周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

古記録にみる死霊の描写 ─室町時代はルネサンス?─ (Ghost written in a medieval diary)

  文明三年(1471)閏八月十六日条

        (『大乗院寺社雑事記』5─451頁)

 

    十六日

     (中略)

 一中御門被相語、南朝方ニ此一両年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、

   (醍醐)

  後酉酉院之御末也云々、南朝御方ニハ随分人也、可成将軍所存在之歟云々、去年

  召取之被殺了、其霊之所為ニ法皇俄ニ崩御云々、彼霊ウツヽニ相見事及度々、

  然之間被立石塔種々仏事有之被訪之、其以後ハ不見霊云々、希有事也、今西方ニ

  御出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、

 

 「書き下し文」

 一つ、中御門相語らる、南朝方に此の一両年日尊と号して十方に奉書を成し、種々計略する人之在り、後醍醐院の御末なりと云々、南朝御方には随分の人なり、将軍に成るべき所存之在るかと云々、去年之を召し取り殺され了んぬ、其の霊の所為に法皇俄に崩御すと云々、彼の霊現に相見る事度々に及ぶ、然るの間石塔を立てられ種々の仏事之有り之を訪はる、其れ以後は霊を見ずと云々、希有の事なり、今西方に御出での南朝は、則ち日尊の取り立て申す君なりと云々、

 

 「解釈」

 一つ、私は中御門宣胤と語り合った。南朝方にこの一、二年日尊と名乗って、あらゆるところに奉書を送り、さまざまな計略をする人がいた。後醍醐天皇のご子孫であるそうだ。南朝方では重要な人物である。将軍になろうとする考えがあるのだろうという。去年日尊を召し捕り殺害した。その霊の仕業で御花園法皇が突然崩御したそうだ。この霊は実際に見ることが度々に及んだ。そうしているうちに、石塔を立て、さまざまな仏事を行ない、日尊の霊をお弔いになった。それ以後は霊を見なくなったそうだ。珍しいことである。いま西軍にいらっしゃる南朝方の人物は、日尊が取り立て申し上げたお方であるそうだ。

 

*この史料については、森茂暁『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川ソフィア文庫、2013年)で触れられているので、詳細についてはそちらを参照してください。

 

 I chatted with Nakamikado Nobutane. There was a person named Nisson in the Southern Court. Over the past year or two, he has sent letters asking various people to help rebuild the Southern Court. I hear that he is a descendant of Emperor Go-Daigo. He is an important figure in the Southern Court. He seems to have an idea to become a general. Last year, Nisson was captured and killed. I heard that Emperor Gohanazono died suddenly because of his ghost. His ghost actually appeared many times. So people set up a stone pagoda, performed various Buddhist memorial services, and mourned his ghost. Since then, his ghost has disappeared. It's unusual. I've heard that the person of the Southern Court, who now belong to the Western Army, were supported by Nisson.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

「中御門」

 ─中御門宣胤。没年:大永5.11.17(1525.12.1) 生年:嘉吉2.8.29(1442.10.3) 室町後期の公卿。父は権大納言明豊,母は法印慶覚の娘。文安5(1448)年従五位上,右衛門佐となり,右少弁,蔵人,蔵人頭などを歴任し,文正1(1466)年参議,権中納言を経て,長享2(1488)年権大納言となる。永正8(1511)年従一位に叙せられる。同年出家,法名乗光。後花園,後土御門両天皇蔵人頭を務めるなど信任厚く,故実・先例にも通じていた。応仁の乱(1467~77)によって衰退した朝廷の儀式の復興を目ざし,一条兼良故実を学び,後進の育成に努めた。和歌もよくし『万葉集』の事項索引とでもいうべき『万葉類葉抄』を延徳3(1491)年に編纂している。書にも優れ,依頼に応じて揮毫している。日記『宣胤卿記』は,歌会などの諸文芸のほか,朝廷の儀式,公家経済などを知ることのできる記事が豊富で,室町後期の公家社会を考える上で貴重な史料。この時期には珍しく84歳の長寿を全うした(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/中御門宣胤-17316)。

 

「西方ニ御出之南朝

 ─小倉宮流で岡崎前門主の子息。当時は出家の身で年齢は18歳と言われている(前掲森茂暁著書、237・238頁)。

 

 

*怨霊の姿が見えること、そして供養によってその姿が見えなくなること。今回の史料ではこうした現象を「珍しいことである」と評価しています。霊的存在を容易にイメージできる私たち現代人にしてみると、この表現はずいぶん奇妙に聞こえてくるのですが、室町時代の人々にしてみると、怨霊の姿が見えるのはまだまだ珍しい現象だったようです。たしかに、言葉であろうが絵画であろうが、怨霊を人間の姿で視覚的に描写したものなど、管見のかぎり『北野天神縁起絵巻』(注1)ぐらいしか思いつきません。

 実のところ、この点についてはすでに研究があります。小山聡子「幽霊ではなかった幽霊 ─古代・中世における実像」(『幽霊の歴史文化学』二松学舎大学学術叢書、思文閣出版、2019、43〜45頁)によると、古代から中世前期では、幽霊(筆者注:ここでは「死霊」の意味)は人前に姿を現すような存在ではなく、姿を見せるようになるのは、能の登場、とりわけ世阿弥の夢幻能(幽霊能)の登場を待たなくてはならなかったそうです(注2)。この指摘を踏まえると、死霊が姿を見せたことに対して、記主尋尊が「希有事也」と記したのも、当然だったということになるのでしょう。

 ところで、小山氏は次のような興味深い指摘もされています。それは、「一六世紀には、怨念を持って現れ出てくる恐ろしい霊としての幽霊と、怨念を持たずあくまでも供養の対象である霊としての幽霊、さらには死者そのものを指す後である幽霊が、並存していた。この時期は、近世における恐ろしい幽霊の登場の、まさしく前夜であると言えよう」というものです(「祟らない幽霊 ─中世」『もののけの日本史 ─死霊、幽霊、妖怪の1000年』中公新書、2020年、156頁)。前述のように、夢幻能によって幽霊(死霊・怨霊)が演じられはじめるのと、怨霊(怨みを抱いた日尊の死霊)がはっきりと姿を現すようになるのは、ともに室町時代でした。この点を踏まえると、「幽霊」という「用語」で、「怨霊」という「意味」を表すには、江戸時代を待たなくてはならなかったのですが、「幽霊、死霊、怨霊」混同の下準備は、すでに15世紀後半には始まっていたといえるでしょう。

 また、私は以前、「厠の尼子さんとその眷属」(https://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2018/06/24/171125?_ga=2.151238201.1251703596.1643531366-1091996426.1642315823)という記事で、「足のない幽霊」の言語的描写の起源が室町時代にまで遡れるのではないか、と書きました。その記事で紹介した霊的存在は女房姿や尼姿の「化け物」で、これらも姿を現したり消したりすることができました。こうした人間の姿をした「化け物」と、姿を見せる「死霊」や「怨霊」の登場も、同じく室町時代だったのです。おそらく、「姿を見せたり消したりできる」・「生者に害をなす」という共通の要素によって三者は混同されはじめ、のちに幽霊が「お化け」と呼ばれるのようになったのではないでしょうか。今回の史料と「厠の尼子さんとその眷属」の史料は、「死霊・怨霊・化け物」が混同される過程を記した貴重な痕跡だったのかもしれません。

 以上のような推論の妥当性はさておき、室町時代はなかなか興味深い時期だったと評価できます。なにせ、かつて見えなかったものが見えはじめ、見えなかったものを積極的に表現しはじめる時代なわけですから。心象風景?、メタフィジックス?、シュルレアリスム? なんと形容してよいのかわかりませんが、新たな価値観を創出する文化的な大変革が起きた時代だった、などと表現するのは大袈裟でしょうか。かつて原勝郎が評したように(「足利時代を論ず」『日本中世史之研究』同文館、1929、https://www.aozora.gr.jp/cards/001037/files/43865_38006.html)、この時代を「日本版ルネサンス」の時代と呼んでみたくもなってきます。

 

 

(注1)

 例えば、文亀3年(1503)に奉納された土佐光信筆の『北野天神縁起絵巻』(京都文化博物館北野天満宮 信仰と名宝 ─天神さんの源流─』思文閣出版、2019年、149・150頁)には、菅原道真の死霊が人間の姿で描かれています(第六段「柘榴天神」・第十一段「道真化現」)。

 

(注2)

 小山論文によると、前近代の「幽霊」の意味合いは多義的で、現代人のイメージする「死霊」「怨霊」という意味は、「幽霊」の一部(下位概念)にすぎなかったようです。また「幽霊」は、怨念をもっているとはかぎらず、まったく恐ろしい存在でもなかったそうです。つまり、「怨みや恐ろしさ」は「幽霊」を特徴づける本質的要件ではなかったのです。

 

*2021.3.26追記

 世阿弥が幽霊を現出させた経緯を、TBSドラマ『俺の家の話』でちょうど放送していました。最終回では『隅田川』が演じられていたのですが、そこでは、亡くなった子ども(梅若丸)の幽霊が姿を見せており、母親がその子を捕まえようとしてもすり抜けて捕まえられない状況が描写されていました。ドラマのワンシーンでしたが、勉強になりました。