解題
鎌倉時代後期から室町時代にかけての弁海名に関する史料は約二十通あり、楽音寺・東禅寺・弁海神社・稲葉桂氏の各所蔵文書の中にみることができる。
本文書は十通あり、明治七年原本を県庁へ進達した時の写であるが、うち九通は鎌倉時代末期から南北朝期にかけての弁海名名主職の補任に関するものである。それによると、源信継 信賢 信成 孫鶴丸 僧見月の順に名主職を勤めたことがわかる。
一 梨子羽郷預所下文写
コヽニカキハンハリ
下 安芸国沼田庄梨子羽郷
定補 弁海名職事
右衛門尉源信継
右以レ人所レ被レ補二彼職一也、有レ限所当米并公事以下、不レ可レ致二懈怠一者、
沙汰人百姓等宜承知、敢不レ可二違失一、故以下、
(1314)
正和参年正月廿日
○本文書以下九通ハ、明治七年七月原本ヲ縣廳へ進達シタル時ノ写ト傳フ
「書き下し文」
此処に書判有り
下す 安芸国沼田庄梨子羽郷
定め補す 弁海名職の事
右衛門尉源信継
右、人を以て彼の職に補せらるる所なり、限り有る所当米并びに公事以下、懈怠致すべからず、てへれば、沙汰人百姓ら宜しく承知し、敢へて違失すべからず、ことさらに以て下す、
「解釈」
安芸国沼田庄梨子羽郷に下達する。
右衛門尉源信継に補任する、弁海名名主職のこと。
右、源信継をもって名主職に補任するところである。重要な所当米や公事などの収納を怠けてはならない。したがって、沙汰人・百姓らは必ずこの取り決めを承知し、けっして背いてはならない。格別に下達する。