周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

小坂井敏晶著書 その2

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま文庫、2020年) その2

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第2章 死刑と責任転嫁

P127

 犠牲者が苦しむ具体的姿に接しない者は心理的軋轢を逃れ、残虐な命令を平気で発しやすい。ところでこの傾向はホロコーストのような犯罪行為に限らず、裁判や死刑のように必要が承認された社会制度にも共通する。死刑を執行する者の心理負担を軽減するメカニズムがうまく働かないと制度は機能しない。

 死刑制度是非の検討は本書の目的でない。死刑維持が社会の総意に従うなら、それを可能にする具体的措置を設ける必要がある。ヒトラーたち指導者の決定があっても、実際に手を汚す役人や警察官がいなければユダヤ人は一人も死ななかった。同様に裁判所が死刑判決を下しても、実際に死刑を執行するものがいなければ受刑者は死なない。

 前章の問題意識を引き継ぎ、この章では分業体制に組み込まれる人間の姿を別な観点から検討し、主体性から導かれる責任という常識に疑問を投げかける。

 

P134

 裁判官が判決し、役人によるさまざまな確認作業を経て最終的に法務大臣が死刑執行命令を下す。拘置所の刑務官はその命令を執行するにすぎない。しかし単なる書類の整備と、生身の人間を実際に絞殺するのとでは意味が異なる。ホロコーストにおいてユダヤ人虐殺の罪悪感を薄めるために導入された分業体制と同じように、裁判・死刑制度においても法務省の役人・刑務官・拘置所所長など多くの関係者が介在し、死刑の心理負担が執行官だけに集中しない体制ができている。しかしそれでもストレスが原因で2年間の任期を満了できずに配置換えされる刑務官が少なくない。

 

P136

 苦しむのは刑務官本人にとどまらない。夫あるいは父の職業を恥じ、忌み嫌う妻や子どもも少なくない。「父の仕事がいやで、情けなくて、悲しくて、死にたいと思ったことも何度もあったんですよ」。雨靴・裁縫箱・クレパスなど欲しいものをねだると、「もう少し待ってろ」と父は言って、しばらくすると必ず買ってきてくれた。だが、ある日、学校の同級生の口から父の職業を知る。自分が宝にしているものを買った金が実は死刑執行の特別手当だと判ったとき、それまでとても大切にしていた裁縫箱やアルバムなどが娘には忌まわしく思え、雨に濡れた庭にすべて捨ててしまう。そして「もう学校にも行きたくない。こんな家になんかいたくない。死にたい」と泣きじゃくる。娘が捨てた父のプレゼントの泥を無言でぬぐっていた母はポツリと呟く。「そんなこと、いうものじゃないよ。父ちゃんがかわいそうだから」。

 1956年、羽仁五郎市川房枝参議院議員の有志46人が死刑廃止法案を国会に提出した。そのきっかけは、参議院法務委員になった羽仁が各刑務所や拘置所を視察した際、死刑執行の苦悩を切々と打ち明け、死刑制度廃止を嘆願する刑務官たちに強い衝撃を受けたからだった。刑場を実際に視察した保坂展人衆議院議員(当時)は述べる。

 

 死刑囚に目隠しをする刑務官、落下床まで連れて行く刑務官、ロープをかける刑務官、ボタンを押す刑務官、全部別です。それぞれの刑務官には殺す意思はない。でも、みんなで殺していた。その場に立ち会う検察官も教誨師も医者も、見事に役割を分担している。システマティックな殺人です。死刑を判決した裁判官も、死刑を命令した法務大臣も、死刑が必要だというなら、最後まで見届けろと言いたい。見届けることなく死刑を命じている欺瞞性を感じました。

 でも、汚れ仕事をしているのは刑務官ら。刑場の説明する拘置所の人間に、処刑に携わるのを断る刑務官はいないのかと聞いたら、「断るならここにいられない」という。組織からの命令に反するには辞職するしかない。思想信条の自由さえ犯している職場ではないかと思いました。

 

 →これは国民にも言える。私刑を代行しているのが現代の死刑制度なわけだから、死刑を要求するなら、簡単に「死ね」と口にするのではなく、最後まで見届けるぐらいのことはしなければならないのだろう。死刑は犯罪防止の役に立たないという議論があるが、国民自らが死刑を執行せず、刑務官に代行させ、あまつさえ刑の執行を目撃しないのであれば、犯罪予備軍である国民に、死刑のリアリティが伝わらないのだから、犯罪防止効果が向上するわけがない。目の前で泣き叫び、糞尿を垂らしながら、1分半ももがき続けて死に至る過程を見れば、さすがに凶悪犯罪を犯そうとは思わないのではないか。

 

P138

 第1章で確認したように殺人を命令するだけの者には、実際に現場で執行に携わる人間の苦悩が見えない。元裁判官の渡部保夫は自らの反省を込めて、こう述懐する。

 

 裁判官時代には死刑制度そのものについてそれほど真剣に考えていなかった、というのが偽らざる告白です。(中略)最高裁判例が死刑制度を肯定しているわけですが、そうすると、下級審の裁判官はついこれに寄りかかってしまい、死刑制度の本質や限界などについて深く考えないでしまうのです…。(中略)法律家というのは、自分ではなかなか意識しないんですが、そういう浅薄さ[自分で考えずに、「法律と判例に照らして」とか「量刑の一般的基準に照らして」などと、決まり文句に寄りかかって死刑を宣告すること]に陥りやすいものです。しかし、刑務官はそうじゃない、自分の手で死刑囚の首に縄をかけるんですから。法律や判例の言葉なんかで自分を誤魔化せません。(中略)この人たち[死刑制度は廃止するべきだと主張する網走と札幌の刑務所長]は上からの命令により職務として死刑を執行する、しかし、人間として両親の問題として死刑制度の根源、つまり刑罰としてでもそもそも人の生命を奪うことが許されるかという問題を考えておられたわけです。教科書程度しか読まず判例を漫然と肯定し、それ以上深く考えずにきた自分が恥ずかしく思われました。

 

P144

 戦争中、敵兵士の腹や胸に正面から銃剣を突き刺した兵士は稀で、逃げる敵の後ろから突き刺す場合がほとんどだった。相手の顔を見ながら殺すのは負担が大きい。絞首・銃殺・電気イス・毒ガスで処刑する際、受刑者に目隠しをして死刑執行者の顔が見えないようにする。延命を懇願する者や怨み死んでいく者の眼を見つめながら殺すのは辛いからだ。

 

 →これは超歴史的に一般化できるのか。前近代の武士や騎士、現代の傭兵など、戦争や殺人を生業とする人たちも同じような心情なのか。それとも、一般人を軍兵に組み込んだ近代だからこそ、このようなことになるのか。戦争や武力闘争の絶えない中世の場合はどうなのか? 正面からバッサリ的な時代劇の殺陣のような殺し方は、史実どおりなのか? それとも、キレやすく凶暴な中世びとというイメージは間違いなのか?

 

P145

 医学の衣を死刑に着せ、それまで死刑執行人が絶えてきた心理負担を減らし、より能率的に処刑する。病院で施される普通の手術と同じようにマスをかけて死刑囚を「処置」するだけだ。毒ガス室・電気イス・ギロチンの考案や改良に医者が協力してきたが、命を救うはずの医学が死刑執行を主宰するグロテスクな構図が注射刑採用によって完成する。

 死刑の残虐性を可能な限り除去し、日常性に組み込む注射刑。それでも受刑者の死体は残る。しかし将来はそれも超えられるかもしれない。フロリダ州で電気イス刑の代替方法を検討する委員の一人は死刑執行から死の概念を完全に払拭する方法はないかと模索し、受刑者に麻酔をかけた上で臓器を摘出し、利用する可能性に言及した。そうすれば、死体さえも残されず、社会秩序を破壊する異端者の存在は分解・浄化・再利用され、最終的に社会に還元される。

 

P150

 「私が決めたことじゃない。私は命令を実行しただけだ」と死刑執行のボタンを押した人間はできれば言いたいだろう。「私は書類に不備がないかどうかを確認しただけだ」と官僚の一人が口を拭う。「警察の捜査結果に従って起訴しただけだ」と答える検察官、「原告と被告の双方が提出した証拠を判断し、法の定めるとおりに、また過去の判例を考慮して死刑判決を下しただけ」の裁判官、「判決書類を吟味して執行命令書に署名しただけ」の法務大臣。そして「国民の大半は死刑制度の維持を望んでいる」と死刑を正当化する法務省と首相。結局、執行に至る決定的判断をした責任者はどこにもいない。無責任体制のおかげで死刑制度が可能になる。

 

 →中世の自力救済体制は、現代とは真逆。命の取り合いに、個人が責任を取っていた時代と言える。ただ、これを容認してしまうと、ただの殺人と死刑の区別が付きにくくなる。国家の認めた正当殺人であるからこそ死刑は許容されれるのであって、その国家に正統性を与えたのは、他ならぬ国民である、という虚構を国民国家はその存立の最初から必要としている。

 

P152

 前近代において神や大自然が意味していた〈外部〉と、偶然は似て非なる存在である。人間が意図的に操作できない点は同じだ。だが、責任を最終的に引き受ける〈外部〉は根拠あるいは主体として我々の前になければならない。意志の欠如という消極的な事態ではない。〈外部〉は本書の通奏低音をなすが、最後の第6章でその構造分析を試みる。

 (中略)

 死刑執行の場面を国民成人すべてに見せたらどうなるだろう。大半の人々にとって耐えられない経験であり、死刑廃止論が今以上に強く巻き起こるにちがいない。死刑を承認するからには、惨い現実に自分自身が直面する義務があるとか、見る勇気がないなら死刑を廃止せよと主張するのではない。「死刑は必要だ」と理性が言い続ける傍らで、「もう耐えられない。とにかくやめてくれ」と感情が拒否する。その時、我々はどうするか。理性の冷めた命令に従えるだろうか。

 (中略)

 重罪犯を死刑に処す抽象的判断と、生身の人間が血を流し、糞尿を垂らしながら殺される具体的現実との間に横たわる溝が問題なのだ。死刑を維持するためには、執行官を始めとする関係者の罪悪感を薄める分業体制が不可欠だ。しかしそれは逆に見れば、心理負担を減らす手段さえ採り入れれば誰でもナチスの犯罪に加担する危険性を同時に意味するのではないか。

 

 →法哲学のような抽象的な議論が無用だとは言わないが、具体的な現実から乖離しすぎた理論を振りかざしたところで、何の解決にもならないと思う。日本に住み続けている学者には、なんだかんだで、世間?学界?政治?に忖度する傾向があるから、こういう内容をはっきり言うことはできないのか。

 

 

第3章 冤罪の必然性

P158

 すでに言及したようにラウル・ヒルバーグは、ホロコーストを生んだ最大の原因として官僚制的構造を挙げた。多くの人々が分業し、相互のつながりが不明瞭になるにつれ、個別の意味が失われ、責任感が薄れる。それはホロコーストだけに限らず、私企業・公共機関・学校・警察など細かい分業の下に仕事が遂行される組織すべてに共通する問題だ。集団行為は当事者の意図を超え、自律運動する。組織のあり方によって冤罪発生率にいくらかの違いはある。しかし分業体制が原理的に誤謬を生みやすい点を見落としてはならない。次章で犯罪や責任の分業を理論的見地から試みるが、その前作業として、冤罪が生ずる敬意を具体的に確認しておこう。

 

P163

 犯罪を憎み、被害者の無念を晴らそうとする取調官の気持ちを見落とすと問題の核心を見失う。また、あからさまな暴力行為や証拠捏造が常になされるわけではないし、それだけならば対処は難しくない。時には違法な手段をも講じて警察は自白を得ようとするが、そこに取調官の真摯な態度を読み取らないと、冤罪メカニズムの本当の深刻さと恐ろしさは把握できない。

 冤罪をなくすだけなら理屈としては簡単だ。警察を解体し、どんな犯罪が起きても放任して誰も逮捕しなければよい。冤罪を防止すると同時に、本当の犯罪者は間違いなく罰する目標があるから問題解決が難しい。ある程度の改善は可能だが、原理からして一方を減らせば他方が増える。

 

P169

 だが、このような(司法取引)制度は冤罪を起こしやすい。死刑宣告の可能性を示唆されると、最悪の事態を避けるために無実の人間でも罪を認めて無期懲役を受け入れる。被害者や目撃者が一致して自分を犯人だと証言した。捜査官も頭から犯人厚化して言い分を聞いてくれない。さらに悪いことにアリバイを証明できない。このような場合、罪状を認めさえすれば死刑にしないと検察官から言われると、絶望の淵にある被疑者は簡単に落とされてしまう。

 

P185

 誤証言によって逮捕されたり、有罪判決を受ける人の実数はわからない。アメリカ合衆国では年間7万5千件の犯罪が目撃証言によって有罪判定される。DNA検査で無実が証明された40人のうち36人つまり90%が誤った目撃情報によって有罪にされたという報告もある。

 

P187

 トーマス・クーンのパラダイム論で知られるように、研究者が立てる作業仮説は最初からバイアスがかかっている。構造主義が流行すれば誰でも構造主義的解釈を持ち出す。脱構築ポストモダン複雑系などというスローガンがもてはやされると同様のタイトルを持つ本や論文が量産される。

 さらに言えば、序章で確認したように大脳の活動自体がすでに同じ認知構造を持つ。おびただしい数のニューロン間で取り交わされる情報群が組み合わさって最終的に意識内容が現れる。その過程で矛盾は忘却・抑圧・歪曲・捏造を通して処理され、我々の意識はすでに合理的な形に整えられている。警察・検察・裁判所が犯す誤りも発生の構造は同じだ。ただし個人の判断や学術研究の場合は誤謬に気づいた時点で訂正すれば済む。そこが冤罪とは違う。

 アメリカ合衆国イラク戦争に突入する際、大量破壊兵器保有を口実に爆撃を正当化したが、結局その証拠は出てこなかった。ブッシュ政権が意図的に嘘をついたのではないだろう。CIAなどの諜報機関を始め、さまざまな部署から膨大な量の情報が集められる。それらは互いに矛盾することも多い。その情報の山から事実に合致すると思われるデータを取捨選択して現況が推定される。タカ派ハト派の間のせめぎ合いもあるだろう。上司の顔色をうかがいながら、その意に沿った報告書を作成する官僚もいる。競合する部署に対する嫉妬心や猜疑心もある。出世や組織防衛のための嘘もあるに違いない。他の案件や過去の状況との兼ね合いから各部署の方針が影響を受けることもある。

 同じデータを見ても判断者の戦略構想に応じて解釈は異なる。ほんの小さな解釈の違いが次の判断段階で大きな差を生む場合もある。いったん決まった方針を後になって覆すのは非常に難しい。そんなことをすれば責任者の首が飛ぶかもしれない。自分の判断に誤りがあったと後ほど気づいてもすでに遅い。もう後戻りできない。口を噤んで先に進むしかない。こうした判断・・解釈が繰り返し行われているうちに実際の状況とかけ離れた政策や軍事戦略ができあがってゆく。当事者の思惑から集団判断が遊離する。第二次世界大戦への日本の無謀な突入も自動運動化した集団行為の結果だ。

 朝鮮戦争への介入、真珠湾攻撃に対する防御失敗、キューバ侵攻計画の惨憺たる結果などアメリカ軍事政策・戦略を分析した社会心理学アーヴィング・ジャニスは集団思考で起きやすい問題を指摘した。集団討議による決定は往々にして危険を過小評価する傾向がある。支配的意見が明確になるにつれて、それに反する情報が無視されやすい。実際には集団の全員が同意するわけでないのに、疑問を抱くのはあたかも自分だけのような錯覚に陥る。そのため表立って反対意見を表明しにくい。ちょうどアンデルセン童話「裸の王様」と同じだ。あるいは上官や上司による圧力のせいで少数意見が抑圧される。

 

 →事態が自律運動してしまうので、すでに作業を終えた部署が後でどうこう言っても止まらない。自分たちの手を離れた後、どうにもならないのが、近代的官僚制による分業体制の本質ということになるか。事態がベルトコンベアーに乗せられて、どんどん次の部署へ移動してしまう。そのベルトコンベアーを動かし止める人間が責任者ということになるのだろうが、分業が細かくなりすぎると、責任の所在がわからなくなる。となると、霞ヶ関の官僚たち無能であるとか、融通が利かないという批判は当たらないことになる。いくら有能な連中でも、たとえそのシステムを採用したのが当の本人たちであっても、そのシステムに一度呑まれると、そこから逃れられなくなる、その制度のなかで動く以外のことが考えられなくなる。東大は、自らが作った制度のなかでうまく振る舞えているように見えて、実はそのシステムに束縛されているだけではないか。まして、アホならなおさら、そういうことにさえ気づかないということになる。これは、本当に怖い…。

 

P189

 検察官の提出する起訴事実・証拠と、被告や弁護側の主張・証拠とを比較し、どちらが正しいか信憑性が高いかを裁判官が判断する。検察側資料はすでにバイアスがかかっている。裁判官にとって判断材料が少なく、検討する視点も限定されている。その上、事前にリハーサルさせられた検察側証人の演技を吟味しながら被告の罪状を見極めなければならない。しかし裁判官は法律解釈の専門家ではあっても、事実認定そのものに長けているわけではない。

 

P191

 日常的思考は次の三つの点で科学や哲学の知見と異なる。第一に、専門家と違い、問題を検討するための十分な情報がない。したがって部分的な検討しかできず、様々な角度から考察せずに結論に至ってしまう。第二に、我々は社会構造に組み込まれており、所属する社会階層・年齢・性別・出身文化背景・職業などに固有な情報網から知識を得る。したがって偏った情報をもとに判断せざるを得ない。第三に、他者とのコミュニケーションを持ち、具体的状況にすぐさま判断しなければならない。したがって十分な考察を経ずに判断や行動が実行される。これは裁判官の判断過程にも当てはまる。

 

P193

 哲学者や数学者が厳密な手続きを通して意識的に導く論証ならば、所与のデータの論理的吟味十分なされた後で結論が導き出される。

 

 →政府・文科省のせいで業績主義に変わってしまった学術の世界で、果たしてこのような手続きがなされているか疑問。

 

 しかし一般に人間の思考はそのように進まない。日本の戦争責任や教科書問題などの政治的テーマについて討論する場面を考えよう。相手の主張を最後まで虚心に聞く人はまれだ。相手は左翼なのか右翼なのか、味方なのか敵なのか、論者は信用に値するのか政府の御用学者なのかと範疇化が無意識に行われる。相手が展開する論理は、あらかじめ作られた思考枠を通して理解され、賛成の安堵感あるいは反対の怒りや抗弁が心の中で積み重ねられてゆく。新聞や本を読む場合でも同様だ。読者にとって重要な関心ごとほどこのような歪曲を通して解釈されやすい。

 

 →この本を読んでいる自分もそうなってないか?

 

 つまり論理的手続きの進行方向と反対に、既存の価値観に沿った結論が最初に決定される。そして選び取られた結論に応じて、検討に付されるべき情報領域が無意識に限定・選択される。客観的な推論がなされ、その結果として論理的帰結が導き出されるのではなく、その逆に、先取りされ、バイアスのかかった結論を正当化するために推論が後から起こる。

 

 →証明は後付け、判断は直観ということか。

 

P205

 工場や交通機関で事故が起きると、操作ミスなど人的原因によるのか、機器や設備の構造的欠陥が事故原因なのかと問われる。しかしこの発想がすでに誤りだ。車の運転でも工場や医療現場でも、鉄道や航空機の運行でも、実は人間は頻繁にミスを犯す。しかしそのミスが事故を生む確率が低いだけだ。例えば自動車運転中の注意力散漫は避けられない。だが、注意力が低下した瞬間に他の車と接触する状況になかったり、歩行者がいなかったりするので、普通は事故につながらない。そして何の問題も起きなければ、ミスがあったこと自体意識されずに過ぎてゆく。

 

P206

 航空機の製作や運行にはシステム的発想が採られ、ミスが少々起きても事故につながらない機構が何重にも用意されている。犯罪捜査から判決に至る過程で生じうる過ちを防ぐ工夫の杜撰さとは比べものにならない。しかしそれでも事故は起きる。システム化が難しい医療現場では、手術に使用したガーゼや鉗子を患者の体内に置き忘れたまま縫合したり、手術部決めを誤ってもう一方の健康な眼にメスを入れたり、指示と異なる薬品を点滴投与する事故が頻繁に起きる。米国医学研究所が1999年に出した報告書によると、医療事故で死亡する患者の数はアメリカ国内だけで、毎年4万4千人から9万8千人に上ると推定される。

 個人の意志を超えた次元で集団行為が自己運動を展開する。意図的に為す逸脱行為・事件としてでなく、ある条件を満たせば必ず生ずる事故として冤罪を把握し直す必要がある。冤罪が生ずる原因は、より根源的に罪および責任の本質と関わりを持つ。その点を解明するため、次の第4・5章では理論的見地からの責任の分析を試みよう。

 

P208

(16)「一人の無実の者を有罪にするより、罪ある者一人を逃す危険を犯すほうがましだ」と述べたのはフランスのヴォルテールだ(Voltaire, Zadig ou la destinee, 1784)。同じ時期にイギリスのブラックストーンは「罪のない一人が苦しむぐらいなら、罪人十人を逃したほうがいい」と書いた(W. Blackstone, Commentaries on the Laws of England, 1765)。だが、犯罪者1000人を見逃しても冤罪者一人を出すよりもましだと言えるだろうか。犯罪者100万人と冤罪者一人との比較なら、どうだろう。

 

P216

(76)予断が精神鑑定を誤らせる例として次の研究が有名。研究者とのその友人の合計12人が身分を隠して、幻聴が聞こえるので入院したいと各々違う精神病院を訪れた。全員入院を認められ、1人は躁鬱病、残りの11人は精神分裂病の診断を受けた。彼らは入院するやいなや健常者と同じように行動し、もう幻聴がなくなったから退院したいと願い出た。しかし、平均19日の間、退院は認められなかった。長い者は52日間の滞在を余儀なくされた。彼らの診断書には「精神分裂症の一時的鎮静状態」(11人)「躁鬱病の一時的鎮静状態」(1人)と記された。入院中、メモを頻繁に取る研究者たちの姿を不審に思った入院患者が「あなたたちは患者のふりをしたジャーナリストでしょう」と正体を見破ったが、メモを取る行為自体が病的兆候だと病院側は判断し、何を書いているのか確認さえしなかった。

 

 

第4章 責任という虚構

P223

 二つの事実や理論の間に矛盾が見つかる場合、そのうち一方を採用し他方を否定する解決に我々は走りやすい。しかしどちらの事実・理論も維持しながら、考え方の出発点を再考して矛盾を止揚するほうがより根本的な解決をもたらす。自由や責任が実証科学の成果と矛盾して見えるのは発想の根本で勘違いするからだ。自由や責任を因果関係の枠組みで理解する発想を覆さなければならない。

 

P224

 カントは『純粋理性批判』の中で「自然による因果律」と「自由による因果律」を区別した。前者は科学の基礎をなす因果論的説明である。出来事にはそれを引き起こす原因となる他の出来事が必ずある。しかしその原因たる出来事も他の原因が引き起こす。したがってこの説明形式では因果の連鎖が無限に続く。それは人間の行動も同じだ。人間も生き物つまり自然の生産物だから、無限に続く因果関係から逃れられない。カントは『実践理性批判』で次のように述べる。

 (中略)

 無限に続く出来事群の流れは自然界における連鎖だから、私の原因は決して自由ではない。

 

 自由でないのになぜ、責任が問われるのか。

 猟銃殺人が起きたとしよう。事件を解明するにあたって、「銃の材料になった鉄の精錬技術を発明した者が真犯人だ」などと警察は逮捕状を取らない。「本当にひどい事件だ。許し難い。鉄を発明した人間の親の顔がみたい」とも言わない。たしかにこの銃の製造、この銃の材料である鉄の精錬、銃や製鉄技術の発明家、発明家を生んだ親などがいなければ、この殺人は起きなかった。したがって因果関係は犯人を越えて無限に後退する。しかし責任を問題にするとき、このような因果論的説明が求められるのではない。

 製鉄技術の発明家や犯人の親に責任を負わせないのは、因果関係の流れの中で事件からあまりにも遠い要素だからだろうか。では逆に事件に極めて近い要素を考えよう。被害者が死亡する際には心臓や脳の活動が停止する。だが、殺人事件の責任を心臓や脳の停止事実に求めたりしない。死に至る因果関係の科学的記述としては正しいが、責任を追及する立場からは的外れな答えでしかない。

 

P226

 事件を前にして我々はなぜ、ある要素を受け入れ、他の要素を状況理解から排除するのか。これはヒュームやミルなどが検討した古典的問題であり、法哲学者のハートとオノレは『法における因果性』で次のように述べた。

 

 出来事の原因を同定するとき、我々は複数要素の中から一つだけを取り出す。だが、出来事は必ず複数の要素により引き起こされ、それら全ての要素が同じ重要性を持つ。紙屑が入ったゴミ箱に火のついたタバコを落としたことが火事の原因だと我々は理解するが、実際には他の条件が満たされなければ、このことだけで火事は生じない。つまり空気中に酸素が存在すること、ゴミ箱の中に完成物質があることなどの事実がなければ火事は発生しない。あるいはレールの湾曲が鉄道事故の原因だと断定する。しかしレールを通過する列車の構造や重量、そして運行速度などの条件が整って初めてこの事件は生じうる。因果関係の一般的考察としては、これら複雑に絡み合った条件要素のどれも、我々が選び取る要素とまったく同じ地位にある。つまり、原因を構成する一様としてどれもが同じ重要性を持ち、この意味においてすべて「同価値」である。

 

 →歴史学がやっていることも同じではないか。本当は原因が複数あるのに、原因を一つに絞り込まなければ、論文にならないというのはおかしな話。歴史学は原因を追究する科学なのか、それとも歴史事象を引き起こした責任を追及する裁判なのか、よくわからなくなってくる。歴史学の論文は原因と責任を混在して論じていないか? こういうことを意識しながら論文を書いているのか? かりに前者の立場にしても、どこまで原因を追究し並び立てれば、優れた論文と言えるのか、あるいは結論が出たと言えるのか。

 

 行為の因果関係で責任を捉えると、刑罰を与える上で不都合が起きる。次の二つの例を考えよう。一人の男がいる。恋人を奪われ嫉妬に狂い、復讐心から相手の男性を銃で撃つ。撃たれた相手は病院に運ばれるが、運悪く新米の医者しかおらず、治療にまごつくうちに被害者は出血多量で死ぬ。あるいは交通渋滞のために救急車が病院にすぐ辿り着けず死亡する。もう一つの筋書きを考えよう。同じように恋人を奪われて嫉妬に狂い復讐する男がいる。先ほどと同じように相手の男性を銃で撃つ。しかし今度は、撃たれた相手を治療する医者が優秀で被害者は一命を取り留める。あるいは交通渋滞に巻き込まれず、運良く救急車がすぐに病院に着いたおかげで被害者は助かった。

 さて犯人が捕まり裁判が行われる。判決はどうなるだろう。第一のケースでは殺人罪であり、計画性や残虐性が認められれば、無期懲役か死刑になる可能性もある。対して第二のケースは殺人未遂に過ぎず、罪の重さが大きく異なる。

 ところで二つのケースは何が違うのか。犯人の行為自体はどちらも変わらない。同じ動機(恋人を奪われ嫉妬に狂い、復讐したい)、同じ意図(殺す)の下に同じ行為(銃の照準を定めて引き金を)が行なわれた。被害者にとっての結果は異なるが、違いの原因は犯人に無関係な外因だ。医者がたまたま優秀だったか経験の乏しい医者だったか、道が混んでいたかいなかったかという、犯人には無関係な原因だけが二つの状況設定で違う。動機も意図も行為も同じなのに、どうして二つのケースで責任および罪が異なるのか。

 

P228

 母子家庭で苦労を重ねて育てた子どもがやっと嫁いだ途端に犯罪に遭遇し命を落とす、念願の大学進学を果たした矢先に殺される。こういう不幸を耳にすると我々は同情を禁じ得ない。だが、知らない人を通り魔が襲ったのならば、被害者の事情は犯人と無関係だ。行為の因果律から責任を考えるならば、被害者の苦しみの代償が罪の重さに反省されるのはおかしい。トマス・ネーゲルは「道徳における運(moral luck)」という有名な論文でこの問題を検討し、ナチス時代に生まれたドイツ人を例に、当人が制御しえない状況でも、それにより責任が大きく左右される事実を指摘した。

 

 ナチス・ドイツ時代の一般市民には国家の政策に反対し英雄的に行動する可能性もあった。悪しき行動に走ることもできた。しかしほとんどの人々はこの試練において誤りを犯し、非難されたのだった。ところでこの試練は他国の市民には課せられなかった。(中略)このように人間は自らの道徳状況を運命に任せざるをえない。考えてみるとこれは不合理だ。だが、我々が普通に抱く道徳観はこのような発想に支えられ、それを抜きにしては理解できないだろう。

 

 →英雄的に行動するという選択肢も、悪しき行動に走るという選択肢を与えられなかった、ということ。

 

 責任を因果関係の枠組みで理解し、行為の原因が自らにあるから責任を負うと考える限り、責任と運の両概念は相容れない。したがって「ある意味で、この問題には解答が存在しない」とネーゲルは結論する。

 

P230

 以上概括したように、行為生成過程のどの時点に注目しても因果関係では責任現象を捉えられない。責任を特定する上で適切な原因とそうでない原因の区別も客観的観点からはできない。ギャレン・ストローソンが指摘するように、責任概念と因果関係は次の論理矛盾を抱えるため根本的に相容れない。⑴自らの行為に対して道徳的責任を負うのは、行為者自身が当該行為の原因をなす場合である。⑵だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。⑶したがってどんな存在も責任は負えない。

 (中略)

 なぜ、このような困った結論が導かれるのか。犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題が潜んでいる。責任の正体を突き止める上で、この戸の建て方がそもそも的外れだ。殺人が生じたとき、「どのような物理的過程を経て被害者は死に至ったのか」と我々は問うのではない。「いったい誰が悪いのか、この殺人の責任は誰が負うのか」と怒りをぶちまけ、悲しみに沈むのだ。

 

P232

 「自由による因果律」とカントが呼ぶ記述形式は何を意味するのか。ここで我々に関心があるのは、カント自身の答えではない。「自然による因果律」と異なる「自由による因果律」を定立するならば、それはどのように理解するべきか。序章で確認したように、外的あるいは内的な条件から独立する自由意志によって行為が引き起こされるのではない。ウィトゲンシュタインの有名な提言を思い起こそう(『哲学研究』§621)。

 

 私が腕を上げるとき、私の腕は上がる。ここに問題が生まれる。私が腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を差し引くと何が残るのだろうか。

 

 意志あるいは主体が残ると答えたくなるが、ウィトゲンシュタインによると、世界を理解する二つの仕方に応じて同じ身体運動が出来事と形容されたり、行為と表現されたりするにすぎない。では我々の記述方式を決める基準は何なのか。行為の源泉として我々が援用する意志なるものは脳内に発生する心理状態ではない。黒田亘は『行為と規範』で意志の社会性を指摘した。「人間のすることの多くが行為でなく、しないことがしばしば行為であるという、一見逆説的な事情」の理解不足のために行為や意志の意味が誤解されてきたと黒田はいう。

 

P234

 意志は各個人の内部に属する実態ではない。社会秩序を維持するために援用される虚構の物語である。中島の著書から再び引用する。

 

 (中略)

 川で溺れそうな子を見て無我夢中で飛び込み、ずぶ濡れになって子どもを抱き抱えつつ「自分が何をしたかわからない」と語る男はその子を「助けた」がゆえにその子を「助ける」意志を持っていたのである。「助けたい!」と内心叫びながら岸辺で腕を拱いていた人々は「助けなかった」がゆえに「助ける」意志をもっていなかったのである。

 こうした行為と同一記述の意志をわれわれが要求するのは、過去の取り返しがつかない行為に対してある人に責任を課すからである。「実践的自由」における「自由による因果性」とは意志と行為とのあいだの因果性ではなくて、実は意志と責任を負うべき結果のあいだの因果性なのである。ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因としての(過去の)意志を構成するのだ。

 

 →意志(助けたい)と行為(助ける)の間に因果関係があるのではなく、意志(助けたい)と結果(助けた)に因果関係を持たせようとしている。つまり、結果から過去の意志を遡及的に生成させようとする虚構だということ。

 

P235

 当該行為の「意志」と願望一般は区別しなければならない。ある行為をしようと心の中で思うだけでは何も起きない。手を動かそうと欲しても、思うだけでは手は微動だにしない。「憎いあいつを殺したい」と思っている間は単なる願望であり、実際に銃の引き金を引く身体行動を起こす指令は常に無意識に生まれるのである。

 本書が検討する意志は行為の原因としてのそれだ。因果律を基に責任を定立する近代的発想で意志が問題になるのは、意志が行為の原因と認められる限りでのことであり、行為と直接関係ない心理状態ならば、意志について議論する意味がそもそも失われる。

 

 →前述の助けたいという意志だけで、実際に行動に移さないパターンのこと。

 

 ところで意志が原因をなすならば、それに対応する行為は必ず生じなければならない。定義からして原因と結果の間には必然的関係があり、銃の引き金を引く意志があっても実際には発砲する場合もあるしそうでない場合もあると言うならば、そのような意志は行為の原因とは認められない。「明日から絶対にタバコをやめる」と言う強い意志があっても、実際に明日になると「昨日はそう思ったけど、やはり急にやめるのは大変だから量を半分に減らすことから始めよう」と考えが変わるならば、前日の禁煙意志は願望に過ぎず、原因たりえない。

 

 →結果との間に必然的関係がなければ、それを原因と呼ぶことはできない。

 

 では意志と単なる願望とを分ける基準はどこにあるのか。それはまさしく行為が実際に起きた事実以外にありえない。つまり黒田や中島が言うように、ある身体運動を出来事でなく行為と認めること自体が、そこに意志の存在を事後的に構成するのだ。言い換えるならば責任が問われるとき、時間軸上に置かれた意志なる心理状態とその結果という出来事の関係が問題になるのではない。

 

P238

 社会秩序という意味構造のなかに行為を位置づけ、辻褄合わせする、これが責任と呼ばれる社会慣習の内容だ。因果律の観点からすれば、犯人の行為が同じなのに結果に応じて罪や罰が変わるのは明らかな論理誤謬だが、同じ行為でも事件の結果が異なると責任や罰が変化する理由がここにある。

 序章で意志と行為の間の齟齬を指摘し、意志が行為を生むという常識的図式に疑問を投げかけた。さらに以上の検討により意志の存在形態が明らかにされた。精神活動はデカルトにとって意識、フロイトにとっては無意識、認知心理学にとっては脳の機構を意味する。したがっていずれのアプローチも精神を個人の内部に位置づける点は共通する。しかし意志は個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。意志とは、ある身体運動を出来事ではなく行為だとする判断そのものだ。人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのだ。人間は自由な存在だという社会規範がそこに表明されている。以前に流行った表現を借りるならば、意志はモノではなく、コトとして理解しなければならない。

 

P241

 自由意志が存在するとしよう。するとたちまち、それはどこから由来するのかと疑問が湧く。⑴自由意志は他の原因から生ずる。⑵自由意志は原因を持たず、偶然生ずる、⑶自由意志は他に原因を持たず、自ら原因として生ずるという三つの解釈が可能だが、どれをとってもアポリアに陥る。

 まず自由意志は外因が生むかそうでないのかのどちらかだ。外因から生ずるならば、つまり過去に沈殿した記憶と新たな外部刺激とを材料に脳が出す演算結果から意志が生ずるならば、自由意志ではありえない(選択肢1の否定)。次に自由意志が外因によって生じない場合は、さらに二通りの可能性に分かれる。すなわち自由意志は偶然生ずるか、それ自身を原因とするかだ。自由意志が偶然生ずるなら、やはりこれは自由意志ではありえない。理由なく不意に覚える殺意や制御できない身体運動を自由意志の産物とは呼ばない。またそのような意志は私とは無関係だから、私の意志ではない(選択肢2の否定)。偶然でもなく、外因によるのでもない自由意志はそれ自身を原因として生ずるしかない。だが、そのような存在は神以外にない。ところで神によって私の意志が生ずるなら、それは私の自由意志でない。それどころか自由意志が自らを原因として生ずるなら、神が私の自由意志を生むのではなく、私の自由意志がすなわち神という結論が導かれる。つまり私は神になってしまう(選択肢3の否定)。

 

 →結局、自由意志とは存在しないにも関わらず、社会生活を営むために創出された虚構だということが言いたいのか。

 

P242

 誤解がないように敷衍しておこう。第5章および第6章で詳説するように、各要素の相互作用が生む集合体は自律運動を始める。遺伝形質に家庭・学校教育などが作用して生成される人格は初期の所与から遊離する。人間の認知構造は自己組織化システムをなし、行動の原因は遺伝形質や社会環境に還元できない。だが、この意味での自律性はすべてに共通する性質であり、判断能力に欠ける精神疾患者も同様だ。遺伝および環境の所与へ行動を還元できない事実自体からは、犬や猫が持つ自律性以上の意味での自由意志は導けない。犬や猫に責任を問わないように、自律性に依拠して、我々が了解する近代的意味での責任は定立できない。

 

 →認知の仕方が自己組織化しているわけだから、自我が生まれ、自由意志があると信じるようになってしまうということか。

 

 世界は決定論的に理解すべきだと主張するのではない。自由意志が原因で行為が生ずるから責任を負うという枠組みで考えるから、行為は決定論的に生ずるのかという問題が出てくる。責任はそのような発想と次元を異にする。自然因果律で意志の源を求める限り、どんな答えを用意しても意志や行為の自由は導けない。問いの立て方自体が誤っているからだ。

 

P243

 自由と決定論が矛盾すると考える背景には、規則あるいは方という表現が持つ二つの意味の混同がある。法律や道徳という規則は、我々の欲望を制限する。人間が抱く欲望の間に対立が生じず、誰もが気の赴くままに行動してよければ、そもそも規則は必要ない。そして規則があれば服従する者も破る者もいる。嫌々ながら規則に服する者もいる。つまり規則は強制力として機能する。ところが自然科学において規則や法則に言及する場合は違う自体を意味する。例えば万有引力の法則は一定の軌道に沿って物体が運動すべきだという命令ではなく、物体が実施兄どのような運動をするかの端的な記述だ。地球が本当は他の軌道を通りたいのに、ケプラーの法則があるために仕方なしに規則が定めたとおりに公転するわけではない。ここでの規則や法則は強制を意味しない。自然科学における法則の否定は単にその法則が存在しない、つまり、その法則が記述する因果関係の誤りを含意する。対して、日常生活で我々が理解する自由は社会的強制力の欠如あるいは反抗可能性を意味し、行動が因果律に縛られるかどうかとは別次元に属する事態である。

 

 →自然科学的規則と日常的規則は性質が異なる。後者は命令・強制を伴う。自然学的規則からの自由とは、自然科学的規則が無いいことであり、日常的規則からの自由とはそこからの逸脱や反抗であって、日常的規則が無いことを指すわけではない。

 

P244

 社会化や遺伝という外因が形成する属性や人格から独立し、決定論的条件に拘束されない意志概念は責任や刑罰の論理になじまない。定義からして自由意志は身体から遊離した存在にならざるをえず、したがって処罰の苦痛を通じて犯人の属性をいくら変更しても今後の犯罪抑止は望めないはずだ。また身体から独立した存在が悪いなら、なぜ犯罪者の身体を苦しめる必要があるのか。身体的属性に拘束されない自由意志により行動が生ずるならば、犯人を罰する意味が消えてしまう。

 結局、自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望むとおりに行動できる感覚であり、強制力を感じないという意味に他ならない。強制されていると主観的に感じるか否かが自由と不自由とを分かつ基準であり、他の要因によって行為が決定されるかどうかという客観的事実は、自由かどうかの判断とは別の問題だ。我々は常に外界からの影響を受けながら判断し行動する。しかし条件の違いによって、自分で決めたと感じる場合もあれば、強制されたと感じる場合もある。主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。

 

 →自由の定義。すなわち強制されていないとうい主観的感覚。

 

 責任の正体に迫るためには、自由に関する我々の常識をまず改めなければならない。近代的道徳観や刑法理念においては、自由意志の下になされた行為だから責任を負うと考えられているが、この出発点にすでに誤りがある。実は自由と責任の関係は論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。過去の意味に注目する視点から中島義道が指摘する。

 

P245

 ちなみに「原因」のギリシア語はaitia(アイティア)だが、これはもともと「罪」を意味していた。我々が今日考えるように因果律を基に責任概念が派生したのではなく、事実はその逆で、責任や罰の方がより基礎的な観念だった。客観的因果律など知らないうちから人間は責任や罰とともに生きてきた。「人間世界から独立した自然界」という認識が生まれて科学が発達し、それに伴って自然界を律する因果律という見方が、責任を問うという、より根本的な問題意識から徐々に切り離されていった。

 

 →日本の場合、仏教的な因果律(縁起)や前世・現世・来世観の影響が強いだろうが、現世・来世は前世の宿業によって決まるという考え方はするものの、そのせいで罪や責任に変化が生じるようなことはない。やはり日本でも、因果の前に、ただ純粋に罪や責任があったと言える。

 

P247

 道徳的責任の根拠を社会規範に求めるアリストテレスの考えは、キリスト教世界では受け入れられない。原罪で堕落した人間が織りなす世俗制度と別に、真の責任は神が定める。人間共同体を超越する普遍的原理として道徳責任は表象される。ちなみに、カトリックという形容詞は「普遍的」を意味するギリシア語のカトリコスに由来する。変動しうる社会規範に惑わされず、罪や罰の規定は絶対的根拠に基づく必要がある。無論その根拠とは神の意志であり、それに従わない行為は悪である。

 

P248

 社会共同体の規範に道徳の根拠を見出すアリストテレス哲学においても、人間を超越する神という絶対者に根拠を投影するキリスト教哲学においても、個人の自由意志が外因に規定されるかどうかという問題は切実にはならなかった。前者にとって人間の意志や行動が外部の影響を受けるのは当然だし、後者にとっても各人の属性・人格が神の摂理に適合するかどうかが判断基準をなし、個人の内的要素がどう形成されるかは問題にならない。

 

 →前近代の日本はどうか? キリスト教のように神や教義に根拠を見出す社会というよりも、当時の社会共同体の規範に道徳の根拠を見出す社会の方に近いか。

 

 社会規範に道徳の根拠を求めるアリストテレスに対して、近代思想は袂を分かち、キリスト教哲学と同じように、各文化・時代に固有の偶有的条件に左右されない普遍的根拠によって道徳を基礎づけようと試みる。だが、神という超越的権威にもはや依拠できない近代人はここで袋小路に迷い込む。社会あるいは神という〈外部〉に世界秩序の根拠を投影しなければ、根拠は個人に内在化されざるをえない。そのため前近代には大きな問題にならなかった、個人の属性がどのように形成されるかという点が責任の考察にとって切実になる。殺人を犯す者がいる。なぜ彼は罰せられるのか。社会が罰を要請するからだとアリストテレスは答える。神がそれを欲するからだとキリスト者は言う。しかし近代個人主義に生きる我々はそのような答えでは満足できない。責任の根拠が個人に内在化される世界において、私の行為の責任を負うためには、私自身が行為の原因でなければならない。だから決定論と自由意志の問題めぐって近代以降、哲学者は膨大な議論を費やしてきたのだ。

 人間共同体の〈外部〉については第6章で詳しく考察するが、ここでは次のことだけ確認しておこう。時代および文化によって人間観や世界観は異なり、それに応じてけじめの付け方が変わる。しかし大切なのはけじめ自体だという根本を踏まえないと責任現象は解明されない。

 

P251

 プラトンヘーゲルのような実在論あるいは全体論的な発想をとらないカントの場合、道徳が発する命令は他の目的を成就するための手段ではなく、それ地震を目的として守るべき定言命法だとされる。しかしこれでは道徳的根拠の説明にならないとモーリッツ・シュリックが批判する。(中略)

 

 倫理秩序を根拠づける「他者」が誰であろうとも、倫理秩序が「他者の願望や力に依存したり、この「他者」の不在によって消滅したり、あるいは「他者」の意思によって変化するようでは、倫理秩序が安定しない。だからカントはこの不安定を除くために、神であっても道徳律の責任者にしたくなかった。そこで彼に残された可能性は虚無に救いを求める道だけだった。つまり、義務は絶対にどんな「他者」にも由来しない、それは絶対的義務であり、倫理的戒律はどのような条件からも独立する定言命法だと彼は主張したのだ。

 

 プラトン実在論ヘーゲル全体論は人間を超越する〈外部〉によって刑罰を正当化する。しかしカントのごとく、虚構の物語を否認し、道徳を定言命法として措定しても、その根拠しても、その根拠あるいは源泉は明らかにならない。それどころかカント自身の意図に反して、道徳の無根拠性がかえって如実になった。

 

 →この場合の虚構は社会慣習や神のこと。

 

P254

 以上のように応報復讐論も犯罪抑止論もそれぞれ内部矛盾を免れない。そこで両者の欠点を削り、妥当な部分だけを統合する動きが現れ、現在の刑法には応報主義と予防目的主義とが妥協的に共存する。しかしこのような解決は、規範的考察として有効性を持っていても、責任や刑罰の根拠に関する我々の問いには答えられない。

 

 価値観は正しいから社会に受け入れられるのではない。逆に共同体に生きる人々の相互作用が生成する価値観だから、それが正しいと感知される。エミール・デュルケームは言う。

 

 →慣習や価値観のでき方が、一般的な考え方とはすべて逆。なぜ、これが教育として伝えられないのか? なぜ日本の教育は、正しいこと、善の根拠を問う教育をしないのか。

 

 殺すなかれという命令を破るととき、私の行為をいくら分析しても、それ自体の中に批判や罰を生む要因は見つけられない。行為とその結果[非難や罰]は無関係だ。殺人という観念から分析的に[論理的あるいは内的関係として]非難や辱めを取り出すことは不可能だ。行為とその結果とを結びつける関係は総合的[経験的あるいは外的]関係である。(中略)高から分析的に[演繹的に]罰が結果するのではないから、私が罰を受けたり非難されたりするのは、おそらくあれこれの行為をなしたからではない。私の行為の本質的性格ゆえに処罰が発生するのではない。行為がどんなものであるかによって処罰を生むのだ。(中略)処罰は行為の内容から結果するのでなく、既存の規則を遵守しないことの帰結だ。つまり過去に定められた規則がすでに存在し、当該行為がこの規則への反逆であるがゆえに、行為から処罰が引き起こされるのである。(中略)禁止行為をしないように我々が余儀なくされるのは、単に規則が我々に当該行為を禁ずるからにすぎない。

 

P255

 犯罪は行為の内在的性質─殺人はAという理由で悪である─によって規定されない。社会規範は集団の相互社用が生み出す産物であり、そこには超越的根拠も内在的理由もない。それは美の基準と同じだ。女性は美しいから美人と形容されるのではない。顔をどれだけ眺めても、美貌の理由はわからない。美しさは当人に内在する性質ではない。美の根拠は外部、すなわち社会規範に求められる。美しいから美人と呼ばれるのではなく、逆に美しいと社会的に感知される人が美人という称号を与えられる。同様に、善悪の基準も、悪い行為だから我々が非難するのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのである。

 

 →近現代人は、とても長い間、物事の考え方を根本的に間違えてきた可能性がある。ありもしない判断や価値観の根拠をずっと内部に探し続け、それが見つけられないことに苦しんできた。見つけられた根拠は外部にあり、それは集団の相互作用によって生み出される社会規範であり、それは可変的で相対的なものであった。そういう不安定な社会を生きていることが真実であるのに、怖くてそれを認められなかったのが、近現代ということか。やっと、人間社会の本当の姿がわかってきたということか。

 

P257

 ナチス・ドイツが降伏した際、対独協力者として1万人以上のフランス人が裁判を経ずに処刑された。無実の罪に問われた人がいる可能性を知りつつもレジスタンスの指導者は処刑を許した。そうしなければ復讐や内戦が各地で起き、もっと多くの犠牲者が出る恐れがあったからだ。どうせ殺されるならその人数が少ない方が多いよりもましというソフィーの例と異なり、ここでは多くの犠牲者を出さないために、無関係な少数の人を殺すことを意味する。これらの問題に合理的回答が見つかるだろうか。

 特殊な例ばかり引くのではない。妊娠中絶・脳死・臓器移植・クローン・安楽死・死刑制度など、どれをとっても合理的根拠は存在しない。議論は尽くさねばならない。そして、何らかのコンセンサスに至るだろう。だが、どんな正当化をしようと恣意性を免れない。この答えが最も正しいと今ここに生きる我々の目に映るという以上の確実性は人間に与えられていない。判断基準は否応なしに歴史・社会条件に拘束される。正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。その背景には論理以前の世界観が横たわっている。

 社会には規範から逸脱する者が必ず出る。多様な価値観の間で対立が生まれ、異質な意見がぶつかり合う中から新しい価値観が導かれる。同じ規範を全員が守るならば、社会は変化せず、停滞する社会は歴史を持ちえない。

 

 →合意したことが正しさの根拠となる。それだけのことが、物事を難しく考えすぎたせいで、わからなかった。本当に大事な議論。

  民主主義の世界ではイメージがしやすいが、中国のような一党独裁国家の場合は、以下のようなイメージか。つまり、共産党内という狭い世界で合意が形成され、それをさまざまな政治手段・暴力を用いて強権的に人民に押し付け、それに慣れることで国家全体で合意が形成される。いや、暴力のような非効率的な手段を使っているのは、頭の悪い証拠。むしろそんな手段を使わず、メディアや教育制度を利用したら、社会経済システムによって、知らずしらず合意形成に参与させられている民主主義社会の方が恐ろしいのではないか。小泉政権以降の「自己責任論」などがまさにそう!これも、不況を乗り切るための虚構にすぎなかった。でも、不況を乗り切るためには必要な虚構だった。だからこそ、政府から喧伝され、何も気付かないマスコミがそれを煽り、ロスジェネ世代が思いっきり被害を受けたにもかかわらず、当時、国民からもまったく批判が起こらなかった。力のない、まだまだ物事を深く考える力もなかった当時のロスジェネたちは、不満を持ちながらも、その他の世代から圧迫を受け、ほとんどの人間が圧迫を受けているとも気づかず、是として受け入れてしまった。やはり、勉強しないこと、頭の悪いことは、自分自身を苦しめるということがよくわる。「真理がわれら(あなたたち)を自由にする」という格言は、本当なんだろう。

  自殺についても同じ。本来、生まれたばかりの人間は、死にたいと考えることはない。また、平穏に生活している人間も、自殺念慮をもつことはない。ところが、何らかのトラブルが生じたときに、自殺が頭を過ぎる。この状態を精神科医(精神医学)や臨床心理士(心理学)らは、認知システムの誤作動と呼ぶことがある。それはそうなのかもしれないが、死にたいと思い、自殺を企図したとき、当事者はそれを最善の方法だと考えていることが問題なのだ。自殺することが正しいと合意したことが問題。これは誤作動=ミスではない。そういう状況に追い込まれたときに、自殺することが妥当だと正常に判断しているだけ。後々に(冷静に?)なって、過去の判断を振り返ると、正しくないと判断しただけ。後々という環境や条件での判断と、自殺念慮を抱いた前の環境や条件では、判断を条件づける根拠が異なるわけだから、「自殺をしたい」「自殺などするものではない」と判断が揺れるのは当然だということになる。どんな選択にも合理的な根拠など存在しないわけだから、自殺を肯定するにも否定するにも合理的な根拠は、結局ないということになる。では、何に注目して研究を進めるのか。結局、それは自殺念慮が生じたとき、自殺を肯定する社会条件・社会規範が何か、そしてそれがどのようにして生じてきて、是として受け入れられたのか。その過程・理由を分析することになる。

 

P258

 社会規範からの逸脱が怒りや悲しみを引き起こす、これが犯罪と呼ばれる現象の正体だ。定義からして犯罪のない社会はありえない。どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化しても犯罪はなくならない。犯罪は多様性の同意語だからだ。

 社会により逸脱許容度は異なる。しかし逸脱は必ず生じるし、逸脱に対する抑止力も同時に機能する。中央権力が強く作用し、均一度が高い社会であればあるほど、ほんの小さな差異にも強い拘束力が働く。したがって多様性が客観的に減少し、逸脱行為が希になっても、社会に生きる人々には、その小さな逸脱が社会秩序への重大な反逆と映る。デュルケムは言う。(中略)

 集団規範から逸脱する個人のいない社会はありえない。そこで生ずる多様な行為のなかには犯罪行為も当然含まれる。なぜなら行為に犯罪性が看取されるのは、その内在的性質によるのではなく、共同意識が各行為を意味づけするからだ。だから共同意識がより強ければ、すなわち逸脱行為を弱めるための十分な力が共同意識にあればあるほど、同時に共同意識はより敏感に、より気難しくなる。他の社会であればずっと大きな逸脱に対してしか現れない激しい勢いで、ほんの小さな逸脱にさえも反発する。小さな逸脱にも同じ深刻さを感じ取り、犯罪の烙印を押す。

 

 →規範から逸脱する、犯罪を犯すということは、一つの基準からずれることだから、極端な話、多様性を許容する社会では犯罪が増えることになってしまうか。今回のコロナ騒動を見ていると、日本の場合、国家権力が強権を発動することはなかったが、社会という実態があるようでないものを恐れて、多くの?国民が逸脱行為(Go To キャンペーンやお盆の帰省)に踏み切らなかった。これは、社会の逸脱許容度が極めて低い不自由な社会とも言える。マスク警察や自粛警察、SNSによる誹謗中傷、近所・学校・職場における実効的な差別・非難など、違法行為として訴訟を起こしにくいギリギリの制裁行為をエスカレートさせるのが、現在の日本人の特徴なのかもしれない。なぜ、こういう他人に迷惑をかけない、あるいは他人から迷惑をかけられることを拒むような共同意識が強いのか。やはり、「みんな仲良く」「みんなと一緒に」といった「協調性」を、是として画一的に教え込んできた近現代の教育システム(家庭での教育も含め)に問題があるのだろう。やりすぎ、一方の価値観への傾きすぎは、結局よくない。あらゆる価値観が相対的なのだからが、相対的であることを教えるべきで、どのような条件や状況では、現在のところ何が優先されるべきか、そのプライオリティーが時代や社会によって異なることをみなが知るべき。それとも、みな言葉としては知っているが、体験として、身をもって実感できていないだけか?

 

P259

 どうして犯罪が生ずるのかと嘆くとき、悪い結果は悪い原因が引き起こすという暗黙の了解がある。社会の機能がどこか狂っているから犯罪が生ずると考えやすい。だが、この常識は発想の出発点から間違っている。犯罪のない社会は論理的にありえない。悪の存在しない社会とは、すべての人間が同じ価値観に染まって同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり犯罪のない社会とは理想郷どころか、ジョージ・オーウェル『一九八四年』が描くような人間の精神が完全に管理される世界に他ならない。

 

P264

(40)因果関係の枠組みで責任は理解できないと本書は主張する。しかし実はこの言い方は正確でない。そもそも因果律は自然界に客観的に存在する関係なのか。AがBの原因だと言う時、Aが生ずれば必ずBが生じ、Bが生ずる場合は必ずAが生じており、また時間的にAがBに先行するという三点を常識的には含意する。だが、この素朴な因果概念はすぐに難問にぶつかる。例えばラッセル・テイラーのパラドックスと呼ばれる議論がある。原因が結果に先行するなら両者は同時に生起しない。したがって原因と結果の間に時間間隙があるから、外因の干渉によって結果の生起が妨害されうる。つまり原因が生じても結果が必ず生ずるとは限らない。ならばそれは結果とは呼べない。さらに言うと原因が結果に先行するならば、結果の生起する時点ですでに原因が消えているから、先行する原因は真の意味での原因たりえない。では、原因が結果に先行すると考えるためにこのパラドクスが生ずるのだから、原因と結果は同時に生ずるのか。しかし両者が同時に生起するなら、どんな結果についてもその原因が同時に存在するから時間は消滅し、あらゆる事物が同時に存在するという背理が帰結する。

 因果の規則説を提唱したヒュームは、因果関係を自然界の客観的あり方としてではなく、人間の習慣や社会制度が作り出す表象だと考えた。因果関係は当該事象に内在しない。因果的効力は事象内部に実在せず、複数の事象を結びつける外部観察者によって感知される。この説が正しければ、責任の帰属過程と因果関係とを区別する意味が薄れる。丑三つ時に神社の境内で藁人形を五寸釘に打ち付ければ憎い人間を呪い殺せると信じる文化においては、これがまさしく因果関係の客観的記述である。つまり責任は社会的虚構だという本書の主張を超えて、そもそも因果律の社会性が問われなければならない。因果律そして時間は物質界に内在する性質なのか。ヒトという生物に固有な認知枠のもつ性質なのか、あるいは社会的・歴史的に構成される物語なのか。

 →所詮、すべては人間の認知の仕方にすぎないのではないか。物質もエネルギーも波動も時間も因果も法則も、すべて脳によって構成された虚構・物語に過ぎないということか。自然科学的な法則が絶対的に実在するのではなく、人間がそういうものとして認知しているだけの話だろう。だからこそ、これまでも法則は覆されてきたし、これからも新たな法則によって覆される運命にある。自然科学系でさえそうなわけだから、人文・社会系はなおさらだ。

 

P266

(56 )共同体の新陳代謝で必然的に生ずる廃棄物、これが犯罪だ。社会が成立し、維持される上で規範ができると同時に、そこから逸脱つまり多様性が生まれる。そして公的評価を受ける逸脱要素は創造的価値と受け入れる一方で、否定的烙印を押された要素は悪として排除する。生物が食物摂取後に栄養分だけを体内にとどめ、無駄な要素を排泄し、新陳代謝過程で生成される有毒物を体外放出する仕組みに似ている。

 

 →共同体もエントロピーに支配された人間によって営まれているわけだから、共同体自体もエントロピーに抵抗するために新陳代謝を行なわなければならない。

 

 性犯罪を例に取ろう。強姦被害者はなぜ苦しむのか。心に受けた傷は長期にわたって、あるいは一生かかっても癒えない。それは性という、人間にとって特別な意味を持つ世界での造反行為だからである。問題は肉体上の被害ではない。たしかに、妊娠し堕胎を余儀なくされ、二度と子を産めなくなったり、性病を移されるなど、身体に傷跡が残る場合もある。それでも出刃包丁で腹を刺されたり、鉄パイプで頭を殴られれば、それ以上にひどい障害が生ずる。問題は心だ。

 人間の性が完全に解放された世界を想像しよう。猿のボノボは挨拶として性行動をする。人間がそんな存在になったら、性犯罪は消失するか、今よりもずっと数が減るに違いない。誰とでも性関係を持つ世界では強制の必要がない。他者を支配する手段や相手に認められるシンボルとしても、性行動は用をなさなくなる。被害者の側も同様だ。性関係を強要されても、そこに特別な意味はない。喧嘩で殴られるのと同様に、単なる暴力・障害である。握手したり、一緒に食事したりする以上の意味が性から失われる社会では、強姦被害者が受ける精神的苦悩は同時に消える。

 事件の後遺症として、その後、性関係を持てなくなる人がいる。しかしそれも、性が特別な意味を持つ限りのことであり、性が完全に解放された世界では、精神的後遺症が生じなくなるか、少なくとも今よりもずっと軽減される。つまり、社会が機能不全に陥るから性犯罪が生ずるのではない。性犯罪は、性タブーを持つ社会に必然的に起こる政情が減少である。

 性犯罪の責任を被害者に添加するのではない。性タブーをなくせと無理を言うのでもない。常識の論理構造に光を当てるのが、この思考実験の目的だ。性道徳や禁忌は必要で正しい社会規範・制度として理解されている。だが、そこから性犯罪が必然的に生じ、被害者が苦しむ。

 性の完全解放など、現実にはできない。第一、意識的に消去できるぐらいなら、最初からタブーでない。人間が人間である限り、性道徳が必ず生まれ、維持される。したがって性犯罪は人間社会の原罪だ。その意味で我々全員が、そして被害者自身でさえもが悪の共犯者なのである。社会の機能不全が現在で悪が生ずるのではない。その逆だ。悪は、正常な社会構造・機能によって必然的に生み出される。だから、時代が変わっても、どんなに努力しても、悪は無くならない。

 

 →前近代にあった性タブーは近親相姦ぐらいか。二股、三股や夜這い、妻問婚、重婚が当たり前の時代には、不倫や性犯罪などという発想がない可能性がある。日本の場合、嫁入婚・嫁取婚や嫡子単独相続など、武士的な慣習の広まりが、性のタブーを増加させたような気がする。「女は男に倍す」のような状況の中では、性的な対象としての男は女性にとって貴重であり、意に沿わない性交渉が行われても、いわゆる犯罪と認知することが少なかったのかもしれない。