周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

高橋著書

  高橋昌明『定本 酒呑童子の誕生』(岩波書店、2020年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 酒呑童子の原像

P3

 そもそも「鬼」という外国の文字(漢字)に翻訳された日本語には、オニとモノとがあり、かなりのちまで鬼はモノ、鬼気はモノノケと読まれた。モノは人間にマイナスの力を及ぼす霊的存在、ケ(気)は肉体の根元に関わる形のない活動力、万物生成流動の根源となる陰陽精霊の気のごときものである。平安初期の『日本霊異記』では、冥界からの使を鬼と表記し、そのケが人間に漂着すると病にいたる、と見える(巻中─24・25など)。(中略)

 鬼はまずもって疫神と把握されねばならない。

 

P5

 悪霊の侵入を、ムラ境・峠・辻・橋などでさえぎって、境を守る神が塞の神(さえのかみ)であり、道祖神・道陸神(どうろくじん)とも呼ばれる。地蔵は、冥界六道において迷えるものを導き、現実界に引き戻す働きが重視されているので、幽明の境の菩薩と理解された。そこから転じて、現実の境を守るものとされ、道祖神と集合する。

 ムラにやってくる善悪さまざまな神霊を歓待し、阻止する祭儀は、塞の神の前で行われた。そのほか、生活圏の外が他界の観念と重なっているため、教会は異境に旅する人々の安全を祈念する地点となる。旅路の平安を祈って坂(峠)の神に幣を供える古い儀礼を、タムケ(手向け)といい、タムケをする場所、あるいはそれをうける神そのものをさす、異境からやって来る旅人を歓迎する儀式が、坂迎えである。

 

P11

 境の神が、人間と下界との接触点であり、肉体の関門となる耳、目、歯などの神々に転用され、それらを守る神に変容される例は少なくない。

 

P12

 四堺(境)祭とは、都所在国(山城国)の「郊外」たる四つの境において、外界から侵入してくる「鬼気(もののけ)」を「祭り治」める、一種の道祖神祭りである(『朝野群載』巻15)。(中略)

 この祭は、宮城の四隅を祭場とする四角祭とセットで、四角四堺祭(しかくしかいのまつり)と連称される。

 

P13

 道饗祭は、三神(八衢比古・八衢比売・久那斗(くなど・ふなど))に大量の幣帛を奉って、「麁び疎び来らむ(荒々しく厭わしくやってくる)物」を防ぐとともに、天皇の常盤なる安泰と治世の平安、および「親王等・王等・臣等・百官人等・天下公民に至る」人々の守護を祈願する。国家的色彩濃厚な祭祀である。

 追儺式で鬼を追う方相氏が、その恐ろしい形相のため、平安後期になると追儺の対象に変わってしまうことは、よく知られているが(『江家次第』巻11)、塞の神としてのクナドを饗応する道饗祭も、天長10年(833)成立の『令義解』では、外からやってくる「鬼魅」を直接饗応する祭と解釈されており、本来の意義が忘れられていた。

 

P15

 こうした京内外至るところで祓する習慣は、やがて平安京になって七瀬祓(河臨祭)─天皇や公卿の身体に付着したケガレを撫物に移し、毎月あるいは臨時に七カ所の瀬または海に臨んで流し去る祓、その祭場は洛中・洛外・畿内というように、宮城と平安京を三重に囲む同心円状の配置になっていた─へと聖女されていったらしい。

 

P16

 こうして、道饗祭の内容とその展開を通して明らかにし得たことは、四角四堺祭が、都に収斂する国家の行政路を通って侵入してくる穢鬼から、神聖なる天皇とその政治、ひいては支配下人民を守るため、宮城と都所在国の堺に、観念の防壁を二重に築く営為、だということである。それはすでに侵入済みのケガレ・災厄・罪を祓い流すための、大祓うや七瀬祓などと結合しながら、皇都を清浄ならしめる国家的祭祀の一環をなしていった。

 

P22

 世阿弥作の「舟橋」に、水死体の捜索のため鶏を求める話があるから、少なくとも室町期以来の習慣だったことは、明らかである。中世、鶏はこの世とあの世の境目に現れる神聖な鳥、魑魅魍魎の跳梁する夜と、人間の活動する昼の境目を告げる霊鳥とされ、魔の潜む夜を追い払う、と考えられていたのである。

 

P23

 以上によって、大江山が古代・中世を通じ「鬼気」のより来る場所として、同時にその侵入を遮り、都を頂点とする日本国の秩序や安寧・清浄を確保する境界として、長く都人に観念されていたことが、明らかになった。そして、漆黒の闇中の一連の呪的行為こそ、モノノケのモノを、見えない霊的存在から、形象化され実体感のあるオニ(大江山の鬼神)へと転化させた、主要な契機だったと思う。この種の祭儀は、疫病発生の原因を示し、それを操作・追却する必要から、対象の実在化・可視化を求めずには、おかないからである。

 酒呑童子は、この大江山の鬼神の上に、さまざまなイメージが折り重なった結果に違いない。

 

P26

 近世の医療やまじないの世界では、疱瘡の脅威にたいし、疫霊(疱瘡神)として、猿に似た想像上の怪獣である猩々の人形を作って祭り、燈明や赤紙を口につけた酒徳利、小豆飯や赤鰯を供え、三日後この人形を門前から川辺に運び出して流す、という呪儀が行われていた。赤面の猩々以下、すべてが「赤」で統一されているのは、疱瘡が身体を赤く変えることと関係し、疱瘡神の色が「赤」と考えられていたことを示す。水野正好氏は、猩々が疱瘡神の神体と見立てられたのは、赤斑を出し顔面が赤く色づく症状が、酒を好み、常に赤面していると説かれる猩々と、重なり合うからだ、という。

 疱瘡神=赤=猩々という連想は、中世まで遡るだろう。『大江山絵詞』で、正体を現した酒呑童子の姿が、見事な朱紅色に描かれ、名前の由来を自ら「我は是、酒をふかく、愛するものなり、されば、眷属等には酒天童子と、異名に、よびつけられ侍也」と語っているのも、猩々(疱瘡神)のイメージが宿された結果とみたい。

 

 →赤鬼の赤色はこれが根拠か?

 

P30

 塞の神としての坂神が、訪れ来る疫鬼(疫神)でもあるのは、内と外、此岸と彼岸がせめぎあい相互浸透する境界という場の特質、およびそこにおける道祖神のアンビヴァレント(両義的)な性格と関係している。

 

 →P22の鶏も境界に現れる存在だから、アンビヴァレントな性格をもっているのか。そうすると、鬼が鶏の被り物をしているのも当然か?

 

P33

 このように、日頃天皇を、モノノケやケガレから守る役割を果たしていた所衆と滝口が、四角四堺祭の勅使として派遣されるのは、それが彼らの日常勤務の延長、と認識されていたからではないか。滝口から検非違使に勅使が後退するのも、12世紀後半になって、滝口への推挙が権門勢家の特権(利権)と化し、選抜に必須だった試射も事実上廃絶して、射技能力が低下、辟邪(魔除け)の効果を期待し得なくなったからであろう。代わって登場してきた、検非違使のケガレ=キヨメを管理・統括する機能については、丹生谷哲一氏の研究に詳しい。

 

P38

 六地蔵は、地蔵菩薩の六道救済にちなんで、六体の地蔵菩薩を集合することであったから、六体一カ所に造立するのが本義であった。

 

 

〈補説1〉 大枝山大江山

P52

 頼光の酒呑童子退治説話成立の背景に、大江山にこもる山賊征伐の史実があったと推測する向きが多い。(中略)

 

P53

 私はこの種の一見合理的、「科学的」な問題処理には不満である。なぜなら、かりに鬼退治の背景が盗賊征伐だとしても、それだけでは、複雑なプロットを持った鬼退治物語へと説話化される、その意識過程・創作過程をなんら解き明かしていない。つまりは、たんなる仮説、いや思いつきの域を出ていない。さらに、仮説はそれを武器に何かを解明しようと努めるところに意味がある。何事も解明しようとしない仮説は、仮説としての意味がない。こうしたわけ知りの論法には、それ以上の分析や掘り下げを抑止する不毛(精神の怠慢)がある。

 つぎに、当然のことだが、説話と史実の間には深い質的隔たりがある。それでいて架空のもの(非現実の世界)には、史実とは異質の、意識活動の産物としての独特の実在性がある。それをあたかも同一次元に並ぶかのようにして、架空のもの有する堅固な実在性を解体し、山賊征伐という散文的事実に解消して足れりとする。これでは中世人の感性や想像力、潜在意識、コスモロジー(宗教的・哲学的な宇宙論)に迫りようがないではないか。

 お読みいただければおわかりのように、本書の全体は、いかにしてこうした「素朴反映論」を超克するか、というところに目的設定されている。史実との緊張関係を維持しながら、説話世界形成の内的論理や飛躍のダイナミズムを追求する。歴史的契機としての疫病の流行や四堺祭を強調しながら、なおそれらが生み出した観念や恐怖感が、説話として結晶してゆく複雑なプロセスを、可能なかぎり追求する。カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ。これが本書の立場である。

 

 →非現実世界の研究意義!

 

 

P54

 大索とは、平安時代宮中に盗賊が押し入ったり、宮中に放火が多いときなど、臨時に衛府の官人を動員して、洛中洛外に捜査網をはり、大規模の検挙を行うことで、オホアナクリ・ヌスビトノアナクリなどと呼ばれた。

 

 

〈補説2〉 鶏と雷公(頼光)

P60

 伏見宮貞成親王の所に陰陽師安倍有重がやって来て、今月霊気祭を執行しているが、禁裏の意向で親王の所でも同じ祭を奉仕することになった、ついては一三枚の四半紙に鶏を一羽宛画いたものを持参したので、唾を吐きかけて欲しいと申した。一三枚は一年一二カ月とこの年の閏月(閏五月)分を合わせたもので、求めにしたがい、唾を吐きかけて有重に返した、というのである。その二年後の永享一〇年三月二一日条にも、「有重朝臣参る、霊気祭の鶏を持参す、これを祓し返し給ふ」の記事がある。

 霊気はリョウゲと訓み、生霊や死霊の類、モノノケやツキモノの意で、病気や身体の危険をもたらす。これを取り除き悪霊の祟りを防ぐのが霊気祭で、名こそ違え鬼気祭や泰山府君祭・天曹地府祭などと、ほとんど同種の祭である。それに毎月一枚画鶏が使われていることがわかり興味深い。

 さらに「これを祓し返し給ふ」によって、唾吐きが祓いにかかわる呪的行為だったように読める。唾は、中国では人間の気(生命力)と類縁性の強いものとされ、唾するという動作も、呪文との併用によって、病気を治癒する力、異常を正常にもどす力として作用する、と考えられた。日本でも唾を吐きかけることは「相手の呪力を禊ぎ同様に消すための呪術」といわれる。陰陽師は、画鶏に唾を吐きかけさせることによって、ケガレや災厄を撃退する効果を増幅させることをねらったのではないか。

 

P62

 鶏が不吉を告げる幼鳥だと考えられたのは、特別な霊力を有するがゆえに、冥界にも通じた存在と考えられていたことを示し、形代として四境から追放する役割を負わされるのは、翼をもつ鳥として、ケガレを異界まで遠く運び去る能力が期待されているからである。

 モノノケを撃退する役割を果たすとともに、妖鳥、時にはケガレを移し付けられる存在と、対照的なかたちで登場するのは、境界のはらむ両義性とともに、この鳥がこの世とあの世の境目に現れる神聖な鳥で、魑魅魍魎の跳梁する夜と人間の活動する昼との境目を告げる、境界的な鳥であることの反映であろう。

 

 →貧乏神が鳥のコスチュームをつけている理由はこれでわかった。

 

P64

 一つは、かつて鶏が雷公とみなされたという点である。すなわち、中国古代の雷公は、鳥のくちばし、翼、鳥の趾(あしゆび)と爪をもっており、こうした雷公の原型は鳥であったとされる。

 

 

〈補説3〉 描かれたモノノケ

 

 

第二章 酒呑童子のふるさと

P92

 「白猿伝」や「失妻記」が、酒呑童子説話の成立に影響を与えていることが確実であっても、それらはいつどんな方法で日本に伝来したのだろうか。

 

P96

 猿の化物斉天大聖こそ、大江山の鬼神が、酒呑童子という奇妙な名前を名乗る謎を解く鍵のように思えるからである。

 

P102

 ここまで述べてきた勢いで、白猿伝説・蚩尤伝説の、大江山の鬼神への習合の様相についての見通しを述べたい。おそらく、まず蚩尤伝説が合体して大江山鬼神伝説のモチーフがふくらみ、ついでなんらかの回路でこれに白猿伝説が合流、「白猿伝」「失祭記」などが次々に吸着して、全体が複雑豊潤化されていったと思う。そして、「白猿伝」に、白猿の体は「鉄石」のようで、刃を通さないとあることから、すでに合体済みの銅頭・鉄頭の「鉄人」(『竜魚河図』)蚩尤を再び刺激し、大江山の鬼神の「謀叛」の印象をいよいよ鮮烈にしていったのではないか。

 

 

第三章 竜宮城の酒呑童子

P126

 地獄に通じる川としての三途の川が、日本に知られるようになったのは、平安中期だとされているが、それを述べる『地蔵菩薩発心因縁十王経』に、三途の川には奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という男女の老鬼がいて、奪衣婆は亡者の衣を剥ぎ、懸衣翁は衣を木の枝にかけるとある。

 

P127

 また、逸本ではこの画面にだけ、むくむくとした雲が描かれている。同種の雲は、『春日権現験記絵』や清涼寺本『融通念仏縁起絵巻』などでも、閻魔庁の場面に限って描かれており、冥界に入ることの記号と解せよう。

 

P128

 →四季を一時に見る表現は、中世日本における仙境の常套表現。

 

P132

 山中の洞窟の奥や地下に竜宮があるというのは、石田英一郎が指摘したように、地下の洞穴は「いわゆる〝地脈〟として思想的には水界と通じている」からである。

 

P133

 太刀をかつぐポーズは、中世では臨戦の構えだったが、ここでは雷除けの呪法でもあるらしい。

 

P135

 水神は多く童子姿で現れた。石田英一郎のいう「水辺の小サ子」である。水神を童形とみる理解の好例は、水の妖怪としてのカッパで、河童という室町中期になって現れる表記もこれに淵源している。(中略)

 雷神も水神だから、落雷すると童形に帰る。

 

P136

 特異な霊力云々は、古代・中世の子どもが、霊界(神と鬼の世界)と人間界の中間的存在で、聖俗両界を自由に往来し、かつそのどちらにもとどまらない境界性・性的中立性・未成人としての社会的周縁性を持つ、とした中野千鶴氏の指摘などを手がかりに、今後一層掘り下げるべき重要研究テーマである。

 とまれ、永遠の時間が支配する仙境の王には、老いとはまったく無縁の童子こそふさわしい。童子・雷神二つの顔は、童子が仙境に対応する正のイメージ、雷神は冥界の負のイメージを背負うと解釈される。関係は、後ジテが神霊や怪異のものとなって出現する能の前場で、前ジテが童子や慈童の面を用いることと共通するものがあろう。童子や慈童は少年の面だが、普通の人間の少年ではなく、永遠の若さを象徴する神仙の化現として、優雅で妖精的な神秘に満ちているのである。

 

P137

 興味深いのは、寝入って正体を現した童子が、逸本の詞書では、頭と胴体は赤、左足は黒、右手は黄、右の足は白、左の手は青、という五色まだらの体色をしていることである。陰陽五行の思想では、各色はそれぞれ火・水・土・金・木を象徴する。このド派手なボディ・カラーから、九世紀末より京都神泉苑で行なわれた陰陽道五竜祭(雨乞祭)のことが連想される。同祭の祭神は、『大灌頂経』に見える五竜王で、祭場に東方青竜神王、南方赤竜神王、西方白竜神王、北方黒竜神王、中央黄竜神王と配置されていた。五色が五竜王からきているとすれば、これも童子の本質が竜王(水神)であることの暗喩となる。

 

P138

 この笛・童・鬼の三位一体観は古代・中世を貫通している。

 この期の横笛を竜笛という。竜の鳴き声をまねて作られたという伝承からであり、竜吟・竜鳴とも称した。三者に通底するのは、やはり竜(水神)の面影である。

 

P147

 甲冑姿に、悪魔降伏の呪力、辟邪の効験が期待されていたことは否定できない。それは、第一章および別稿で説いた、武士や武が放つ辟邪の呪力とも重なるに違いない。(中略)

 

 手がかりとなるのは、山中は死者の魂の行き着く先であり、その山中他界に踏み込み、亡魂と交信し、救済にあたるものが山伏である、という当時の社会通念である。これを踏まえれば、兜巾・篠懸・笈の姿こそ、冥界・異界としての鬼が城に赴く定まったスタイル、ということになるだろう。

 

P148

 右のことは、小説づくりの際の約束事にとどまらず、この説話の形成・管理・伝播に、修験の山伏が深く関わっていることを示唆する。(中略)

 鬼王退治譚全体が不動明王の霊験を語るものという評価は、不動が修行中の山伏を守護する、山伏の出立ちは不動明王を象徴するなどの、これも当時強固に存在した観念を下敷きにすると、本説話の発生基盤を強く暗示するだろう。(中略)

 修験の神々の中で、具体的な名前の出てくるのは早尾権現(そういごんげん・比叡山)だけだから、おそらく、早尾社に集う山伏たちが、この物語の成立・管理・伝播になんらかの形で関わっていたのであろう。

 

P149

 以上によって、山伏が本説話の管理者・伝播者であったことを、明らかにし得たつもりだが、加えて、説話中に安倍晴明や土御門の姫が出てくることに留意すべきだろう。安倍晴明は陰陽の大家、土御門家はその後裔で、近世中期には諸国陰陽師はすべてこの家の統制下にあった。ここで、陰陽道を民間に広めるにあたってもっとも力があったのが、修験陰陽師声聞師であったという事実に思い至る。

 陰陽と修験の結合は、種々の呪術的作法の酷似が語るように、早くから進んだ。鎌倉前期の『古事談』には〜(中略)説話中に、陰陽五行の思想の影響とおぼしき箇所が繰り返し見えるのも、こうした山伏と陰陽師の関連を念頭に置くと、よく理解できるだろう。

 陰陽道を民間に普及させたもう一方の柱たる声聞師は、中世被差別民の一種で、金鼓(こんぐ)打ち、暦の頒布、民間の陰陽師、千秋万歳・曲舞などの呪術的雑芸能者、盆・彼岸などに家々を訪れて、経を誦したり摺仏を配ったりする者の総称である。

 

P151

 説話の管理者・伝播者と想定する山伏・下級の陰陽師声聞師の間には、金太郎飴を思わす連続性・互換性が認められる。こうした境界的・底辺的一団の連鎖に、さらに一環を付け加えるならば、琵琶法師(盲僧)が挙げられよう。

 盲僧琵琶は、中世では平曲を語るほか、かまど祓いの地神経(じしんきょう)を読み、土地の神を祓い鎮めて回った。荒神供(こうじんぐ)である。盲僧と山伏の関係は深く、盲僧のいないところでは、荒神祓も山伏法印が行うものであり、山伏神楽の仕事だったという。

 

P152

 水神には両義的性格がある。まず水の支配者として、国土の豊穣や人の命をつかさどる者とみなされる。他方、乏少な水は旱魃を、過剰な水は洪水を、売り続く長雨や不快な湿潤は流行病を招くから、水神は同時に祟り神でもある。

(中略)

 水はケガレを「水に流す」。荒ぶる疫神を鎮め、災厄を祓い浄化する水神祭は、六月と十二月、とくに夏に集中する。この季節は、人口が密集し居住・生活・衛生環境の劣悪な前近代の都市にあっては、疫病の発生や水害の脅威といつも隣り合わせだからである。京都の梅雨明けと夏の開始を告げる祇園祭は、平安期の祇園御霊会に期限をもっていた。疫神怨霊を鎮める御霊会も、水と関係の深い行事であり、罪がケガレや災厄の一切を川に流しこむ六月祓の行事と連動している。中世人の心の世界にあっては、疫神─水神─竜(蛇)─雷─御霊は、切れ目のない円環を描いていた。

 

 

第四章 二つの大江山・三つの鬼退治

P171

 「清園寺縁起」では、神の要素は、白犬が頭上に神鏡をいただいていること、末尾近くで親王らが斉明神社に祀られるといった程度にとどまっている。しかも、神鏡には薬師仏が描かれており、神仏習合思想に基づいて鏡面に本地仏を刻んだ、いわゆる線刻鏡像である。白犬は神の使であるとともに、根源的には薬師仏の使者なのである。

 こうした伊勢神宮の強調(「清園寺縁起」に後続する縁起群)は、室町初期を画期とする伊勢信仰の隆盛、上下階層の参宮の流行という全国的な動向を反映しているとともに、伊勢神宮が伊勢に鎮座する以前しばらく当地にあった、と主張する福知山市の元伊勢神宮豊受大神社・皇大神社両社)の、在地における活動と関わりがあるだろう。

 

P172

 「清園寺縁起」の画像で注目されるのは、三上ヶ嶽の鬼神が、いかにも水神らしく描かれている点である。(中略)

 してみれば、本伝説の七仏薬師の加護による鬼退治も、ストーリー的には首尾一貫したものもおがあるわけである。というのも、薬師信仰は治病・延命・産育の現世利益を願うもの。七仏薬師も天台密教系の『阿娑縛抄』(穴太流の修法作法と図像を集成した書)は、七仏全部が薬師でなくともよいが、薬師を先頭とするから七仏薬師、「その効能は、大旨除病延命」、との説が載っている。中世天台の世界にあっては、法華経が治病効果をもつとされるところから、七仏薬師とは八軸の法華経を七巻に調巻したものとされ、「薬師・法華一体」の教説が唱えられていた(『法華経直談鈔』巻一)。七仏薬師が助成する鬼退治は、法華経による悪竜教化のモチーフと共鳴するところがあろう。ちなみに清園寺は鎌倉後期には延暦寺領であった(『鎌倉遺文』22661号)。(中略)

 伊勢神宮の冥助については、当時信仰の社会各層への広範な浸透のなかで、伊勢の神が、皇祖神・国主神といった抽象的観念だけでなく、現世利益的、呪術的な面も引き受け、病に対する霊験ある神として認識されるようになっていた、という点を重視せねばならない。

 白犬が重要な役割を演ずるのも、犬は「小神通(力)の物」で、「魘術を見顕はす」ことができると信じられていた(『古事談』巻六─六二)。さらには民俗や昔話で冥界や水神と関係深い動物として現れる、などのことがあるのだろう。

 鏡は光を反射させることにより、邪悪なものを撃退したり、鏡に映し出したりする効能があるとされるほか、姿を映ずる点で水とも密接な関係をもっている。金属鏡が水神祭祀に使われた例は多い。

 

P176

 一方、麿子親王とは、用明天皇の皇子当麻王の別名らしく、当麻王は当麻氏の祖とされる人物である。両者には当麻というはっきりした接点があり、実際、奈良県北葛城郡當麻町(現葛城市)に鎮座する当麻氏の氏神たる当麻都比古神社の祭神は彦坐皇子(日子坐・ひこいます)と麿子親王の双方なのである。

 

P182

 →麿子親王伝説を伝える史料は、京都での勧進のため。勧進帳として作られた。勧進行為に箔をつけるため、仁和寺尊海僧正を仲介者として三条西実隆勧進状の揮毫を依頼している。

 「清園寺縁起」は掛幅装となっているから、絵解きに使った。絵解きとは、社寺の縁起や祖師の伝記を絵に描き、聴衆を前に解説をつける行為である。人の喜捨を仰ぐにあたり、本尊や秘仏の開帳、猿楽や平曲など娯楽物の興行と組み合わせ、掛幅絵や絵巻による絵解きが行われる。秘仏開帳はたびたびというわけにはいかないから、縁起や絵巻物をもって、京都や諸国に勧進の絵巻をして回ることも多い。

 この場合、住持にかわって勧進の任に当たったのが、勧進聖たちであった。特定の寺院に所属しないフリーランサー、依頼に応じて各寺社のための募財を行う勧進のプロである。彼らは実態的には、絵解法師と呼ばれる琵琶法師類似の卑賤な語りの芸能者と、変わるところがなかった。

 

P183

 古い麿子親王伝説の史料が、いずれも勧進や絵解き用に作成されたものだということは伝説の流布、さらには形成そのものが丹波在地寺院の官人活動と深く関わっていたことを意味している。これら丹後諸寺の勧進に起用されたワタリの職業的勧進聖・絵解法師たちこそ、『古事記』の日子坐王土蜘蛛退治の短い記事をヒントに、丹後を舞台とする麿子親王の鬼退治伝説を組み立てていった人々だったのではないか。

 親王伝説に中世太子伝諸本の影響が見られるのも、後者がもともと「聖徳太子絵伝」を絵解きするための台本で、担い手に共通するものがあったからである。死馬を買い取る藁しべ長者類似の話が混入しているのも、それが元来大和の勧進聖たちによって語られた長谷寺の霊験譚だった(『今昔物語集』巻16─28など)ことと関係があろう(わずかの喜捨画が大利につながる主題は、募財に効果的)。

 中世、勧進聖の拠点となった寺は少なくないけれど、一つに大和の當麻寺を挙げることができる。同寺は、麿子親王を創建者とする伝承を伝える。当麻の地と日子坐王の関係についてはすでに述べた。自然、麿子親王鬼退治伝説は當麻寺関係の勧進聖たちの手を経て成立した、という着想が浮かんでくる。

 彼らこそ捜し求めている人々に違いない。いや、そのように考えなければ、麿子親王伝説の背後に、中世の聖徳太子伝説を検出できる本当の理由も、明らかにならないのである。

 

P187

 迎講とは、念仏行者の臨終に、諸菩薩をともなった阿弥陀如来が迎えに来るさまを催す法会のことである。當麻寺では、現在五月十四日(旧暦四月十四日)に、聖衆来迎の練供養として、曼荼羅堂(浄土)から娑婆堂までの間に120メートルの板橋を架け、その上を仮面姿の二十五菩薩が練って往復する。迎講を始めたのはかの地出身の恵心僧都源信とされるが、室町期にも「毎年不退の法会」として実施されていた(『大乗院寺社雑事記』長禄3年4月14日条)。

 

 

第五章 伊吹山酒呑童子

P203

 →蛇は水神。猪も雷神(水神)の化現である。

 

P207

 いっそのこと、酒呑童子が悪疫をもたらす水神の面影を残していたことが、空海の登場をいっそう容易にした、というアイデアはどうだろうか。空海は、神泉苑における守敏との壮烈な祈雨の法力合戦に勝利したように、説話世界では、まさに水の制御者としての破天荒な霊能を有すと信じられていたからである。

 

 

第六章 酒呑童子説話の成立

P212

 前近代の都市は、一個の巨大な墓場、人工調節装置と言われる。人口の稠密、人や物の絶えざる接触、劣悪な居住環境・衛生状態などにより、しばしば疫病が荒れ狂い、農村からの流入によって膨れあがった人口は、劇的に減少する。平安京・京都も事情は同じで、このため王権と皇都を疫病の脅威から守り、清浄・安寧を確保するさまざまな祭祀が行われた。道饗祭・四角四堺祭によって代表される「都城の道切りの祭」である。

 その結果、丹波山城国境の大江山(老ノ坂)は、疫病流行時には鬼気が跳梁する四堺祭中最重要の祭場となった。ここで行われる一連の呪的行為は、モノノケのモノを見えない霊的な存在から、形象化され実体感のある鬼へと転化させる契機になる。酒呑童子は、祭儀の繰り返しの中から浮上し、人々の集団記憶に刻みつけられた大江山の鬼神に、さまざまなイメージが重畳した結果に他ならない。

 

P238

 かくして、住吉・日吉・八幡の三神の助成による四天王の鬼退治、という比較的単調な渡辺党の鬼退治譚は、その大筋を維持しつつも、天台(叡山)開闢譚との接触によって、プロットを柔軟豊富化し、さらに「白猿伝」など中国の小説に刺激され、ハーレム模様の鬼が城を舞台とする緊張と躍動の物語に飛躍、充実の後半段階に入った。同時に、大江山の鬼神に、酒呑童子(斉天大聖)の僭上の名と、まばゆい毒素が賦与されたため、説話は、危殆にひんした王威と社会的秩序が、仏神の助けを借りた決死の鬼退治で、急転回復される浄化と言祝ぎの歴史物語に昇華してゆく。

 いわば、イデオロギッシュなものが、エロスと暴力こき混ぜた波瀾の物語に導いたわけで、皮肉とも言えるが、そこに人間の不思議と中世という時代の一面がある。中世の多くのイデオロギー説は、外見の厳しさとは裏腹に、実際には人間の生の現実性、欲望や体臭とないまぜの形でしか存在し得なかったのである。

 住吉や八幡・四天王寺の信仰と結びついた渡辺党の鬼退治譚が、中世叡山を媒介にして質的な飛躍を遂げ、酒呑童子説話として一応の形式を見つつあったのは、状況から推して鎌倉末から南北朝内乱の初期である。

 

P243

 こうした論法が妥当なら、酒呑童子説話祖本は、鎌倉幕府滅亡後、南北朝期の14世紀中葉頃までに成立したと判断できる。少なくともこれは前節までの考察と矛盾しない。もって成立年代の具体的な提案としたい。

 

P245

 サ本(サントリー本)の方が祖本の古態を若干多く残していることがわかる。

 

P247

 悪逆なアウトローに捕らえられた大量の中国人を博多より送還する、武家の棟梁の中国への威勢誇示、丹後から博多への人の移動。これら三つを一体として見たとき、逸本の末尾が描いた筋と大きく接近する。話が逸本系初期本にすでにあったものか、逸本段階ではじめて付加されたものか明らかにする術もないが、応安7年の明人被虜送還前後の経緯を踏まえて捜索されたことは疑いあるまい。

 

 

【付録2】鬼と天狗

1、モノと鬼

P297

 馬場あき子氏が、鬼について、異形のもの、形をなさぬ感覚的な存在や力、神と対をなす力をもつもの、辺土異邦の人、天皇の葬列を凝視するもの、死の国へみちびく力という六つの形があることを指摘するよう(馬場、1971)、鬼の範疇に属するものは複雑多岐にわたり、時代的にも変化がみられる。そのため、内容を規定するのは容易ではないが、歴史学的にみたとき、鬼の最も重要な内容は間違いなく、病をもたらす疫鬼という側面になるだろう。

 ところで、前近代の都市は、巨大な人口調節装置と言われる。人々のたえざる接触と劣悪な居住環境・衛生状態により、しばしば疫病が荒れ狂い、農村からの流入によってふくれあがった人口が劇的に減少するからである。

 

P299

 四堺祭における様々な呪的行為も、モノノケのモノを見えない霊的存在から、形象化され実体感のある鬼へと転化させる契機である。この種の祭儀は、疫病発生の原因を示し、それを操作・追却する必要から、対象の実在化・可視化を求めずにはおかないからである。

 こうして、たとえば「面は朱の色にて、円座(わらふだ・ざぶとんの類)の如く広くして、目一つ有り。長は九尺許にて、手の指三つ有り、爪は五寸許にて刀の様也。色は禄青の色にて、目は琥珀の様也。頭の髪は蓬の如く乱れて、見るに、心・肝惑ひ、恐ろしき事无限し」(『今昔物語集』巻27─13)といった鬼の形象が生まれる。しかし、これはまだ、鉄棒をもち牛の角をつけ、腰に虎の皮をまとう姿にはほど遠い。彼らが我々になじみ深い形姿に接近するにあたっては、地獄の獄卒の牛頭・馬頭をはじめ、仏教やヒンズー教の神話や美術の影響が作用しているらしい。

 

P300

 鬼の属性として食人がいわれるのは、人を捕らえたり食ったりする夜叉・羅刹のそれが投影されているからであろう。また、仏典の鬼霊が非人と漢訳されたため、障害を負った中世の被差別民(非人)の身体的不幸に、夜叉や天竜・鬼霊などの奇怪で醜悪な表彰が重ね合わされたりもしたらしい(黒田、1975)。

 さらに、鬼が怨霊(御霊)の観念を内容していたことが、鬼と雷神の結びつきをつくりだした(鬼の雷神・水神としての面については、近藤、1966が示唆的である。本書第三章参照)。(中略)

 雷神を鳥類のイメージで理解するのは、これまた外来の観念で、中国では雷公(雷神)は、鳥のくちばし、翼、また鳥の足と爪をもっており、具体的には鶏の姿をとる(本書第一章〈補説2〉、百田、1992)。

 異界の住人で見えないはずの鬼が、一旦実体化され視覚化されはじめると、日常は隠れ笠、隠れ蓑を着ていると考えられるようになった。平安末期になり隠れ笠や隠れ蓑が鬼の持ち物とされたのは、このためである。ちなみに、もう一つの鬼の持ち物たる打出の小槌は、病人が頭痛腰痛などに悩まされるのを、鬼が姿を隠して小槌で打つと考えたことからきている(『今昔物語集』巻16─32)。

 かくて、見えるようになった鬼は、同時に見えないがゆえの、得体のしれない凶暴な恐怖から、輪郭を限定された類型的な恐怖へと転換し、やがて恐怖を表象する力を大幅に失ったただの妖怪へと連絡してゆく。

 

 

二、天狗の諸相

(天狗については、知切光歳『天狗考』上、涛書房、1973年、岡見正雄「天狗説話展望」『新修日本絵巻物全集27 天狗草子是害坊絵』角川書店、1978年が包括的な考察である)

 

P302

 その後しばらく天狗の記事は見当たらず、九一〇年代に成立した『本朝月令』の逸文に、『月旧記』なる書物を引用し、正月十五日は黄帝が蚩尤を殺した日で、蚩尤の首は空にのぼって天狗となり、その身は伏して地霊になったとある。蚩尤は、中国神話で黄帝に謀反した英雄である。謀反に破れた蚩尤は怨霊神と化し、病を流行らせると考えられていた(本書第一章参照)。(中略)ここでは天狗は、鬼同様、病をはやらす怨霊と認識されている。

 

 (その後、『宇津保物語』や『源氏物語』では、天狗は山中での怪異な現象、または人を惑わす存在として現れている。)

 

 鬼の全盛期が摂関期以前であるとすれば、天狗が世を騒がすようになるのは院政期に入ってからである。そこでもやはり怨霊または一種の憑き物で、同じ対象が史料によって「天狐」または「天狗」とされている(「相応和尚伝」、『拾遺往生伝』下)。

 

P303

 同じころ、天狗は鳥の姿を撮るという観念が広まった。多くは鳶で「鳶は天狗の乗り物」という理解もあった(『源平盛衰記』巻四京中焼失)。天狗が鳥の姿をとったのは、それが御霊類似のもので、御霊が雷神=鳥類と考えられたこと、アマギツネとも訓まれ空中を飛翔するイメージがあったからであろう。鳥類型天狗、いわゆる烏天狗の姿はここからきている。六字神呪経・聖観音経によって調伏・息災を祈る六字法という修法はでは、「天狐」・「人狐」・「地狐」の三狐を紙で作り、小土器に入れて蓋をし脇机におく。この「地狐」は狐の姿だが、「天狐」は鳶の形をしている(『別尊雑記』)(田中、1992)。狐と鳶はどうやら奥深いところでつながっているらしい。

 

P304

 以上から明らかなように、鬼と天狗は重なりあう部分が多い。しかし、院政期の天狗は、とりわけ仏法に障碍をなすものとして特徴づけられる。霊鬼の非仏法性にたいし、天狗は反仏法性が濃厚なのである。『今昔物語集』の構成で、天狗の話が仏法部の巻二〇に配され、鬼・霊・精などその他の超自然的存在が、世俗部の「霊鬼」と題される巻二七に収録されているのは、そのためである(森(正)、1986)。

 

P305

 仏法と天狗の対立に立脚するこうした観念は、天狗が仏法の創始者たる釈迦の成道を妨げようとした天魔と同様の存在とされたり(『十訓抄』1─8)、日本の天狗道の始まりが、本朝仏法の創始者たる聖徳太子の時代と考えられていたらしいこととも、呼応しあっている(森(正)、1986)。(中略)

 天魔は欲界の最高所、第六天(他化自在天)にいる魔王のことで、名を波旬という。仏や修行者にたいしてさまざまな悪事をなし、人が善事を行おうとすると、それを妨げる魔王である。

 院政期にはさらに、名利をむさぼる我執・傲慢の僧が、死後転生する世界として、天狗道(魔界)が想定されるようになった。後世高慢な人物を、広く天狗と称するようになったのは、これに由来する。

 

P306

 『今昔物語集』の天狗は、高僧には敵対し得ないものとして描かれているが、『天狗草紙』では、顕密の高僧こそ争って天狗になるといい、しかも天狗たちは世を乱すためいよいよ邪見の法を広げてゆくとされる。(中略)

 そのほか、天狗の好むものとして、「はたゝがみ(激しい雷)、いなづま、にわかせうもう(焼亡)、つじかぜ(辻風)」などがあげられており、自然変異や天災も天狗のもたらす一種の「人災」であることが主張されている。

 

 (愛宕山の太郎坊、比良山の次郎坊)

 

 『天狗草紙』に示されている見解はたんなる妄想でははい。そこにあるのは、頻発する寺院大衆の無動な強訴や、名利を求めて驕慢をもっぱらにする高僧たちのうごめきは、仏法の堕落・退廃の端的な現れであって、自社勢力の存立を危うくする、さらに「王法仏法相依」の伝統的政治構造のなかでは、王法すなわち俗界の支配体制にも危機をもたらさざるを得ない、という主張である(原田、1994)。そして、天狗の跳梁は、まさに右の危機進行の真の原因であると、倒錯して信じられていたのである。

 

P307

 こうして、王朝の鬼が、疫病の流行という形で、いわば外から体制に打撃を与えるのにたいし、天狗は体制を内部から瓦解させる要素として恐れられていた。われわれには理解しにくいところだが、鎌倉後期にあって天狗の跳梁は、斜陽に立つ公家・寺社勢力の危機の集中的表現であった。

 

P308

三、鬼・天狗と山中他界

 世を乱し、戦乱や権力闘争を企み、人に災いを及ぼすという天狗に対する理解は、引き続く『太平記』の世界において一段と華々しく展開してゆくが、それに先行・並行して鎌倉時代以降、修験道の山伏と天狗の間に親縁関係を見る風潮が生じた。

 これは、山中の死者の魂の行き着く先であり、その山中他界に踏み込み、亡魂と交信し、救済にあたるものが山伏である、という当時の社会通念と深い関係がある(和歌森、1980)。天狗の本質が亡魂や史料である以上、山と天狗、天狗と山伏は当然密接なつながりを有している。

 平安時代、天狗が山中で怪異現象を起こす、とみなされていたことについては先に触れたが、中世でも、山中で大木の倒れる音がし、多数の笑い声がどっと起こるが、行ってみると何事もないという、いわゆる「天狗倒し」「天狗笑い」の現象のあったことが伝えられている(『平家物語』巻五 物怪之沙汰)。またどこからともなく大小の小石が飛んでくるのを「天狗つぶて」と呼ぶが、飛礫と山伏の関係も深い(網野、1986。丹生谷、1986)。

 

P309

 このように、人智で測り難い力を有し世を惑わすとされる天狗が、深山幽谷を自在に踏破し、特異な姿で世人に呪法を示す山伏と相通ずるかのごとく畏怖され、さらには天狗が山伏に憑き、これを動かして世人を愚弄するのだという幻覚も現れた。「日本ノ天狗ハ山臥ノ如シ」とは鎌倉後期の無住の言葉だが(『聖財集』中)、ここに兜巾・篠懸(すずかけ)の山伏型天狗が出現する。

 いい遅れたが、天狗も超自然的な霊だから本来姿が見えないはずである。後世、天狗の隠れ蓑ということがいわれるようになるのは、鬼同様ビジュアルな形象が与えられたことの結果である。

 

P310

 天狗全盛の鎌倉後期・南北朝期には、鬼もまた、独自な展開を見せつつあった。従来の疫鬼としての鬼が、排外思想の対象として国家領域外の民や、平将門・蚩尤など挫折した謀反人のイメージと結びつき、さらに仏法に仇なす第六天の魔王であるとの認識も生じた。鬼も死魂であったから、彼らの住む異界は山中、さらに「山のあなた」の王威をないがしろにする美麗豪奢な鬼が城(他界中の王城)となった。

 寺社勢力の自壊要因、体制内矛盾の表現としての天狗は、一応解脱・得脱可能な存在、むしろ「魔仏一如」など天台本覚思想の論理を借りてでも、なんとか得脱(すなわち体制の危機の解消)させねばならない存在だった。だが異界・冥界の住人(体制外にあり体制の否定者)である鬼はそうではない。鬼は退治するしかない。仏敵になったが故に、鬼退治は護法の神としての毘沙門天(四天王)の仕事であり、山中他界だからこそ鬼が城に向かうのも、山伏姿でなければならなかった。

 中世には、こうした錯綜する要素と観念とをとりこんで、いくつかの鬼退治物語が作られた。その代表が、丹後大江山に住まいして都に災いをなす鬼王を、源頼光と郎等の四天王が退治するという酒呑童子説話である。この説話の成立は一四世紀中葉の南北朝期であるけれど、下敷きの記憶となったのは、すでにみた、平安期以来の都の度重なる疫病流行と、丹波・山城境の大枝山で繰り返された四堺祭であった。

 酒呑童子の鬼が城が、丹波・山城境の大枝山から、冥界と仙境の統一としての竜宮の性格を帯び、かつ修験の霊場でもある丹後・丹波境の大江山(元京都府福知山市の千丈ヶ嶽)となったことには、しかるべき理由がある。詳しくは本書本編を参照されたい。