周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺文書22

    二二 一笑禅慶書状写(切紙)

 

 貴寺御病気ニ而、其地へ御出被御養生之由、御尤ニ存候、当夏者暑も別而

 酷敷御難儀推察申候、次第ニ御快然之段珍重ニ候、願而も宜様ニ申進候へ

 候、即久以書中申通、御無沙汰に打過申候、甲山ゟ人参伝承仕候故、

 早々如此御座候、不宜、

       七月五日       一笑軒

      肯心禅主監 几下

 

 「書き下し文」

 貴寺御病気にて、其の地へ御出で御養生に成らるるの由、御尤もに存じ候ふ、当夏は暑さも別して酷しく御難儀推察し申し候ふ、次第に御快然の段珍重に候ふ、願ひても宜しき様に申し進らせ候へと申し候ふ、即ち久しく書中を以て申し通さず、御無沙汰に打ち過ぎ申し候ふ、甲山より人参り承仕に伝へ候ふ故、早々に此くのごとく御座候ふ、宜しからず、

 

 「解釈」

 あなた様がご病気で、そちら(甲山?)へお出かけになりご養生になっているのは、当然のことだと存じ上げております。この夏は暑さも格別に厳しく、お苦しみになっていると推察し申し上げます。次第にご快復になっていることは、めでたいことでございます。どうかよろしくお伝えください、とあなた様の使者に申し上げました。しばらくの間、手紙を送り申さず、不義理のまま時が経過してしまいました。甲山からあなた様の使者が参り、当寺の承仕に事情を伝えましたので、急いでこのようにお手紙を認めました。不一。

 

 「注釈」

「甲山」

 ─広島県世羅郡世羅町重永の慈徳寺を指すか。

 重永西部にある山の南面中腹に位置し、臨済宗仏通寺派。初め松尾山、のち金剛山と号した。本尊地蔵菩薩

 寺伝によると応永七年(1400)三次郡旗返城(跡地は現三次市)の城主松尾長門守光勝の娘で小早川春平室と考えられる松岩寿禅尼の創立。仏通寺(現三原市)の開山愚中周及の直弟子権管寧古衲を開基とする。仏通寺十六派の一つ権管派は当寺を拠点とし、本山仏通寺の運営にも参画した。元禄年中(1688─1704)に焼失したため詳細は不明であるが、「芸藩通志」には天文年中(1531─55)松岩尼の末裔松尾長門守三勝が再興し、三勝の四男僧一雲が師友雲を推して中興開山としたと記す。九世長淋の代に毛利家祈願所となり、寺領十四貫余りを給せられたといい、天正十九年(1591)頃の毛利氏八箇国御配置絵図(山口県文書館蔵)に慈徳院十九石一斗八升九合と記す(『広島県の地名』平凡社)。