周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小坂井敏晶著書 その1

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫、2020年) その1

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

はじめに

P5

人間が主体的存在であり、自己の行為に責任を負うという考えは、近代市民社会の根本を支える。殺人など社会規範からの逸脱が生じた場合、その出来事を起こした張本人を確定し、その者に責任能力が認められる限り、懲罰を与える。人間が自由な存在であり、自らの行為を主体的に選び取るという了解がそこにある。

 

 →主体的存在は近代社会の登場とセットで現れる概念だが、前近代では人間は主体的存在ではなかったのか。であるならば、中世びとは何を根拠に処罰されたのか。中世の場合、責任能力を認めるとか認めないとかいう判断自体、聞いたことはない。

 

 他方、人間が自律的な存在ではなく、常に他者や社会環境から影響を受けている事実を社会科学は実証する。行動が社会環境に左右されるなら、責任を負う根拠はどこにあるのか。

 各人の性格が行動の一因をなす事実を持ち出しても、この問題は解決できない。たしかに人間の行動は外界の要因だけで決定されない。しかし人格という内的要因も本を正せば、親から受けた遺伝形質に書いて環境や学校などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物にすぎない。私は一つの受精卵だった。父の精子と母の卵子が結合して受精卵ができ、外界の物質・情報が加わってできたのが私だ。したがって、私が取る行動の原因分析を続ければ、最終的に行動の原因や根拠を私の内部に定立できなくなる。

 さらには、脳科学認知心理学が明らかにするように、行為は意志や意識が引き起こすのではない。意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される。

 

 →無意識な認知過程によって自分の意志や意識が、「勝手に」生成されるわけだから、この分野の視角からしても、人間は自律的で自由な存在ではないことになる。

 

 人間行動を理解するうえで、文化や教育など社会環境を重視するアプローチと、個人の遺伝要素を重視するアプローチが対立してきた。しかし、遺伝説にせよ、社会環境説にせよ、人間行動を客観的要因に還元する以上、そこから人間の自由意志は導けない。両者を折衷しても事情は変わらない。自律的人間像に疑問を投げかける科学の因果論的アプローチと、自由意志によって定立される責任概念の矛盾をどう解くか。

 

 →責任は自由意志によって生じるのに、人間には自由意志などない、という矛盾…。

 

 

P7

 虚構と言うと、嘘・偽り・空言のように事実と相違しているという消極的な意味で理解される。だが、虚構は事実の否定ではない。個人心理から複雑な社会現象にいたるまで虚構と現実は密接な関わりを持つ。虚構の助けなしには、我々を取り巻く現実がそもそも成立しない。

 

P9

 地獄への道は善意で敷き詰められている。ものを考える際の最大の敵は常識という名の偏見だ。倫理的配慮が絡みやすいテーマを考えるときこそ、常識の罠を警戒しなければならない。善意が目を曇らせる。良識と呼ばれるもっとも執拗な偏見をどうしたら打破できるかできるだけ虚心になって責任を考察しよう。

 

 

序章 主体という物語

P32

 我々の行動は他者に強く影響される。かといって外部環境の情報によって行動が完全に決定されるわけではない。ミルグラム実験では被験者の三分の一が拷問を拒否した。各国の追試実験で少なくとも一割の人々が抵抗した。人間の行為はその場の状況だけで完全に決まるわけではない。服従か抵抗かという結果は、個人的要素にも依存する。したがって、自由の余地は残されており、責任を負う必要が発生する。そこから自由・主体性(内因)と、外部環境による規定(外因)、それぞれの重みを探る問題意識が出てくる。

 だが、この発想は初めから論理的誤りを犯している。個人的要素とは何か。生まれたばかりの赤ん坊を想像しよう。どんな環境で育つかにより、この子の性格は大きく左右される。遺伝形質も我々自身が選択した条件でなく、両親から受けた外的要素だ。生まれた時の所与に親や学校による教育が加わり、我々の人格が徐々にできる。生まれながらの遺伝形質でもなく、外界の影響でもない要因はない。偶然も外因だ。デカルトのような二元論を採るならば、肉体と別の存在として精神や霊魂を考えられるが、今日この立場を支持する科学者は稀だ。肉体と外界の影響の両方から独立する精神や主体性は存在しない。

 

 →デカルト二元論を採れば、内因・主体性を精神や霊魂のせいにできるが、そんなことはできない。

 

 アルコールや麻薬の中毒者に育てられるか健全な人間を親に持つか、男とし生まれるか女として生まれるか、あるいはナチス・ドイツの時代にドイツ人として生まれるかユダヤ人として生まれるか、我々は選択できない。しかし、それによって性格は大きく変わる。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。私の生まれながらの形質や幼児体験が私の性格を作り行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず外部にすり抜ける。犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないか。どうして私に責任が発生するのか。もちろんこの論理は両親にも当てはまる。彼らにもまたその両親にも責任はない。この議論からわかるように、個人の肉体的・精神的性質に行動を帰しても主体的責任は導けない。

 親や外界から人格を授かったとしても、他の誰でもないまさに自らの人格である以上、それに対して責任を持たねばならないという意見もある。だが、人格形成責任論は採れない。この発想は、人格により行為が決定論的に発生する事実を認めながらも、当該行為が生み出されるに至る原因としての人格を形成した自己責任を最終的根拠として問題にする。しかしこの論理は自己矛盾に陥る。行為を決定した人格を作り出した責任を問うためには、その人格形成の時点で「自由な行為者」を想定する。だが、その論拠たる「自由な行為者」も、それ以前に形成された人格に基づく以上、この論理は無限背進する。

 

 →親や外界という外因によって人格が形成されたことを認めながらも、その人格は自らの人格だから、責任を取らなくてはならないという意見があるのだが、その意見に従うと、自身の人格を作った責任(人格形成責任)は自分で負うことができなくなってしまう。つまり、人格形成の自己責任を問うことができない。「自由な行為者」はいったい誰が作ったのかを説明できない。

 

 行為の原因を各人に固有な性質に求めても責任は定立できない。問題点を明確にするために、次の二つのケースを考えよう。幼児を狙う性犯罪常習者がいる。この犯人は幼少のとき父親に自分自身、性的虐待を受け、そのトラウマが原因となり子どもを見ると性衝動を抑えきれない。このような病的習慣を持つ人間は社会にとって重大な脅威だから、子どもを扱う職業に就かせないなど行動を制限せざるを得ない。あるいは隔離し刑務所や精神病院に閉じ込める必要がある。更生が不可能と判断される場合は死刑もありうるだろう。だが、いけないと知りつつも欲望に抗しきれず犯罪に走ってしまう人間は自由だろうか。行為に対する責任が発生するのは、その行為を踏みとどまる可能性があるからだ。社会環境や個人資質が原因で他の選択肢がないならば、自由意志による行為とは考えられない。社会を保護するために、このような個人に対して隔離や行動制限などの手段を採らねばならないが、そのことは彼に責任があることを意味しない。子どもを見れば必ず性衝動に駆り立てられるという偏執的性向は、この行為と犯罪者との関係を必然なものとし、他の結果が生じる可能性を除外する。したがって責任は発生しない。

 

 →責任をとって罰せられるわけではない。罪即罰の関係だけがあればいいのか?

 

 逆に、精神の健全な男が一度だけ過ちを犯すとしよう。彼の個人資質は正常で、普段は犯罪の危険性がないし、子どもと一緒にいるときに性衝動が仮に生まれても、それに対して抵抗する能力を持つ。子どもと見れば必然的・自動的に犯罪行為に及ぶのではなく、他の選択肢もありうる。したがって、この男は自由を有し、また自由な人間だから自らの行為に責任を負わねばならない。

 したがって、次のパラドクスが我々の前に立ちはだかる。偏執的性犯罪常習犯は、自己の行為に責任を取れない。それでも、再犯防止のため厳罰や去勢などの処置を通して行動習慣を変化させたり、社会隔離あるいは死刑などの措置が必要になる。それに対して、正常でありながら一度だけ過ちを犯した人間は、偏執的常習犯ほど危険な人物ではない。したがって、罰は軽くていいし、去勢や隔離の必要もない。しかし自由に選択した行為であるから、自らの行為に対する責任が発生する。つまり個人資質を原因として犯罪行為可能性が高まるにつれて責任は逆に減少する。言い換えるならば、社会を保護する目的で科すべき正当な罰の重さは、責任の重さに反比例する。

 では、責任があるから罰するのではなく、単に犯罪抑止のために罰があると考えればよいのか。壊れた機械を修理したスクラップにして破棄処分するように、問題のある人間や、社会にとって危険な人物は再教育したり刑務所や精神病院に閉じ込めたり、あるいは死刑に処する。だが、正常に機能しない機械は修理するか壊すという発想ならば、責任は無駄な概念になる。主体的責任を導くためには、肉体的・精神的性質に行動を帰するだけでは不十分であり、行為者の意志との関係を問う必要がある。

 ところで、行為を起こす内因としての自由意志とは何なのか。責任概念の根拠をなす主体性は存在するのか。単に私の腕が上がるのではなく、私は腕を上げると言うとき、腕を上げる意志決定を私がするという了解があるが、その意志とは何なのか。意志決定をする私とはいったい何なのか。意志決定の後に行為が遂行されると我々はふつう思うが本当にそうだろうか。以下では社会心理学脳科学の実証的観点から人間の自由・自律性について考えよう。

 

P36

 ミルグラムの研究だけでなく、社会心理学では膨大な数の研究を通して、人間が簡単に影響される事実を明らかにしている。しかし同時に我々は自律感覚をもち、自己であるか他者であるかを問わず、人間行動の原因を当人の内的要素に求める傾向がある。あまりにも強い錯覚であるために、人間の存在形態に根源的なバイアスという意味で、「根本的帰属誤謬(Fundamental Attribution Error)」という表現が生まれた。人間の他律性という科学的事実と、我々の自律感覚はどう両立するするのか。

 

P40か

 (アイヒマン実験では)科学のためだから仕方ないと合理的に判断して電気ショックを流したのでもなければ、意識喪失か催眠状態に陥って手が勝手に動いたというのでもない。ましてや拷問が好きだからやったのではない。嫌で仕方がないのにやってしまう心理が問題なのである。拒絶の明確な意志があっても、それだけでは現実の拒否行動は生まれない。意識と行動の乖離の劇的な姿がここに現れている。

 心理学では、意志が行為を導くという自律的人間像を支持する理論はほとんど出されてこなかった。精神分析と行動主義は20世紀前半から心理学会で勢力を奮ったが、これらの学説はどちらも人間の主体性を否定する。人の行動を根本で規定するのは精神分析学にとって無意識であり、行動主義では条件反射だ。意識という観察不可能な存在は人間行動を理解するうえで無用だと行動主義は切り捨てた。性衝動を学説の中心に据える精神分析も、隠された無意識的動機によって行為が生起すると考える以上、行動を自由に選択し、自らの行為に責任を負う主体的人間像は浮かんでこない。

 

 →「無意識」とは、意識しないことではなく、内実を明示できない意識を指すのか。

 

 このような学説状況のなか、人間の主体性を回復する願いから態度概念が導入された。公害に反対するする人は環境汚染につながる行動を採らないだろう。男尊女卑の考えをもつ社長は女性を管理職に抜擢しないだろう。差別思想に囚われたものは外国人に意地悪だろう。このように各人の性向と行動との間には密接な関係があると普通信じられている。態度概念は常識に合致する。それに実践的観点から言っても、行動が実際に起きるのを待たず、態度を測定して行動を予測できれば、選挙動向や消費動向などの予測に役立つ。態度変更によって行動が変化するならば、犯罪防止や教育分野にも効果が期待できる。

 ところが1960年代末になって、この分野の研究に大きな困難が現れた。それまでに発表された研究を検討した結果、態度測定による行動予測がほぼ不可能だと判明したからである。態度は行動とあまり関係ないことがわかり、態度概念の存在意義が問題視された。態度や考えが変化しても、それにともなって行動も変化するとは限らない事実が、今では社会心理学の常識なっている。意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。

 

 →そうすると、意識から自殺を分析しようとしている私の視角は誤りとなり、今までの記事は全部書き改めないといけないことになる。

 

P42 原因と理由

 自分のことは自分が一番よく知っているという。だが、この常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。次の簡単な実験を考えよう。(中略、同じ靴下を並べて、どれが一番よい商品かを選ばせる実験。本当の理由はわからないが、一番右側に吊るした靴下が最も良質だという評価を得た。)

 右側に吊るされた靴下が好まれた原因は不明だが、それはここでも問題ではない。何らかの情報が無意識に判断に影響する事実だけを確認しておこう。虫の知らせや勘が働くなどと言うが、これも同様の現象だ。外部情報の影響を受けるが、その過程が意識されないために超自然現象と勘違いするのである。

 人間の主体性を吟味するためにサブリミナル・パーセプション(閾下知覚)についても押さえておこう。1000分の何秒という短い時間だけ文字や絵を見せると、被験者は何を見たのかわからないだけでなく、何かを見たという意識さえ抱かない。(中略)

 もう一つ例を挙げよう。簡単な図形Aを1000分の1秒だけ被験者に見せ、それを5回繰り返す。投影時間が短いので何かを見たという感覚さえ被験者には生じない。その後、まだ見せてない図形Bを先程の図形Aの横に並べて二枚を同時に今度はゆっくりと投影する。そのうえで、どちらの図形を前に見たか判断せよと指示する。当てずっぽうだから、ほとんど当たらない。次に富津の図形のうちどちらが好きかと尋ねてみた。すると、見た意識さえないのに、初めに見せられた図形Aをより高い確率で選ぶ。

 閾下知覚の効果は、かなり長い期間持続する。先の図形認知判断で当たる確率は時間経過につれて低下する。好感度判断に関しては、瞬間的に見た図形(見たことさえ意識していない)を好む傾向が1週間経つと逆により強くなる。好き嫌いという素朴な感情さえも主体性の及ばない次元で起きる。意識されない微妙な体験が感情を左右する。

 日常的な判断・行為はたいてい無意識に生ずる。知らず知らずのうちに意見を変えたり、新たに選んだ意見なのにあたかも初めからそうだったのかのように思い込む場合もある。過去を捏造するのは人の常だ。そもそも心理過程は意識に上らない。行動や判断を実際に律する原因と、行動や判断に対して本人が想起する理由との間には、大きな溝がある。というよりも無関係な場合が多い。(中略)

 

 →無意識とは、何らかの知覚や経験をしているにもかかわらず、それをした意識や記憶のない状態を指す。つまり、無意識は意識が無い状態ではなく、意識はあっても意識されていない状態。

 →「原因と理由の違いについて」

①車のバッテリー切れが原因で、出発を取りやめた。 ◯

②車のバッテリー切れを理由に、出発を取りやめた。 ◯

 →実際に行動が制限されているし、本人も想定しているから、どちらも自然な表現となる。

 

③私は植物に興味がある。こうした原因によって農学部を志望する。 ×

④私は植物に興味がある。こうした理由によって農学部を志望する。 ◯

 →③の場合、植物に興味をもっていることが、必ずしも農学部の志望につながるとはかぎらないので不自然になる。園芸学部や生命・生物学部を志望することだってある。つまり、実際の行動や判断を規定しない。一方、④の場合、本人が想起しているだけだから、適切な表現になる。

 

P45

 そうは言っても何らかの合理的理由があって行為・判断を主体的に選び取る印象我々は禁じ得ない。急に催す吐き気のような形で行為や判断の原因は感知されない。なぜか。「靴下実験」に戻ろう。商品の位置に影響されながらも被験者は選択の「理由」に言及する。影響された事実を調査員に繕うために嘘をつくのではない。被験者はその「理由」を誠実に「分析」して答えたのである。自らがとった行動の原因がわからないにもかかわらず、もっともらしい理由が無意識に捏造される。

 

 →靴下実験の場合、実際に行動を規定した「原因」はわからないが、自分が右下の靴下を最良と判断した「理由」を想定している。

 

 これは催眠術が解かれた後に現れる暗示に似ている。催眠状態の人に「催眠が解けた後で私が眼鏡に手を触れると、あなたは窓辺に行って窓を開けます」と指示する。その後、何気ない会話をし、自然な仕草で眼鏡に手をやる。すると被験者は突然立ち上がって窓を開けに行く。なぜ窓を開けたのかと尋ねてみよう。わからないけれど何となく急に窓が開けたくなったと答える人はまずいない。暑かったとか、知人の声が外から聞こえた気がするなどと合理的理由が持ち出される。自分の行為の原因がわからないから、妥当そうな「理由」が無意識に捏造される。

 自分の感情・意見・行動を理解したり説明する際、我々は実際に生ずる心理過程の記憶に頼るのではない。ではどのようにして人間は自分の心を理解するのか。我々は常識と呼ばれる知識を持ち、社会・文化に流布する世界観を分かち合う。人は一般にどのような原因で行為するのかという因果律も、この知識に含まれる。不意に窓を開けたくなったり、商品の単なる位置が好悪判断を規定するという説明は合理的な感じがしない。窓を開けるのは部屋の空気を入れ替えたり、外を眺めるためであり、空腹を覚えたので窓を開けたなどいう説明は非常識でしかない。すなわち自らの行動を誘発した本当の原因は別にあっても、それが常識になじまなければ、他のもっともらしい「理由」が常識の中から選ばれる。このように持ち出される「理由」は広義の文化的産物だ。つまり行為や判断の説明は、所属社会に流布する世界観の投影に他ならない。

 

 →つまり、自殺の原因や目的を追究しようとする私の立場は、自殺者個人の原因を明らかにしているわけではなく、自殺の伝聞者たちがどのような「理由」を選定しているのか、つまり中世社会に流布する自殺の原因・目的の常識や世界観を明らかにしていることになる。

 

 行為・判断が形成される過程は、本人にも知ることができない。自らの行為・判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他ない。「理由」がもっともらしく感じられるのは、常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。だが、人間は理性的動物ではなく、合理化する動物なのである。

 

P48

 自己は社会的磁場の力を受けて生成される。どんなに個人的に思える感情や好みも、育った文化圏の影響を強く受けている。社会に流布する価値観がそのまま内在化されるわけではない。G・H・ミードは社会的価値の内在化によって生成される客観的契機と、それに反発する主観的契機とが織りなす動的な過程として自己を規定した。だが、この主観的契機はそれ自体を分離して取り出せるような実態ではない。社会化の影響を、後に反省的に自己から捨象するとき、そこに余る残滓あるいはノイズのようなものだ。記憶を媒介に同一性を実態視する個人主義者ロックの立場は踏襲できない。

 (中略)

 自分の美貌を褒められて喜ばない人はいないが、なぜだろう。身体的属性は遺伝に大きく依存する。美しいのは自らの努力の結果でなく、そのような形質を両親が備えていたからだ。対して、整形手術や化粧で美しくなる場合は「自分の本当の美しさではない」とか「あの女性は整形美人にすぎない」と逆に評価が下がる。両親からの遺伝は外因の結果にすぎない。化粧や整形手術による美貌の方が、原因がより直接本人の意志と結びつけられる。因果関係からみると自分の美貌をより誇れるはずだが、そうはならない。

 

P50

 私という同一性はない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが私の正体だ。比喩的にこう言えるかもしれない。プロジェクターがイメージをスクリーンに投影する。プロジェクターは脳だ。脳がイメージを投影する場所は、自らの身体・集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する。主体は脳でもなければイメージが投影される場所でもない。主体はどこにもない。主体とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスである。

 (中略)

 ベンジャミン・リベットが行なった有名な実験がある。手首を持ち上げるよう被験者に指示する。いつ手首を動かすかは被験者の自由だ。我々の常識では、まず手首を上げる意志が起こり、その次に手首を動かすための信号が関係期間に送られ、少ししてから手首が実際に動く。ところが、実験によると、手首の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じ、そのまた少し経ってから手首が実際に動く不思議な結果になった。

 つまり、手首を動かす指令が無意識のうちに生じると、運動が実際に起きるために神経過程と、手首を動かそうという「意志」を生成する心理過程とが同時に作動し始める。自由に行為すると言っても、行為を開始するのは無意識過程であり、行為実行命令がすでに出された後で、「私は何々がしたい」という感覚が生まれる。ここで問題にするのは身体の運動が何気なしに生じ、それに後から気づくという事態ではない。自由にかつ意識的に行為する場合でも、意志が生じる前にすでに行為の指令が出ている。だからこそ、この実験結果は哲学や心理学の世界に激しい衝撃を与えたのである。

 (中略)

 つまり、実際に手首が挙がる約200ミリ秒前に「意志」が形成される。そのため意志が行為を引き起こすという感覚のごまかしに気づかない。

 

P52

 行為と意志を生み出す過程はそれぞれ並列に生じるので、行為が起こってから意志が現れたとしても理屈上おかしくない。人を殴ってしばらくしてから、「気に食わないやつだ。殴ってやろう」という意志が後になって現れる。殴ろうと思う時には相手はすでに足元に倒れている。もしそのように人の神経系統が配線されていたら、自由や責任という概念もデカルトやカントの哲学も生まれなかっただけでなく、人類の社会が今の形をとることさえなかっただろう。

 

 →人間社会は、壮大な勘違いのもとに形成されていることになる。これはおもしろい! 為政者は、どこまでそれを知りながら、システムを改変したり構築したりしているのだろうか。民衆はどこまでそれに気づきながら、不平・不安を言っているのだろうか。こうした壮大な虚構を、世界中の人々に真実・真理と信じ込ませているところが、虚構の虚構たる所以であり、すごいところ。

 

 (中略)被験者にスライドを見てもらい、好きなときにプロジェクターのボタンを押して次のスライドに移動するよう指示する。ところが実はボタンはプロジェクターに接続されておらず、ボタンを押しても何も起きない。その代わりに被験者の脳波を測定し、指の運動を起こす命令信号が発生した時にプロジェクターのスライドが変わるようにしておく。被験者はこの舞台裏を知らない。さて実験が始まると被験者は不思議な経験をする。被験者がボタンを押そうと思う寸前にスライドが変わってしまい、その直後にボタンを押す意志を感じるという、通常とは逆の感覚が現れた。本人も知らないうちにプロジェクターに心を読み取られている感じだ。つまり、前の実験と同様に、指を動かす命令信号が発生すると、運動を実際に起こすための過程と「意志」を生む過程とが並行して進行するが、装置のせいで、ボタンを押す意志を先取りして、スライドが変わるのである。

 

P54

 (癲癇治療のために脳梁を切断された患者は、たとえば、右脳に伝達した情報を左脳が知らないという症状が起きる。こうした患者の症例報告。)たとえば、ニワトリの足の絵を右視野に見せると、左大脳半球だけに伝わる。また雪景色を左視野に見せると、その情報は右大脳半球だけに伝わる。次に、患者の前に置かれたテーブルの上に、ニワトリ・かなづち・スコップ・トースター・リンゴなど、数枚の絵を置き、先に見た二枚の絵のそれぞれに関連する絵を選んでもらう。すると、患者右手でニワトリ(右視野に見えたニワトリの足に対応)を指差し、左手でスコップ(左視野に見えた雪景色に対応。スコップで雪かきをする)を示した。右視野と同様に右手は左大脳半球が制御し、左視野と左手は右大脳半球が司るので、この結果には何の不思議もない。

 ところが、なぜこれらの絵を選んだのかと患者に尋ねると、おかしな答えが返ってきた。患者は躊躇なく、「簡単なことでしょう。ニワトリの足は当然ニワトリと関連があるし、ニワトリ小屋を掃除するためにスコップが必要だから」と答えたのだ。なぜ患者はこのような誤った説明をするのだろうか。ほとんどの人にとって言語能力は左大脳半球だけが制御し、右大脳半球はその能力が欠落している。そのため左視野に入った雪景色の情報が右大脳半球に到達しても、その視覚情報を言語化できない。返答を迫られた患者は左大脳半球を使って答えようとするが、右視野に見えたニワトリの足の情報しかない。左右の大脳半球が分断されているので、雪景色を右大脳半球が「見た」事実を左大脳半球は知らない。そこで、まことしやかな虚構の物語を左大脳半球が捏造する。

 デカルトが考えたような統一された精神や自己は存在しない。脳では多くの認知過程が並列的に同時進行しながら、外界からもたらされる情報が処理される。意識や意志は、もっと基礎的な過程で処理されたデータが総合された生産物だ。行動を起こす出発点というよりも逆に、ある意味での到達点をなす。マイケル・ガザニガは言う。

 何かを知ったと我々が思う意識経験の前にすでに脳は自分の仕事をすませている。〈我々〉にとっては新鮮な情報でも、脳にとってはすでに古い情報に過ぎない。脳内に構築されたシステムは、我々の意識外で自動的に仕事を遂行する。脳が処理する情報が我々の意識に到達する0.5秒前にはその作業を終えている。

 

 →そうすると、自殺者は自殺を決行した後、死の間際に脳が作り上げた(捏造した?)原因や目的を感じながら、死ぬことになる。であるなら、自殺決行の信号を発したときに無意識に感じている原因や目的と、その後、意識として生み出された原因や目的は、異なっている可能性はないのか? そもそも無意識によって自殺が決行されるのなら、自殺の原因や目的を分析することは無意味になるのではないか。我々には理解できない「無意識」はどのような価値観を持っているのか?

 

P58

 外界から影響を受けずに自立する事故など存在しない。互いに拮抗する多様な情報に包まれて自己の均衡が保たれる。影響されるという言明は実は正確ではない。影響されると言うとき、外力が働かない限り自己同一性を保つ存在としてすでに我々は人間を理解している。だが、そのような同一性はどこにもない。

 集団力学が生み出す暴力についてアメリカの社会心理学者フィリップ・ジンバルトが行なった有名な研究がある。(正常と判断される大学生24名を厳選し、半数に囚人役、半数に看守役をさせる実験)

 

P60

 この実験で最も悲惨でかつ残念に感じた点は、加虐傾向のない正常な人間でも残虐行為を簡単にしてしまう事実だ。監獄状況に置くだけで反社会的行動を引き出す十分条件をなす。

 

 犯罪者の社会復帰を図る従来のモデルは、人格など個人的性質に重点を置き、個人を変えることに関心を払ってきた。釈放後に犯罪者が生きる社会環境については考慮されてこなかった。だから、このモデルでは再犯現象を理解できないのだ。

 

 →そもそも自己同一性を保つ個人など存在しないわけだから、うまくいかないのは当たり前。再犯をさせてしまう社会環境の問題を考慮しなければ解決しない。

 

 この章では人間の根源的な他律性を検討してきたが、それは単なる社会決定論ではない。一般に社会心理学は社会が個人に与える影響と同時に、個人心理が社会形成に貢献する往復のプロセスを研究する。だが、外因と内因に分ける発想自体がすでに誤りだ。人間の自由や意志の自律性が脅かされるのは外界の影響が強いからだけではない。社会決定論を批判するために各人に固有な内的属性を持ち出しても、そこからは自由も意志の自律性も出てこない。デカルト心身二元論を採るのでない限り、そのような方向では自由も意志も最終的に脳の機能に還元され、無限に続く因果律に絡めとられてしまう。主観と客観、あるいは個人と社会の相互作用として人間を把握する発想自体を疑う必要がある。この点は第4章以降でさらに検討しよう。ここでは責任概念を支える自律的人間像の脆弱さが確認できれば十分だ。主体性に投げかけられた疑問は机上の空論ではない。次章では人間の主体性が最も深刻に問われる状況に注目し、我々の慣れ親しんだ人間像にさらに揺さぶりをかけよう。

 

 →これまで社会決定論は、自律した自己を前提とした社会決定論だったが、そもそも自律した自己など存在しないわけだから、従来の社会決定論はそのスタートから誤っている。

 

 

第1章 ホロコースト再考

P74 普通の人間

 環境条件が普通の人間を殺人へと駆り立てる事実はホロコーストの場合にも指摘されている。

 人間はみな同じだというのではない。しかし信条や道徳観を異にしても、ある環境におかれると、その違いを超えて同じ行動をとる事実を重く受け止めよう。ある民族を嫌悪する人々や嗜好性向の持ち主は、そうでない者に比べてよりひどい仕打ちをするかもしれない。だが、普通の人間でも状況次第で残虐に振る舞ってしまう点が問題なのだ。

 

P76 責任転嫁の仕組み

 近代企業の活動を思わせる高度な組織化の下に遂行されたユダヤ人虐殺政策は官僚制的性格を強くもつ。その点はすでに言及したアーレントの著書以外にも、ホロコースト論議する際に必ず参照されるラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』でも強調されている。官僚制最大の特徴は作業分担だ。ユダヤ人の名簿作成・検挙に始まり、最終的に処刑に及ぶまでには多くの段階の任務がある。各作業を別々の実行者が担当するとき、責任転嫁が自然に起きる。「私だけが悪いんじゃない」「私がしなくても結果は変わらない」「私は単に名簿を作成しただけだ」「強制収容所への移送列車の時間割を決めただけだ」「検挙しただけで私は殺していない」などと正当化される。ユダヤ人がどのような運命に遭うか、うすうす気づいている場合もあるだろう。しかし殺人の流れを一括して把握せず、流れ作業のほんの一部だけに携わるために自らを責任主体と認識しにくい。普通ならば道徳観念が禁止する行為もそれほどの抵抗なしに実行してしまう条件がこうして用意される。

 

P78

 命令する者と、自ら直接手を下す者とが分離されると、犯罪に対する心理負担が減り、結果的に殺戮装置が機能する。責任が雲散霧消するメカニズムがここにある。大隊長さえもこの任務に耐えられなかった。(中略)自らは手を汚さないおかげで、また上部の命令だから仕方ないと諦め、かろうじて命令を部下に伝達できたのだ。中隊長の一人は心身症にかかり、銃殺命令を部下に伝えた後で必ず激しい胃痛に襲われた。そのため現場に随行できず医務室に横たわっていた。

 部下は殺害直前まで任務内容を知らされず、「重要な任務があるので、明日は朝早くから起きて準備するように」とだけ指示された。考える余裕を与えないためだ。殺害に実際に携わる者は単なる命令遂行者として位置付けられ、責任感覚が麻痺する。

 ユダヤ人狩りだけをドイツ警察予備隊が受け持ち、実際に銃殺する役割は外国人に宛がったこともある。ナチスが占領したソ連領で囚人となったウクライナ人・リトアニア人・ラトヴィア人にゲシュタポが訓練を施して銃殺させた。ドイツ周辺国に住み、ユダヤ人や共産主義ソ連に敵意を抱いていた彼らは、ソ連戦線に送らない保証を取り付け、餓死から逃れるために、この任務を受け入れた。

 しばらくすると銃殺ではなく、トレブリンカ絶滅収容所に移送してユダヤ人を殺すようになる。分業体制のおかげで警察予備隊の心理負担は減る。しかしそれでも家畜用貨物列車にユダヤ人を詰め込む作業は暴力なしにできない。病人・老人など身体が弱って動けない者や抵抗する者はその場で射殺しなければならない。嫌がる群衆を貨物列車に追い込むために鞭で殴る必要もある。そのため惨い場面に耐えられない隊員の心理を慮って、強制移送に伴う残酷な役割はウクライナ人・リトアニア人・ラトヴィア人に託された。殺人を犯したのは外国人であり、責任が自分たちにあるとは誰も思わなかったと当時の軍曹が証言している。

 ミルグラムの実験において服従率が高かった理由の一つは、自分は単なる命令執行者にすぎないと被験者が認識し、命令を下す実験者に責任を転嫁するからだ。実際多くの被験者は実験継続を何度も躊躇するが、万一問題が生ずれば責任を取ると実験者が言うと、拷問を再開する。これはニュールンベルグ裁判においてナチス被告が援用した責任転嫁と同じ論理でもある。

 

P80

 作業分担による責任感軽減を理解するうえで、ラタネとダーリーの研究が役に立つ。(中略)

 ラタネとダーリーは次の実験を行なった。マーケティング調査と称して大学生に研究室まで出向いてもらい調査用紙に答えさせる。しばらくすると調査担当者は、忘れ物をしたがすぐに戻るのでそのまま続けてほしいと断り、研究室を出ていく。隣の事務室で書類を移動する音や足音が薄い壁を通して被験者に聞こえる。するとまもなく調査員が脚立に上る様子があった後、突然悲鳴とともに脚立から転げ落ちる音が響く。後には静けさが残るだけで調査員が戻る気配はない。さあ被験者はどうするか。調査員を救助するために隣の部屋に行くだろうか。(中略)被験者が一人の場合は平均して70%の被験者が救助のために席を立った。では二人組の場合はどうか。(中略)実際には40%の組だけが救助行動を起こし、残り60%の組は何もしなかった。(中略)

 自分がしなくても他人がやるだろうと責任感が希薄になり、犯罪を阻止したり救助の手を差し伸べる心理が鈍るからだ。ニューヨーク女性殺人事件も、自分以外に目撃者はいくらでもいる、もうすでに誰かが警察に電話しただろう、わざわざ自分が警察と関わって面倒な手続きに巻き込まれる必要はないなどと目撃者が思ったとすれば説明がつく。

 分業体制は近代社会と切っても切り離せない。分業のおかげで飛躍的な経済発展を見た。しかし集団行為に組み込まれる人々は、長い流れ作業の後に生ずる結果に自分自身も加担する感覚が薄れてしまう。この問題は集団責任の構造を扱う第5章で再び検討しよう。

 

P83

 ミルグラム実験に参加した者の少なからずは「生徒役の人があまりにも無知で頑固だった。あれでは罰を受けても仕方がない」と実験後に述べた。罪悪感を軽減するために被害者の価値を貶め、自らの行為を正当化する。不幸の渦中にいる人に助けの手を差し伸べたい、しかし尽力しても無意味だと分かったとき、我々の心は無意識のうちに防衛機制を作動させる。どうしようもない不幸を目の前にするとき、あるいは不本意ながら自らの手を汚さざるをえないとき、責任感を軽減し心の負担を抑制する反応が誰にも起きる。

 (中略)

 世界は正義に支えられているという信仰がこの心理機制の背景にある。天は理由なく賞罰を与えるはずがない。徳をなせば必ずいつか報われる。欺瞞や不誠実にはいずれしっぺ返しが待つ。そう思い込むことで他者の不幸が正当化される。

 ユダヤ人から人間性をはぎ取り、家畜か単なるモノのようにナチスが扱った事実はよく知られている。強制収容所に送られるユダヤ人を点呼する際にナチスが扱った事実はよく知られている。強制収容所に送られるユダヤ人を点呼する際にナチスの大佐は「全部で何個になるのか」と尋ね、部下が「全部で650個あります」と応対していた。第二次大戦中、細菌戦研究のために生体実験行ない、多くの命を奪った日本軍七三一部隊は俘虜を丸太と呼んだ。使命をはぎ取り、単なる番号で呼び、殺害する相手を非人間化すれば心理負担が減る。米軍兵士は戦場でフィリピン人・朝鮮人・日本人をグーグー(goo-goo)とかグーク(gook)と名付けたが、ここにも同じ心理機制が働いている。1994年のルワンダ虐殺でフツ族ツチ族をゴキブリと蔑称したり、アルジェリア解放戦線(FLN)のレジスタンスをフランス兵士が拷問する際にドブネズミと呼んだのも同様だ。

 

 →自己正当化、心理負担・責任軽減のために、人間は攻撃対象を貶めるという心理機制を働かせる。

 

P90

 ナチス全体主義が機能するためには、殺人にせよ金品強奪にせよ、正当な法手続きに則ってなされている、不法行為ではないという心理保障が必要だった。

 アイヒマンやヘスだけでなく、捕らえられたナチス指導者はヒトラーの命令に従ったまでだと主張したが、それは単なる責任逃れの言い訳ではない。何層もの正当化システムが重なり合って機能しなければホロコーストは遂行されえなかった。したがって殺戮メカニズムに加担した人間が自分に責任はないと感じるのは当然だった。逆に言えば、このような無責任感覚が生じる環境を作り出せなければ、600万人もの罪なき人々を殺せない。

 

P93

 プロパガンダが捏造するステレオタイプは、ユダヤ人とドイツ人との間に越えられない境界を設け、犠牲者との同一化を防ぐ効果を持つ。犠牲者の苦しみに自らを重ね合わせるようでは殺戮不可能だ。反ユダヤ主義が原因でホロコーストが生じたのではない。しかしいったん虐殺が開始されれば、殺戮者の苦悩を麻痺させる手段が必要になる。そういう意味で反ユダヤ主義の強化はホロコーストの原因というよりも、逆に虐殺の結果だと言えるかもしれない。

 

 →ホロコーストを続けるためには、反ユダヤ主義というイデオロギーが必要だった。イデオロギーという原因によって最初の虐殺という結果が生じたというよりも、最初の虐殺やホロコーストを正当化するために、結果として反ユダヤ主義を強化したと言える。

 

P93 ホロコーストの近代性

 誤解しては。ホロコーストの本当の恐ろしさは、あからさまな暴力性にはない。逆にむき出しの暴力をできるかぎり排除したおかげで数百万にも上る人間の殺戮が可能になったのだ。バウマンは『近代とホロコースト』でこう述べる。

 

 虐殺に直接関わった組織の人間が異常に嗜好的で狂信的だった事実はない。(中略)それどころか特別殺戮部隊あるいは抹殺に関わった組織に要因を配属する際、あまりに狂信的だったり感情の起伏が激しい者、教信的イデオロギーの持ち主は排除され、他の部署へ配置換えされた。(中略)

 

 意味もないのに残酷な拷問で楽しんだり、女囚を強姦したり、単なる腹いせのためにユダヤ人を苦しめるドイツ人も少なからずいた。だが、そのような人間ばかりでは大量虐殺は遂行できない。「合理的」かつ「効率良く」殺害するため、無駄な拷問や虐待が起きないよう指導層は常に努めてきた。

 

 →信じられないほど賢い組織・制度。人間を効率的に虐殺するシステムを、いったい誰が考案したのか。試行錯誤しながら、徐々に合理化していったのか。

 

P95

 ナチス台頭以前頻繁に起こったポグロムの延長でホロコーストは理解できない。ナチスポグロムの残虐性を意識的に退け、殺人行為を合理的に管理したからこそ、あれだけの犠牲者を出したのである。(中略)中世から幾たびも繰り返されてきたユダヤ人迫害とホロコーストはまったく性格を異にする。「水晶の夜」(1938年11月9〜10日にかけて起きた大規模なポグロム)に類したポグロムが仮に毎日行われてもホロコーストの大量虐殺は不可能だ。

 

 →ロジェ・カイヨワの『戦争論』にも通じる。近代戦争における被害の大きさは、戦争が「近代化」したから。

 

P97

 殺される側に注目するならば、彼らの抵抗を抑える方法の確保が大量虐殺の実施の鍵だった。ナチスは殺す寸前までその意図をユダヤ人に隠していた。毒ガス室をシャワー室に偽装したり、温かいスープが待っているから早くシャワーを済ませよと犠牲者を騙して急がせた。(中略)死体処理担当者のユダヤ人特殊部隊を他のユダヤ人と隔離して殺害意図を最後の瞬間まで隠したのも、犠牲者のパニックや抵抗を避けるための措置だった。

 絶滅収容所に到着後、ユダヤ人は「選別」される。少数の男性は強制労働のために残されるが、女性・子どもはすぐに毒ガス室に送られる。しかし老人や病人は遠くガス室まで歩くのに時間がかかる。そこで赤十字の白旗を掲げた「病院」に彼らは連行され、銃殺そして燃やされた。少しでも殺人効率を高めるために「病院」は選別場の近くにあったが、燃える死体が外から見えないように細い通路を備え、死の直前までユダヤ人に悟られないよう配慮した。もし死の恐怖からパニックが起きたら、次から次へと運ばれてくるユダヤ人を効率よく「処理」できなくなる。

 

P103 医師の役割

 毒ガス室に入れられたユダヤ人は苦しむことなく速やかに死んでゆくと嘘の説明をし、ナチス指導者が抱く罪悪感の軽減に貢献したのも医師だ。

 

 →銃殺して血の海を見るよりはましということ。

 

P110

 ゴールドハーゲンの主張が正しく、ホロコーストの原因が19世紀に培われたドイツ固有の反ユダヤ主義だとすると、ヒトラーはどう位置づけられるか。反ユダヤ主義の産物としてヒトラーを捉えると、彼の果たした役割が矮小化され、結局ヒトラーの責任が軽減されてしまう。「ヒトラーが生まれなくとも当時のドイツのイデオロギー状況がヒトラーのような人間を必ず生んだだろう」とゴールドハーゲンは語る。その論理に従えば、人らはホロコーストの原因ではなく、ドイツ文化が引き起こした結果の1つにすぎなくなる。それだけでない。19世紀に培われたドイツのイデオロギーホロコーストの原因なら、ユダヤ人殺害の責任を問うどころから、ローゼンバウムが指摘するようにヒトラーは被害者でさえある。ブラウニングのテーゼと同様に、殺人に加担したナチス・ドイツ人の責任を問えなくなる。

 

 →織田信長でなくて、織田信長のような役割を果たす人間が必ず出てくる。歴史の方向性があらかじめ決定している(決定論)のであれば、そもそも歴史を、歴史的分析をする必要性はなくなる。特殊・偶発的な要素(人間の個性や責任)を重視する史観と、普遍的・法則的な要素を重視する史観に分かれる。称賛も批判も、人間に自由意志があると誤認しているから発生するだけ。

 

 ヒトラーの政権奪取を決定論的に説明すると、悲劇に対する責任が雲散霧消してしまう。各個人の力を超える抽象的要因によって不可避的にヒトラーが宰相に任命されたのなら、責任を問うことは当時の誰に対しても明らかに不当だろう。

 

P111

 我々がここに直面する困難は、原因追及という行為自体が必然的に孕む問題であり、歴史学社会学・心理学など、どのアプローチを採用しても付きまとう問題だ。ホロコーストの原因は分析しなければならない、しかしそれは免罪することではないと道徳を説いても論理上の矛盾は解決されない。問題はずっと深刻であり、自由と責任を常識的発想で捉えるかぎり、この問題に解決はありえない。それは本書の議論が進むにつれて明らかになるだろう。

 

P113

 この章ではホロコーストを遂行した人間の心理に焦点を合わせ、状況次第で誰もが同様の犯罪に加担する可能性を検討した。殺人者が普通の人間だった事実を確認したのは、むろんナチスを擁護するためではない。犯罪を憎むあまり、ナチスと我々とを分け隔てる戦争責任観を指示しているかぎり、集団犯罪を生むメカニズムは見えてこないし、責任の正体も明らかにならない。今まで見てきた責任転嫁の仕組みは犯罪に限らない。次章ではこのテーマをさらに掘り下げ、問題の核心を剔り出そう。

 

P120

(48)理由なく懲罰を受ける席あの恐ろしさを高橋和巳は次の寓話に託す(『日本の悪霊』新潮文庫、1980年、451─452頁)

 昔、中国の先秦時代、ある国の王が遊説家にこう尋ねた。自分はこの王国の絶対者たるべく、人民を恐怖させ畏敬させようとして、厳罰を用いて、少しでも法を犯すものがあれば情け容赦なく極刑に処しているのだが、なお人民の服従は充分ではない。どうすればよいかと。遊説家はこう答えた。王は法によって裁いておられる。それではどんな厳法であっても、どんなに細則を設けても駄目です。なぜなら法が存在すれば、何を犯せばどう罰せられるかが解るのであるから、それさえ犯さねば何も心配することはなく、何も積極的に王に媚を売り忠誠を誓う必要はない。それでは駄目です。こうするのです。手当たり次第に人民を捕らえ、良い者も悪い者も、めったやたらに投獄し、しかも罰に軽重の法則なく、なぜ罰せあれるのかも分からぬように殺し、なぜ許されるのかも分からず釈放するのです。きっと人民は王を恐怖し、王の一挙手一投足に、おびえ、王は絶対の存在となるでしょう。

 

 →法治国家の本質を突いている。法曹が法律の抜け道を利用して悪事を働いたり、法律の壁に阻まれて、グレーな悪人を処罰できなかったりすることなど、よくある話。