周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

幽霊の正体・日本妖怪変化史・日本の幽霊・幽霊の歴史文化学

  『別冊太陽 日本のこころ98 幽霊の正体』(平凡社、1997)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P34 諏訪春雄「日本の幽霊」

 幽霊は死人が生前の姿でこの世に出現したものである。人間であること、死者であること、生前の姿であること、の三つが、幽霊が幽霊であるために必要な条件であって、このなかの一つが欠けていても幽霊とは言わない。

 (中略)

 幽霊の三条件を外した霊的存在が妖怪である。人間に限られない、死者に限られない、生前の姿に限られない、という三つの条件で説明されるのが妖怪である。

 

P35

 私がこの文の冒頭に掲げたような幽霊と妖怪の区別の仕方を主張するのは、根底に、次のような人間観、信仰観、生死観があるからである。幽霊と妖怪を区別するための三つの視点と言ってよい。

 

P36

 妖怪も広い意味でのカミである。しかも自在に動きまわることができるのであるから、普通にアニミズムと呼ばれることのある、精霊信仰の段階のカミである。ただそのカミは信仰の対象から外されて人間に悪意をもっているカミである。信仰の対象から外れた妖怪が誕生するにはいくつかのケースが考えられる。

  ①信仰集団が変わる。ある集団のカミがその集団が他の集団によって滅ぼされたり、追放されたりしたために、信仰の対象から外される。

  ②人間や動植物がカミの段階を経ないで直接に妖怪になる。

  ③人間が自分の力に自信をもつようになって、信仰の対象としていた動物や自然物の神性を剥奪していく。

 いずれにしても、妖怪は、人間のまわりの自然環境から生まれてきたカミである。私が、はじめに人間に限られない動物や山川草木こそが妖怪の正統である述べたのはそのためである。

 そして、実は人間も、人類の信仰のごとく初期の段階では、その能力の一部分が肥大化されて自然環境と同類にみなされ、信仰の対象になっていた。男女の生殖能力に対する信仰が生み出した陽物信仰や原始ヴィーナス(大地母神)信仰などがその代表例である。これらの信仰の対象である人間のカミガミが、先ほど見たような各種のケースで信仰の対象から外れると妖怪に変わることになる。しかしこのアニミズムが生み出した人間の悪神はあくまでも妖怪であって幽霊ではない。この種の人間の妖怪は、人間の身体の一部が誇張されて、崩れた形であらわれることが多い。先に私が、崩れた形の持ち主こそ妖怪にふさわしいと言ったのはこのためである。

 

P37

 人類の神観念の変化のなかで最大のものは、完全な人格としての人間神が誕生したことである。自然の一部としての人間に対する信仰に対し、人間の総体に対する信仰である。日本に限った場合、弥生時代から古墳時代にかけて、母系氏族社会や父系氏族社会が到来して、選ばれた特殊な男女が、文化の形成者として、まわりの自然環境から区別されて人格神、祖先神として信仰される時代がきた。妖怪と区別される幽霊が誕生したのは、この人格神の段階を迎えてからである。

 死者としての人格神が何らかの事情で正当に祀られず、現世に悪意をもったり、執念を残したりしたときに幽霊が誕生した。したがって、人間の妖怪が崩れた形で現れるのに対し、幽霊は完全な人間の形をとってこの世に出現してくる。はじめに、幽霊は人間であり、生前の姿をして現れると言ったのはこのためである。

 

 (中略)

 幽霊と妖怪を区別するための三つの視点のうち、残された死生観について考える。

 死と生は同じではない。死と生が異なる以上は、妖怪から幽霊は区別されなければならない。幽霊は必ず死者である。死が幽霊にとって絶対に欠くことのできない条件であるが、妖怪は概ね生者である。死者としての妖怪も存在しないわけではないが、後に見るように妖怪と幽霊の交錯現象であった、妖怪であるための必要条件ではない。

 (中略)

 他界は他の場所、死者の世界という二つの意味をもち、後者の意味では中国に出典がもとめられず、日本の鎌倉時代に初めて用例のある語である。これに対し、異界は異人という概念と結びついて新しく作られた述語で通常の辞典類には登録されていない。この二つの言葉を使って、死生観と結びつけてさらに幽霊と妖怪の区別を明らかにする。

 異界は、空間的な概念である。人間が日常生活を営む空間と重なり、あるいはその周辺に広がる非日常空間をいう。この異界は、内に対する外の語で表される関係概念であって、その位置は相対的に移り変わっていく。たとえば、昨日まで村の外に広がる未開の地として異界を形成していた場所が、今日は開発されて内に取り込まれ、異界はさらにそのそとに広がっていく。

 これに対し、他界は空間概念の他に時間概念をもつ。人間が日常生活を営む空間と近接し、あるいはその周辺に広がる非日常空間であるとともに、人間が誕生前および死後の時間をおくる世界である。他界もまた、この世に対するあの世、此岸に対する彼岸などの語で表される関係概念であるが、しかし、その関係は異界のように可変的なものではなく、絶対的に固定されている。死者の赴く先である他界が現世に隣接する近いところにあると意識されることはあっても、現世が他界と同一と意識されることはけっしてあり得ない。異界とこの世界との関係が可塑的な同心円で表されるとすれば、他界と現世との関係は隣接する二つの縁を固定して示すことができる。

 このように異界と他界を定義したとき、妖怪は異界の存在であり、幽霊は他界の存在といえる。妖怪は広い意味で異人の範疇に加えることができ、異界が変化して、この世界に取り込まれると、異人としての妖怪も、土地の守護神に変わったり、隣人となることも珍しいことではない。これに対し、他界の存在である幽霊は、他界が現世に変わることがないのとまったく同様に、他界性を失って現世の秩序に組み込まれてしまうことはない。これまで生者こそが妖怪の中心であり、幽霊は死者であると強調してきたのはこの意味である。

 

P40

 先に「幽霊と妖怪」の項で、私は日本の幽霊は弥生時代から古墳時代にかけて氏族社会が到来し、人格神に対する信仰が形成されてから出現するようになったと述べた。日本の場合は、その時期になって中国種の幽霊を受け入れる基盤ができたと言い換えた方が厳密かもしれない。氏族社会の人格神とは祖先神である。共同体の成員の先頭に立っていた指導者たちが、凶悪な精霊を制圧し、文化を創造する霊能者とみなされ、生きながらに人神として崇拝され、死後も墳墓に霊が留められて死者崇拝の対象とされた。これがそれ以前から形成されていた神の去来の信仰の基盤のうえに、形ある人間としての祖先神の来訪という観念を生んだ。

 現世の人に好意的な幽霊が出現するのは、この祖先神=祖霊の信仰基盤のうえに乗っているからである。

 

P41

 地獄の恐ろしさが、そこから訪ねてきた害意のない幽霊の存在を恐ろしいものに変えている。仏教の地獄の観念の浸透が幽霊を怨霊化していった。日本人はすでに奈良時代に中国経由で仏教の地獄観を受け入れている。そして、日本人の地獄のイメージが一段と膨らんだのは、平安時代の寛和元(985)年に源信が『往生要集』を著してからである。

 

P42

 御霊信仰は異常な死に方をした者の霊を恐れ、これを宥め祟りを逃れようとする信仰である。類似の信仰は韓国や中国にも認められ、日本に固有のものではないが、日本の場合、平安時代のはじめの京でかなり明確なかたちをとった御霊信仰の存在が認められる。

 (中略)

 祖霊信仰の基盤に発した幽霊が好意的であり、限られた範囲の同族の追憶のなかだけに生きるのに対し、御霊は怨霊であり、血族のつながりを超えた社会的、公的な存在である。日本の幽霊は御霊信仰の先例を受けることによって大きく性格を変えていった。

 

 「幽霊と妖怪の混交」

 仏教の浸透に伴う幽霊観への影響はまだある。もともと別のものであった幽霊と妖怪が混同されていく。その現象は中世に始まっていた。『太平記』巻第二十五では、仁和寺で雨宿りした禅僧が、後醍醐天皇に仕えていた僧正たちの、「古へ見奉リシ形」のままでありながら、眼は日月のように光り、くちばしは鳶のように長く、左右の脇の下から翼を生じて天狗となっているのに出会う。

 仏教の輪廻観によれば、一切の生あるものは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道の六道を、胎生・卵生・湿生・化生の四種の生まれ方をしながらめぐって、一所に止まることがない。人間もまた他のものに形を変えて輪廻する。幽霊も妖怪も一つのものの変化の姿となる。幽霊と妖怪の混同や合体はこのような考えの普及に伴う現象であった。

 

 

P44 田中貴子「女性の幽霊が多いのはなぜか」

 「怒りゃふくれる、叩きゃ泣く、殺せば化ける」─近世の俗言にこんな言葉がある。これは女性のことを言ったもので、とかく女は度しがたいと言った意を表している。ここで重要なのは「殺せば化ける」であり、女性は死ねば化けて出ると言った意識が強かったことがうかがわれる。つまり、女は幽霊になりやすいと信じられてきたのである。

 円山応挙描く幽霊画を見ても、幽霊は女性ばかりのように思える。幽霊と聞けばすぐに累(かさね)やお岩、お菊といった近世の三大幽霊が思い出されるごとくである。しかし、果たして本当に幽霊は女性が多いのかということになると、そんな疑問をもつことすら意識しなかったという人が大半なのではないだろうか。なぜ幽霊に女性が多いと言われるのか、改めて考えてみる必要があろう。

 妖怪研究で有名な江馬務は、『日本妖怪変化史』(中公文庫)で幽霊と女性との関わりについて次のように言及している。

 (田中注・幽霊が)人の姿として出現したときにおいては、室町時代以前には男の姿が多い。が、応仁の乱後からは女の姿が多くなって、男の姿の約2倍半に及んでいる。(中略)これ近世には愛恨のため出る幽霊が主として女であるからである。これ、女性が男性よりも執着心が深いからであろう。

 

P45

 (菅原道真源氏物語六条御息所、『太平記』の楠木正成謡曲など)こうしてみると、幽霊に女性が多い、というのは近世以前には当てはまらないようである。では、なぜ近世になると急に女性の幽霊が目立って増加するように見えるのだろうか。

  (中略)

 謡曲の例などをみると、この世に未練を遺すことは男女いずれも同じであり、とくに女性が強い執着心をもつとは考えにくにいが、これは仏教の教えからきたものである。女性の悪をまとめて示している『浄心誠観方』(唐・道宣)には、女性が十の悪業をもつと記されている。それを受容した日本の仏教では、女性は嫉妬深く、物を偽り、身体が不浄で、欲心が盛んである、などと説かれることになったのである。この十悪業のうち、何に対しても欲心が盛んである、という点が敷衍されて、執着心が強いということになったと想像される。平安時代からこういった仏教の教えは喧伝されており、女性はこの世に未練を遺すことが強い、という俗信を生み出したのであろう。女性の社会的地位の低下に伴って、この俗信は強く女性を縛り始める。それが近世という時代であった。

  (中略)

 さて、現世への恨みが遺るのはその死に方にあるというのは先述したとおりである。そうすると、男女は性によってその死に方にいささか違いがあることに気づかされる。たとえば、戦乱の世であれば出陣してゆく男性の方がより死にやすく、したがって妄執も残りやすいだろう。だが、近世という一見平和な時代にはそういったことはない。しかし、そんな平穏な時代において、男性と比べると女性は死に方が異なっていることが指摘できるのである。女性という性でなければ体験できない死に方とは、つまり出産に関わる死である。医学が今ほど発達していなかった時代、女性にとって出産は命がけの行為であったことは言うまでもない。出産で命を落とす女性の数は、現代からすると比較にできないほど多かっただろう。したがって、近世においては、女性は男性より死に方が一つ多かったと言うことになる。

 出産による死は、特にこの世に未練を残しやすい死に方であると考えられる。自分の身が失われる悔しさもさることながら、我が子の行く末は女にとって多大な関心事だったろう。死んだ母親は、生んだ子が無事に育ってくれるかという心配事を抱えることになるのである。不幸にも子供も同時に死んだ場合であれば、恨みは2倍になったことだろう。こうした出産にまつわる死の恨みは、女性特有の、しかも当時では避けられないものであったのだ。また、出産で死んだ女性は必ず血の池地獄に落ちるとも言われていた。女性に幽霊が多いと言われる理由の一つは、この出産という問題が深く関わっているのではないだろうか。そういえば三大幽霊のお岩も、出産で死んだわけではないが初産の肥立ちが悪いという設定であった。これもまったく関係ないとはいえないだろう。

  (中略)

 このように、幽霊に女性が多いと言われる理由としては、女性という性が「産む性」であるということとつながりがあると思われる。当時としてみれば、女性と生まれたからには避けて通れなかったのが出産である。出産死という、女ゆえに経験する特異な死に方があったからこそ、女性が化けて出るという認識が近世において広まったと考えられるのではなかろうか。

 

 

P55 諏訪春雄「幽霊の衣装と住みか」

 日本の幽霊は水や樹木と縁がある。沼、川、井戸、海などの水辺、柳に代表される樹木が幽霊出現の背景によく選ばれる。これは日本人の他界観と関わりがある。幽霊は異界の住人である妖怪とは異なって普段は他界に住んでいる。幽霊が水と樹木を背景に現れるのは水や樹木が他界の象徴であるからである。

 日本人の他界観は、地下他界、海上(中)他界、天上他界、山中(上)他界、の四つにまとめることができる。地下他界は地の底に他界を想定するものであり、海上(中)他界は海の向こうまたは中、天上他界は天の彼方、山中(上)他界は高い山の中また上に、それぞれ他界を想定する。したがって、幽霊はこの四つの他界のいずれからも出現することになる。幽霊画の背景に描かれた水辺、井戸、樹木などは、その幽霊がこの四つの他界のどこから出現したのかをあらわしているのである。

 地下は日本人に最も馴染みの深い他界である。死者を土中に埋葬する葬送や正月に便所にお供物を飾る民俗などは地下他界観と結びついており、したがって幽霊は墓地や便所によく出現することになる。便所は厠という呼び方からも明らかなように、古くは流水のうえに建てられた。したがって本来は地下他界というよりも海上(中)他界や山中(上)他界と結びついていたのであろうが、後には地下をより強くイメージさせるようになった。この点は井戸も同じである。井戸から出現する皿屋敷のお菊には地下他界観と海、山の他界観が結合している。

 「精霊ながし」という民俗行事がある。盆に家々に迎えた先祖の霊を送り返す行事である。今の新暦では八月十五日か十六日、辻、村境、川、海などで、盆棚に供えてあった仏への供物を蓮の葉やマコモなどで包み、麦藁の舟などに載せて流してやる。この舟には、帆に「西方丸」「浄土丸」などと文字を書きつける。日本では年々廃れていく行事であるが、中国や台湾ではまだ盛んに行われている。

 海や川の水で体を洗い清め、罪や穢を洗い流す「みそぎ」という民俗行事がある。海水は特に浄化力に富むと信じられていて、九州や中部の海岸地方にこの習俗が根強く残っている。

 この二つの民俗行事の根底には、海中・海上と山中・山上に先祖の霊が住むという水平他界観がある。川や海はその他界へ通じる通路である。先祖の霊はその通路を通って他界へと戻り、罪や穢は川水や海水によって他界へ運ばれ、先祖の霊によって消滅させられる。他界の住人の亡霊もまた水を通路としてこの世に現れる。

 樹木は天上他界と山中(上)他界の二つを象徴している。日本には古く南の島々に遺骨や死体を樹上にかける樹上葬と言われる弔い方があった。樹木が天上他界へ通じる通路と考えられていたのである。また樹木は他方で山の生命力を示す神とも考えられている。初山入り、若木むかえ、門松などの行事は樹木を神と考え、その生気に肖ろうとする観念が働いており、その背後には樹木で山を象徴させる信仰がある。幽霊が樹木の下に出現するのは、天上や山がその住処であることを示しいている。

 一枚の幽霊画には日本人の古くからの信仰や民俗が集約されているのである。

 

 

 

 江馬務「日本妖怪変化史」

       (『江馬務著作集』第6巻、中央公論社、1977、初出1923年)

P442

 妖怪変化の性とは、ここではその出現時の姿となった場合を指すのである。人の姿として出現したときにおいては、室町時代以前には男の姿が多い。が、応仁の乱後からは女の姿が多くなって、男の姿の約2倍半に及んでいる。もっともこれは個人として出たときのことを言うので、戦士の将士などが一段となって出たような場合は別とする。これ、近世には愛恨のため出る幽霊が主として女であるからである。これ、女性が男性よりも執着心が深いからであろう。単に変化ばかりでない。妖怪においても近世は女性的なのが非常に多い。「産女」などは以前からあるが、近世では「毛女郎」「雨女」「雷女」「骨女」「青女房」「濡女」「影女」「片輪車」「柳女」「高女」「屏風のぞき」などは女性である。加うるに、動植物、器物が化けても、たいてい近世は女に化けて出る。誑かすには、畢竟、女性が男子を籠絡するに便利なゆえでもあろう。そしてその反対に男子に化けて女を籠絡した例は極めて稀である。

 

 

 

 諏訪春雄「近世の幽霊」(『日本の幽霊』岩波新書、1988)

「幽霊の足」P167〜183

P197

 近世は封建制度の時代で、男性に比較して女性に自由がなく、男性の横暴に苦しんだ。そのために、近世に登場する幽霊には女性が多かったとよくいわれる。近世の女性に自由が乏しく、抑圧に苦しむ者が多かったことは事実であるが、それだけが、女性の幽霊が多い理由ではない。女性の本来持っている自然の性が、男性以上に幽界との交流を自在とし、亡霊として出現する機会を多くしたことも考え必要がある。そういう意味で、近世を代表する大幽霊譚がすべて女性で占められ、男性が脇役に廻っているのはおもしろい。

 

 

 

 小山聡子・松本健太郎編『幽霊の歴史文化学』(二松学舎大学学術叢書、思文閣出版、2019)

 

 山田雄司「生と死の間─霊魂の観点から」

P5

 日本では「クシャミ」のことを元は「鼻ひる」と言っていたが、鎌倉時代以降京都から次第に「クサメ」と言われるようになり、室町時代以降に全国的に広まったとされている。平安時代後期の歌人藤原資隆が著した『簾中抄』には、「はなをひたるおりの誦 休息万命(くそくまんみょう) 急々如律令 くさめなといふハこれにや」とあり、クシャミをしたときに魂も外に出てしまうので、「休息万命」という呪文を唱えて防いだが、それが縮まって「クサメ」となったとしている。

 

P7

   玉は見つ主は誰とも知らねども結びとどめよ下がひの褄

  三辺誦之。男は左、女は右褄を結びて三日を経て解之云々。

 歌を三回唱え、男は左、女は右の褄を結んで三日経ってから解くようにしとしている。人魂を見ることは不吉なことであり、自らの魂も遊離していってしまうことを恐れ、着物の前を合わせたときに内側になった方の端に玉の尾を結んでおけばよいとされている。石上神宮の鎮魂祭からもわかるように、結ぶ行為は魂が離れていかないようにしっかりととどめておくのに効果があると考えられていた。

 

P8

 「魂」の左側の部分は「雲」の下の部分と同じく、宙にフワフワと浮かぶことからつけられており、そうしたあり方は日本でも継承されている。

 

P14 (3)霊魂を呼び戻す儀式 日本の招魂儀礼

 霊魂が体から離れてしまうことによって死が確定してしまうので、遊離していく魂を呼び寄せようと、「魂呼(たまよばい)」が行われることがあった。民俗事例としては、死者の家族が屋根の上に登って、死者の名前を大声で読んだり、杓子で手桶を叩きながら名前を呼ぶことが報告されている。また、山・海・古井戸の底に向かって名前を呼ぶといこともあった。

 古代の記録にも魂呼を見出すことができる。藤原道長の女嬉子は、万寿二年(1025)八月三日に皇子親仁(のちの後冷泉天皇)を出産し、そのわずか二日後の八月五日に赤斑瘡(せきはんそう)により十九歳で亡くなった。道長はひどく嘆き悲しみ、六日の夜には風雨にもかかわらず、陰陽師中原恒盛と右衛門尉三善惟孝を、太皇太后彰子の御座所であるからという批難にもかかわらず、嬉子の部屋であった寝殿の東対屋の屋根に登らせて魂呼させたと、平安中期の貴族藤原実資の日記『小右記』万寿二年(1025)八月七日条に記されている。(中略)

 なおこの魂呼は、「近代聞かざることなり」と記されていることから、平安中期には行われていない儀礼のようである。それにもかかわらず道長が行なわせたということは、娘になんとかして甦ってほしいとの思いが強かったからであろう。このときの記事は『左経記』や『栄花物語』26「楚王の夢」にも乗せられている。それらを総合すると、嬉子は物の気が取り憑いたため、僧たちが加持や読経をしたのにもかかわらず臨終を迎えたので、陰陽師は作法に則って、嬉子の着ていた着物を持って東対屋に東側から登り、北方に向いて三度、嬉子の魂よ戻れと唱えたのち、西北の角から降りている。

 

P16

 (中国の招魂儀礼)こうしたあり方は嬉子の場合の招魂と非常によく似ており、単純に結論づけることはできないが、平安貴族は中国古代の書をよく読んで勉強していたことから、こうした招魂の儀礼についても学んでいたのではないだろうか。(中略)

 魂呼は臨終のときだけでなく、病気のときにも行なわれていおり、『小右記』万寿四年(1027)十一月三十日条では、「或云、禅室(道長)招魂祭、去夕守道朝臣奉仕、人魂飛来、仍給禄」のように、陰陽師賀茂守道が道長のために招魂祭を行ない、人魂が飛来したので禄を給わったと記されている。体から抜け出して飛んでいきそうな魂を再び道長の体に戻したということで褒美が与えられた。しかし、こうしたことを甲斐なく、道長は同年十二月四日についに亡くなってしまった。このような陰陽師による招魂祭は陰陽道祭として、鎌倉時代になるとしばしば行われたことが『吾妻鏡』などからうかがわれる。

 

P17

 (『続日本紀』や『日本後記』の記事)こうしたことから、先祖の霊魂は墓所にとどまっているのではなく、樹木を目印に墓所に憑依する存在として捉えられていたようである。天武天皇の頃に成立したと考えられていて、永長二年(1097)の奥書をもつ『葬喪記』にも以下の記述がある。(中略)

 墓には土を盛り、松の木を一本植え、二年経ったらまた一本、三年経ったらさらに一本植え、これによって人の気が去って神となるのだという。木を植えるというのは、それを目印として霊魂が降臨するためであろう。

 

P19

 現代ではお盆として夏の彼岸に死者の霊魂を迎えて供養し、再び他界へ送ることが行なわれているが、仏教の盆行事が定着する前は、「魂祭」の儀式が大晦日に行なわれていた。(中略)

 しかし、『徒然草』(1300年代)十九段になると、大晦日に魂を祭ることは関東では行なわれているものの、近頃京都では行なわれなくなったと述べられている。鎌倉時代には次第に行なわれなくなり、盆行事へと移行して行くようである。

 

P20

 鎌倉時代には、子は親の墓に対し、7月半ばの盂蘭盆に花を手折り、年来にも墓を訪ねる習わしがあったことがわかる。そして、先祖の霊は墓地にとどまると考えられるようになり、神となって子孫を見守るようになっていく。(中略)

 「草葉の陰」すなわち草に隠れた墓の下に死者の霊魂がとどまり、子孫を見守る神となっている。そのため墓参りも行なわれるようになった。

 

 

 小山聡子「幽霊ではなかった幽霊─古代・中世における実像」

P34

 このように、死霊は生者には持ち得ない強力な力を持ち、生者の願いを叶えることができると考えられたのである。これは、そもそも死霊と「カミ」が糖質なものであることによるのだろう。前述したように、古代の幽霊は死霊であり、神と近い性質をもつと考えられていた。とすると、幽霊も、聖者の祈願に応えることができる力を持つと考えられていた可能性は高い。

 

P36

 さて、幽霊は多くの場合、追善供養の対象であった。つまり、いまだ成仏できていないものであるということになる。

 

P39

 要するに、幽霊という語は、少なくとも十三世紀前期には、成仏できていない史料のみではなく、成仏したと確信されている死者をも指すと言える。

 

P42 おわりに

 以上、本稿では古代・中世の幽霊について、古文書と古記録を中心に検討した。これにより、先行研究では幽霊という語が世阿弥以前はほとんど用いられてこなかったとされてきたが、そうではないことが明らかとなった。幽霊という後の早い事例は八世紀中頃であり、それ以降も古文書や古記録に非常に多く出てくるのである。その中でも、特に願文や寄進状に幽霊という語が出てくる。これは幽霊が多くの場合死霊を指し、追善供養の対象であったことによるのだろう。また十一世紀初頭の史料をもとに、幽霊が神に近いものとして捉えられていたことを指摘した。これは、死霊それ自体が神と等質性をもっているからだろう。

 さらに十二世紀以降には、幽霊という語が死霊という意味だけではなく、死者、さらには死体という意味ももったことを明らかにした。死体に関しては一例しか確認できなかったものの、死者を指す事例は中世を通じて多く確認することができる。(中略)

 幽霊というと、成仏できずにさまよう霊だと解釈されがちである。この店員ついても、本稿では疑問を呈した。なぜならば、極楽往生が確信されていた法然や、臨終正念をした藤原俊成が「幽霊」と呼ばれているからである。(中略)

 現在、幽霊というと、この世に姿をあらわすものと認識される傾向にある。『例文 仏教語大辞典』でも、近世の事例をもとにそのように記されている。しかし、古代から中世前期では、幽霊は姿をあらわさない。そのうえ、怨みをもってもいない。この時代では、怨みをもって生者に害を及ぼす霊は、主に怨霊やモノノケ(邪気)であった。

 幽霊が姿をあらわすようになるのは、能の登場まで待たなくてはならない。世阿弥の夢幻能(幽霊能)では、多くの場合、死者は「幽霊」と呼ばれて登場する。たとえば『頼政』や『実盛』『江口』などでは、シテが自分のことを「幽霊」だと名乗る。これらの「幽霊」は、いずれも生前の行ないを悔いる傾向にあり、怨念をもっておらず、まったく恐ろしくはない。これは、それ以前の幽霊の性質を受け継ぐかたちで作られたからであろう。

 幽霊が恐れられるようになるのは、近世に入ってからである。近世になると、それぞれ別の意味をもっていたはずの幽霊、怨霊、モノノケが混同されていくようになる。そもそも怨霊とは、生前に強い恨みを抱いた人間の死霊であり、社会に大きな影響を及ぼす特質をもち、調伏ではなく鎮魂の対象であった。また、モノノケは漢字で表記すると「物気」であり、多くの場合、死霊であった。「気」は気配の意味である。古代では、まだ何の「気」なのか分からない段階で使われる語であり、社会に大きな影響は及ぼさず、個人に祟り、病や死をもたらすことが多い。モノノケは、主に調伏の対象であった。その後怨霊は、遅くとも中世後期には謡曲『葵上』で六条御息所が「怨霊」とされるように、社会に大きな影響を及ぼさない史料をも指す語へと変化していく。(中略)

 「物の怪」(物怪)は、古代や中世では「もっけ」もしくは「もののさとし」と読まれ、異常なことが起こる予兆を指す語であり物気とは区別されていたが、ここでは同じ意味で使われている。さらに、「物の怪」と幽霊が区別されていない。(中略)

 これらのことから、幽霊が怨念をもって復讐する死霊とされるようになった理由は、怨霊やモノノケと混同して捉えられるようになったからだと考えられる。

 現在、しばしば怪談などで語られる幽霊は、もとは中国思想からきており、少なくとも八世紀の日本では死霊という意味で認識され、さらにのちには死者その人や死体を指すという認識も加えられた。そもそも幽霊は姿をあらわすものではなかったが、能の登場により現れるものとして捉えられるようになる。近世に入り、幽霊には怨霊やモノノケの性質も加えられて、現在に通じるような、怨念をもって復讐をし、または気味が悪く恐怖を抱かせるものとして語られるようになったのであった。

 

 

 松井健人「死霊表象の胚胎─記紀万葉集を中心に」

P69

今、青い笠と書いた。この青というのは現代人が思い描くような鮮やかなブルーではない。古代におけるアオ(アヲ)とは、黒と白の中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍などを指す。各地の地名の分析によって、青の語が墓地・葬地を指す言葉であったと論じた筒井功氏は、アオの原義は「どちらにも属さない中間の位置または状態」を意味していた可能性が強く、ひいては「あの世とこの世の間、境、中間」を指していたという卓抜した理解を示している。

 →青鬼の理解に通じるか。

 

P70

 このことから古代人は、死霊とは「青」の衣服を着ていると認識することがあったことがわかる。また、鳥たちを殯の執行役に任じたのは、鳥が史料を天に運ぶ存在、または死霊そのものの表象であるという古代人の考えが反映されたためである。このことは、和歌の世界でも重要になる。