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中世の〈遊女〉

  辻浩和『中世の〈遊女〉』(京都大学学術出版会、2017年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章 〈遊女〉を理解するために

P3

 ここでいう山括弧つきの〈遊女〉とは、売買春に従事した女性の総称であるが、これは研究上用いられているタームに過ぎず、歴史的な実体としては、おおよそ以下の三種の女性たちを指している。

 まず遊女と呼ばれる女性たちは、九世紀後半ごろから交通の要衝に出現し、和歌や歌謡などの芸能をもって宴席に侍したほか、売買春にも従事した。十一世紀以降は特に今様という流行歌の歌い手として有名となる。遊女の中から、次に述べる傀儡子が分化していくと、彼らと区別する意味で、淀川沿い、瀬戸内海沿いなどの水辺に集住し、小舟に乗って旅人の船に近寄ってくるものたちを特に遊女と呼ぶようになっていた。淀川沿いの江口、神崎川河口の神崎などが、その本拠地としては有名である。十三世紀後半ごろからは、京中で遊女屋を構える営業形態の方が目立つようになっていき、近世の遊郭へとつながっていく。

 次に傀儡子と呼ばれる女性たちは、十一世紀ごろに遊女から分化したもので、社会的実体としては遊女と同じ可能性が高いのだが、今様の曲調の違いによって呼び分けられたものらしい。東海道の宿に集住し、旅人に一夜の宿を提供するものたちを、特に傀儡子と呼んでいる。美濃国青墓・墨俣(いずれも現岐阜県大垣市)が特に有名である。ただ、十三世紀後半以降、傀儡子を呼び分けることはほとんどなくなり、彼女たちは再び遊女と同一視されるようになる。

 最後に白拍子と呼ばれる女性たちは、十二世紀後半に京周辺で出現し、鼓に合わせて足拍子を踏む、白拍子舞を芸とした。彼女たちも売春を行なっていたが、十六世紀ごろまでは基本的に芸能者として扱われていたようであり、遊女・傀儡子とは区別されることが多い。

 

P5

 多くの人が抱くであろうこうした〈遊女〉のイメージは、近世後期以降の〈遊女〉をもとに作られたものである。しかし、本書で扱う中世〈遊女〉のあり方は、右とはかなり様相を異にする。

 ①‘第一に、中世〈遊女〉の生業には芸能や宿泊業などが含まれており、必ずしも売春を伴わない。

 

P6

 〈遊女〉たちは他にも和歌や朗詠などの芸能を行なっている。中世〈遊女〉の史料には、売春よりもむしろ芸能に関する記述の方が圧倒的に多く残されている。

 また、遊女・傀儡子の住居は、しばしば旅宿として利用された。(中略)(『古今著聞集』巻16─549)この話からは、遊女の家がやはり旅宿として用いられていたこと、交渉次第で性交渉を行なえるが、それは必須ではなく、別料金であったことなどがうかがえる。遊女の家の宿泊機能は、女性によっても利用されることがあった。

 

P7

 ②‘第二に、中世〈遊女〉の基本的な形態は独立的な自営業であって、彼女たちは居住や就業の自由を有していた。彼女たちが広範な地域を遍歴していたことは比較的よく知られている。

 

P8

 こうした自由は、中世の〈遊女〉たちが〈イエ〉を代表する家長として働いており、人に使われる立場になかった点に由来する。(中略)その生業は母子相承の「家業」であった。つまり、中世の〈遊女〉の再生産は、基本的には人身売買によってではなく、家業の継承として行なわれていたのである。

 〈遊女〉たちはここに独立した経営を行なっていたが、地域ごとに集住し、院・摂関の下向などに伴って大きな収入があればそれを分け合うなど、相互扶助的な集団を形成していた。このように〈遊女〉に横の連帯が存在したことも、中世の特徴に含められよう。

 ③‘第三に、中世〈遊女〉の被差別性は近世以降と比べて弱いとされる。後藤紀彦・網野善彦はこのことを〈遊女〉の社会的地位の高さとして強調し、彼女たちの地位が低下し、差別されるようになるのは十四世紀以降のことであるとした。そこでは、〈遊女〉が天皇・院・貴族らに寵愛されて子を産んでおり、またその子が特に問題なく昇進を果たしていること、〈遊女〉のなかに女房になるものが多かったことなどが指摘されている。

 

 

第4章 寺社と〈遊女〉

P188

 ただ、通常「遊女」の芸態は座っての歌謡、白拍子の芸態は立っての舞と区別する。

 

P190

 この点から推して、春日若宮で今様が謡われることの意味もまた崩落として考える必要があるだろう。今様が法楽として観念される確実な所見は管見では十二世紀中頃以降に見られるが、後世の能や連歌を考えてもわかるように、法楽は芸能の流行に即応するものであるから、これは今様の流行によって生じた観念と見てよい。特に若宮拝殿に「哥ウタヒ」が存在していた後白河院政期は今様流行のピークに当たっており、「そのころの上下、ちとうめきてかしらふらぬ人はなかりけり」(『文机談』巻三)という状況だった。隆盛していた今様を取り込むことによって祈願の効果を高めようとする試みはごく自然なものであったと考えられる。ここで、院政期には個人的かつ随意な神社への参詣形態が一般化し、それに伴って神社側でも神職の常駐化による受け入れ体制が構築されていったという三橋正の指摘を踏まえるならば、保延元年(一一三五)年の創建から間もない春日若宮において、法楽に対する参詣者の欲求に応える形で「哥ウタヒ」や「遊女」が拝殿組織に取り込まれていった可能性を想定できる。

 このように拝殿「遊女」が今様の流行によって規定される存在であるとすれば、前節で述べたように拝殿「遊女」が文永年間を最後に史料から消えることは、今様流行の衰退期とほぼ一致している点から説明可能である。一方、拝殿白拍子が中世後期にも存続することは、芸能としての白拍子舞が寺社を中心として存続していたことと対応する現象といえるだろう。筆者は中世後期の「遊女」が芸能性を減じて売春性を強める一方、白拍子女は芸能性を保持し続けると考えているが(第八章後述)、その分岐点は鎌倉中・後期にあったと見られる。

 

P200

 ①春日若宮の拝殿組織には「遊女」が存在し、巫女や神楽男と同じように西金堂と衆徒とによる二元的支配を受けていた。

 ②その職掌としては、法楽芸能の奉仕が想定される。院政期に今様が流行し出すと拝殿「遊女」の前身である「哥ウタヒ」が組織され、流行が終わる鎌倉中・後期以降は拝殿「遊女」が見えなくなる。一方、拝殿白拍子の場合には、中世後期に至っても引き続き所見する。このように、拝殿「遊女」・拝殿白拍子は、職掌としての芸能に規定される存在であった。

 ③拝殿「遊女」・拝殿白拍子は、拝殿に奉仕する一方で私宅を有し、私的な営業を行っていたと考えられる。

 ④寺社と〈遊女〉とのつながりは、他の寺社においてもその痕跡を認め得る。

 以上によって王権と〈遊女〉との繋がりが相対化され、「職能民」一般に還元されない、固有の生業と自立的組織の上に存立する〈遊女〉のあり方が明確になったと考える。

 

 

第五章 「遊女」集団の内部構成

P214

 かなり時代は下るが、『大乗院寺社雑事記』文明七(1475)年正月七日条で「上首」に「ヲトナ」の傍訓が振られているように、上首は所謂オトナ層に当たるものと見てよいだろう。

 

P216

 ①「遊女」集団は〈イエ〉を基礎とする座的構成をとっており、内部に長者・上首・一般「遊女」といった階層性を有していた。この集団は、執行部と内部規範とを持つ自律的な集団であった。

 ②このうち長者の地位は、上部権力からの補任に基づく点で他の「遊女」とは異質であり、﨟次原理からも遊離していた。寺社などの上部権力は長者を通じて集団全体を掌握していたものと思われる。

 ③長者の初見が今様の流行り始める十一世紀半ばであることから、上部権力による「遊女」集団の支配は、当初から今様奉仕を目的としていた可能性が高い。

 ④「遊女」集団の形成が上部権力による支配に先行している点から、そうした支配は集団の存立にとって本質的なものではなく、あくまで外在的なものであった。そうした「遊女」集団の形成・解体には、今様の伝承と関わる居住の論理が影響を与えていた可能性がある。

 

 このように、「遊女」集団の存立を根底から支えていたのは、上部権力との関係ではなく、今様・売春などの生業であった。「遊女」と上部権力との関係を強調する「職能民」論に胃は、この点で限界が存在する。

 

 

第七章 〈遊女〉と女房・従女

P268

 吉川真司は、平安時代の平安宮内裏にいた女性を①后、②御息所、③女房、④女官(女房以外の下級女官)、⑤従女(下仕・女童)の5種に分類し、「天皇のキサキが①②であり、天皇・キサキ・東宮それぞれに③女房と④女官が奉仕し、⑤従女が女房・女官の職務を助けた」と指摘する。主人の家族に直接仕えるのが女房・女官であり、女房・女官の下で補助的業務を担うのが従女ということになる。吉川は特に女房の存在形態に着目し、彼女たちの階層を「家司女房層」=「受領層」(すなわち四位五位の諸大夫層)として把握したが、従女についてはほとんど触れていない。これに対し、保立は地方貴族・領主が宮廷社会に倣って作り出した女房組織を「女房─半物─下女」として把握したうえで、半物や下女に分析の主眼を置いた。保立によれば、「女房」領主の妻女に仕え、「半物」は女房に仕え、「下女・下仕」は童姿にされ賤しい雑役に従事させられた。「下女・下仕」は下人身分の女性であり、百姓・下人層と婚姻関係を結んだという。吉川の分類に当てはめれば、「従女」の中に「半物─下女」の二階層が含まれるということになろう。

 

P275

 一方、女房が鼓を打った例は管見では、覚一本『平家物語』巻二「卒塔婆流」で、平康頼の夢に「女房達」二、三十人が鼓を打ち、声を調えて今様を謳ったとある程度に過ぎない。ただこれは夢想であり、次に述べるように当時女房が人前で合唱することは通常考え難いので、これをもって女房一般が鼓を打ったとするにはかなり慎重でなくてはならない。

 以上のように、鼓の演奏事例に関しては〈遊女〉と女房との間で明確な相違が見受けられる。特に、当該図像の女性は自ら鼓を打っていることから、遊女・傀儡子の可能性が高いと言えよう。

 

P276

 このことは、当該図像の女性を考える上で大きなヒントになる。なぜならば、この当時、女性が歌を謳うということは、「非常に特殊な状態でのみ認められるものであった」とされているためである。すなわち沖本幸子によれば、「平安時代を通して、貴族の女性は基本的には歌わないもの」であり、貴族女性の歌謡は常軌を逸した行為として公私を問わず忌避された。これは姿形を容易には見せない当時の男女関係の中で、女性の「声」、特に個人の心情や感慨を歌詞に乗せて謡う歌謡が非常に官能的・肉感的なものと捉えられていたためであり、遊女・傀儡子のような「歌女」はこうした貴族女性のタブーに対応する形で存在していたという。

 

P277

 なお、白拍子は、前半で歌謡白拍子に合わせて舞い、後半では即興の若を歌いあげ、それに合わせて足拍子を踏み鳴らしながら舞台を廻る芸である。一般に理解されているように「今様を歌いながら舞う」ものでも「今様を歌ってから舞う」ものでもなく、白拍子にとって今様は副次的な芸であった。また、白拍子が舞わずに歌謡白拍子のみを謡う例も決して多くはないという。このため白拍子女を図像として表現しようとするならば、『鶴岡放生会職人歌合』のように立って舞う姿で表すのが、最もふさわしい【一八八頁 図3】。当該図像のように、座って歌謡する姿から白拍子を想起するのは難しいのではなかろうか。

 したがって、当該図像の下方女性が歌謡を謡っていると見てよいならば、この女性は非貴族女性、それも遊女・傀儡子のような「歌女」を描いたものとみるのが、もっとも蓋然性の高い解釈であろう。

 

P280

 したがって、貴族女性が宴席で男性の近くに同座することも、通常はあり得ないことであった。

 

P281

 このように、『餓鬼草紙』が成立する12世紀後半の段階では、貴族女性が隔てを用いることなく、男性のすぐ傍に同座することは一般的とは言えない。一方で、〈遊女〉の場合にはこうした行為を行なっている事例が散見される。

 

P283

 以上、当該図像に見られる四つの特徴に関して、女房と〈遊女〉との比較を行なってきた。その結果、女房などの貴族女性が鼓・歌謡・同座に関わっている例は僅少かつ異例であり、当該図像は〈遊女〉、それも歌謡を主たる芸とする遊女・傀儡子の女性を表現したものである可能性が極めて高いことが判明した。

 関口の議論とは異なり、「邸宅内の場」において、〈遊女〉と女房は顕著な差異を示している。遊女の初期事例がすでに全国的な広まりを示していることから、古代において地方官衙と遊行女婦が密接な関係をもっていたとする服藤早苗の指摘には一定の有効性が認められるが、しかしそのことは平安期以降において〈遊女〉と女房が互換性をもつことを必ずしも意味しない。むしろ、9世紀後半以降は、貴族女性の秘面化が進み、男性との接触制限が強化されていく中で、女房とは異なる行動様式をもつ〈遊女〉たちが貴族男性の遊女を満たしていくのであり、〈遊女〉と女房との差異性こそが意味をもっていたと考える。

 

P284

 以上の点から、従女は庶民女性と互換性を有する存在と見なすことができる。

 

P286

 このように『餓鬼草紙』が描かれた頃、歌謡はさまざまな階層の男女によって謡われており、その中には従女や庶民女性も含まれていた。右に引いた『梁塵秘抄口伝集』の記事からは、謡わない貴族女性の特異性が見てとれよう。

 

P287

 従女が容貌の美しさによって選ばれたことは前述した。このことは、従女が他者から見られる存在であったことを示している。

 

P290

 このように、従女は貴族男性から見られ、容貌を評価される存在であり、身分の違いにも関わらず彼らと同座することがあり得た。この点で従女と〈遊女〉とは共通する側面を有している。

 

P291

 以上、従女・庶民女性の行動様式について見てきたが、これらの女性は、箏を弾かない点や束髪などの点で〈遊女〉とは相違するが、一方で鼓・歌謡・同座などに関しては〈遊女〉と類似する行動様式を示すことがわかった。〈遊女〉は女房よりもむしろ従女・庶民女性との親和性が高いと言えそうであるが、一方で〈遊女〉は弾琴など貴族女性に近い行動様式をも示している。当該図像を見るものが描かれた女性たちを〈遊女〉であると理解できるのは、このように貴族女性とも従女・庶民女性とも異なる行動様式をとっていることによるのではなかろうか。貴族男性たちが身近にいる従女ではなく、わざわざ〈遊女〉を召す理由も、こうした特殊性によっていたはずである。この点は今後もう少し考察の必要があるが、試験では、その特殊性とは、従女では行ない得ない弾琴や、歌謡に関する能力・知識など、すなわち彼女たちの芸能にあったのではないかと考えている。

 

P295

 女房という帰属身分は、主人との関係によって成り立つものであるから、白拍子であっても、主人が認めれば「家の女房」であり、「女房として」振る舞うことができた。逆に、主人(や主人よりも上位の者)が要求すれば、彼女たちは女房としてあるべき振る舞いを捨て、白拍子として芸能を奉仕することも可能であったと思われる。この場合、傀儡子目代や本阿のようにまったくその芸能をやめてしまうのではなく、芸能による奉仕をも継続して行なっていたために、「白拍子」としての職業身分が継続したものであろう。

 

P296

 逆に、女房が〈遊女〉になる例は限られている。

 

P300

 このように、女房が〈遊女〉になるためには、貧窮という切実な理由が必要であった。人前で謡わず、男性に顔を見せないように育てられた貴族女性が、まったく逆の行動様式、それも自分より下層の従女や庶民女性と共通する行動様式をとり、貴族男性に接することには、大きな葛藤があったことは想像に難くない。それはおそらく、〈遊女〉が女房となるよりもはるかに高いハードルであった。こうした身分意識の問題を捨象して、〈遊女〉と女房の互換性を強調する議論には、賛同できない。

 

  第六節 まとめ

 本章では、『餓鬼草紙』の図像を手がかりとして、〈遊女〉、女房、従女の差異について考察した。その結果、〈遊女〉は従女・庶民女性と完全に同一視はできないものの、ある程度親和性をもっており、逆に〈遊女〉と女房・帰属女性との間には行動様式上大きな差異があることを明らかにした。こうした観点からすると、従来言われてきたように〈遊女〉と女房との間に本来的に互換性があるという理解は、改める必要がある。

 先行研究が〈遊女〉と女房との互換性を重視してきた背景には、〈遊女〉の「淵源」や「源流」を探ることで、中世〈遊女〉の性質を明らかにしようとする意識が横たわっている。そうしたアプローチがまったく無意味であるとは思わないが、起源の重視は、一方で、起源が〈遊女〉の性質を規定し続けるという本質論的・超歴史的な理解に陥り、歴史的な変容を見落としかねない危険性を有している。9世紀以降、〈遊女〉と女房・貴族女性との差異が生じることを踏まえて初めて、両者の関係性を正しく捉えることができるだろう。そして、両者の差異は、労働の具体相の中にこそ、見出すことができるのである。

 本章の結論からは、中世〈遊女〉の再生産に関する課題も導かれる。〈遊女〉が女房・貴族女性ではなく従女・庶民女性と親和性を有するとすれば、従女・庶民女性が〈遊女〉になっていた可能性が検証されなければならいだろう。資料残存の特性上、その追究はかなり困難ではあるが、本章で言及したように〈遊女〉が半物などの従女になっている事例があるので、その逆も十分に可能性がある。詳細は後考を期したいが、従来特殊なものと理解されてきた遊女のいわゆる「源氏名」には、庶民女性と共通する名乗りが多数含まれている。「源氏名」が特殊なものではないとすれば、〈遊女社会〉を一般社会とは隔絶した特殊な社会とみなしてきた従来の研究にも見直しを迫ることができるだろう。こうした作業を通して、今後〈遊女〉と一般社会との関係性、すなわち差別の問題や、近世「遊女奉公」への移行過程を見通していきたい。

 

 

第八章 中世前期における〈遊女〉の変容

P331

 九世紀半ば、各地の交通の要衝に「遊女」が登場する。これは発生期の遊行女婦の後身であるが、しかし売春性をもつという点において遊行女婦とは区別される。「遊女」「アソビ」として所見するのは、その相違を示している。この時期の「遊女」は売春と和歌とを生業としていたと考えられるが、十世紀末から十一世紀初頭にかけて今様が流行し始めると、これを生業に取り入れたらしい。程なく今様をアレンジして謡う一派が現れ、男性や人形による舞を取り入れた結果、そうした芸風が広範に広まり、十一世紀半ばには従来の遊女とは区別されて傀儡子と呼ばれるようになった。ここに狭義遊女と傀儡子との区別が生じる。両者はいずれもこの時期までに集団化を遂げたらしく、それぞれの本拠地に応じた今様を管理・伝承していった。両者の区別が芸態・本拠地の違いに応じたものであったため、十三世紀後半に今様の衰退が本格化し、本拠地からの離脱傾向が強まると、両者の区別も曖昧化し、遊女・傀儡子は再び「遊女」として同一視されるようになる。この際、芸能性が低減して売春性が前面に出たことにより、「遊女」は「傾城」「好色」「婬女」とも呼ばれるようになった。これらの呼称は中世後期以降も継続して用いられる。

 

P332

 一方、十二世紀半ばに出現する白拍子は、売春と白拍子舞とを生業とする。売春を行なう点で〈遊女〉の一形態であるが、中世後期においても芸能としての白拍子舞が需要されるため、白拍子は芸能性を保持し続け、売春主体の「遊女」とは」区別され続けた。

 このように、中世における〈遊女〉の呼称には、〈遊女〉に対する社会の認識やイメージが反映されており、それらは芸能の流行盛衰など、生業のありように応じて変化したと考えられる。〈遊女〉というカテゴリにとっての「本質」が売春性にあるにもかかわらず、芸能性が集団認識に大きな影響を与える点に、複数の生業を抱える中世〈遊女〉の特質が現れていると考える。そうした特質が薄れ、売春性を主体として近世に繋がるあり方が準備され始めるのが、「遊女」における鎌倉中・後期の意味なのではなかろうか。

 

P333

 ①十三世紀前半までの「遊女」は、今様の正統性をめぐる意識から本拠地に執着しており、需要の多い京に滞在することはあっても居住することはなかったと考えられる。

 ②鎌倉中・後期に今様流行が本格的に衰退すると、こうした本拠地への執着は薄れ、「遊女」の京内居住や本拠地の移転が活発化する。

 ③今様流行の衰退に伴って、「遊女」の芸能性は減退し、売春性が前面化すると考えられる。

 ④そのことは呼称や評価基準の変化にも表れている。十三世紀半ばには、それまで芸態の違いによって区別されていた遊女と傀儡の呼称が曖昧化し、同時に「傾城」「好色」「婬女」といった容色・売春にまつわる呼称が定着する。それまで容色と芸能の両面でなされていた「遊女」への評価も、鎌倉中・後期以降は容色のみでなされるようになる。

 ⑤「遊女」とは対照的に、この時期白拍子の居住や呼称が大きく変化することはない。これは、芸能としての白拍子がこれ以降も存続するためと考えられる。

 

 

第九章 中世後期における〈遊女〉の変容

P356

 ①「遊女」は〈イエ〉を有しており、内部には家長としての「遊女」と下人・所従としての「遊女」の二つの階層があった。

 ②十五世紀後半ごろ、「遊女」の〈イエ〉内部で男女の勢力交代が起こり、「遊女」が一般に家長としての地位を喪失する。この結果、女系相続は行われなくなり、下人・所従としての存在形態が「遊女」の主要なあり方となっていく。

 ③家長の地位を喪失したことにより、「遊女」は神人・寄人等としての帰属身分や、百姓としての出生身分など、〈イエ〉の公的位置づけに関わる身分を失うと考えられる。一方、個人に対して与られる職業身分・イデオロギー身分に関しては変化が見られない。

 ④「遊女」は中世を通じて非人としてのイデオロギー身分を与えられておらず、「遊女」への「卑賤視」は非人とは別の筋道で、おそらく男女の性規範をめぐる問題として考える必要がある。

 

 

終章

P359

 「遊女」が歌謡を生業に取り込むのは、九世紀の発生当初からのことではなく、10世紀末になってからのことであり、さらに歌謡が前面に押し出されてくるのは十一世紀末になってからのことである。こうした「遊女」側の動向を、社会における今様の流行現象と関連するものと考え、社会的な需要と「遊女」側の動向と相互関係について考察した。十一世紀半ばごろから貴族社会で「遊女」の今様に対する関心が強まり、十一世紀末ごろからは一部の貴族・官人たちが「遊女」との人脈や自身の芸能を生かして、より上級の貴族と繋がろうとし始める。この時期の貴族・官人の関心は、何よりも「遊女」の芸能にあった。この時期、「遊女」側でもこうした需要を受け止めるため、今様を生業の前面に出す動きが起こり、貴族社会への依存度を高めていった。しかし貴族・官人たちの関心は、新興芸能に関する人脈・能力を生かして自らのプレゼンスを高めることに置かれていたため、彼らはより朝廷社会に受け入れられやすい形に高尚化した今様を志向し始める。こうした動きによって今様の儀式化・固定化が進むと、今様が本来もっていた芸能としてのエネルギーは失われ、今様の流行は終息する。貴族たちが「遊女」の芸能に寄せる関心も急速にしぼんでいき、芸能を前面化していた「遊女」たちは大きな影響を受けざるを得なかった(第一章)。

 後白河と「遊女」の関係、後鳥羽と白拍子との関係は、こうした貴族層の動きを追いかけ、貴族たちの人脈を利用する形で始まっている。この時期、天皇・院がさまざまな芸能を実践し、興隆させることが臣下を取り立てることにつながるという「諸道」観念が生じていた。これは、芸能によって上位者と繋がろうとする貴族・官人たちの動きに呼応した王権側の動きといえる。後白河は、詩歌管弦の素養を欠いていたために、自らが得意とする今様や蹴鞠の地位を高め、そうした自らの遊芸的素養を儀礼の場でアピールした。後白河の場合にはそのアピールが貴族だけではなく雑人にも向けられていた点が特色と言える(第二章)。

 一方、詩歌管弦をはじめとしてあらゆる芸能に通じた後鳥羽の場合には、貴族社会内部に向かう意識がより明確に見受けられる。需要なのは、こうした天皇・院の芸能が、個人の帝徳を高めるための手段だったという点である。後白河・後鳥羽と〈遊女〉との関係も、彼女たちから新興芸能を摂取する目的のために取り結ばれていたと考えられる。したがって、後藤・網野が強調したように、朝廷が組織的に〈遊女〉を召し抱えることは求められていなかったのであり、王権と〈遊女〉との関係を過度に強調することは誤りであるといえよう(第三章)。

 寺社もまた、今様流行の中で、法楽のために〈遊女〉の芸能を必要とした。春日若宮拝殿には「遊女」や白拍子が組織されており、彼女たちは社殿で崩落として芸能を奉仕することを基本的な職務としていたと思しい。このため、今様流行が終息すると拝殿「遊女」は見えなくなるが、拝殿白拍子は中世後期まで残り続けるなど、芸能の流行状況に応じた展開の相違が見られる。このような〈遊女〉との関係は、他の寺社においても断片的ながら推定できる例がある。このことは、春日若宮の事例が特殊なのではなく、〈遊女〉の芸能に対する社会的な需要の中で生じた、ある意味で普遍的な現象であった可能性を示していよう。また、拝殿の〈遊女〉たちは自社での奉仕以外に、私的な営業を盛んに行なっている。このことは、〈遊女〉の存在形態を寺社との関係のみで捉えるのではなく、〈遊女〉の側から、生業のありように即して見ていく必要があることを示している(第四章)。

 

P360

 「遊女」集団の場合、長者と、﨟次制に基づく上首とが執行部を構成し、その他多数の一般「遊女」を指導する座的な構成になっている。しかし長者は﨟次制の外部に位置づけられており、他と比べて異質な存在である。長者と上首の成立時期を見ると上首の方が先行していることから、少なくとも十一世紀前半までには、各地に集住していた「遊女」の中には階層性をもった自律的集団が成立し、十一世紀半ば以降、今様流行に伴って上部権力の側に「遊女」集団を捕捉することへの欲求が高まると、権力側とつながる有力者として長者が設定されるのではないかと推測した(第五章)。

 また、「遊女」集団には、「遊女」の生業を支えるスタッフとして、舳取・簦指などの女性従者がおり、彼女たちは経済的に「遊女」に強く依存した存在形態をとっていたと見られる。一方でこれまで「アルバイト遊女」と見られていた「湍繕・出遊」は、経済的に困窮した女房たちが「遊女」集団の外部で売春行為を行なっているものであり、「遊女」集団にとっては競争者とみなしうることを指摘した(第六章)。なお、白拍子については集団構成を示す史料がほとんどないため、考察は「遊女」集団に限らざるを得なかった。

 

P361

 先行研究が〈遊女〉と女房との互換性を強調してきたことから、絵画史料に見える〈遊女〉の行動様式を女房・従女と比較したところ、〈遊女〉は女房よりもむしろ従女や庶民女性との親和性を持つこと、それゆえに、〈遊女〉が女房になることは比較的容易にできるが、女房が〈遊女〉になるのはかなり特殊な事例と見られることが明らかになった(第七章)。

 十三世紀後半に今様流行が終息すると、集団形態と身分の面で「遊女」には大きな変化が訪れる。まず。それまで今様の正統性を保証してきた本拠地への集団居住の必要がなくなるため、本拠地の移動や、客の多い大都市への流入が起こったと考えられる。次に、芸能性よりも売春性が前面に出てきたことにより、「遊女」の呼称やイメージは「傾城」「好色」「淫女」といった性愛中心のものに変化し、彼女たちを容色のみによって評価するようになるなど、「遊女」と社会との関係は大きな変容を迫られた。一方で、今様を生業としない白拍子は中世においても芸能性を前面に保持するなど、「遊女」たちとは異なる歴史的展開をたどる(第八章)。

 このように芸能性を減退させ、売春性を前面に出した「遊女」のありようは、中世後期の「遊女」につながっていくものであるが、そこから近世の「遊女」に至るには、さらにいくつかの変容を経る必要がある。もっとも重要な点は、中世の「遊女」は〈イエ〉の家長として自由な裁量権を有し、排他的な集団を形成していたが、十五世紀後半から十六世紀にかけて、他人に使役される下人(下女)としての「遊女」の存在が一般化し、集団外から流入して「遊女」となる女性の割合が増大していくことであろう。この頃にはまた、遊女と、非遊女としての一般女性を二分法的に区別するまなざしが成立するとされている。この点は展望にとどまるが、その背景にはおそらく性倫理・性規範の変化があり、「遊女」に対する社会的需要のありようが変化していくのだと予想される。ともあれ、「遊女」の下人化と特殊視によって、中世「遊女」は、廓に囲われて隔離され、主人に使役される近世的な「遊女」への道をたどり始める(第九章)。

 このように、中世「遊女」の歴史的展開には、いくつかの画期がある。一つ目の画期は、これまでの研究で示されていたように九世紀後半、売春を行なう存在として社会から「遊女」と見なされ始める時期である。二つ目の画期は、十世紀末から十一世紀にかけて、今様を生業に取り入れる時期である。社会で今様が流行すると、「遊女」は遊女と傀儡子に分化して集団化を遂げ、集団には権力とつながった長者が生まれる。貴族たちも遊女・傀儡子の今様を求めるようになると、遊女・傀儡子は次第に今様を前面に押し出すようになり、集団内で竜は意識を育てて今様を管理し始め、貴族の邸第に出かけて今様を披露するようになる。三つ目の画期は、十三世紀後半、今様流行の終焉によって芸能性よりも売春性を前面に出すようになる時期である。遊女・傀儡子は再び「遊女」として同一視されるようになり、社会におけるイメージは性愛を中心としたものに変わっていった「遊女」が都鄙の往反をやめて都市部などに流入し始め、集団は再編成を余儀なくされた。四つ目の画期は、十五世紀後半から十六世紀にかけて、「遊女」が家長としての地位を失い、男性家長に従属するようになる時期である。「遊女」の自立性と集団性は失われ、集団外の女性が「遊女」に流入し始める。また「遊女」を一般女性とは区別するまなざしが広範に定着し、近世の遊郭社会へと連続していく。一つ目と四つ目の画期は売春に関わるもの、二つ目・三つ目の画期は芸能に関わるものであり、いずれの場合も生業構造の変化が、集団や身分をドラスティックに変えていった。一方白拍子は、こうした「遊女」の歴史的展開とは、まったく異なるルートはたどる。こうした性格の異なる画期や、〈遊女〉間での展開の相違は、売春のみ、あるいは芸能のみを見ていては見えてこないものであり、〈遊女〉の複合的な生業をトータルに捉えることによって初めて、〈遊女〉史を描くことができるのである。