周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

大乗院寺社雑事記研究

 大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究』(和泉書院、2016年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

小林善帆「『経覚私要鈔』に見る淋汗とたて花」

P122

 林間(淋汗)を焚く(焼く)とは、その費用を捻出することでもあった。

 

P124

 「満中」は「饅頭」の当て字。

 

P134

 『経覚私要鈔』の淋汗の記事からは、たて花が供花としてではなく、座敷飾りを踏襲しつつも、ただ飾り置く場合もあり、たて花自体を楽しむものとしてもあったと言える。しかしそこには「しん」「下草」という、造形性を見出すことはできない。

 たて花を本稿冒頭に記したように、「しん」「下草」、「そえ草」から成るいけ花の様式と規定するなら、この淋汗のたて花は、供花という宗教性を離れ、鑑賞の花にはなったものの、造形性を持つには至っていない。いわばたて花の初期段階と言えよう。

 それではこの初期段階のたて花は、どこから伝えられたのであろうか。『経覚私要鈔』において、経覚の出自である京都九条家との交流は随所に見出せ、たとえば寛正六年(1465)三月四日条からは、足利義政の花頂山、若王子の観花遊宴に、経覚が九条政基をはじめとする九条家の人々と参加し一条兼良二条持通、聖護院満意(二条良基の子)、三宝院義賢(足利満詮の子)らと交流があったことも見出される。いっぽう将軍家の風呂に関して『慈照院殿年中行事』『年中恒例記』に、正月四日、御風呂始を行なったことが記され、『花営三代記』応永三十二年(1425)正月四日条の風呂御成には、立阿弥の名も見出せる。

 経覚は、奈良近郊の古市郷に住まいながらも、常に京都の将軍家、石棺系の文化様相を知り、またそれに触れることができる機会をもっていた。そのような胸郭を喜ばせるために、その模倣が行われたと考えられる。また経覚は京都の文化を、古市氏一族をはじめとする人々に伝えてもいたであろうし、京都から戦乱を逃れようと貴族や遊芸人たちが古市郷に来ていた。そこから伝えられることもあった。

 たて花についても将軍家・摂関家をはじめとする、京都の文化様相の影響を受けるものであったといえ、当該期の林間のたて花自体は、京都におけるたて花と近い様相にあったと考えられる。

 

 

廣田浩治「中世後期の摂河泉の興福寺領・春日社領

P165 二、摂津国興福寺領・春日社領

 荘園以上に重要な権益は大阪湾から神崎川・淀川に置かれた河上五か関(摂津では兵庫南・神崎・渡辺・淀の四関)である。河上関の年額関料の「目安」(予定額)は淀関が1000貫、河内の禁野関が1400貫、神崎・渡辺関が1050貫、兵庫関が以上の四関の「一倍」なので、関料の予定総額は6900貫となる。現実の関料はこの額に達しなかったであろうが、河上関は摂津・河内で最重要の財源であった。この他に「新関」「諸関」として、尾関・鵜殿関・三島関や春日社の四季大般若経料所関・供菜関が置かれた。

 河上関・諸関は興福寺領・春日社領の分布域に近い。摂津・河内北部の寺領・社領の年貢、西国の材木などの物資、兵庫・神崎・渡辺の津で入手した物資を淀川・山城木津から奈良に輸送する上で、港津でもある河上関は倉敷の機能を果たしたと推定される。河岸に面した寺領・社領にも年貢・物資保管の倉敷が置かれた可能性があろう。

 兵庫と並ぶ摂津港湾は堺(摂津国堺北庄と和泉国堺南庄)である。摂津最南端(和泉との国境)の堺北庄は鎌倉後期には興福寺領であったが、中世後期には興福寺出先機関と思われる「堺北庄役所」が存在した。

 摂津には垂水西牧内の南郷のように目代や寺領代官が配置された所領もある。文明年間に興福寺から兵庫南関に派遣された藤春房は「当国上下郡為寺門奉公手廻」とされ、垂水西牧南郷などの摂津の寺領・社領支配に関与した。しかし寺領・社領のほとんどは摂津守護細川氏被官や摂津国人の代官支配に依存し、支配の成否は守護・国人との関係にかかっていた。

 

P173

 奈良・興福寺・春日社は経済的に堺に依存し、堺住民からの金融債務もあった。興福寺は堺(堺北庄・南の小)。に「役所」や駐在官(指田掃部助・泰九郎)を置き、興福寺の衆徒・雑掌・神人らが堺に滞在した。興福寺関係者の堺・摂津間の往来もあった。

  (中略)

 応仁・文明の乱で京都・奈良の交通が途絶すると、京都の興福寺雑掌と奈良の書状の通信は和泉堺・摂津・丹波経由でなされた。難波氏(興福寺の寺官・寺領代官、P173)が滞在した大泉庄も国衙・府中の直近である。和泉の寺領・社領支配や物資調達にも都市への依存度が見られる。

 

P174 五、総括と課題

 以上、概観的な貧しい考察となったが、摂河泉の興福寺領・春日社領に共通する性格は、遠隔地所領として代官に支配されるとともに、摂関家・幕府・守護との関係によって維持される点にある。寺領・社領の幕府料所化には幕府勢力による侵犯の危機も伴うが、幕府との関係により代官や守護・国人の所領押領の抑止が期待された。

 中世前期に引き続き、摂関家氏長者)と興福寺(氏寺)・春日社(氏社)は所領や権益を分有・共有する関係にあった。摂関家興福寺・春日社領は同一所領でも各々が支配権を行使することがあったが、それは支配の共同・分業関係が前提であろう。

 公武政権に結集する権門の都市貴族的領有としての荘園制の本質は、諸権門の支配権が共存する重層的土地所有である点にある。得分の分割・給与・寄進により支配権が複雑に重層・共存する所領こそ荘園制ならではの特質を体現する。この意味で摂河泉の興福寺領・春日社領は大和の寺領・社領頼も荘園制らしい所領と言える。

 ただし遠隔地所領も含む畿内近国の興福寺領・春日社領が大和・奈良を中心にネットワークを維持したことも忘れてはならない。摂津・河内の河川ぞいの所領と河上関は水上交通のネットワークを形成していた。陸上でも大和の興福寺領・春日社領から徴発される伝馬が奈良と近国の荘園の交通を支えた。

 

 

森川英純「中世興福寺の法会と袈裟、そして自治

P182 一、法衣の分類

 A群 上下分離型(上衣と袴、二部からなる法衣)

 

法服

 袍・裳・表袴などからなる。法服は「ほうふく」と読まれ、袍は黒色で文があり、夏の法服と冬の法服の別があった。袴は表袴が基本であったが、中世後期になれば指貫を履くことも珍しいことではなくなっている。

 

鈍色

 袍・裳・指貫からな料所。鈍色は「とんしき」と読まれていた。袍は白色で文はない。

 

宿装束

  上ハ法服、下ハ白練ノ裳也。下ニ着指貫。是ハ宿直装束之儀也。

 特色としては、法服と指貫(本来なら表袴)など上下の組み合わせが違うことが挙げられる。

  (中略)

 束帯がすべて整っているのが束帯で、略したのが宿装束とする紀伊風土記の記述が一番正確であろう。ただし、後述の奴袴禁止令以後、三綱らを除き宿装束は少なくなった。

 

等身衣

 この法衣は興福寺では頻出するが、ほとんどの論文で取り上げられたことがない。詳しく見ていきたい。

  一等身衣。坊官晴之日著之。袍服・無袈裟也。(中略)院家候人著之。

  此説[法中装束抄のこと 註は森川]は袍のみに指貫を著し、裳・袈裟を著せざるものと見ゆ。

 付衣とは違って等身衣にはそれとは別に袴の記載や裳の記載がある。これは逆に言えば、等身衣自体には裳は縫い付けられていないことを意味する。故に上下分離式の袍だけの形態(裳なし)と判断できる。袴に表袴はない。袍とした場合、法服・鈍色とでは形態上の区別はあったのであろうか。「長ハ踵ノ見ユル程」とあるのを見れば、全体的には両者よりやや丈が短かったのではなかろうか。

 まとめれば、等身衣は法服・鈍色との同じく袍の一種で、色目は白色系、丈はそれらよりやや短いかもしれない。指貫などとともに着られる。袈裟・裳を付ける場合もあった。

 

香染法衣

 式日の十月十日に始まった維摩会において、別当尊憲は会中に僧正に任じられたので初めて香染の法衣で出仕したとある。権僧正以上になって初めて香染の着用ができたことが確認できる。もちろん前僧正も香染を切ることができた。身分上は門跡クラスだけではなく、良家クラスの僧正でも香色を着ける。香染は法服だけでなく、鈍色・付衣・直綴・裘代・衵・大帷・表袴・五帖袈裟・七帖袈裟・平袈裟・甲袈裟・横被にも見られる。

 

P184 B群 上下一体型(一部式の法衣)

付衣

 付衣も等身衣と同じく史料には多く出てくる。しかし、法会の解説書にはほとんど記載はない。これは付衣が室町時代から重衣にとって替わられたためであろう。(中略)僧綱襟があり、脇があき、裾に裳がついている。重衣とは異なり後ろがやや絞り上げた状態になっている。単衣かどうか史料帖は確認できない。『御験記絵巻』では褐色(色目にそのような名称はないが)。

 

重衣

 『南都僧俗職服記』によれば、黒色または白色で下襲は白、僧綱襟があり、脇は空いている。『紀伊風土記』襲衣の項には、「南都にては重衣(ヂウエ)と号す。高野に用ゆるものと同なり。〈但南都は相好大にして、闕腋甚広〉」とある。(中略)

 まとめれば重衣は付衣を受けて中世後期に登場した。特色としては①襟に僧綱襟がある、②脇が空いている(闕腋袍)、③裾に付属した襴にヒダが付けられている。④色目は黒で二重(ふたえ)、白の下襲を着る。

 

直綴

 これは澤田和人氏による優れた研究があり、「顕密諸宗に於ける直綴着用の場は(中略)『行旅』の際と『私的な内輪としての行為』の際とに集約しうる。(中略)(公的な宗教の場として)『寺院』に帰属していないことが直綴着用で示されている。」と述べられておられる。

 

 

P186 二、法服と付衣 ─寺門と院家─

法服

 法服に特徴的なことは、院家内において、ほとんど着られることはなかったということである。つまり法服は寺門の法衣・儀式を表している法衣であった。(中略)

 法服は、上は門跡・良家から僧綱・学侶・六方、三綱クラス(威儀師・従儀師・従僧・房官・御後見)、下は中綱、さらに仏師・陰陽師までそのほとんどの階層が着られている。剃髪している人物で法服を着ることがなかったのは力者だけではなかったろうか。法服を着ることができたのは特定の階層だけというわけではないのである。(中略)

 寺務はさまざまな法会・儀式に姿を現すが、意外に法服は少ない。詳細は後述するとしてここでは三蔵会・慈恩会・御八講など主要論義会では鈍色を着ており、法服を着ていないことを確認しておきたい。講師は法服が多く、読師は法服と鈍色が半ばする。竪者は確認できた範囲すべて法服である。導師は法服、精義は鈍色である。

 これらによれば興福寺僧はその身分というよりは、法衣は性格(論義会なら鈍色というように)・儀式の役職に応じて法会等を着分けていたと言える。であるから、身分の低い小綱・勾当・専当さらに三昧衆も読師役を勤める場合は法服を借りてでも着用できたのである。(中略)

 

P192

 これらをまとめると、法服・衲袈裟・甲袈裟・平袈裟・四方輿は公物・寺物として学侶(別会五師・供目代)・六方によって別々に管理され、三庫・唐院にも保管されていた。運搬には荘民が人夫として徴発されていた。名札・名簿を用意して貸与されていた。足りない時は、法隆寺など他寺から借りることもあった。

 法服は貸借関係や制作注文の存在から、私有物もあったことは確かではあるが、その一方で公物として用意されるべきものと認識されていた。一方付衣

・鈍色は貸し借りも一般的ではなく、公物と表現されたこともない。

 法服は寺院の公式服装として受け止められているので、各法会・儀式にはほとんど着られていたと思われがちである。しかし前述のように法服を機会は少ないが、しかるべき寺門での法会に、しかるべき役所につけば、剃髪姿で寺門に属する人物ならほとんど誰でも(力者は除く)法服を着ることができ、それ用に公物も用意されていた。その意味でこの法服は寺門そのものを表示する服装と言える。そしてそれが公物として用意され続けたことに、学侶・六方に管理者が分裂しているとは言え、僧侶集団の自治意識の根強さを見たいのである。ただ自治はその裏腹の関係で排他性を伴う。それは階層間の服装規制や鈍色に表れる。

 

P193

付衣

 付衣は法服と同じく剃髪していた人物なら誰でも着ていたが、さらに法服を着けることのなかった力者も付衣を着けることはあり、階層性は認められない。しかしその着用場所には特色がある。院家においては、付衣・小衣が主に着用されており、法服はまったくと言っていいほど着用されていない。その意味で付衣・小衣は院家を表示する法衣と言える。(中略)

 付衣・小衣は褻(ケ)衣とされ、院家関係で着用されるとなれば現代の感覚で言えば、ともに「ケ」の服(=日常的私服)ということになるが、実際は付衣と小衣とは着分けられていた。

 

 

P196 三、鈍色と等身衣・宿装束 ─階層性のある服装─

 前章では法服は寺門を、付衣は院家を表示すると述べた。では一般的に見られる鈍色の特色は何であろうか。それは寺家・院家・春日社を問わず着用されており、着用場所に制約を受けないということである。この点において法服・付衣とは異なっている。また法服には宿装束という略形式の法衣があるので。鈍色は法服の単なる略形式の法衣でもない。ではどの身分・階層の層が着ていたのか見てみよう。(中略)

 

P197

 ②上北面の場合

 上北面専親(=寛円)は文明十八年(1486)四月に御分(=寺務)中﨟の吹挙を受け、早速鈍色・白モ・五帖の出で立ちで供目代のところに行き、中﨟井の補任状を得た。このように上北面専親は中﨟になって鈍色を着ているのである。(中略)

 鈍色着用資格階層は広かったが、日常的に鈍色を着用していた階層はかなり狭く、事実上は一定段階以上の学問僧ではなかったかと推測してみたい。

 

P198 等身衣

 この法衣には指貫が一般的で、表袴を着けることはない。等身衣を着ているのは中世後期では、坊官・侍クラスだけであり、僧綱・学侶・六方・中綱はこの法衣を着ることはなく、特定の階層だけで着られている。ではどこの法会・行事に着られているのかといえば、寺門ではなく、ほとんど院家である。寺門の法会で姿を表す場合でも、あくまで従僧や奉行として準備にあたる立場であった。院家での着分け方を見ると、房官より下位とされる侍・役人が着ることが多いが、房官も着ることはある。騎乗の場合、鈍色・直綴・小衣もあるが、一番多いのはこの等身衣である。まとめれば、院家関連で房官・侍・役人を表示する服装と言える。

 

P207

 僧侶は、褐色系がほとんどで、田は黒色(法服)・香色(香法服または香鈍色)・薄墨色(八巻二段)・薄青色などと有色の法衣を着ている。鈍色も一般的には白とされているが、『御験記絵』では褐色で描かれている(一、鈍色の項)。逆に白色の法衣は天狗が化けた僧だけである。一方、力者・小者などはそのほとんどが白い衣である。三綱層は、黒の法服(四巻五段 綱所の威儀師)、褐色の付衣(十五巻四段)と立場により色目は変えているが、白ではない。

 

P209 甲袈裟

 縁が黒色で、地が青・朱などの袈裟を指す。甲袈裟は寺門では避けられている。寺門の論義会でも、法衣参加者全員ではなく、導師・講師・読師など特定の役職についている僧が甲袈裟を着けている。一方、院家では忌日法会を除き、たとえ導師でも甲袈裟はつけていない。身分階層の別は、この甲袈裟に強く出ている。(中略)

 ここで衲袈裟についても触れておきたい。この袈裟は一般には金襴で綴られていた豪華な袈裟とされている。ここで確認しておきたいのは単に豪華というだけでなく、甲袈裟の一種であるということである。すでに永村眞氏が指摘されていることであるが、維摩会の聴衆はまた職衆でもあった。その彼らは衲袈裟を着けるのであるが、『御験記絵』(巻十一)によれば縁が黒であり、甲袈裟であることが分かる。

 ここに甲袈裟は①主として寺門において職衆が着けていること、②その場合、袈裟賦(身分・階層別の指定)なるものがあること、③地の色に応じてランクがあることなどが分かる。

 

平袈裟

 已上を総合すれば平袈裟は寺門を表示し、身分・階層とは関係なくつけられていたと言える。

 

五帖袈裟

 このように、講問始・節供・六月輪・猿楽見物など院家ではすべて五帖である。院家の役職ついている僧(上下北面・房官・房僧)はもちろん付衣・五帖袈裟である。前述のように平袈裟は院家で着けられることはなく、寺門での着用が一般的であったことと対比すれば、五帖袈裟は院家を表示する袈裟であった。ただ五帖袈裟には上級三綱層が着る紫袈裟というものがあり、ときに階層を表示することもあった。(中略)

 もう一度整理すれば、法衣について言えば、法服は寺門、鈍色は学問僧、宿装束は寺門の三綱、付衣なら院家、等身衣は坊官、というふうにそれぞれの立場を表示しており、袈裟については、平袈裟は寺門を、五帖は院家を対象に活動していることを表す、さらに言えば法衣より袈裟の色目の方がより階層との相関関係があるということになる。

 

 

 山脇大輝「『大乗院寺社雑事記』に見る大乗院門跡の末寺」

P243 一、大乗院末寺の役割

  大乗院の主要末寺─①のグループ

 このグループは、「大乗院第一の末寺」とされる長谷寺が含まれることからも分かるように、大乗院の主要な寺として認識されていた寺院群であると考えられる。当該期の大乗院と長谷寺の本末関係については、大石氏による大乗院への御用銭の納入や諸職補任について言及がある。この他の寺院を含めて見ていくと先ほど見た六方末寺に含まれる寺院が多く編成されており、大乗院門主と代々関係を有していた寺院が編成されていると考えられる。また、大乗院はこのグループの寺院に対して諸職補任権を行使している事例を多く得ることができる。大乗院は良家クラスの僧を末寺の院主・少別当職に補任しており、このグループの寺格を考える際に重要である。

 さて、このグループの末寺の最も重要な役割として、御用銭の進上があげられる。表を見ると、定期的、または法会などの際に臨時にかけられる御用銭はほぼこのグループのみを対象にかけられており、先学が指摘するように、財政面でこれら末寺が大乗院門跡を支えていたことがわかる。さらに、大乗院門主が代々相承する春日社一切経に関する一切経真言経衆にもこのグループの末寺が編成されており、教学面でも門跡を支えていた主要末寺のグループであるということができるだろう。

 

  門跡経営の実働部隊─②のグループ

 このグループには、律院が多く含まれることが特徴としてあげられる。これら律院の末寺については、大石氏の論考があり、門跡の葬送に関わっていたことが指摘されている。この他にも、門跡内のさまざまな役を担っていた寺院が多く、法貴寺のように門跡領の段銭の沙汰等を請け負うなど多彩な活動を行なう寺院が見られる。一方で、巻数の進上以外に活動が見受けられない寺院もあり、その役割は一定しない。しかし、このような役割を遂行するために、門跡から給付がなされている寺院も見られる。このことから、このグループの寺院は門跡経営の実働部隊として、種々の雑務を担当していた寺院群であると言えるだろう。

 また、このグループについても、相伝の根拠が明らかとなる寺院がいくつか確認できる。五智光院は、大乗院門跡配下の北面の者に起源を持つ寺院であり、そのことから大乗院門跡に関係のある寺院であること、新禅院は大乗院の祈願所であったことなどが『雑事記』上で確認できる。①のグループが歴代門主に関係の起源を持つ一方で、このグループは関係の起源がより間接的であると言えるだろう。

 

  巻数の進上などに活動が限られるグループ─③のグループ

 ③のグループの寺院は、興福寺・春日社の堂塔が多く分類されている。また、②のグループに分類されている寺院の末寺となっている寺院(大乗院にとっては孫末寺)が書き上げられている。このグループは、『雑事記』中に見える活動が巻数などの進上に限られる点などから、実質的な末寺としての関係は有していなかったと考えられる。これは、近世の末寺書き上げにこのグループが登場しないことからも想定できる。

 

 

 湯川敏治「戦国期、一条家の様相 ─『大乗院寺社雑事記』に見る一条家家僕、石左衛門尉を中心に」

 P252

 修南院は鎌倉時代末期の保元四年(1159)恵暁が創設した寺で、南北朝期、興福寺別当に就く良暁以来、日野家系統の者が入室する寺となっていた。

 

P269

 さて、一条家家僕中井宗弘についてもまとめておかなくてはならない。

 家僕としての宗弘の若いころは、本文で紹介したようにもっぱら美濃への下向することであった。そこに住まいする一条兼良の妻室であり尋尊の実母や子女の近況を訪い、兼良・尋尊へ報告することであった。また美濃には守護代の斉藤妙椿がおり、兼良とは昵懇の間柄であったことから、一条家への援助のため金品を贈られることがあってその受け取りであった。

 

 

 森川英純「室町期興福寺住侶を巡る諸階層と法会」

 P1

 それは高山京子氏による寺僧身分構成の指摘である。氏は「興福寺では出自によって区分される、『貴種─良家─西座─住侶』という身分の階層が見られる」とされ、さらに「良家の中でも『青華』と『凡人』の区別がある。これは出自による違いであり(中略)、ここでの『凡人』は凡僧(住侶)の意味ではなく、青華家以外の良家の住侶を指している」と述べておられる。貴種・良家だけでなく、西座・住侶・凡人をも含めて寺内諸階層を整理されてことの意味は大きい。(中略)

 興福寺には寺門・門跡・院家の関係者が多くおり、中には剃髪していない人物もいた。本稿では、寺門関係者で剃髪・受戒し、諸法会を積み重ね研鑽に励んでいる一般学問僧を対象としたい。大部分は住侶である。したがって、①上下北面などの院家関係者、②仕丁など剃髪していない人物、③剃髪していても力者など学問していない人物、④三綱・中綱など学問僧ではない僧は基本的には考察対象外となる。(中略)

 

P8

 つまり、中﨟や下﨟分には住侶ではない僧も含まれていたということになる。

 

P12

 上北面専親も文明18年(1486)4月16日に中﨟になり、5月26日には新入帳に付されている。同様の例は、上北面専重(戒20)でも見られる。これは下﨟分には衆中・上北面などは含まれていないということでもある。

 

P17

 このことから下﨟分はほぼ講衆であること、衆中は下﨟分には含まれていないことも分かる。(中略)

 〜良家も短期間かもしれないが、下﨟分に在籍することもあったのであろう。

 

P19

 中﨟には下﨟分と比較して特色がある。下﨟分になるには種姓チェックによる絞り込みがあったが、逆に中﨟は多くの身分を抱え込んでいる。そこで中﨟の分析に入る前に、従来取り上げてこなかった興福寺の身分・改装について触れておきたい。それは非衆非学である。彼らは正式には下﨟分には含まれていなかったようであり、この中﨟位になって姿を現す。例として内梵音を見てみよう。この内梵音は法会に際して編成される単なる梵音衆とは違い、他寺にはいない興福寺独特の声明師集団であった。たとえば、重弘は秘曲を相伝し、維摩会では次第僧を勤め、その一方では遊僧でもあった。また本唯識講では官人として廻請を作成している。さらに付け加えれば、遊僧にいはそれだけでなく、供目代経験者や未番論義衆もいた。

 非衆非学・積労など、貴種・良家・西座・住侶以外の階層も存在したことを確認して中﨟について見ていこう。中﨟には本来の住侶層以外の僧も含まれていた。(中略)このように興福寺中﨟には他寺の僧もいた。

 

P28

 衆徒では武力提供により中﨟入りした僧もいた。(中略)金銭による中﨟成もあった。(中略)

 

 ③上北面 専親

 寺務政覚の推薦により専親が中﨟になった。(中略)

 同様に上北面実盛も寺務から中﨟に推挙され、学侶の承認を受け、供目代から本撲揚講に新入するため勧進代と連絡を取るよう指示されている。善暁・訓家(いずれも一乗院上北面)、学侶の勧めで両者とも御八講用に成助中﨟になっていた。専重も上北面であるが、彼は円堂の項で述べる。(中略)

 

 ⑤後に大乗院門跡となる政覚もまた中﨟の一員であった。(中略)門跡級の僧も形式的には中﨟に属していたということである。ただし、寺家三十講ではなく、法花会をもって中﨟としているようである。

 

 円堂

 上北面専重は本唯識講に新入するとともに、寺門に十五貫文を出して中﨟の補任を得た。前述の実盛と同じく、この地位を円堂としている。前述の上北面専親も中﨟になったのであるが、これにより専親は千部会に出ることになった。(中略)さらに平安末から円堂がいることと、併せて考えれば、円堂は学侶とは別次元での名称であったと言える。(中略)この史料では、円堂は僧綱や得業と書き分けられていること、また下﨟分には円堂が見当たらないこと、専親・実盛は法花会を遂業した形跡がないことから、円堂は寺家三十講論匠以後から得業になるまでの階層、つまり中﨟と同じ階層だとしておきたい。

 

 千部会

 前述専親の場合見られるように成業十口、円堂四十口計五十が招請されるので、千部会は中﨟と関係が深い。廻請は戒﨟順に記載され、住侶身分だけでなく、上北面・積﨟・非衆非学も入っていることが注目される。

 

 未業中﨟と遂業中﨟

 〜法花会を遂業していない場合は未業中﨟とされていたことが分かる。(中略)遂業中﨟を拾ってみると、非衆非学(前述の内梵音重弘・懐円・兼紹・政快)や積﨟(永尊・行慶)、光秀(寺住衆徒)・信承(衆中佐田秀)であり、住侶身分の僧で遂業中﨟と呼ばれた僧はいない。住侶で法花会を遂業した僧は未番論義と呼ばれていた。念のために記しておけば、遂業中﨟(=遂中﨟)は法花会を遂業しており、前述の成功中﨟は、中﨟にはなかったが法花会を遂業しておらず、両者は別物である。

 

 学侶

 未番論義と学道中﨟が後に来ていること、学侶と学道中﨟の順が入り混じっていることは学道中﨟が学侶階層であることを補強する。

 

 学道

 以上まとめれば、学道は学・非学の学に対応し、衆徒・堂衆と対比して使用されていた。住侶と同じく、そこには下﨟分から学侶や別会五師まで広い階層を含んでいた。さらに③から⑥の史料により法花会遂業僧が学道の中核であたることが分かる。

 

 六方

 結論としては、一部非衆非学なども含まれるが、六方のほとんど大部分は住侶であり、住侶の内、学侶でないものはすべて六方ということになる。

 

 擬得業

 結論としては、一部非衆非学なども含まれているが、六方のほとんど大部分は住侶であり、住侶のうち、学侶でないものはすべて六方ということになる。(中略)つまりこれは下﨟分は六方であり、さらに中﨟になっても、なお当面は六法であると誤解を招かないようにわざわざ書き添えているのである。

 

P33 三、学侶と供目代

 新集団を立ち上げ基本骨格を造る場合、そこに事務方が必要となる。学侶集団を観察した場合、成業以上にはそのような組織は見当たらない。供目代こそが学侶事務方に該当する。鎌倉時代の供目代について、林文子氏は以下の特色を挙げられた。①凡人・住侶・修学者などと呼ばれる出自階層に属している、②三十五歳前後で法花会の竪儀を勤めた後、五十歳で供目代に就任、③その着任と並行して法花会の講問に聴衆として最末尾に加わり、上﨟集団の一員となる、④一年を任期とし、その離任後2年前後で維摩会研学竪義に請じられるなどである。(中略)

 

 供目代は一寺の奉行と称され、それを終えた後は研学や他寺分の堅者となり、成業になる。それまでは供目代といえども、中﨟であるとされる。(中略)

 

 この史料にあるように、本来は供目代別当の代官であったわけであるが、室町期にあっては供目代の最終的な任命権は別当が保持している。しかし実質的には学侶集団の意向に沿ったものであったといえよう。(中略)

 

 ①学侶の窓口

 別当(尋尊・経覚)や門跡(尋尊)に学侶から送られた書状は供目代が学侶評定を伝えるという形式をとっている。これは事書と呼ばれていた。また学侶に伝達する場合も供目代宛となっている。

 

 ②法会との関係

 供目代が一番関係深かったのは大供であり、習礼も担当し、奉行も勤めた。そして大供の本尊は供目代の管理であった。また番論義(寺家三十講・慈恩会・御八講)に関しては同じ論匠の上席として参加していた。また維摩会番論義論匠廻請は供目代が作成していた。このように供目代は総じて言えば、上﨟・下﨟より中﨟に、讃仏会頼も論義会、中でも法花会や維摩会番論義に関係が深いといえよう。

 

 ③供目代の任期については、「凡供目代事、可為五ヵ月之由、為学侶一段申定候哉」とある。実際には一年以上にわたる僧もいるが、だいたいは四から六ヶ月で交代しており、この記述は信頼できよう。

 

 ここで本校の対象時期から外れるが学侶の誕生についてある程度の見通しを述べておきたい。(中略)

 

 以上から推測すれば、維摩会番論義修了僧の中から上位僧数名が法花会聴衆として選ばれていたが、鎌倉中期に改めてその修了僧全員を学侶として設定したのではないか。学侶誕生過程が記録・伝承されていないのは学侶誕生にあたり馴染みの法花会を元にしたからではなかったか。そして、学侶と法花会聴衆、その重なりの中核に供目代がいた。供目代は学道の中核法会であった法花会、その聴衆廻請作成者・堅義放請担当者であり、得業ではない供目代を書記役として学侶に取り込めたことは大きな事務的な力となったことであろう・学侶から取り残された法花会遂業僧つまり未番論義衆は少数であったため、(延徳元年(1489)の大乗院方の学侶三十二人、未番論義[=若衆、六方に属する]五人)、学侶誕生当初から学侶≒学道(この場合は法花会遂業僧)と認識されることが多かった。ただこの使用例は室町期には少ないことからすると、学侶概念が定着していない時期での特徴的な使い方ではなかったか。なお、これら鎌倉時代についての史料実証はこれからの課題としたい。

 ここで学侶にはどのような階層まで含まれるのか、学侶使節を通じて整理しておきた。施設の階層は僧都・律師から已講・擬講・別会五師・五師・得業、そして単なる学侶と、多岐にわたる。供目代が学侶使節になった例はないが、法用僧は学侶使節になっている。供目代・法用僧が学侶使節になることもあったのであろう。基本は二名一組とし、固定メンバーにはなっていない。また門跡や良家は学侶には含まれていた形跡がない。彼らはもともと住侶ではないからメンバー外ではなかったか。

 

P55 おわりに

 興福寺には①「貴種─良家─西座─住侶」、②上﨟・中﨟・下﨟分、③大法師・法師、④成業・学道、⑤五師・大衆、非衆非学・積﨟、内梵音衆、遊僧などそれぞれ分類基準を異にする僧侶集団が、相互に入り組みながら存在していた。今後の研究にあたっては該当僧が属する階層の分類基準を明確にした上で、考察する必要があろう。

 たとえば学侶・六方にしても、全興福寺僧に関わる階層区分ではなく、住侶階層再編成の結果生まれた区分であった。したがって門跡級の僧侶は上﨟・中﨟にはなっても、学侶・六方にはならない。学侶と六方は対立することもあったが、所詮同じ階層内での対立である。学侶集団には門跡・良家階層は含まれていないが、僧綱・已講・得業・供目代・学道中﨟は含んでいる。別当支配下にいた供目代を学侶が取り込んでいることは学侶集団の組織力を強化し、門跡・良家・六方に対しても有効に働いたと思われる。学侶に一番近い構成をとるのは法花会聴衆であり、そこにも一般学侶・供目代ら数名が含まれていた。学侶は鎌倉時代中期に成立した新集団ではあるが、古来よりの伝統をもつ法花会聴衆と重なり合う部分が多かったのである。これが室町期において学侶と学道をあえて区別しないこともあった背景であろう。最後にまとめの表をあげておきたい(「寺内諸階層表」参照)。

 

 

 森田恭二「摂津国人茨木氏の盛衰」

P23

 以上、摂津国人茨木氏の盛衰をまとめてきたが、この地域の国人池田氏・吹田氏・伊丹氏と共通するところが多い。

 彼らは荘園の荘官職や代官職を職務として地域支配を行なった。

 室町期の守護細川氏の下では盛衰があったものの織田信長の進出までは存在していた。しかし、信長政権下では何も消え去っていった。

 茨木一族は遅くとも南北朝期の貞和5年(1349)までに摂津茨木に本拠を置き、管領細川氏の内衆として次第に、京都および摂津で勢力を拡大していった。

 室町中期の文明年間には、前関白一条兼良が茨木宿所に滞在したりもしている。

 文明11年(1479)の摂津国一揆では主導的役割を果たし、そのため文明14年(1482)では父子以下兄弟六・七人が細川政元の指示によって薬師寺元長により殺害されている。

 その後茨木孫三郎が細川政元によって吹田氏闕所地を与えられて存続している。細川政元はしばしば鷹狩りに茨木を在所として利用している。

 天文年間(1532〜1554)になると茨木長隆が管領細川晴元の有力内衆として活躍している。

 茨木氏の終焉は、天文18年(1549)の細川晴元三好政長と三好長慶方の活線と思われ、三好長慶方にあった茨木氏は敗北・滅亡したと思われる。