周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

中世の身体

  ジャック・ル=ゴフ『中世の身体』(藤原書店、2006年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 序 身体史の先駆者たち

ミッシェル・フーコー ─「生の権力」の下での身体

 

P33

 フランクフルト学派の理論家たちが、とりわけ「魅惑の対象でも嫌悪の対象でもある」身体の歴史を通じてヨーロッパの「隠れた歴史」を明るみに出すことを目指すのに対し、フーコーが考えるのは、「生の権力」の下での身体の位置、すなわち、『知への意志』で彼が書いているように、「その(権力の)」最も高度な機能はおそらくもはや殺すことにではなく、生の隅々までを包囲する」ような権力の支配の下で身体が置かれている位置である。

 

P38

 国家と「近代」都市の形成が見られるようになるのは中世においてのことであるが、身体はこれらの国家や都市の最も豊かなメタファーのうちの一つであり、またこれらの国家や都市の諸制度が身体に形を与える。中世とは暗黒の時代ではないし、停滞した長い移行期でもないのだということを、今一度思い起こしておかなければならない。

 

P39

 文化面で言うと、都市の発展が本格化し、そこに新たな構造が見られるようになるのも中世においてのことである。都市とは、生産の中心であり(つまりそれは消費の中心にはとどまらない)、社会的差別化の中心であり(ブルジョワジーの身体は、職人や労働者のそれとは異なる)、政治の中心であり(都市住民は一つの身体をなしている)、身体が農村におけるような根本的に重要な地位を占めることはない(中世はその社会の90%が肉体労働を行なう農民からなっている時代である)ものの、文筆というもう一つの身体的慣習を発展させる文化の中心である。

 

P41

 「現在に対する無理解は否応なく過去から生じていると言うのが事実であるにせよ、過去は現在によって理解されなければならないというのもまた事実なのだ。」

 

 

P46 Ⅰ  四旬節と謝肉祭の闘い ─西洋のダイナミズム

  (前略)」

 忘れてはならないのは、魂と身体を根本的に分離したのは中世ではなく、まさに十七世紀の古典主義的理性であるということである。中世の身体観は、魂は身体に先在するとするプラトンの概念─この哲学がオリゲネス〔185頃─252頃〕のようなキリスト教と禁欲主義者たちの「肉体の軽蔑」のよりどころとなった─によって培われているばかりではない。そこにはまた「魂は肉体の形相である」とするアリストテレスの理論も入り込んでいるのだ。中世の認識の仕方は、「各々の人間は、物質的で、滅びるべき被造物である身体と、非物質的で、不滅の被造物である魂とによって成り立っている」、というものである。身体と魂を切り離すことはできない。「身体は外側(フォリス)であり魂は内側(イントゥス)であって、作用と兆候を送りあう大きなネットワークによって相通じている」と、ジャン=クロード・シュミットはまとめている。悪徳と原初の過ちをもたらす身体は、また救いでもある。「言が肉となった」と、聖書は言う。キリストが苦しんだのは、人としてである。

 しかし、中世に与えられた一般的な呼び名といえば、それはまず第一に大いなる身体の放棄の時代というものであった。

 

P47 大いなる無欲

 身体の私的な喜びを社会に対してあからさまに表現することは、広く抑圧される。ギリシア人、ローマ人からの遺産である共同浴場、スポーツ、劇場が消滅するのは中世においてのことである。円形闘技場(アンフィテアトル)もまた姿を消し、その名は競技場での競技から、大学〔の階段教室(アンフィテアトル)〕において神学精神が交える論争へと移っていく。女は悪魔とされ、性は管理され、肉体労働は軽蔑される。同性愛は、まず禁じられ、次に黙認され、ついには追放される。笑いや激しい身ぶりは排斥される。仮面、化粧、仮装は非難される。邪婬と食道楽は同一視される…。身体は魂の牢獄、魂に対する毒であると見なされる。したがって一見すると、古代における身体の崇拝は、中世においては社会生活の中での身体の地位失墜に道を譲ったように見える。

 身体観のこの大転換をもたらし助長したのは教父たちであり、それは修道院制度の創設によってであった。教父たちの教会に対する影響により「禁欲的理想」がキリスト教を支配し、この理想を基盤として修道院社会は中世初期の間キリスト教的生活の理想的模範として重きをなそうとする。

 

P51

 中世において、血液は社会の二つの上層階級である祈る人と戦う人との間の関係を知るための試金石である。後者は戦士の階級であり、聖職者の階級である前者と絶えず競争と対立の関係にあったが、彼らの特徴は血を流させることである。必ずしも守られていなかったとはいえ、教義の番人である修道士たちの方は戦うことを禁じられている。祈る人と戦う人との間の社会的区別は、したがってこのタブーをめぐってなされることになる。このタブーには、社会的、戦略的、政治的理由だけでなく、神学的な理由もある。新約聖書のキリストは、血を流してはならないと言っているのである。

 

P53

 血液のタブーはそれでも残る。中世において女性が男性に比べて低地位に置かれていた数多くの理由の一つは、その月経に求められる。たとえ、アニタ・グノー=ジャラベールが指摘するように、旧約聖書が生理のある女性に対して定めたさまざまな禁止を中世神学は採用していなかったにしてもである。教会が既婚者たちに対して定めた女性の整理期間中の性交の禁止を破れば、その結果は癩病(レプラ)の子供の誕生となって表れるであろう。癩病は今日で言えば「世紀病」とでも言うべきものであるが、その説明は一般的にここに求められていた。精液もまた、穢れである。性は十二世紀以降血液のタブーに結びつけられ、身体の蔑視の頂点となる。

 中世のキリスト教は、罪を穢れとの関係で特別視する。精神的なものが身体的なものの上に置かれる。キリストの純粋なる血は、人間の不純な血とは切り離される。「高貴な血」と呼ばれるものである。

 

P54

 したがって、中世において性的身体の価値は多くの場合軽んじられている、衝動や肉欲は大きく抑圧されていると断定したくなる。キリスト教的意味における結婚は困難をともないつつ十三世紀に現れるが、それ自体現世欲を抑える試みであった。性交が考慮と容認の対象となるのは生殖を目的とする場合に限られる。「姦通する夫とは、その妻を愛しすぎる〔性欲の強すぎる〕者のことでもある」と、聖職者たちは繰り返し言うようになる。こうして身体の抑制のあり方が規定され、「逸脱した」行ないは禁じられる。

 寝室では、女は受け身でなければならず、男は活動的でなければならない。ただしほどほどに、我を忘れないで。十二世紀においては、ピエール・アベラールがただ一人、おそらくは妻のエロイーズのことを考えながら、こう言い放つさえする。男の支配は、「夫の行為の中にはもはや存在しない。夫婦の行為においては、男と女は互いの肉体に対して同等の力をもつ。」しかし大部分の聖職者、俗人にとって、男とは所有者である。ジョルジュ・デュビィの表現によれば、「夫は妻の身体の支配人であり、その占有権をもっている」のである。神学者たちによればあらゆる避妊の試みは大罪である。肛門性交は言語道断。同性愛は非難ののちに黙認され、ボズウェルによれば、十二世紀には教会そのものの中に一種の「ゲイ・カルチャー」が生まれるまでになるが、十三世紀以降はときに食人にも等しい倒錯行為となる。言葉は現実を作り出す。こうして古代後期から中世にかけて出現する「肉体(カロ)」「邪婬(ルクスリア)」「姦淫(フォルニカティオ)」といった新しい言葉が、反身体思想のキリスト教的語彙を作り上げていく。肉体という言葉で示される人間性にこうして性的意味が付与され、またこれによって「本性に反する罪」への扉が開かれる。

 このような体系は、十二世紀のグレゴリウス改革とともに最終的な完成を見る。「グレゴリウス」というのは〔改革の象徴的存在である〕教皇グレゴリウス七世(在位1073─1085)の名前から来ている。重要な「改革」であるゆえんは、これが聖職売買(シモニア)や司祭の内縁関係(ニコライズム)を一掃するためにキリスト教教会が行なった一大刷新運動であるためである。とりわけ、グレグリウス改革は聖職者と俗人を分離する。特に最初のラテラノ公会議(1123)以降、修道院生活という新しい規範の中で、聖職者たちは、魂の堕落をもたらし精神の到来を妨げる液体を流すのを慎むように求められる。つまり性液と血液である。独身者たちからなる一つの秩序、一つの世界がこうして確立する。俗人たちの方はと言えば、結婚、あるいは世襲性と解消不能の一夫一婦制の規範からなる牢獄に閉じ込められた社会の内部で、その身体を健全に、救済のために用いることを求められる。

 望ましい性的振る舞いの間の等級ができあがる。頂点にあるのは無垢で、実際には貞潔と呼ばれる。次に来るのはやもめ暮らしの中での貞潔で、その次は結婚生活の中での貞潔である。ボローニャの修道士グラティアヌスの『教令集』』(1140項)は、「キリスト教は貫通を禁ずることにおいて男女の両性を区別しない」としているが、これは実践の現実というよりは理論の話である。性交(コイトゥス)についての条項はほぼ全面的に男を対象としている。

 

P57

 これと同様に、教会は俗人たちに「正当な性交」を押しつける。すなわち結婚である。教会のイデオロギー的・理論的支配は、実践面では、聴罪司祭のために描かれた手引き、すなわち贖罪規定書によって発揮される。そこには罪とそれに対応する罰や贖罪が列記されている。他のもの同様『教令』と題されている十一世紀初めに書かれたヴォルムスの司教の手引きは、たとえば既婚男性に対し、「後ろから犬のように交わったか」と尋ねる。そして万が一それが当てはまる場合には、「パンと水のみによる十日間の悔悛」を求める。たとえばまた、生理期間中、出産前、あるいは主日〔日曜日〕に妻と寝た場合にも、同様の罪が科される。さらにこの同じ『教令』の女性版によれば、「そなたの悪魔のような企みによって夫がそなたをもっと愛するように」その精液を飲んだ場合、七年間の悔悛が科される。口淫、肛門性愛、自慰、姦通はもちろんのこと、修道女との情事もまた、それぞれ罪とされる。夫たちに想定される性幻想─それらは、ここでブラック・リストに挙げられている告解者たちというよりもむしろ神学者たちの妄想について、はるかに多くのことを教えてくれる─の場合とまったく同様、罪は女たちに想定される悪巧みに対応している。明記されているところによれば、女は、生きた魚を性器の中に押し込み、「魚が死ぬまでそのままにしておいたのち、それを煮るか焼くかして夫に食べさせ、夫の愛情がさらに燃え上がることを望む」のである。人はまだジャン=ピエール・ポリーが「野蛮な愛」と呼んだ段階にいる。

 

 

P140 Ⅱ  生と死 人生の道のり

 宮廷風恋愛の中に、抑圧された同性愛の姿を見た者さえいる。ギリシア・ローマ人の間では容認されていた同性愛は、キリスト教による猛烈な非難を受ける。しかし、特に十二世紀においては同性愛は多めに見られていたと考えられ、この世紀をガニュメデス〔ギリシア神話で神々に酒を注いだ美少年〕の時代ととらえたものもいる。続いて十三世紀になると、同性愛は最終的に厳格な禁止の対象となった。それでも十五世紀のフィレンツェのような都市において、同性愛は広く行なわれた。

 中世の人々はエロティシズムを知っていただろうか─とはいえ、これは言葉のアナクロニズムで、ギリシアの愛と欲望の神エロスから来ているこの言葉が今用いられているような意味を持つようになるのは、十八世紀のことにすぎないのだが。それを知らなかったはずはない。歌や笑話、彫刻や挿絵は、いかがわしい表象、当惑させる姿勢、奔放な体と体のぶつかり合いにあふれているのだから。

 

P143

 中世には妊娠した女性に対する格別の関心は見られない。妊娠女性はいかなる特別な配慮の対象ともならないのだ。このような無関心、いやむしろこの中立的態度は、社会の上層の女性に対しても、下層階級の女性に対しても、等しく見られる。

 

P184

 いずれにせよ確かなことがある。使者たちの存在は中世においては強力であるということだ。そのことは現実世界についても想像世界についても言える。(中略)こうして、幽霊話が、特に十世紀・十一世紀以降発達する。生者を悩ませるこれらの幽霊に多いのは、「若死にしたものたち」、あるいは「おかしな死に方をしたものたち」である。後者はすなわち乱暴な死に見舞われたものたちの幽霊、たとえば殺人の犠牲者、妊娠女性、未受洗の子供、あるいは自殺者たちの幽霊である。幽霊の実現とは、煉獄を逃れるために生者の「代祷」(ミサ、施し、その他の祈り)を要求する死者の出現であり、これに価格が与えられ、あるいは値段交渉が行なわれた。巧妙にも、そして教義上の一致点も認められたため、教会はそれまで迷信、異教信仰として否定されていた幽霊話の普及に加担し奨励するようになる。

 逆説的なことだが、身体はこの幽霊の出現に関わりをもっている。「夢や幻影を見るものの精神にのみ関わるどころか、それは身体に影響を及ぼすこともできる。完全に非物質的であるどころか、それは身体に影響を及ぼすこともできる。死者の身体から完全に切り離されているどころか、それは、死者が出現する場合には、死骸と関係をもつこともできる。」幽霊についての偉大な研究の中で、ジャン=クロード・シュミットはそう指摘する。

 実際多くの話の中で、幽霊は生者を炎に包む。ある有名な例話やヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』の中で語られているところでは、大学教師のセルロの知の無益さを悟らせるために、「幽霊はセルロの手の上に燃えるような汗の一滴を落とす。この一滴は瞬く間にセルロの全身を貫く。」幽霊は墓穴から這い出し、聖者を悩ませに来るし、特に十二世紀終わりのヨークシャーの驚くべき物語群に出てくるように、生者と格闘したり、生者の血を飲んだりすることもある。シェイクスピアは、まさしく中世の人間なのである。

 死骸から「聖者の香り」が立ち昇る聖人の場合と同様に、幽霊の死体は腐らない。聖人と悪霊の身体はだから、峻厳な生理学的掟を逃れている。中世の死の表象から発達したある新しい芸術もまた、生物学のあらゆる法則を裏切っている。死の芸術である。

 出所は定かではないが、十三世紀以降、「三人の死者と三人の生者」の主題が西洋に広がる。そこには三人の若い男と、その各々に運命を悟らせるために現れた三体の死骸が登場する。「今のお前たちは、かつての俺たち」と、最初の死者はいう。「今の俺たちのように、お前たちもなるだろう。」何人かの歴史家や記号学者は、「死の(マカブル)」という言葉を骨のぶつかり合う音を真似て発音した擬音語だと理解した。また他のものは、この言葉の中に「痩せこけたものたちの舞踏」を見て取った。いずれにせよ、死の芸術、つまり死骸に関わりのある作品群は、特に舞踏のテーマにおいて、はなばなしい成功を収める。

 

P189 あの世の身体

 われわれの時代において恐怖は痛みや臨終の苦しみに集中しているように思えるのとは反対に、中世の人々の最も大きな恐怖、それは突然の死であった。死が早められることによって、大罪を抱えたまま死んでしまうこと、そのことによって地獄に落とされる可能性が高まることを人は恐れた。『マタイによる福音書』が教えるように、時の終わりには、神は最後の審判によって善人と悪人を分けるであろう。「いけにえの山羊たち」には悪魔の煮え湯と地獄の業火が待っており、「従順な羊たち」は楽園へと導かれるであろう。生きている間の行ないが、死後の運命を決定する。罪深いものたちは地獄へ、敬虔なものたちは天国へ。中世の人々には、このような思考、天国への展望、あるいは不吉な展望が染み込んでいる。