周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

赤童子の両義性?


【史料1】

  天文三年(1534)「夢幻記」   (『多聞院日記』5─39頁)

 

 天文三年甲午二月三日、予才十七、戒二、母ニ送テ釜口霊山院忌中三月ノ初疫病

 煩ヒ、既ニ死ントス、師英繁ヨリ為祈祷大般若トモ転読、巻数

 赤童子蓮成院所持本尊下給、前後不覚、入夜ウツヽニ赤童子仰云、汝ニ学文望

 ナラハ、一切経ノ御廊ニソセヨトノ玉、サテ前後ニ男女鬼形ヲヽカリキ、赤童子

 杖ヲ以テ打払セヌルニ、彼鬼トモ手ヲ合ワヒコト申キ、シカレハヲノレラ向後

 此モノニ障ヲ不可成アリシニ、無是非旨請ヲ申上、悉帰トタヽチニ見シニ、予

 伯父ノ坊主教弘阿闍梨モ長病煩ヒ畢、ソノ砌ノ夢ニ、マノアタリ愚カ所ヨリ

 異形ノモノ多ク去ト見ルト其後本腹了、

 

 「書き下し文」

 天文三年甲午二月三日、予の才十七、戒二、母に送りて釜口霊山院忌中三月の初め疫病を煩ひ、既に死なんとす、師英繁より祈祷の為大般若ども転読す、巻数并びに赤童子〈蓮成院所持の本尊〉を下し給ふ、前後不覚、夜に入りて現に赤童子仰せて云はく、汝に学文望むならば、一切経の御廊にぞせよと宣ふ、さて前後に男女鬼形多かりき、赤童子杖を以て打ち払ひせぬるに、彼の鬼ども手を合はせ侘事を申しき、然れば己ら向後此の者に障りを成すべからずと有りしに、是非無き旨請を申し上げ、悉く帰ると直ちに見しに、予の伯父の坊主教弘阿闍梨も長病を煩ひ畢んぬ、其の砌の夢に、目の当たり愚が所より異形の者多く去ると見ると其の後本復し了んぬ、

 

 「解釈」

 天文三年(1534)二月三日、私(英俊)は十七歳となり、受戒して2年目のことだった。亡くなった母を見送り、釜口霊山院で喪に服していた三月の初めに疫病に罹り、瀕死の状態になった。師の英繁が祈祷のため大般若経などを転読した。英繁はその祈祷巻数と、蓮成院が本尊として所持していた赤童子仏画をお与えになった。私は正体を失い、夜になり夢心地のときに、赤童子がおっしゃるには、「お前が学問を望むならば、一切経の廊下(春日社中門の廊下)で学べよ」とおっしゃった。さて、私の前後には鬼の姿をした男女がたくさんいた。赤童子は杖を使ってそれらを打ち払ったところ、その鬼たちは手を合わせてお詫びを申した。「それなら、お前たちは今後、この者(私・英俊)に悪い影響を与えてはならない」と赤童子は言ったので、鬼どもは「仕方がない」という趣旨を申し上げた。鬼どもはみな帰っていったようにすぐに見えた。そのとき、私の伯父である坊主の教弘阿闍梨も長患いで苦しんでいた。その時の夢で、教弘は「私のところから化け物がたくさん去っていった」のを見ると、その後に全快した。

 

*解釈の一部は、小林牧子「夢が語る中世末興福寺一僧侶の内的生活史 ─救済と解脱をめぐって─」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』第37号2009年3月、https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0037/DB00370L001.pdf)を参照しました。

 

 「注釈」

「多聞院日記」

 ─奈良興福寺多聞院院主宗芸・英俊・宗英らの日記。1478─1618(文明10─元和4)にわたる中・近世以降きの政治・社会・文化全般にかかわる史料(『角川新版日本史辞典』)。

 

「釜口霊山院」

 ─天理市柳本町上長岡集落に近い釜口山に所在する釜口山長岳寺の塔頭。長岳寺は平安期に空海が開いたとされる高野山真言宗の寺院で、霊山院は釜口別院律家であった。鎌倉時代には興福寺大乗院の末寺となっている(「長岳寺」『奈良県の地名』平凡社天理市教育委員会天理市埋蔵文化財調査概報』平成10・ 11・ 12年度 (1998~2000年)、https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/514?all=天理市埋蔵文化財調査概報、4頁、参照)。

 

「赤童子

 ─春日赤童子興福寺の護法童子護法善神山本陽子「春日赤童子考」(『美術史研究』25号、1987年12月、32・35・39・41頁)で明らかにされている点をまとめておきます。

 ①興福寺南円堂の本尊不空羂索観音(春日社の本地仏)の眷属である緊羯羅童子が独立して赤童子となった。

 ②不空羂索観音・不空忿怒王・不動明王を同体とみなす考え方から、不動明王の侍者(脇侍)である制多迦童子が赤童子の図像上の原形になった。

 ③赤童子は「法相擁護ノ御姿」として祀られていることから(【史料2】)、純粋な春日社の信仰というよりも、興福寺における春日信仰が生み出したものと考えるべきで、その成立年代は鎌倉から室町にかけての頃と推定される。

 

「旨請」─未詳。趣旨の意か。

 

 

【史料2】

  天文十二年(1543)四月二十一日条   (『多聞院日記』1─322頁)

 

 一但馬屋ニテ為宗円房祈祷人落論在之、人数六・七十人出仕了、貞覚房年来為

  興隆、尋才智之仁、学問ヲ令修習、寺社再興・仏法紹隆ノ意願之処、覚順房

  京ノ人ニテアリシカ、不慮弟子ニ被取処、智恵利根ノ人也、仍少児ヨリ興基ヲ奉

                           (期)

  憑学問セラル、而ニ二﨟法師ノ比大事歓楽了、既可及滅後之由諸人申了、貞覚房

  日来ノ意願満足スルカト難有存セシニ、如此アレハ、宿願不成就歟トテ日夜ニ

  歎之給ヒシ時、或人名ヲ忘了云、偏ニ即体心中ニ大明神ヱヲコタリ申、懇ニ意願

  シテ祈誓ヲ抽ハ、無二ノ丹誠ヲ尊神必哀可給アリシカハ、サラハ赤童子ハ法相

  擁護ノ御姿ナレハ、奉懸之度之由被申処、折ふしナカリシカハ、彼教誡ノ

       (舗)

  寺僧、我一補所持ス、借シ可申之由間、借之昼夜無他念被祈精処、或夜夢ニ、

  赤童子アラタニ現シ玉ヒ仰、汝ヲ病ヲハ可令平愈、御所持ノハウヲ持テセナカヲ

  二ツ三ツ御打アル処ニ、青蛇二疋出失了、其時赤童子ヰツクシキ藤ノ花房ヲ

               (ニヵ)          (ソヵ)

  覚順房ノヒサノ上ニ置玉フ時ヘ奉問之云、是ハヰカナル藤カヤト、仰ヽ、是ハ

  若宮ノ八重藤也トテ、其分ニテ夢覚了、此事坊主ニ語給フ時、発露涕泣シテ

  難有覚ヘテ、サテモ八重藤トハ未聞及トテ、神人ヲ召寄ヤカテ尋之処ニ、則

  若宮ノ御神前ニ八重ナルヰツクシキ藤アリト答了、サテハ現病忽可消滅トテ、

  感涙ヲナカシ尊神ヲ奉拜了、其後無程悉以平愈了ト覚順房親ニ語了云々、

  難有事共なる哉、

 

 「書き下し文」

 一つ、但馬屋にて宗円房の祈祷の為人落論之在り、人数六・七十人出仕し了んぬ、貞覚房年来興隆の為才智の仁を尋ね、学問を修習せしめ、寺社再興・仏法興隆の意願するの処、覚順房京都の人にて在りしか、不慮弟子に取らるるの処、智恵利根の人なり、仍て小児より興基を憑み奉り学問せらる、而るに二﨟法師のころ大事歓楽し了んぬ、既に滅期に及ぶべきの由諸人申し了んぬ、貞覚房日来の意願満足するかと有り難く存ぜしに、此くのごとくあれば、宿願成就せざるかとて日夜に之を歎き給ひし時、或る人〈名を忘れ了んぬ〉云はく、偏に即体心中に大明神へ怠りを申し、懇ろに意願して祈誓を抽づれば、無二の丹誠を尊神必ず哀れみ給ふべきこと有りしかば、然らば赤童子は法相擁護の御姿なれば、之を懸け奉りたきの由申さるるの処、折節無かりしかば、彼の教誡の寺僧、我一舗所持す、貸し申すべきの由の間、之を借り昼夜他念無く祈精せらるる処、或る夜の夢に、赤童子あらたに現じ給ひ仰するに、汝を病をば平癒せしむべしと、御所持の棒を持ちて背中を二つ三つ御打ちある処に、青蛇二疋出で失せ了んぬ、其の時赤童子ゐつくしき藤の花房を覚順房の膝の上に置き給ふ時に之を問い奉りて云はく、是れはゐかなる藤ぞやと、主に仰するに、是れは若宮の八重藤なりとて、其の分にて夢覚め了んぬ、此の事坊主に語り給ふ時、発露涕泣して有り難く覚へて、さても八重藤とは未だ聞き及ばずとて、神人を召し寄せやがて尋ぬるの処、則ち若宮の御神前に八重なるゐつくしき藤有りと答へ了んぬ、さては現の病忽ち消滅すべしとて、感涙を流し尊神を拝み奉り了んぬ、其の後程無く悉く以て平癒し了んぬと覚順房親しく語り了んぬと云々、有り難き事どもなるかな、

 

 「解釈」

 一つ、但馬屋で宗円房の祈祷のために「人落論?」があった。人数六、七十人が出仕した。貞覚房は長年興福寺の興隆のため、才智に富んだ人物を探し、学問を習わせ、寺社再興・仏法興隆を願っていたところ、覚順房は京都の人であったか、貞覚房は思いがけず覚順房を弟子に取ったところ、智恵があり賢い人物であった。そのため、貞覚房は幼いころから仏法興隆を頼み申し上げ、覚順房は学問をしなさった。ところが、覚順房が二﨟法師のころ、命に関わるほどの病気をした。もう少しのところで命が尽きてしまうにちがいない、とさまざま人々が申していた。貞覚房は平生の願いが叶うだろうとありがたく思っていたが、このようであるので、以前からの願いが叶わないのではないかと思って、毎日このことをお嘆きになっていたとき、ある人(名前を忘れてしまった)が言うには、「ひたすら当人(覚順房)が心中で春日大明神へお詫びを申し上げ、心を込めてお願いをしてひときわ誓いを立てれば、比類ない真心を大明神は必ず不憫にお思いになるはずだ」と言ったので、それならば赤童子法相宗を擁護する大明神のお姿なので、この仏画を掛け申し上げたいと申し上げなさったところ、ちょうどその時にはなかったので、この教え戒めてくれた寺僧(ある人)が「私は一幅持っております。貸し申し上げましょう」と言うので、それを借り、絶えず一途に心を込めてお祈りになったところ、ある夜の夢に、赤童子が霊験あらたかに現れなさって、「お前の病気を治してやろう」とおっしゃった。ご所持の棒を持って覚順房の背中を二つ、三つお打ちになったところ、青蛇二匹出てきて姿を消した。それから、赤童子が美しい藤の花の花房を覚順房の膝の上に置きなさったときに、覚順房はこの藤の花について尋ね申し上げていうには、「これはどのような藤ですか」と。赤童子が当人(覚順房)におっしゃるには、「これは若宮の八重藤である」といって、そこで夢が覚めた。坊主(貞覚房)は気持ちをあらわにして涙を流して泣き、このことを尊いことだと思った。それにしても八重藤とはいまだ聞いたことがないと思って、神人をお呼び寄せになりそのまま尋ねたところ、なんと若宮のご神前に八重咲きの美しい藤があると答えた。そういうところから思えば、現実の病もすぐに消え去るはずだと思って、感動の涙を流し大明神を拝み申し上げた。その後まもなくして全快した、と覚順房は親しげに語ったという。またとないくらい尊いことであるなあ。

 

 「注釈」

「為宗円房祈祷人落論在之」─未詳。

 

 

【史料3】

  文明十四年(1482)十月二日条  (『大乗院寺社雑事記』7─442頁)

 

    二日(中略)

 一英寛〈香専房、」円堂也、〉所労以外、一向及数十日平臥也、師匠舎兄、慶英

                                (復)

  律師違例以外、半死半生也、但於于今者無為出頭也、英寛一向無本複報云々、

  是併御八講違例之御罰也、案前事也、供目代訓英夢ニ、自社頭赤童子二人、捧

                            (屋脱)

  持物入珎蔵院而、一人ハ坊主慶英所へ行向、一人ハ英寛之部へ行向テ、各両人

  令打擲ト見之、其後違例也、希有事也、豊岡頼英ニ供目代相語之了、赤童子

  大明神修学応護之御姿也、号倶麻ラ護摩也、

 

 「書き下し文」

 一つ、英寛〈香専房、円堂なり、〉所労以ての外、一向数十日に及び平臥するなり、師匠舎兄慶英律師違例以ての外、半死半生なり、但し今に於いては無為出頭するなり、英寛一向に本復の報無しと云々、是れ併しながら御八講違例の御罰なり、前事を案ずるなり、供目代訓英夢に、社頭より赤童子二人、持物を捧げ珎蔵院に入りて、一人は坊主慶英の所へ行き向かひ、一人は英寛の部屋へ行き向かひて、おのおの両人を打擲せしむと之を見る、其の後違例なり、希有の事なり、豊岡頼英に供目代之を相語り了んぬ、赤童子は大明神修学応護の御姿なり、倶麻ラ護摩を号するなり、

 

 「解釈」

 一つ、英寛〈香専房、円堂衆である、〉の病気はたいへんひどい。数十日間に及んで、ひたすら養生しているのである。師匠で実兄である慶英律師の病気もたいへんひどく、半死半生である。ただし今は無事で出勤しているのである。英寛が全快したという報告はまったくないという。結局のところ、これは法華八講で前例を違えた罰である。以前の出来事を調べたのである。供目代の訓英は「社殿から赤童子二人が持物(杖)を高く上げて珍蔵院に入り、一人は坊主慶英の所へ行き、もう一人は英寛の部屋へ行って、それぞれが二人の僧をお殴りになった」と夢に見た。その後に病気になったのである。不思議なことである。供目代の訓英は豊岡頼英にこう語った。赤童子は春日大明神修学応護のお姿である。鳩摩羅天(倶摩羅天)を本尊とした護摩を修したのである。

 

 「注釈」

「円堂」

 ─寺家三十講論匠以後から得業になるまでの階層、つまり中﨟と同じ階層(森川英純「室町期興福寺住侶を巡る諸階層と法会」大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究』和泉書院、2016年、28頁)。また、修二月の花頭役を勤める義務がある(稲葉伸道「興福寺政所系列の組織と機能」『中世寺院の権力構造』岩波書店、1997年、226頁)。

 

「供目代」─学侶集団の事務方(前掲森川論文、33頁)。

 

「珎蔵院」

 ─慶英と英寛の属した院家の名称。室町時代の場所については未詳(「奈良町遺跡の調査 第1・2次」『奈良市埋蔵文化財概要報告書 平成12年度』2002年8月、121〜131頁、https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/1126?all=奈良市埋蔵文化財調査概要報告書&has_file=x&include_file=include)。

 

「豊岡頼英」

 ─豊田頼英。衆徒を統括する衆中(官符衆徒)の棟梁の一人(酒井紀美『経覚』吉川弘文館、2020年、110頁)。

 

「倶麻ラ護摩

 ─鳩摩羅天(倶摩羅天)を本尊とした護摩のことか。鳩摩羅天については、村越英裕「鳥」(『大法輪』大法輪閣、2016年8月号、100頁、https://www.daihorin-kaku.com/files/2016-08tatiyomi.pdf)、高野山霊宝館の「仏に関する基礎知識」(http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/ten/kumaraten.html)を参照。なお、ここで倶摩羅護摩を修しているのは、赤童子と倶摩羅天を同体とみなす説が普及していたからだと考えられます。ただし、前掲山本論文によると、「クマラ(クマーラ)」の原義が「少年・童子」であるために、倶摩羅天と赤童子は関連づけられただけで、赤童子の図像や性質とは無関係と考えられています(32頁参照)。

 

 

【考察】

*今回の史料は、中世における発病と快癒の夢想的イメージを教えてくれる、なかなか興味深い情報をもっています。前掲山本論文によると、病を治してくれる赤童子は、興福寺の護法童子護法善神で、病気平癒などの加持の本尊として広く信仰されていたことが明らかにされています。【史料1・2】はこの主張の根拠となる史料でした。ところが、【史料3】に記されているように、赤童子は罰として病を与える存在でもあったのです。どうやら中世の春日赤童子は、病を与えもするし、病を癒しもする両義的な存在だったようです。それもそのはず、赤童子は春日大明神の「修学応護之御姿」・「法相擁護ノ御姿」であって、「僧侶」擁護の御姿ではなかったからです。大明神の化現である赤童子は、たとえ興福寺の僧侶であっても、法会の前例を違えるような不届き者には厳しく罰を与えたのです。こうした懲罰も「法相擁護」(興福寺の護持)の一つと考えれば、なんら矛盾した行為ではなくなります。

 さて、このような赤童子の両義的な性格ですが、いつから備わり、その後どのように展開していったのでしょうか。速断は避けなければなりませんが、病を与えたことがわかる【史料3】は、病を治した【史料1・2】よりも50年ほど前の記事であることを踏まえると、赤童子は当初から、「法相擁護」のために病を与え治しもする両義的存在であり、時代が近世に向かうにつれて病気平癒の本尊へと性格を一本化していったと考えられます。すでに前掲山本論文で指摘されているのですが、春日赤童子の原形は興福寺南円堂の本尊不空羂索観音(春日社の本地仏)の眷属緊羯羅童子であり、古代インドでは羅刹(悪鬼)の一種とみなされていました(40頁)。この点を踏まえると、赤童子が病を与える側面を備えているのも、当然といえば当然と言えるでしょう。やはり、春日赤童子は成立当初、人に災厄をもたらす鬼神の要素を備えていたと考えられます。

 では、それがなぜ病気平癒の護法神へと一本化していくのでしょうか。井原今朝男「寺院の置かれた社会」(『中世寺院と民衆』臨川書店、2004、51頁)によると、古代の荒ぶる神は、中世になると供養や祈願を行なえば人間に福を招来し、怠れば天罰・冥罰を与える存在へと変化するそうです。また以前に私は「ありがとう、天神様!」(https://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2018/05/03/213100)という記事で、中世後期になると、神は代受苦を果たす慈悲深い菩薩のような存在にまで変化するという史実を指摘しました。つまり、古代の「人に災厄をもたらす荒神」から、中世前期の「罰も福も与える両義的な鬼神(荒神でも善神でもある存在)」へと変化し、さらに中世後期になると「菩薩のような慈悲深い神」へと変貌を遂げていくと考えられるのです。こうした傾向を踏まえると、赤童子も同じような傾向を辿ったのではないでしょうか。もともと羅刹(悪鬼)であった緊羯羅童子を原形として生み出された赤童子は、中世になると、その荒神的側面を残しつつ法相擁護の善神としても礼拝されるようになり、中世末期には病気平癒の本尊に一本化され、広く信仰されるようになったと考えられます。