の視点は存在しない。各時代・社会に固有な価値観を超える正義の定立は原理的に不可能だ。歴史とは、時間とは、変化の同義語だ。真理は過去になかったし、未来にもない。人間の堕落ゆえに古の知恵が覆われたのでもなければ、歴史を積み重ねるにしたがって不変に近づくのでもない。正しい社会の形はいつになっても、誰にもわからない。

 思想家の提言はたいてい無力だ。名もない市民の素朴な思いと同様、私論を含め、学問は一つの意見として常識や世論の形成に貢献する。だが、それ以上でも、それ以下でもない。今でも神を信じる人がいるし、迷信もなくならない。科学者にとって当たり前の知見でも、それを受け入れない人は多い。道徳は宗教の一種だ。虚構の内容は変わる。だが、一つの虚構が消えても、他の虚構が必ず生まれる。規範論は問題の根から目を背け、逃げ道ばかり探している。問題の原点にさえ、我々はまだ到達していないのだ。

 

 →物事に普遍性を感じるためには、それが人間から離れた自律性を備えていなければならない。

 

P465

(36)時代を遡ろう。フランス革命により貴族制が崩壊し、ブルジョワジーが勃興した。その後、社会ダーウィニズムがこの支配者交代劇の正当化に一役買った。生物学の分野でダーウィン進化論が成功した後、それが人間社会に応用されてハーバート・スペンサーの「適者生存」という概念が生まれ、社会ダーウィニズムとして発展したと一般に理解されている。だが、事実は逆だ。生物学における進化論の成功が社会ダーウィニズムを導いたのではない。ダーウィン進化論が生物学者に受け入れられたのは社会ダーウィニズムの定着後である。フランシス・ゴルトン、エルンスト・ヘッケル、アウグスト・ヴァイスマン、ユーゴー・ド・フリースなどがそれぞれの説を展開し、自然淘汰概念を別にすれば、進化論にはかなりの論理的混乱が見られ、1915年ごろまではまだ生物学者を納得させる理論でなかった。アダム・スミスなど当時支配的だったブルジョワ経済学の着想がダーウィン進化論を基礎づけ、発展を見たのである。当時の社会学や経済学からヒントを得たとダーウィン自身認めている。

 

(69)互盛央『エスの系譜』(講談社、2010年1−2)より引く。

 

 フロイトの言う「エス」とは何か。第二局所論を初めて公にした『自我とエス』(1923年)では、「エストの関係における自我は、馬の圧倒的な力を手綱を引いて止めねばならない機種と同じである」と言われている。自我を衝き動かし、自我に行動させて、みずからの意志を実現する心的なエネルギーとしてのエス。行動がなされた後、人はこう言うことになる─「なぜかわからないがそうしてしまった」、「まるで自分ではない何かにやらされているようだった」(中略)

 自らの行動の原動力だったことは明らかなのに、それが何なのかは明言できないもの。その得体の知れない力を示すために着目されたのが、ドイツ語の代名詞「es(エス)」だった。英語の「it」に相当するこの語は、他の名詞を受ける代名詞として用いられるほか、「雨が降る(ドイツ語:es regnet /英語:it rains)」あるいは「一時だ(ドイツ語:es ist ein Uhr /英語:it is one o’clock)」のように、天候や時間を示す表現の主語としても使われる。明示できない何か、「それ」と呼ぶほかない何かを示すこの語は、他の事物のようには存在しておらず、それゆえ言語では表せないものの名称である。(中略)そんな特異な語であるからこそ、フロイトは暴れ馬のように自我をふりまわす無意識的なものの名称として、この代名詞から造語された普通名詞「エス(Es)」を採ったのだ。

 

 対して、何度か言及したハイエクのアプローチは個人の内部にも外部にも主体を否認し、偶然を理論に内包する立場である。

 突然変異と自然淘汰という二つの原理の組み合わせで、ネオ・ダーウィニズムは変化のメカニズムを説明する。偶然生ずる突然変異と、その個体がたまたま生まれ落ちた環境条件に応じて淘汰される以上、どの方向に世界が変遷するかは原理的にわからない。だが、いったん進化が起きれば、秩序が形作られ、世界を縛る。今日の世界から過去を振り返ると、種の変遷を司る法則があると錯覚しやすいが、そのような進化法則の存在をまさにダーウィンが否定した。生物が棲む地域内で自然淘汰決定論的に働いても、どの場所に生まれ落ちるかは偶然だ。世界の変遷には内在的理由がなく、未来の行方は誰にもわからない。歴史には目的もなければ、根拠も存在しない。

 野生動物のドキュメンタリー番組に「高い枝の葉を食べるためにキリンのクビが長くなった」とラマルク用不用説が登場する。獲得形質が遺伝子ない事実はすでに常識だ。それにもかかわらず、一般視聴者向けの番組では、このタイプの解説が幅を利かせる。

 現在主流のネオ・ダーウィニズムと必ずしも矛盾するわけではない。突然変異で誕生したクビ長のキリンは、短いキリンよりも高い枝の葉を食べるのに適する。したがって生存率が高く、子孫を残す確率が高い。結果として、短いタイプが長いタイプによって次第に置き換えられ、高い枝の葉を食べるためにキリンのクビが長くなったように見える。しかしテレビの解説を聞いて、そう理解する人は少ないだろう。クビを伸ばして高い枝の葉を食べるうちにクビが長くなり、その形質が子孫に伝わるのだと子どもたちは納得する。なぜ目的論が現れるのか。

 それは単なる誤りや無知のなせる技ではない。これは擬人法だ。意志が世界構築するという信仰の投影だ。進化に法則はない。生物の未来は偶然に委ねられる。適者生存の意味を誤解し、より良くなることが進化だとする歪曲は、主体と普遍を信じる近代が誘導する論理的帰結である。

 

 →普通に獲得形質は遺伝すると思っていた。無知は怖い…。