周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

稲葉著書

  稲葉伸道『中世寺院の権力構造』(岩波書店、1997年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P183 第4章 興福寺政所系列の組織と機能

 興福寺別当は、ほとんど寺内の院坊に止住し、真言宗系の東大寺別当が多く寺外に止住したのと異なる。こうした興福寺別当興福寺との一体性の強さは、興福寺藤原氏の氏寺としての性格に起因するものと思われる。

 

P185

 政所下文は11世紀後半に出現し、11世紀末までは別当一人(別当未補の場合は権別当一人)の署判であるが、12世紀に入ると、別当の署判がなく、はじめに三綱(所司)、No11からは三綱と下所司(権専当・大知事・知事)が署判するようになる。久野氏の指摘されているように、この事実は、興福寺政所における別当の地位の低下と、政所における実際的権限が三綱を中心とする側に写っていることを示すものである。これは後述する公文女下文の出現と関連する。第二に、No2,3,6,9,12,13に見られるように、藤氏氏長者の長者宣・勧学院政所下文の意を受けて発給される例が多いことである。これは、東大寺と決定的に異なる点であり、興福寺別当が、興福寺における最高の議決機関でないことによる。氏寺興福寺氏神春日社に対しての種々の補任権・裁判権を保持するのは、藤原氏長者(殿下)であり、興福寺別当はそれをたんに施行するにすぎない場合が多いのである。

 ここで、勧学院について考察を加えておきたい。十一世紀後半以後十二世紀を通じて、藤氏長者による大和国および興福寺・春日社等の氏寺氏神の支配の実務機関として存在した勧学院勧学院政所下文を発給する。今、管見に入った勧学院政所下文を表12に示す。この表から、まず、勧学院政所下文が、十一世紀の終わりごろ登場したこと、十二、十三世紀を通じて、大和国の在庁官人・郡司・刀禰・荘園・春日社にあてて発給されていることがわかる。特に、注目されるのは、大和国の在庁官人(No9,12,23)をあてどころにしているものがある点で、これはおそらく大和国の在庁指揮権を氏長者が有したと思われることと関連するだろう。これに対して、興福寺政所下文には、在庁官人充のものはなく、形式的にも、興福寺別当が、大和国国司としての地位になかったことを示すといえよう。次に、下文の内容を見てみると、大和国内での領主権をめぐって相論の裁許をしているのが注目される(No2,3,5,12,13,14)。こうした私領主権の裁判権は十二世紀においては、興福寺政所にはなく、長者の意を受けた勧学院政所にあったと言えるであろう。勧学院政所下文は表12に見えるように十三世紀前半以後、春日社に対する吉書の長者宣などに限られ、十二世紀に有した機能を失う。これは、興福寺政所下文の消滅とほぼ時期を同じくしており、鎌倉前期における藤氏長者勧学院大和国に対する支配権の衰退と衆徒の進出と関連する。

 

P190 第二節 公文所

 東大寺において発達を見なかった公文所興福寺の場合、寺家の運営・大和国支配において最も実務的な役割を果たしたと思われる。(公文所下文の署判者は、都維那法師(公文目代)、寺主大法師、上座法橋「以上が上段に記載」、知事法師、権専当法師、大知事法師「以上が下段に記載、下所司に当たる」)。

 

P199

 次に、書き止めの文言についてみると、寺外に出されたものは、「依政所仰下知如件」の文言が入っており、公文所が、本来、政所(別当)の命を受けた、政所系列の機関であることを証明しているが、鎌倉中期以降(No12,35,37,38,42,47,48,51,52,55)、「依衆徒僉議」あるいは「依衆議」という文言が多く見られるようになる。これは、衆徒が公文所に支配権を伸ばしていき、公文所が衆徒の持つ権限の執行機関になっていくことを意味する。

 

P200

 先に示したように公文所は、公文目代、およびその配下の下所司によって構成される。(中略)公文所には、下所司たる、権専当・大知事・知事以外に、その下で御使として在地への下向や検断に従事した中綱・仕丁が所属したことは別に述べた。(中略)

 

 (1)恒例・臨時の行事における機能

 公文所は、自ら布・麻布・米等を沙汰したが、それよりも、各法会における費用調達の命令を通所(つうしょ)・会所(えしょ)・修理所・各荘園に対して出すことが、重要な機能であったと思われる。

 

P202

 以上のように春日詣に必要な人夫・物資は公文所の構成員たる下所司が徴収にあたり、公文目代氏長者興福寺別当の意を受け、全体を管掌した。春日詣の際し、このように公文所が郡単位に賦課した例は、すでに文治四年(1188)に事例がある(表13No4)。この他、公文所上皇天皇らの御幸や行幸にも同様に機能したらしい。

 (2)造営用途の賦課

 (3)検断

 公文所が下所司たる公人を使って検断権を行使した事実については、拙稿「中世の公人に関する一考察」(本書第9章)で一部触れた。(中略)以上のごとく、春日社で発生した刑事事件において捕らえられた犯人は公文所に身柄を送られるのを常とした。こうした事例が平安期ではどうなのかは今のところ不明である。

 (4)所領相論の裁許

 ただ、興福寺の場合、大和国を支配したという点で、大和国のすべての領主権をめぐる裁判権公文所が扱ったのか、それとも何らかの形で興福寺との間に関係を有する者が一方の当事者にいなければならなかったのかという問題については今のところ明らかにしえない。

 (5)その他

 強訴の際の関の設置、大和国の悪党の交名注進命令、他寺の勧進上人による勧進に対する協力の命令、あるいは、衆徒の発向のための兵糧米を大和国中の有徳輩に賦課すること。いこれらはいずれも、大和国に対する公権を興福寺公文所が分掌していることからできた行為であろう。

 以上の考察のごとく、公文所興福寺政所(別当)の下に所属し(鎌倉後期には衆徒の下にも所属する)、興福寺内経済的運営に携わり、大和国の郡刀禰を支配下に置き、事実上、国衙在庁の機能と権限を所持していたということができるであろう。

 

P204

 通所は通目代(通所目代)が代表する。(中略)公文目代同様、三綱中より別当によって任命された。その職掌のうち最も重要なものは興福寺の印鎰を納める「通庫」(「通倉」「寺庫」ともいう)の管理である。別当就任寺の重要儀式である印鎰渡で、通目代は印鎰を通庫から出し別当に渡す役割を果たす。(中略)また、通所目代はその下に所属する通小目代職・大炊職・通出納職・雑掌を補任し、七堂の堂童子・寺侍を管轄する。

 

P206

 また、長者宣が撤回されたのは会所目代職が「寺恩」と認識され、「寺務」(別当)の進止であるとされていたからであった。記主実憲は「非器の仁」が会所目代に補任されれば「大会違乱」となるとし、自己の補任を正当化しているが、この点から会所目代興福寺の「大会」の執行の奉行であったことが推測される。そもそも、実憲が「興福寺維摩大会料東国不足米餅等定案」を書写したのは、大会である維摩会の費用調達が会所目代の職務であったからである。

 

P207

 修理目代の下には修理小目代がいる。(中略)

 

 広義の政所系列の諸機関は、別当(狭義の政所)、公文所・修理所・通所・会所、およびその下に所属する大炊方・酒殿・納殿・贄殿等によって構成される。公文所・通所・会所・修理所の各目代は十一世紀末から十二世紀初頭にかけて成立すると思われる。これは政所下文の成立・勧学院下文の成立などとも関連すると思われ、東大寺と同様に寺院組織の改変がこの頃にあったことを推測させる。次に画期をなすのは公文所政所下文の成立する十二世紀後半であり、これは東大寺における執行所の成立と関連するであろう。次におそらく画期を成すのは衆徒の勢力が伸張し、公文所が衆徒の命令をうけるようになる十三世紀中頃であろう。

 

 

P223 第五章 興福寺寺僧集団の形成と発展

 中世寺院の権力構造は、⑴政所を中核とする、いわゆる「政所系列」の組織、⑵大衆、衆徒と呼ばれる寺僧集団の組織、⑶院家、坊などの寺院内の私的組織、の解明によって明らかにされる。(中略)

 永島福太郎氏は興福寺寺僧集団の概略を初めて提示された。その説明は以下の通りである。

 〈学侶〉学業僧。寺中・寺外の諸院坊に居住。六方衆と併せて学道と呼ぶ。学道の老衆を学侶、若衆を六方という。

 〈六方〉六方衆、方衆ともいう。堂衆に対するもの。寺中・寺外の諸院坊の所属を六方の方角(戌亥・丑寅・辰巳・未申・竜花院・菩提院)に分け、そこに住む寺僧の老衆(学侶)を除く若衆をいう。教学に携わるものと携わらないものが混じっている。六方に堂衆が加わり八方という。

 〈堂衆〉東金堂・西金堂の両堂衆をさす。

 〈衆徒〉いわゆる僧兵の棟梁。国中に居住。そのうち二十人が選ばれて寺中に居住して官符衆徒と称される。四年を任期とする。最上首を棟梁という。衆徒の執行機関を沙汰衆という。六方が中老に対し、衆徒は下﨟。弓箭を帯びる。

 〈講衆〉唯識講衆の略。﨟次により上・中・下に分けられる。

 

P224

 次に鈴木正一氏の研究を見てみよう。(中略)

 〈衆中〉武具を帯して社頭・寺門を防御する衆徒。両門跡に分属する。寺内に住む寺中衆徒が集中と呼ばれた。これに対して田舎に住む衆徒を田舎衆徒と呼ぶ。衆中のうち器用のもの二十人を官符衆徒という。三年を任期とする。

 〈講衆〉唯識講などの講問に参加する僧侶のすべてを指す。上﨟・中﨟・下﨟の三階級に分かれている。『大乗院寺社雑事記』では下﨟分の講衆をさして講衆と呼ぶことが多い。

 〈学侶〉講衆の上﨟

 〈六方〉講習の中﨟

 

P225

 永島、鈴木両氏と異なって、六方という一つの集団について、その成立過程にまで考察の目を向けられたのは渡辺澄夫氏である。詳細な研究の要点のうち特に注目されるのは、「六方制度の発生は平安末期にある。諸院坊の地縁的共同体的性格をもつ。平素は自治・自衛の機能を有したと思われるが、有事には軍事編成となり、六方末寺の僧徒や堂衆などが動員された」という点と、「六方衆の構成員は本来全住呂であり、六方大衆(六方衆徒)は満寺衆徒であった(この場合の衆徒は修学者の意)。六方大衆は鎌倉中期以降、若衆(中﨟)と老衆(上﨟)と下﨟分に階層分化し、それぞれ六方衆・学侶・衆徒になる。」という点である。

 

P226 鎌倉初期の寺僧の諸階層

 以上の寺辺新制から確認できる寺僧の基本的身分構成・序列は以下の通りである。すなわち、まず第一に、寺僧は大きく学衆と禅衆に分かれる。この二大区分は、興福寺だけではなく南都系の寺院に共通して見出すことができる。学衆は学問をもって仏に仕える僧であり、学生とも称される。禅衆とは、禅行をもって仏に仕える僧である。学衆は禅衆の上位身分である。禅衆は堂衆とほぼ同義であろう。

 第二に、学衆は僧綱・已講・成業・非成業・円堂・非円堂の階層に分かれる。僧綱はいうまでもなく本来、僧正・僧都・律師の僧官を指しているが、法印・法眼・法橋の僧位と組み合わされて、すでに階層序列を示す用語となっている。室町末期の「尋尊御記」には、昇進次第として、

  一法師、中﨟等二、大法師三、已講四、法橋五、律師六、法眼七、権少都八、少僧都九、権大十、大僧都十一、法印十二、権僧十三、僧正十四、大僧正是次第昇進也

とあり、僧綱と僧位の組み合わせの序列がその後固定化されたことを示している。已講とは三会(維摩会・最勝会・御斎会)の講師を勤仕した僧であり、成業とは「釈家官班記」にいう得業にあたるものであろう。円堂は興福寺にのみ見られる階層であり、おそらく北円堂・南円堂・東円堂と関係すると思われるが、詳しくはわからない。『大乗院寺社雑事記』中の円堂に関する記述を見ると、円堂衆は中﨟の僧であり、修二月の花頭役を勤める義務があるが、正当な理由なく勤仕しない場合「非円堂」に「返成」された。同じく『雑事記』には「自成業至円堂」という表現が見られることから、成業の下に円堂が位置することは室町期に至っても変わっていない。このように見てくると、僧綱・已講・成業・非成業・円堂・非円堂という学衆の階層は、鎌倉初期と室町末期とではほとんど変化がなかったといえよう。

 第三に注意しなくてはならない点は、以上の基本的な学衆の階層構成に、彼らの出自、出身身分に関わると思われる区別が組み合わされることである。成業に見られる「華族」「君達」「凡人」、円堂に見られる「西座」「凡人」がそうである。ただ、この点については明らかにすることができない。

 

P228

 したがって、「寺僧」とは、ここでは「自僧綱以下至中﨟」に相当する。「上﨟中﨟集会」とは、まさに僧綱以下中﨟までの寺僧の集会と思われ、彼らは自らの主導により段米の「進未注文」を作成し、催使を決め、自らに造営段米を課したのである。これが「寺僧沙汰」の意味するところである。さて、この食堂造営の史料から二つの点が確認できた。第一に上﨟・中﨟とは僧綱以下中﨟に至る階層であること、第二に彼らは「上﨟中﨟集会」を開催したことである。

 前掲の「尋尊御記」によれば、法師位の者が中﨟とある。鎌倉前期の興福寺中行事を知るうえで重要な史料である「御寺務部」の千部会の項では、「已講・成業以下上﨟分」という記載が見え、僧綱以下成業までが上﨟であったことは確実である。円堂は室町期には中﨟を意味しているが、おそらく鎌倉初期にまで遡ることができよう。学習の上﨟とは僧綱・已講・成業の僧、中﨟とは円堂の僧、下﨟とは非円堂を指すものと思われる。法師位は中﨟、大法師位はおそらく中﨟または上﨟にあたると思われる。

 さて、以上、考察してきたように、鎌倉初期の寺僧集団は複雑な階層構成を成していたが、上﨟中﨟集会・上﨟集会という集会組織を有するのみで、いまだ鎌倉後期の学侶・衆徒・六方の集会組織は誕生していないことが確認できた。

 

P229 大衆から衆徒へ

 鎌倉初期までの寺僧集団全体を表す言葉として「大衆」がある。その内部は先述したようにいくつかの階層に分かれ、上﨟・中﨟が集会を開くことはあったが、それは造営という臨時の特殊の場合であった。日常の寺内の運営や奈良・大和・寺領の支配は、本書第四章で考察したように、別当を頂点とする政所系列の諸機関であった。大衆は本来、世俗的な事柄には関与せず、何か特別な場合にのみ世俗に関与した。その特別な場合の中でも、最も頻繁に発生したのが、多武峰など他寺との逃走や朝廷への強訴など強権を発動する場合であった。

 大衆は、そのような場合、牒や下文の様式の文書で命令を伝達する。(中略)

 以上のような南都への使者光長の見聞した集会の様子から、大衆が、僧綱等(上﨟に相当する)および六方大衆(中﨟・下﨟の学衆か)と東西両金堂衆(禅衆に相当)から成立しており、最終的に金堂前において合流するものの、身分によって分裂する可能性をすでに孕んでいたことがわかる。また、そう強盗を除いた六方大衆および両堂衆の数が圧倒的であり、彼らが悉く武装していたことや、彼らの代表者が誰であるかが、その場にいて問答をした使者光長にもわかっていなかったことは注目しておかねばならない。

 

P231 大衆から衆徒へ

 鎌倉初期、大衆とほぼ同義で用いられていた衆徒という言葉は、鎌倉中期以降、学侶や六方衆を分出し、かつ官符衆徒や衆中沙汰衆を生み出すことによって、一つの恒常的な集会組織となる。

 

P232

 当初、大衆と同義で用いられていた衆徒の語が次第にある特定の集団を指す語になっていき、文永段階には明らかにたんなる非常時における集会集団ではなく恒常的に設置された組織になっていたと推測されるのである。

 

P233

 衆徒は別会五師を窓口として外部と交渉した。

 

P234

 別会五師は東大寺の年預五師に相当する存在である。(中略)五師の中から毎年二月十五日に選ばれ、任期は一年。別会五師を蝶とする機関を別会所と称し、別会所下文を発給する。

 

P236

 以上の様式上の特徴を有する別会所下文の内容は、別会所の権限を調べる材料になりうるが、その中でひとつ注目されるのは春日若宮祭りに関する内容のものがあることである。これは保延二年(1136)に開始された若宮祭の奉行を別会五師が担当したことによる。「若宮祭礼記」によれば、若宮祭は「為大衆沙汰、若宮御祭始給事」とあり、その大衆の沙汰の執行を別会五師が行なったのである。(中略)別会五師が何故に「別会」と称したのかは不明である。

 もし別会所が当初から大衆の執行機関的性格を有していたとすると、表14の中に政所の命を受けて発給されたものがあることは、例外と言いうるかもしれない。

 なお、別会所は所領を有し、別会所所属の神人・寄人を支配下に持っていた。

 

P237 衆徒の分化、学侶・官符衆徒・六方衆の発生

 広義の衆徒から、まず学道・学侶が分出する。(中略)

 学道は学道集会を催し、その決定をはじめ別会五師、のちに供目代を通じて伝達した。

 

P238

 さて、学道とはほぼ同一実体を指している学侶集団は、学道より少し遅れて史料上に登場する。「中臣祐春記」正応二年(1289)一月二十三日条にある、学侶が神人動員を衆徒に命じている記事が早い事例である。学侶集会(評定)の窓口は供目代である。(中略)

 学侶は衆徒や後述する六方衆などよりも上位の階層の寺僧集団であり、僧綱の下位の者をも含み、大法師位に至る上﨟・中﨟の学習であった。

 以上のように、広義の衆徒は鎌倉中期文永元年ごろまでに学道(ほぼ、のちの学侶)を分出したのであるが、それはなぜであろうか。おそらく彼らがことさら「学」を強調する点に理由があるだろう。武装集団ではなく、学衆本来の学問の研鑽を強調し、武装集団と一線を画するために学侶集団が形成されたと考えられるのである。彼ら学侶は、恒常的に学侶集会を開催し、衆徒やがて六方衆と対抗しつつ、自らの発言力を増大させていったと思われる。

 

P240 二 官符衆徒(衆中)と沙汰衆の出現

 広義の衆徒の段階から次第に衆徒の集団が特定のものに限定されていく過程で、大きな画期となったのが学道・学侶の分出であった。以後、原則として学道・学侶は勅旨房に集会し供目代を代表とした。また、衆徒は大湯屋に結集し別会五師を代表とした。しかし、鎌倉末になると衆徒の中に還付首都が見えるようになり、また、衆中沙汰衆が出現する。ここに室町期の衆徒の直接の出発点を見出すことができる。

 

P242

 さて、衆中沙汰衆は別会五師に代わって衆徒を代表するようになっていくのであるが、その過程を示すのが「中臣祐親記」(春日大社所蔵)永仁六年(1298)二月二日条の記事である。(中略)なぜ、衆徒の代表として新しく沙汰衆が出現したのか。その理由ははっきりしないが、一つは、本来別会五師が広義の衆徒の代表であったことから、学侶を分出したあとの衆徒の代表になりにくかったことが考えられる。学道の代表として当初別会五師があったことを想定すべきである。

 さて、この沙汰衆は狭義の衆徒の代表であるというよりも、衆中という衆徒集団の中枢組織の代表としてあったように思われる。衆中という呼称は、鎌倉前期にはたんに衆徒中の意味で使用され、衆徒集団の中の特別な集団・組織という意味は持っていない。(中略)〜衆中の窓口となったのが沙汰衆であり、衆中のメンバーの中から毎年交替で選出されていたことが窺える。(中略)

 以上、鎌倉末期、正応〜永仁ごろに狭義の衆徒集団の中に官符衆徒=衆中の組織が構成され、その代表として衆中沙汰衆二名が置かれたことを指摘した。

 

P244 三 六方衆

 「はじめに」で示したように、六方衆について詳細に検討された渡辺澄夫氏の結論のごとく、六方衆は本来、六方大衆(衆徒)の意味であって、堂衆を除く学衆全体を有事の際に六方に編成したところに発生したものである。渡辺氏が注目されるように、強訴や発向などの際に六方に「成」ったり、「発」ったり、「催」されたりするものである。つまり本来臨時の軍事編成のあり方として発生したものであり、六方衆という集団が常に集会を開いていたわけではない。

 臨時に編成された六方大衆の中の一階層が六方衆という集団を編成するのは鎌倉末のことと思われる。

 

P246

 何故に鎌倉末になって六方衆という中﨟身分の集団が形成されるのか。今までの考察から推定するならば、学侶分出後、衆徒(狭義)の中に衆中=官符衆徒が置かれ、彼らが衆徒の中核を占めるなかで、学侶と衆中の中間の身分階層に属する六方大衆が六方衆として日常的な組織集団を形成せざるを得なくなったのではないと推測される。

 

 

P260 第六章 鎌倉末期の興福寺大乗院門主

 大乗院・禅定院・竜華樹院などの院家を管領する大乗院家の院主の地位を、当時の史料では、門跡・門主・院主と呼んでいるが、ここでは門跡の語が加算を指す場合にも使用されることから、より明確に人を指す「門主」の語を使用する。(中略)

 (大乗院の濫觴)本願隆禅は伯父の成源少僧都が創始した元興寺禅定院を相続していることから、鎌倉時代に大乗院門主の居所となった禅定院は、この段階から大乗院と一体化する歩みを始めたといってよいであろう。

 隆禅の跡を継承したのが、頼実少僧都。大乗院・禅定院を継承し、内山永久寺を建立した。大乗院を摂関家の師弟が継承し、門主となるのは三代尋範からである。

 

P285 第二節 門主の条件と門跡争奪の原因 一 大乗院門主の条件

 大乗院門主の地位が摂関家の出身者によって継承されるようになったのは、平安末期の三代尋範からであったが、摂関家の分裂にともなって九条道家の子孫に門主が継承されるようになるのは、通家の子の円実が門主となってからである。以後、大乗院門跡は九条道家の子で一条家の始祖である実経の子孫と、同じく九条教実の子孫の中から相続されることになり、他家出身の門主は誕生しない。大乗院門主となるためには、九条家一条家出身の貴種僧でなければならなかった。この時期、関東申次として朝廷で実権をふるった西園寺氏は、東北院に子弟を入れるが、ついに大乗院や近衛家管領する一乗院には入ることはなかった。

 それでは、九条家一条家からどのように門主後継者を入れるのか。慈信以後の門主の継承をめぐる争いを見ると、門主自身が自己の意志で後継者を決定することができず、出身母体の九条家一条家の意向に大きく左右されていたことが注目される。

 

P286

 このように大乗院門跡継承にあたって、現門主の意向がないがしろにされ、出身母体の九条家一条家の意向が強く働いたのは、第一に、それらの家においては大乗院門跡が「家領」と認識されていたからであると思われる。

 

P287

 大乗院門主の地位は、興福寺別当のような国家から任命される官職でもなく、摂関家氏長者から補任される職でもない。又、一般の私的相伝される院家であれば譲状の授受をもって院家の継承は成立すると考えられるが、大乗院の場合、置文は作られるものの、譲状は作成されないから、どの時点で門跡を継承し、新しい門主となったかを指摘することは簡単なことではない。前節での考察から、門跡継承は二段階を経てなされると理解される。

 第一段階は時期門主として奈良に下向し、大乗院に入室した段階である。(中略)尋覚あるいは覚尊が入った内山永久寺や、慈信が長く居住した菩提山正暦寺は大乗院門主門主を退いた後に入る隠居寺であった。それに対して、禅定院は現門主の居住する院家であり、門跡運営のための評定もここで行われた。その禅定院に居住していることが門主の条件であったのである。(中略)その禅定院に受戒前の若年の後継者が入り、前任者が隠居寺に退去することは、入室が門主継承の第一段階であったことを示している。このいわば見習い門主は、若年でも勤まる象徴的な存在であり、様々な年中行事への出席を義務づけられていた。

 引退した前門主は内山や菩提山に完全に隠遁したわけではなかった。慈信が「大御所」と呼ばれたように、依然として門跡を管領していた。第二段階は、隠遁した形になっている前門主が、門跡の管領を新門主に譲る段階である。それはたとえば正安三年(1301)十月に慈信が尋覚に大乗院門跡に譲ろうとし、翌年四月に「雑務」を尋覚に委ねた段階である。(中略)要するに、大乗院家の経営に中心となって関わることが、実際に門主として門跡を継承したことを意味するのである。

 

 

P298 第七章 鎌倉末期の興福寺大乗院家の組織

 身分として最も上層に位置付けられるのは、大乗院門主の「門徒」として私的な関係を結ぶ学侶僧である。僧綱・成業などの身分を有する興福寺寺僧の上層をなす。彼らは、興福寺全体のなかで学侶集会に結集する僧であるが、その一部は大乗院や一乗院の「門徒」「被管」(被官)となっていた。彼ら大乗院の門徒は寺内での抗争などにおいて、大乗院門主の命令によって一致した行動をとった。

 

P299

 門主と対面し、門主の許で「奉公」するということは、まさに将軍のもとに「見参」し、「奉公」する御家人の姿と重なるものである。こうした門主との「主従関係」に入った僧のことを「門徒」と呼んだのではないか。(中略)彼ら(門徒)は、大乗院の門徒として大乗院で催される法会に参加し、門主の移動の供をしたり、後述する大乗院の評定において評定衆を勤めた。そうした「奉公」に対して様々な得分が「御恩」として与えられたのである。(中略)これは興福寺の寺僧全体が多く大乗院・一乗院の被官化していく南北朝期以降の歴史にあって、いまだ六方衆が被官化されていないことを意味している。衆徒も鎌倉末期には被官化しておらず、南北朝以降次第に被官化されていったとみるべきだろう。

 

P300 第二節 坊官  一 坊官の組織

 大乗院家において「坊官」(または「房官」)および「侍」と呼ばれる身分の僧がある。彼らは後述するように、門主のもとにあって大乗院家の経営に携わる僧である。坊官と侍という身分に分かれているが、実際にはその活動・性格にほとんど違いはない。また、彼らの出自は同じである。したがって、ここではとくに断らない限り一括して扱うことにする。

 

(1)御後見職

 さて、坊官組織の中核となる役職は「御後見職」である。「大乗院具注暦日記」正和六年(1317)八月五日条によれば、門主尋覚によって源覚が御後見職に補任され、院家の管領を任されている。『三箇院家抄』によると御後見職は雑務職または政所とも呼ばれていたという。(中略)鎌倉末期においては神殿庄が御後見職に附属する荘園であったが、『三箇院家抄』の記された室町期までに楊本庄あるいは出雲庄や古河庄が付け加えられたといえる。ところで、応永九年(1402)の「院要鈔」によれば御後見職は門主から直接口頭で「仰せ」を受けるのが本来のあり方であったという。南北朝期までは補任状はなかったのである。

 

(2)院別当

 御後見職との違いは不明であるが、院別当という役職が見られる。(中略)院別当と御後見職はほぼ同一のものと思われる。

 

(3)奏者番と御前結番制

 門主の側近として門主への取次をする役職に奏者番がある。(中略)坊官のうち、門主の「御前」に詰める者を六番に編成し、その勤務規定と罪科規定を定めた前者(御前結番の制度)には「御前に祗候し、近辺昼夜、再々奉公致すべき」ことが求められ、近習に関する八カ条を定めた後者(近習の輩に関する規定)にも「公平を存じ、忠節を尽さば、一事以上、更に違失あるべからざるか。然からば、内は潜かに冥衆の加護に預かり、外は蓋し重畳の温床を蒙るか。」としている。ここには門主覚尊と御前に結番する坊官および近習との関係が「奉公」「忠節」と「恩賞」を媒介とする主従関係に他ならなかったことが如実に現れている。

 

(4)奉行人・給主・納所

 御後見職・院別当の下、坊官は大乗院家の経営に当たって種々の奉行人・納所や大乗院領の給主・預所などに任命される。奉行人には後述する評定の奉行人の他に、「御相節米」奉行人が見られる。これは坊官に対する給与としての性格を持つ「御相節米」を担当する奉行人のことである。元亨四年(1324)の「内山御所毎日抄」の記事を見ると、記主である坊官は奉行人泰舜から毎月御相節米十石を支給されている。

 大乗院領荘園の給主や預所に、門徒の僧綱らとともに坊官も任じられたことは、先述した元亨三年(1323)九月の門主慈信による補任記事に見ることができる。(中略)範乗都維那が任命された「大乗院納所」とはおそらく大乗院領荘園から納入された年貢全体を集積し管理する役職であったと思われる。実舜から任命された「菓子寄人」とは大乗院に所属する「菓子寄人」を担当する奉行のことで、「名主」と呼ばれた者であろう。『三箇院家抄』にはこうした大乗院所属の寄人身分の名主を「商人名主」と表現している。

 

P303 二 坊官の家

 鎌倉末期の坊官の一部は興福寺の三綱に就任する。寺家の三綱はほとんどが大乗院と一乗院の坊官から構成されている。

 

P308

 ところで、大童子や御童子などの大乗院に所属する児童は、坊官らの子息であったと推定できるが、その児童の所属をめぐって興味深い記事が見える。

 

P309 第三節 評定制

 門徒の僧綱・学侶と坊官・侍らは、鎌倉末期には評定制度を整備し、共同で大乗院家の訴訟を中心とする諸問題を解決する体制が成立する。この大乗院家の表情制の存在を初めて指摘したのは佐藤進一氏である。(中略)

 「評定不参咎間事」を十カ条にわたって定めた「院家評定条々記録」からまず評定が評定衆3人と奉行人によって構成されること、大評定・小評定・広評定の三種類の評定があり、午刻の貝の音を合図に開始されたことなどがわかる。小評定は毎月三・十三・二十三の日に開かれ、訴訟内容が「大事」であれば一カ条、「小事」であれば一カ条以上を沙汰(議論?)すると定めている。小評定の上に大評定があるがその内容については規定がない。広評定は、(中略)恒例の評定ではなく訴人の愁訴を聴くための特別の評定であったと推測されるが、詳細は不明である。

 

P315 第四節 御坊人

 大乗院家の構成員には坊官・侍の他に、彼らの下にあって雑務にあたる北面(上北面・下北面)、知院事、御牛飼、御力者、御童子、下部などがあり、先述した正和五年(1316)の評定記録に院家の使者として現れる彼らの姿が見られる。

 

P317

 御坊人は日常的にはどのような「奉公」を門主に対して果たしたのか。前の一乗院の御坊人と思われる長河庄公文昇蓮の言によれば、昇蓮は恒常的には四カ月余りの「長番」と、臨時の橋本郷の十日間の番役に従っている。(中略)こうした番役を本来勤めた者が上北面であり、観応二年(1351)の両門跡の争い以来、御坊人である衆徒国民が勤めるようになったとしているが、実際には観応以前の鎌倉末期には御坊人が院家の警固に当たっていたのである。

 大乗院門主と御坊人との関係は、将軍と御家人の主従関係に擬せられるものであるが、両者の間には「名主」と呼ばれる坊官が介在しているようである。

 

P318

 すなわち、大乗院家の御坊人である目安又三郎には「名主」あるいは「奉行」と呼ばれる坊官が上に存在しているのである。この「名主」という存在は別稿で指摘したように大乗院に所属する寄人や御童子にも認められるもので、大乗院家における御童子・寄人や御坊人などの統括者を意味している。「名主」は所属する彼らに対して検断権を有していた。

 以上、検討したように、御坊人は大乗院領や一乗院領の荘園の荘官で、門主との間に主従関係を結んでいた武士である。彼ら大和の在地領主は鎌倉末期において三つの方向に発展する可能性を持っていた。第一に門跡の御坊人(被官)となる道。第二に、興福寺の衆徒、あるいは春日社の白人神人になる道。そして、第三に、地域的な一揆を結ぶ道である。大乗院家の御坊人である古市市が応永二十一年(1414)には衆徒として、同じく御坊人である十市氏が国民として現れ、在地の一揆である長谷川党が御坊人であったように、その三つの方向は一つに収斂することなく重なり合っていたと考えられるが、その点については後日の課題として残しておきたい。

 

 

P338 第八章 寺辺新制

 さて、「至今度者且遵行 勅制、殊達貴所広触満寺、稠可被行件罪科之状、依衆議所定如件」という書き止め文言は、この南都新制が、まさに勅制(公家新制および「今制」を指している)を遵行する法令であることを如実に示しているが、もう一つ、この法の制定者が「衆議」であることを示している。(中略)

 このように、この南都新制は「衆徒」の僉議・評定によって制定されたものと考えられ、「衆議」とはそれを指す言葉であると考える。この「衆徒」がいかなる集団を具体的に指しているかについては、今のところ断言することができない。おそらく、それは鎌倉後期以降の学侶・学道に対比される衆徒・衆中ではなく、別当・三綱・五師を含む学侶を中心とする大衆集団ではなかったか。南都新制の署判者は、それら集団の代表者として初版を加えたとするのが妥当であると考えられる。

 

P351

 公家新制(宣旨)→公家新制(太政官牒)→寺辺新制

 

 

P368 第九章 中世の公人  第一節 寺院の公人  一 東大寺

 この初見史料からも指摘できるように、東大寺において公人とは堂童子のことである。(中略)この堂童子は、東大寺において下所司たる勾当・専当・小綱等の末端に連なる政所系列の職員であることは、前掲拙稿で指摘した。彼らは、大仏殿や中門堂、法華堂、講堂、二月堂、戒壇院などに分属していたと思われる。

 

P369

 公人の名前で注目しておかなければならないことに、彼らが俗名である点がある。また、上級者から「国親丸」「時房丸」というように「丸」という見下した称号が付されていることに注目したい。これらは、次に述べる小綱が僧名であることと異なる点である。

 

P371

 一般に、東大寺文書中に出現する小綱は、公人とは一応、区別される。それは会料等を下行される場合や使者として荘園に派遣される場合に、公人よりも上級の扱いで公人と並列して史料に登場すること、また、前掲の弘安四年の「小綱・公人等起請文」において、小綱七人が公人よりも上段に署判していることからも証明される。堂童子が公人とも呼ばれ、最初のうちは両方の名称がともに使用され、やがて鎌倉中期以降、公人という名称の方に移っていき、荘園経営に関する惣寺の史料には小姓として定着し、堂童子という職名が使用されなくなるのに対して、小綱は公人という呼称に映ることはなかった。ただ、彼らもまた、自分たちが公人であるという意識を持っていたことは注意しておかねばならない。それは、彼らの置かれていた身分が公人達よりも上であったとはいえ、その職掌がほとんど変わりなかったことと関連するだろう。「御寺(惣寺)の奴婢」として「御下知」に随い、「忠功」を尽くすのは、堂童子たる公人も小綱も同じであったからである。

 次に公人の食傷について考察する。前掲拙稿において、公人が惣寺の使者として荘園との連絡にあたり、在地の荘官に代わって年貢未進の譴責、罪科人の荘内からの追放、住宅破却、放火などの検断に従事したことを指摘した。(中略)

 この他、公人は荘園以外に関東や京都への使者や南北朝期には吉野の南朝への使者としても史料上現れる。また、東大寺郷である手掻郷、今小路郷、押上郷の郷民や、伊賀国黒田庄の荘民のうち有徳人の交名を、惣寺の命令に従って小綱・神人とともに注進している。彼らは寺辺の東大寺郷に居住し、寺中の取締り(たとえば、牛馬の放飼の停止など)に当たった。

 

P373

 さて、以上、東大寺の公人について種々の角度から検討を加えたが、それらを総合すると次の点が指摘できよう。つまり公人は惣寺の支配下にあり、また、惣寺支配下にあってこそ、公人と呼ばれるのである。(中略)ここから、公人が惣寺の「奴婢」であり「下部」であり、惣寺の支配下にあって、彼らが政所系列下の執行によって駆使され荘家への使者となることが罪科の対象となっていることを知ることができるのである。

 

P375 二 興福寺  (1)鎌倉期

 まず、鎌倉期にあって公人が中綱、仕丁、専当であり、公文目代の直接の管轄下にあって検断や一国平均役賦課に従事したことを指摘したい。

 

P376

 〜今、公人に関してここから指摘しうることは、

 ①公人=専当・中綱・仕丁である。

 ②公人は郡刀禰とともに一国平均役賦課(この場合は富裕の輩に対する在家役)の使者あるいは検断使として、宣旨、長者宣によって不入権を認められている荘園にも入部する(ただ、この時点では不入権を主張する領家と対立している)。

 ③公人を管掌するものとして公文目代、そして、その上級には興福寺別当、長者殿下政所が存在する。また、公人は衆徒の配下にもある。

 

P379

 さて、この三通の史料から、第一に、公文目代の直接の管轄下に下所司がおり、その下所司とは公人に他ならず、複数の公人集団の長的存在であることが推定される。

 第二に、(イ)の史料から、公人の使命は犯科人の追捕と国役賦課にあり、その権限は国司、守護の権限を興福寺が獲得しているところからきているとしていることである。(中略)

 さて、春日若宮神主祐賢において、「公人」はいかなる意味を持った言葉として使用されていたか、また中綱・仕丁といかなる区別がなされていたかを検討してみると、祐賢は公人と中綱・仕丁の用語を使い分けていた事実、公人は検断・兵粮米・土打催促の使者として登場するが、中でも検断を行う場合がほとんどであること、中綱は興福寺衆徒・寺家(別当)の春日者への使者として登場することが判明する。公人が春日社への使者として登場する用例はない。平安後期から鎌倉中期にかけて、中綱・仕丁が検断において鎌倉中期ごろから公人と呼ばれることの意味は、興福寺の大和一国支配権、とくに検断権がその頃から拡大されていったという問題と関連するであろう。

 

P380 (2)室町期

 公人と呼ばれるものは専当・中綱・仕丁・堂童子である。彼らは興福寺別当によって補任される(公文目代の推挙による)。これらの職名のうち、基本的な身分は中綱と仕丁である(中綱は僧名、仕丁は俗名で藤井姓である)。中綱は専当、堂家の諸進、知事、勾当を、仕丁は七堂の堂童子、主典を兼帯する場合がある。中綱は仕丁の上に位する。

 これらの諸職は興福寺別当によって補任されるが、中綱・仕丁の集団は公文目代の管轄下にあった推定され、彼らが罪科や緩怠の科を犯した場合、彼らを処分するのは公文目代であった。彼らが他職を兼帯した場合、その所管の長の管轄下にも属した。たとえば堂童子の場合、東西両金堂を含む七堂の管轄は通目代であったから、堂童子は通目代支配下にもあった。

 さて、中綱・仕丁は集団として血縁的な関係で組織され座的構成を有していたが、彼らは後述するように別当・学侶・六方・衆中・講衆等の命令を受けた。その場合、直接それらの機関から命令を受けたか、それとも鎌倉期のように公文目代を通していたかははっきりわからないが、おそらく別当や衆中の下では番を編成して近侍していたであろう。「番中綱」なる言葉はおそらくそれを指しているであろう。中綱は「中綱帳」にその番と名を記され、それを公文所の札に懸けていた。このうち、別当に近侍する者は「御前中綱」と呼ばれた。

 南北朝期のものと推定される「大乗院奉行人引付」には、各機関からの大乗院への申し入れ事項とそれに対する返事が記録されているが、その伝達に中綱が当たっていたことが記されている。(中略)中綱は公文目代からの使者として登場する。(中略)すなわち、室町期の中綱・仕丁は、公文目代に掌握されてはいるが、分裂拡大した興福寺の諸機関に分属していた可能性もあると考えられるのである。

 

P382

 公人はいかなる機関・組織に属していかなる行動をしたか。公人が公人と呼ばれる所以は、その行動内容が「公的」活動と認識され、「公的」機関の命令によるからである。(中略)

 公人が最も多く登場するのは、衆中の下で七郷等で発生する喧嘩・刃傷・打擲・殺害などに対して、検断の使者として犯科人の住宅を検封、破却したりする姿である。この他、衆中の下で奈良中酒屋壺銭や相撲銭の徴収、道路上の積雪の排除、七郷や門跡領内郷民に対する人夫役の徴集、衆中集会によって決定された奈良中を対象とする法の実施、夜番などの警固役につくこと等がある。

 次に六方衆の下の公人のあり方を見ると、奈良中の清掃、六方支配下の巻向山の山木の沽却、六方の下で三党者とともに長谷寺に発向し、住房を破却、白河里を焼き払ったこと、長岡庄百姓が年貢催促の神人を殺害した事件により、六方の命により公人が下向し住屋を焼き払ったことなどをあげることができる。

 この他、学侶の下で寺門段銭を大和一国中に相触れたり、用水相論の際に五師所の命で用水を切り落としたり、講衆の命によって神鹿殺害の犯人の在所へ発向したり、別当の命により、別当の室町将軍家への参向に供奉したり、七号の有徳人に別当の京上伝馬役を賦課している。(中略)

 

 まず、検断権をめぐって学侶・六方と衆徒の間に確執があったが、室町期には奈良・七郷は衆徒が、大和一国は学侶・六方が管轄していたようである。『大乗院寺社雑事記』に登場する衆中(衆徒)による検断関係の史料は、大部分南都七郷内に関するものである。

 

P385

 以上の考察から、公人は興福寺内の公的機関・組織に所属し検断に携わったことがわかるが、これに対して、この時期、興福寺内権力を二分したと評価される大乗院、一乗院の両門跡の下には公人は所属していないことが注目される。尋尊は『大乗院寺社雑事記』において公人の語を明確に使い分け、門跡領内および大乗院末寺(内山永久寺、菩提山寺)に対する検断の際の検断使は、力者、御童子、定使、後見と呼ばれ、彼を公人とは呼んでいない。

 

 

P386 三 小括

 公人の存在は東大寺興福寺以外にも延暦寺金剛峯寺、東寺、醍醐寺、大安寺、薬師寺法隆寺中尊寺などの大寺院において確認することができる。ここでは、東大寺興福寺で問題とした論点を東寺、延暦寺の事例を加えて整理しておきたい。

 ①寺院の公人は寺院寄稿の末端にあり、大きく分けて二つの身分に分かれる(図1)。上段は僧名を有し、下段は俗名である。東寺の場合、両者ともに実名と仮名を有した。

 

  上段      ┃  下段

 (東大寺) 小綱 ┃ 堂童子

 (興福寺) 中綱 ┃ 仕丁

 (東 寺) 中綱 ┃ 職掌

 

 ②公人は血縁的関係で結ばれ、その職を世襲し、座的構成を有した。東寺の場合も父子間でその職を世襲し、実名の一字を通字とした。

 ③興福寺の中綱職、仕丁職に見られるように職は別当などによって補任されるが、「公人職」という言葉は基本的には存在しない。東寺の中綱職・職掌職は東寺長者の進止下、別当、執行によって補任された。

 ④「公人職」という語が存在しないことは、公人なる語が中綱・仕丁・堂童子などの政所(別当)系列下の職とは別次元で登場した言葉であることを意味する。平安期以来のそれらの職の職掌を越えた次元に彼らの活動が及び、それが中心となることによって生じたのが公人なる語なのである

 ⑤公人の語の出現とその活動の活発化は、鎌倉中期、後期ごろの東大寺(惣寺─衆徒等の集団)による領域的、一円的荘園支配の形成、興福寺の衆徒による大和一国に対する検断、一国平均役賦課などの支配の強化と相応するように思われる。東寺の場合、公人の名称の登場は供僧、学衆が中心となる鎌倉末ごろであったと思われる。

 ⑥公人の活動は検断と切り離すことができない。その際、興福寺の場合、下部に非人を組織している。これは延暦寺における、

  山門公人─祇園社公人(寄方)─犬神人

のシステムに類似している。

 ⑦公人は院家には所属しない。院家は私的な存在と認識されているからである。公人が所属する惣寺、衆徒、学侶、六方などは、寺院内外から公的存在と認識された組織・機関である。興福寺の場合、大和一国に統治権(公権)を有したことは問題ない。東大寺の場合、少なくとも一円的荘園の領域下においては、惣寺は公的存在であり、公権所有者であった。

 ⑧別当なども寺院内において公的存在であるが、東大寺において明確に指摘できるようにその権限は惣寺に移行していくこと、また、別当の下では⑤にいられる公人の活動があまり見られないことから、その公的性格は次第に特定の分野に限定されていったと考える。

 

 

P388 第二節 公人の分類と一般的性格  一 分類

 第一節で考察した寺院の公人の他に、中世において公人の語はさまざまな形で登場する。ここでは寺院の公人も含めて、公人全体をその寺院から三つに分類したい。

 

(1) 下級官人を公人と称する場合

 この例は、平安末、鎌倉初期から史料に登場し、室町期に至って多く使用される。たとえば、主殿寮の場合、主殿頭は官務小槻氏の世襲となっているが、その小槻氏の下で供御人と統括し、所領の管理を行う主殿寮年預たる伴氏は、年預の地位を世襲し、公人と称されている。伴氏は主殿少允クラスの官人と推定される。この他、内蔵寮の「寮官」造酒司の官人、「采女」を公人と称する事例を鎌倉期において見出すことができる。(中略)

 室町期に入ると、「外記方公人」「蔵人方公人」「官方公人」「馬寮公人」「局中公人」など、その所属する官司の名を付して使用され、公人の語は公家社会において用語として定着した。

 下級官人に準ずるものとして、上皇などの院に所属するものも公人と呼ばれている。

 

(2) 幕府奉行人を公人と称する場合

 鎌倉幕府室町幕府の奉行人を公人と呼ぶ用法がある。(中略)こうした用法に近い例が、文殿・記録所の寄人などを公人と称する場合であろう。

 

(3) 権力の末端に位置する雑色クラスの身分の者を公人と称する場合

 この用法には、寺院の公人、室町幕府侍所小舎人、雑色、政所公人、国衙公人がある。これらは、第一節三に示した寺院の公人と似た性格を有する。(中略)

 さて、ここで公人の用語が鎌倉期ごろからなぜに発生し使用されたかを推測しておきたい。寺院の公人の発生についてはすでに考えた。この他に三つの原因が考えられる。

 ①鎌倉期において「官人」の用語が使庁官人に限定して使用される傾向にあったため、「官人」に代わる律令制の系譜を引く王朝諸官司の職員を指す用語として「公人」という用語が必要とされた。

 ②先に指摘した主殿寮年預伴氏に見られるように、平安末ごろから従来の律令諸官司が官務小槻氏や局務中原氏など下級貴族の家に世襲される傾向が生じ、その請負体制の中で、従来の四等官制に代わって新たに「年預」などという新しい役職が生み出された。主殿少允たる伴氏は、年預という役職を世襲し家職としたのである。こうした従来の体系にない新しい役職を持つ官人を表現するために、公人の用語が創出された。

 ③鎌倉幕府の成立により、東国に京都の律令国家の系譜を引く政権とは別の政権が誕生し、律令制国家の用語たる官人に代わって、幕府を構成する官僚を指す用語が必要とされた。幕府奉行人を公人と称する所以である。

 

P391 二 一般的性格

 ここでは、中世における史料中、最も多く登場すると思われる(3)のタイプの公人の共通の性格を指摘したい。

 ①前節小括で見た寺院の公人の性格の②は、侍所公人・政所公人においても同様に指摘できるのではないか。侍所小舎人・雑色が使庁の「四座の下部」の系譜を引き、「四座公人」と号したと思われること、政所公人もまた「公人惣中」「公人衆」という集団を持ち、新加の公人を排除し定数を維持し既得権を守ろうとしていることから、座的性格を有したことが推定される。

 ②京都・奈良などの都市に居住する都市民である(これは(1)タイプの公人にも当てはまるだろう。

 ③公人の経済的基礎は、所属する機関・組織から下される給分である。このことは興福寺公人において指摘したが、侍所公人の給物として国役として地頭御家人に対して人別一貫文が課せられていたことは、すでに指摘した。また、侍所あるいは政所の職掌を遂行する上において給分を得ていたことは当然予想される。

 ④課役免除の特権を有し、手工業や商業に従事した。東大寺の公人は興福寺衆中によって奈良中に課せられた人夫役を免除されている。興福寺東大寺の公人が居住する郷に対する賦課徴収を担当するがゆえにその課役を免除されたのは当然であろう。室町幕府政所公人が諸役を免除され、諸商売の自由を認められていたことは、永禄五年(1562)十一月九日の幕府奉行人の下知状、同十年(1567)正月日の公人の申状に見ることができる。彼らは特権免許の下知状を公人惣中および一人ひとりに与えられている。この場合の公人新四郎は茜染商売に従事している。また、侍所の公人は諸商売に従事し、政所公人とも有徳輩と呼ばれている。十六世紀初めには、侍所の雑色で銅商売を営んでいる太刀屋という人物は、侍所支配下の太刀屋座の一員であった。東大寺の公人たる小綱は、東大寺郷の一つである押上郷で唐笠屋を営んでいた例があり

興福寺の場合壁塗の寄人、葺座、唐笠座の座衆でもあったことは先に指摘したとおりである。課役免除、商売自由の特権を有した公人の性格は、(1)のタイプの公人についても指摘できる。

 ⑤検断に従事する。寺院の公人については、前節小括の⑥において指摘した。侍所の公人が犯人追捕、籠番、拷問、住宅破却に当たったことは、すでに註(133)で指摘した。政所公人の場合は、洛中闕所屋に札(検封の札であろう)を懸けていることから、検断事項の一部たる住宅の検封は政所公人の職掌となっている。

 公人は検断に際し、その下に非人を組織する。この例はすでに興福寺延暦寺において見られたが東大寺や侍所、政所の公人の下にも非人が検断ためしたがっていたと思われる。

 ⑥公人は主従制的支配の範疇の語ではない。したがって公人が下人や被官人を所持することもありうるし、逆に公人が下人になることもありえた。たとえば、東寺では「宮仕以下公人等召仕下人、尻切着用之事緩怠次第也、可有停止事」とあって公人が下人を召し仕っていることが知られる。また、侍所公人、政所公人が被官人を有したことは、「一、小舎人雑色并政所公人付、彼等被官人事」とある史料から知ることができる。「彼等」と「被官人」とは同格として読めない。「彼らの被官人」のことである。

 興福寺公人が下人にされることを禁止している法令が、『大乗院寺社雑事記』に見える。

 

P393

 公人が公権力を所有する権力機構の末端に位置したことは、(1)のタイプの公人については当然のことであり、(3)のタイプの公人についても幕府侍所公人、政所公人、国衙公人については問題ない。また(2)のタイプの公人も公権力たる幕府に所属することから問題はない。公人を公権を有する機構・組織に所属するものとした場合、障害となるのは、寺院の公人の場合である。興福寺の場合は大和一国を支配する公権として除外できるが、東大寺などその他の荘園領主もこの範疇に含むことができるのであろうか。この点については、第一節で推測してみたが、「公方」「公田」の用法がどちらも荘園領主を「公」と認識していた事実から、中世において荘園領主もまた、公権力と意識されていたと思われる。ただ、すべての荘園領主が貢献であったかは問題である(寺院の場合、公と私は明確に区別され、院家は公的な存在と認められなかったことはすでに指摘したとおりである。院家は荘園の領家職を所有する)。

 以上、「公人」の「公」の意味を推測してみた。そこで公人の語をもし定義するならば、一応、「公権を所有する権力機構に所属し検断など公的活動に従事する職員」としておきたい。