周梨槃特のブログ

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浄土寺文書9

    九 足利尊氏寄進状

 

 寄進

  備後国浄土寺

      世羅郡

    同国得良郷地頭職事

 右為当寺領、所寄附也者、守先例、可致沙汰之状如件、

    (1336)                足利尊氏

     建武三年二月十八日       源朝臣(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進す備後国浄土寺

    同国得良郷地頭職の事

 右当寺領として、寄附する所なりてへれば、先例を守り、沙汰致すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 備後国浄土寺に寄進する、同国世羅郡得良郷地頭職のこと。

 右の地頭職は当寺領として、寄進するところである。というわけで、先例を守り勤めよ。寄進状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「得良郷」

 ─上徳良と下徳良を主要郷域とする。当郷にかかわる記録の大半は尾道市浄土寺に蔵される。以下、浄土寺文書によると、建武三年(一三三六)二月一八日付の足利尊氏寄進状に、「寄進 備後国浄土寺 同国得良郷地頭職事」とあり、尊氏が九州へ赴く途次、得良郷地頭職を寺領として浄土寺に寄進している。暦応二年(一三三九)一〇月二八日の左衛門尉書下には、鞆浦釈迦堂(現福山市の安国寺)院主法智代小河正徳房以下が得良郷の所務を濫妨とあり、同四年七月二二日の守護方使者源兼継打渡状では、於曾六郎兵衛尉・和気弥七らの濫妨を停止し、得良郷地頭職を浄土寺雑掌の沙汰としている。また観応二年(一三五一)六月二九日の椙原光房奉書には鞆浦小松寺雑掌賢性が得良郷地頭職を違乱しているとあり、浄土寺へ寄進される以前、得良郷には鞆浦地方の勢力が入込んでいたとも考えられる。

 文和二年(一三五三)一〇月一三日、得良郷地頭職などに対する軍勢の違妨が停止されたが(岩松頼宥安堵状)、翌三年七月五日には得良郷は要害の地であるとして、地頭職は山内通氏に料所として預けられ、年貢などは先例により浄土寺へ納めることとされた(岩松頼宥預ケ状)。しかし所務は同年一〇月一七日の岩松頼宥書下によって以前のように浄土寺の沙汰となり、康安元年(1361)十月五日、備後守護細川頼之安堵状で得良郷地頭職は再び浄土寺に安堵された。以後しばらく違乱はあったらしいが、貞治六年(1367)には足利義詮安堵御判御教書が出された。応安五年(1372)一二月二三日長瀬名道請文には、五月一四日の御教書により得良郷地頭職半済下地を浄土寺雑掌へ渡したとあり、浄土寺領半済宮重給分は寺家へ返付することになった(欠年四月二日付「今川頼泰書状」)。備後守護山名時義も得良郷地頭職を浄土寺に安堵したが(康暦元年九月三〇日付「山名時義安堵状」)、永徳元年(1381)五月二日の山名時義下知状によると、地頭職は広沢仁賀勘解由左衛門入道に違乱されている。

 室町幕府は地頭職などを浄土寺に安堵(応永一八年一〇月十三日付「足利義持安堵御判御教書」)、永享三年(1431)一一月十五日付、守護山名時熙に対し、得良郷地頭職等の臨時課役を免除するよう指示しており(細川持之奉書案)、同一二年には守護使の立入りも停止された(足利義教御判御教書)。

 文明元年(1469)一〇月吉日の浄土寺備後国世羅郡得良郷地頭方年貢引付写によると地頭方は一一〇石五斗六升の税収があった。またこの文書の紙背に、得良年貢米一〇八石のうち八幡宮祭礼などの地下引物一五石七斗二升で、残り九二石二斗八升が浄土寺に納められるとある。臨時課役は引続き免除されていたが、同一八年六月一日、備後国世羅郡得良郷地頭方臨時反銭配符が得良地分政所に対して出され、足利義政御拝賀臨時段銭として反別一〇〇文ずつが課された。得良郷内の在地武士として小早川有力庶子家の一つである土倉氏があり、応永三一年一〇月、仏通寺(現三原市)の方丈上棟に際し、土倉殿から一貫文が出され(小早川家文書)、嘉吉元年(1441)三月一六日付幕府奉行人連署奉書案(同文書)に土倉備中守の名がみえ、室町期の小早川氏一族知行分注文(同文書)に土倉四〇〇貫とあるのは、椋梨と並んで一族中最高額である。

 明応二年(1493)二月七日の山名俊豊安堵状(毛利家文書)によって得良郷地頭分は毛利弘元に安堵されているが、翌三年五月二日の和智豊広書状(同文書)によると、豊広が徳良地頭分を入手したとあり、灯明分は浄土寺に寄進すると記す。永禄一一年(1568)一〇月二三日の元綱安堵状(同文書)により、徳良地頭分は浄土寺に安堵されたが、天正一九年(1591)頃の毛利氏八箇国御配置絵図(山口県文書館蔵)の世羅郡のうちに、浄土寺の名はみられない(「得良郷」『広島県の地名』平凡社)。