【史料1】
永享七年(1435)二月二十一日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』5─87頁)
廿一日、晴、(中略)抑去十八日夜、泉涌寺塔頭青苔院へ強盗入、自兼倉之尻を
(見怡)
穿て財宝悉取放火、近辺塔頭同炎上云々、青苔院へ西雲庵なと重宝文庫ニ被預置
焼失云々、不便也、
「書き下し文」
二十一日、晴る、(中略)抑も去んぬる十八日夜泉涌寺の塔頭青苔院へ強盗入る、兼ねてより倉の尻を穿ちて財宝を悉く取り放火す、近辺の塔頭同じく炎上すと云々、青苔院へ西雲庵など重宝を文庫に預け置かれ焼失すと云々、不便なり、
「解釈」
二十一日、晴れ。さて、去る二月十八日の夜、泉涌寺の塔頭青苔院に強盗が入った。以前から倉の後ろに穴を開け、財宝をすべて奪い取り放火した。近辺の塔頭も同じように炎上したという。西雲院見怡などは、青苔院の文庫に宝物を預け置き焼失したそうだ。気の毒なことである。
「注釈」
「泉涌寺」
─東山連峰月輪山山麓にあたり、大門・本堂仏殿・舎利殿がともに西面する。その奥に御座所・小方丈・霊明殿・庫裏などが所在する。泉山と号し、現在は真言宗泉涌寺派本山。古くより皇室の菩提所にあたる香華院として、「御寺」と尊称された。本尊は仏殿の釈迦如来。観音堂の観世音菩薩は楊貴妃観音とよばれ、二世湛海が入宋の際入手したと伝える。洛陽三十三カ所観音二十番札所。当時は律宗を宣揚しながらも他宗兼学の道場とされ、台・律二宗兼学(元亨釈書)とも禅・律二宗(薩戒記)とも称されたが、後には台・密・禅・律(山城名勝志)、あるいは禅・律・真言・浄土(和漢三才図会)兼学の道場と称された。明治五年(1872)真言宗古義派専修となり、現在は泉涌寺派本山(『京都市の地名』平凡社)。青苔院は未詳。
「西雲庵」
─入江殿(三時知恩寺)の塔頭(松薗斉「『看聞日記』に見える尼と尼寺」『人間文化』27、2012・9、http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_1.pdf)。見怡は万里小路仲房の女、時房の叔母(『建内記』正長元年一月七日条)。
*まずは、銀行の隣の空き倉庫を買う。そこを拠点に銀行の地下に向けて人力で穴を掘り、隠し金庫にある500トン金塊を盗む。次元大介をして「正攻法」と言わしめる、地道で泥臭い計画。ルパン三世シリーズの中でも、よく知られた盗み方の1つです。(『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』1992年)。
あっ、似てる…。あらかじめ、倉の後ろに侵入用の穴を開けておくところ。逃亡する際に、火を使うところ(ルパンは爆弾、この史料は放火)。
2000年代だけでも、ルパン三世類似事件は、ブラジル(2005年)・ドイツ(2013年)・イギリス(2015年)で報告されていますが、今回の泉涌寺強盗事件は、金庫(倉庫)に穴を空けて盗みをはたらいた、かなり古い事例かもしれません。被害者の泉涌寺や宝物を預けた西雲庵見怡には気の毒ですが、この泥棒、なかなかのやり手です。
実はこの盗みの手口、1件だけではありませんでした。2年後に、似たような事件が伏見でも起きています。ひょっとすると、同一犯かもしれません。
【史料2】
永享九年(1437)三月二十四日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』6─37頁)
廿四日、晴、(中略)抑聞、夜前伏見林泉土蔵隣壁比丘尼庵偸盗入、蔵之尻を穿破
財宝取云々、仍究明、今日地下殿原以下一庄於御香宮書告文云々、
「書き下し文」
二十四日、晴る、(中略)抑も聞く、夜前に伏見林泉土蔵壁に隣る比丘尼庵に偸盗入る、蔵の尻を穿ち破り財宝を取ると云々、仍て究明す、今日地下殿原以下一庄御香宮に於いて告文を書くと云々、
「解釈」
二十四日、晴れ。(中略)さて、聞くところによると、昨夜伏見の林泉の土蔵の壁に隣接している比丘尼の庵に盗人が入った。倉の後ろに穴を開けて壊し、財宝を取ったという。そこで荘民を糾明した。今日民衆や殿原など伏見庄全体の住人が御香宮で起請文を書いたそうだ。
*2019.4.28追記
嘉吉三年(1443)五月十八日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』7─25頁)
十八日、雨晴、(中略)女盗今夕人被捕、所司代被渡、容顔好女云々、内裏女中小袖
盗犯云々、
「書き下し文」
十八日、雨晴、(中略)今夕女盗人捕らへられ、所司代に渡さる、容顔好き女と云々、内裏女中の小袖盗犯すと云々、
「解釈」
十八日、雨が止んで晴れた。(中略)今日の夕方、女盗人が捕らえられ、所司代多賀高直に引き渡された。容貌の美しい女だという。内裏の女中の小袖を盗んだそうだ。
*漫画の峰不二子は宝石類や現金をとても好みますが、室町の不二子は着物が大好きだったのかもしれません。それにしても、盗人の容姿が日記に書き残されるとは思ってもみませんでした。室町時代では、たとえ泥棒であっても、美人であれば、もてはやされたようです。現代も同じですかね…。