周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺文書38

    三八 小早川隆景制札

 

  仏通寺山境新傍尓之事

 東者、大人之足跡、三道祖、馬胡木田尾杖衝場大池之畝、備後安芸之道祖神

 南者、龍王正面之畝、水呑場塔之岡簑打越限

 西者、従柿木谷東之畝、船石之前通、岡者古道高良田尾炭𥧄天池西畝

    ヲツハカクシ高坂之岡道祖限、峰者瀧頭女石限、

 北者、従土取之下山神之畝黄幡

  右四至傍尓之事、或彫顕石或築験塚之上者、到後代此旨、堅

  御政道可肝要、若有違背者、可厳科者也、仍如件、

      永禄三(1560)

       七月五日          隆景(花押)

      仏通寺

 

 「書き下し文」

  仏通寺山境新牓示の事

 東は、大人の足跡、三道祖、馬胡木・田尾・杖衝場・大池の畝、備後・安芸の道祖神を限る

 南は、龍王正面の畝、水呑場・塔之岡・簑打越を限る

 西は、柿木谷東の畝より、船石の前を通り、岡は古道の高良・田尾・炭𥧄・天池の西畝をつはかくし高坂の岡の道祖を限る、峰は瀧頭女石を限る、

 北は、土取の下の山神の畝より黄幡を限る

  右四至牓示の事、或いは顕石を彫り或いは験の塚を築くの上は、後代に到り此旨を守られ、堅き御政道肝要たるべし、若し違背せしむる族有らば、厳科に処すべき者なり、仍て件のごとし、

 

 「解釈」

 (四至についてはわからないことばかりなので省略)

 右、四方の境界のこと。一方でははっきりとわかる石を彫り、一方では目印となる塚を築くうえは、後世に至るまでこの取り決めをお守りになり、厳密にお取り締りになることが大切である。もしこの取り決めに背く連中がいれば、厳罰に処すべきものである。以上のとおりである。

 

 「注釈」

「大池」─三原市八幡、あるいは深町などに大池がある(https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/26/120345.html)。

 

「塔之岡」─三原市本郷北四丁目「塔ノ岡集会所」近辺か。

 

「天池」─三原市沼田東町両名、あるいは納所の天池か(https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/26/120345.html)。

 

「土取」

 ─現三原市久井町土取。世羅台地の南端、備後国との国境にあたる安芸国豊田郡の北東部に位置する。北西から流れる沼田川の支流仏通寺川が村の南部の急崖で滝(仏通寺の滝)を形成して仏通寺谷(現三原市)へ流れる。東の坂井原村の近くに須恵器が出土するとびのこ池窯跡、北部の丘陵南面に大坪古墳、西部丘陵上に坂本古墳がある。古代の山陽道は坂井原村から当村を横断して南の真良村(現三原市)の馬井谷に至っていた。「豊田郡誌」は、当村はもと「土倉郷」のうちで、天正四年(1576)以前に分村したと記す。

 元和五年(1619)の安芸国知行帳によると高140・08石。「芸藩通志」には、高177石、畝数19町9反とあり、「高坂村誌」には毛付高150・448石、全村が明知と記す。「芸藩通志」によれば、戸数45・人口198・牛24・馬10。また御建山に別迫村(現三原市)との境のシムラ(鹿群)山、池に大沢池・梅木池、神社には天正四年再建で平清盛が勧請したと伝える厳島神社(現築山神社)、宝暦四年(1754)創建の天満宮があり、多田満仲開基の金亀山光明寺跡が村の中央部の丘陵南面にあり、東部の丘陵南面には観音堂を残す普門寺跡、仏通寺川西岸山中に清盛石塔(高さ1・4メートル)があると記す。この石塔は伝えによると、平清盛の当地における干拓事業を賞して村人が建立したものという。また現在普門寺跡には臨済宗仏通寺派持地庵(じじあん)がある(「土取村」『広島県の地名』平凡社)。