周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

マイケル・S・ガザニガ その3

マイケル・S・ガザニガ『人間とは何か 脳が明かす「人間らしさの起源」』上・下

            (ちくま学芸文庫筑摩書房、2018年

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 

第8章 意識はどのように生まれる?

P159

 私たちは気分の辺に関しても同様のテストを試みた。右の脳半球に笑えという命令を示した。患者は笑い出した。それから、なぜ笑っているのかを患者に尋ねた。左の脳半球の言語中枢は、笑っている理由はまったく知らないが、とにかく答えは出てくる。「あなたたちが、とってもおかしいんだもの!」。私たちが、視覚刺激で右の脳半球にネガティブな気分になるきっかけを与えると、患者は何も見ていないと言い張ったものの、自分は腹が立っている、私たち実験者のせいで腹が立っているのだと、だしぬけに言った。患者は、刺激に対する情動反応や、自律神経系に生じた結果もそっくり感じたが、その原因は見当もつかなかった。いや、知らなくても、たいしたことではない。左脳は必ず答えを見つけ出す! なんとしても秩序を生み出さずにはおかない。筋が通った説明であれば、真っ先に浮かんだもので事足りる。そうだ、実験者のせいだ! 左脳の解釈装置は、他のあらゆるプロセスのつじつまを合わせる。すべての入力情報を、筋の通った1つの物語にまとめ上げる。たとえ、それが完全に間違っていようとも。

 

 →「左半球は知ったかぶり」。ニワトリと雪とシャベルの実験。感知しているが意識には上ってこないから、左脳が合理的な理由を創作している。 因果の説明は、左脳の宿命。どうしても苦境と自殺を因果で結びつけようとしてしまう。それが強く結び付けられれば結び付けられるほど、他の考えが頭を過ぎることがなくなる。このバイアスは何か?複雑な状況を簡潔に理解するために、ユーリスティックが機能する。どういうユーリスティックか? 正誤は問題ではなく、「筋の通った」というのが大切で、それは社会的産物。このユーリスティック・バイアスを何と呼ぶのか? これを正しいと納得することが、大きな問題ではないか。

 

P161

 左半球は事象を解釈せずにはいられないようだが、右半球にはそういう傾向はない。両半球での記憶作用の違いを改めて考えてみると、この違いは適応を助けるものかもしれないことがわかる。実験で品物を見せ、あれがあらかじめ示された品物の中にあったかどうか判断するように求められると、右半球は、すでに見た物と新たに出てきた物とを正しく識別できる。「ええ、プラスチックのフォークと鉛筆、缶切り、オレンジはありました」というように。ところが、左半球は、前に示された物と新しい物が似ていると、判断を誤りがちになる。どうやら自分が構築した概念的枠組みに当てはまるかららしい。「ええ、フォーク(しかし銀製でプラスチックではない)と、鉛筆(しかしこれはシャープペンシルであり、前に見たのは普通の鉛筆)、缶切り、オレンジです」という具合だ。この発見は、左半球の解釈装置は理屈をつけて知覚情報を理解可能な全体像に取り込むという仮説と一致する。たんに事象を観察するだけでなく、なぜそれが起きたかを問うことにより、そのような事象が再び起きたときに脳はより効果的に対処できる。しかし、そうするに当たり、取り込む(物語を作る)プロセスは、言語的・視覚的素材を処理するときと同じで、知覚認識の正確さの面に悪影響を与える。一方、右半球は、こうした解釈のプロセスに携わっていながら、正確さは変わらず高い。脳がこのように二元的なシステムを持つ利点は明らかだ。右半球は事象の正確な記憶を保持しつつ、左半球には提示された素材について自由に考えさせ推測させる。健常な脳では、二つのシステムが互いに補足し合い、正確さを犠牲にすることなく取り込み処理ができる。

 

 →であるならば、誤認や誤った判断を下すときには、左に責任があり、ユーリスティックの誤用やバイアスの影響を強く受けすぎている可能性がある。

 

P162

 確率を推測するパラダイムはまた、なぜ一方の脳半球にだけ解釈装置をもつのが適応を助けるのかも実証してくれる。二つの脳半球は、二つの違った方法で問題解決の状況に望む。右半球は単純な頻度の情報に基づいて判断を下すのに対して、左半球は手の込んだ仮説を立ててそれを拠り所にする。状況のうちには、ただのランダムな偶然の一致という場合もある。ランダムな事象の場合、右半球の戦略が明らかに有利で、左半球がランダムな順序について馬鹿げた仮説を立てる傾向は、対応に悪影響を及ぼす。これは、たった一つの不確かな状況に基づいて仮説を立てるときに起きることだ。(中略)しかし多くの状況には基本的なパターンがあるので、一見するとカオス状態に思えるところから左半球が秩序を生み出そうとする動因は、最善の戦略となる。偶然の一致は確かに起きるが、本当に陰謀が存在するときもある。健常な脳には、この両方の認知のスタイルが用意されていて、状況に応じてどちらでも使うことができる。 二つの脳半球が世の中の物事に取り組む方法の違いは、適応を助けていると考えられる。また、人間の意識の本質についての手がかりも、与えてくれるかもしれない。マスメディアでは、分離脳患者は2つの脳を持つと言われている。しかし患者本人は、手術の前後で何も変わった感じはしないという。二つの脳を持つというと、意識も二つあるように思えるが、本人にはそういう自覚はまったくない。分離された二つの脳半球から一つの意識しか生じないとは、どうしたことだろう。左半球の解釈装置が、その答えかもしれない。解釈装置は周囲の事実におかまいなく、説明や仮説を生み出さずにはいられない。分離脳患者の左半球は、右半球が起こした行為に遠慮なく説明を加える。健常な神経系を持った人でも、解釈装置は、交感神経系の興奮についてもっともらしい説明を躊躇うことなく生み出す。こうして左半球の解釈装置は、私たち全員に、自分は統合された一つのものであるという感覚を抱かせるのかもしれない。(中略)

 あなたが物語をどう解釈するかは、語り手たちの言葉にかかっている。つまり、あなたの解釈は、提供される情報次第だ。これは脳内の解釈システムにも当てはまる。解釈システムの結論の正確さも、受け取る情報次第なのだ。

 

 →受け取る情報が少ない(情報不足になる)と誤った解釈をする。情報を大量に持っていても、その情報をバイアスやユーリスティックによって、無視している可能性もある。本当は有効な情報であるにもかかわらず無視してしまうことで、自殺に至るのではないか。これは病気や認知の誤作動というものではないような気がする。

  何か嫌な出来事が起きる。本来の自分はこうあるべきだったという理想的な状況からズレる。左脳の解釈装置が働いて、「だから、生きていたくない」と考える。それは右脳とつながり、希死念慮を欲求として強める。

  自殺念慮者は、「べき論」の強い人、信念の強い人かもしれない。

 

P169

 解釈装置には他にも仕事がある。脳に押し寄せてくるすべての情報の辻褄を合わせる(私たちが環境の中で遭遇したものに対して示す認知反応や情動反応を解釈し、一つの事柄が他の事柄とどのように関連しているかを問い、仮説を立て、カオスから秩序を導き出す)ことから始めたこのシステムは、私たちの行動、情動、思考、夢を紡いで、つながりのある物語を作る仕事もこなしている。解釈装置は私たちの物語を一つにまとめる接着剤の役割を果たし、統一のとれた、理性ある、行為の主体たる感覚を私たちに持たせている。

 

 →左半球の解釈装置が虚構を作り出してしまう。人間が自由意志によって虚構を創っているのではなく、脳が非意識の下に虚構を勝手につくってしまうことが怖い。自殺も結局それ。

 

 解釈装置がなくても機能している脳に解釈装置が加わると、多くの副産物が生まれる。事柄と事柄の関連を問うことから始める装置、いや数限りない事柄について問い、自らの疑問に対して生産的な答えを見つけられる仕組みがあれば、おのずと「自己」の概念が生まれる。その装置が問う大きな疑問の一つは間違いなく、「これだけの疑問を、誰が解決しているのだろう」だからだ。「そうだな…それを〝自分〟と呼ぼう」。そして、さらに次々と疑問と回答が続く。

 「私の自己感覚が副産物?」

 そうなのだ、おあいにくさま。さてここで、「自己」や「私」とは何かについて、きわめて哲学的な話やフロイト的な話を展開することもできるが、それはやめておこう。目指すは認知心理学的な考察だ。

 自己認知はいくつかの異なるプロセスからなることはおおむね誰もが同意するところだが、どんなプロセスが自己認知を構成しているかについては、さまざまな意見が出ている。ジョン・キルストロームと、私の同僚でカリフォルニア大学サンタバーバラ校のスタン・クラインは、自己とは一つの知識体系であって、独立した神秘的な存在ではないとはっきり主張している。彼らの見解によると、自己知識には次の四つのカテゴリーがあり、脳の中にそれぞれ異なる形式で保存・整理されているという。

 

 ⑴概念上の自己─各状況に固有の自己の漠然とした集まりで、どのようにして今の自分が誕生したのかを説明する「理論」によって統合されている「私は気前がよく(けちで)、明るく(陰気で)、すてきな(嫌な)人間だ。なぜなら、そうなるように親(境界、社会、あるいは酒の神バッカス)に教わった(強いられた)からだ」。パスカル・ボイヤーらによると、これには社会システムの領域も含まれるだろうという。つまり、この自己概念には社会的なアイデンティティや道徳的ステータスといった概念も、「心の理論」や共感を持つ能力も含まれる。

 

 ⑵「物語」としての自己─過去、現在、未来について、自分で構築し、何度も自分に言い聞かせ、他者に語ってきた物語。「私は牧場に生まれ、子供の頃から馬を馴らしていたので、ロデオこそ我が人生と確信していた」

 

 ⑶像として捉えた自己─顔、体、仕草を詳細に表した自己像。「私はほっそりとしていて、上品で、かなり人目を惹く。タンゴを踊る私をお見逃しなく!」

 

 ⑷さまざまな情報を扱う連合ネットワーク上に生まれる自己─さまざまな情報とは人格特性、記憶、経験に関するもので、エピソード記憶と、後述する意味記憶に分けて保存されている。「私は自身に満ちていて、社交的で、いつも見事に日焼けしている。タヒチで生まれてハワイに引越し、そこで素晴らしい時を過ごした。絶好の波の日に、州のサーフィン大会で優勝したこともある。女の子たちが放っておかない」

 

 →こういう創作行為を、自分も知らず知らずのうちにやっていると思うと、ちょっと恥ずかしくなる。

 

 どこかで聞き覚えのある話になってきた。そう、これは左脳の解釈装置の仕業だと私は思う。解釈装置がこうした「理論」や物語や自己像を考え出しているのだ。さまざまな入力や「ニューロンの作業空間」や知識体系から情報を集めて一つにまとめ、そうすることで入力情報のカオスから自己や自伝を生み出しているのだ。

 自己に関するこうした知識体系は、他の知識体系とは異なるのだろうか。神経心理学者の中にはあまり変わらないと考える者もいる。ペンシルヴェニア大学のジェイムズ・ギリガンとマーサ・ファラは、自己を知る機構のほとんどは、世間一般の人にまつわるプロセスとおそらく変わらないと考えている。これは実のところ、脳の経済性の観点に立つと、非常に理にかなっている。私に言わせれば、左脳の解釈装置は人間ならではのものだ。それは多種多様な情報源から情報を入手できる。動物も同じ情報源にアクセスできるのだが、人間の解釈装置は集めた情報を独特のやり方で統合し、私たちの自己意識的な自己を生み出している。「位相変化」が起きたのだ。人間ほどの自己認識を持つ動物は他にない。

 

 

P173

 記憶は、扱う情報によって基本的に二つのタイプに分けられる。「手続き記憶」と「陳述記憶」〔訳注:「宣言(的)記憶」ともいう〕」だ。手続き記憶は人に知覚・運動・認知の技能を保持させて、非意識的にそれを発揮させる。これにより、車を運転する、自転車に乗る、靴紐を結ぶ、髪を編むといったことから、果てはピアノを弾くといったことまで可能になる。一方、陳述記憶は周囲の世界に関する事実や信念で構成されている。夏の砂漠は暑い、オレンジの花は香りが良いといった事柄だ。神経科学者でトロント大学名誉教授のエンデル・タルヴィングは、陳述記憶には「意味記憶」と「エピソード記憶」という、二つのタイプがあるという説を提唱している。

 意味記憶は一般的な情報の記憶だ。それは「事実あるのみ」と言わんばかりで、情報の出所やいつどこでそれを得たかとは、必ずしも関係がない。カイロはエジプトの首都である、12の二乗は144である、たいていのワインはブドウから作る、といったものだ。意味記憶には自己に関する事実(「私の目は緑色だ」「私はマリのティンブクトゥで生まれた」など)が含まれることもあるが、自己に関する主観的な言及はない。意味記憶は当事者の観点ではなく観察者の観点で捉えた知識を提供するのだ。一方、エピソード記憶には、自己があるときにある場所で経験した出来事がとどめられている。「夕べ、パーティーで楽しいひとときを過ごした。料理も美味しかった」といった記憶だ。

 

P174

 エピソード記憶とは、新しく進化した、発達するのが遅く衰えるのが早い、脳/心の(神経認知的な)記憶システムだ。過去志向で、他の記憶システムより神経機能障害の影響を受けやすく、おそらく人間固有のものである。これが、頭の中で主観的な時(過去、現在、未来)を行き来するタイムトラベルを可能にする。この心のタイムトラベルのおかげで、人間はエピソード記憶の「持ち主」(「自己」)として、自己認識的意識を通して、自分がかつて「考えた」経験を思い出すことも、自分に将来起こりうる経験を「考える」こともできるのだ。エピソード記憶の作用は意味記憶のシステムを必要とするが、その枠に収まらない。エピソード記憶から情報を引き出す(「思い出す」)には、エピソード記憶の「想起モード」と呼ばれる、特別な心的構えを確立・維持しなければならない。エピソード記憶を構成する神経回路は、大脳皮質と大脳皮質下の領域に広く分布するネットワーク(他の記憶システムを助けるネットワークと重複し、それをさらに拡張したもの)で成り立っている。エピソード記憶の本質は、自己、自己認識的意識、主観的な時という三つの概念の結合にある。

 

 当然ながら、エピソード記憶には必ず、行為の主体あるいは受け手として自己が含まれる。ある人(仮に「サラ」と呼ぼう)がある出来事を思い出すとき、サラは、これは前に自分に起きたことだという認識の下にそれを再体験する。「去年、ローリング・ストーンズを見たのを思い出すわ。すばらしかった!」。エピソード記憶意味記憶のおもな違いは、コード化する情報の種類ではなく、システムがコード化や想起をする際に伴う主観的経験の有無だ。サラは酔っ払っていて実は見たことを覚えていなくても、一つの事実として「去年、ローリング・ストーンズを見た」と言うことができる。エピソード記憶が根ざしているのは、自己認識的意識であり、また、今、再経験をしている自分は元の経験をしたのと同じ自分だという信念だ。一方、意味記憶には認識的意識、つまり知っていることについて客観的に考えるときに経験さえる意識があれば足りる。タルヴィングは、こう強調する。「身体の空間的な位置や特徴、特性を含めた自己について、さらには、自伝的事実のうちでも、過去を再経験または再現する感覚を伴わないものについてさえ認識的に意識できる」

 どうやら意味記憶エピソード記憶より早く発達するらしい。ごく幼い子どもでも事実は記憶できるようだし、物理的にそこにないものについても考えられる(つまり、意味記憶はもっている)が、彼らが発達したエピソード記憶のシステムを使うかたちで、意識的に過去を思い出せるかどうかを判断するのは難しい。二歳児が生後一年1ヶ月で見たものを思い出せることは実証されている。しかし、子どもは少なくとも一歳半にならないと、実際に記憶の一部に自分を含めることはないという考えを支持する証拠もいくつかあるし、この能力がより確実に見られるのは、3、4歳になってからのことが多い。事実、4歳未満の子どもは時間の尺度というものを知らないようだ。ディズニーランドに行くことを2週間も前に子どもたちに告げるのかけっして明暗でないのはそのためだ。このようにエピソード記憶は後になってから発達するので、非常に幼い頃の自伝的記憶は乏しい。

 とはいえ、進化心理学の視点に立つと、自伝的な記憶にまつわる仕事はすべてエピソード記憶だけがになっているという考えには納得できないだろう。それでは手っ取り早く答えがほしいとき、あまりにも時間がかかりすぎる。私たちの祖先が獲物を負うべきか否かの問題に直面したときには、自分の能力がどれほどのものか、即座に答えを必要とした。のんびり構えて、それまでに追ったことのあるガゼルやイボイノシシを一頭ずつ思い起こし、自分の速さと持久力で十分だったかどうかを思い出して、それから狩りの成功率を計算してなどいられない。あらかじめ計算して保存してある答えが必要だ。「私は足が速いし、強いし、持久力もある。追え!」あるいは「私は足が遅いし、弱虫だし、すぐに疲れてしまう。それに、イボイノシシは気持ち悪い。居場所をクロノスに教えるだけにしておこう。」

 さてそこで、だ。意味記憶のシステム、あの「事実あるのみ」のシステムに、人格特性の要約を記憶するためのサブシステムがあるらしいのだ。スタン・クラインとジュディス・ロフタスは、人格特性のようやくがエピソード記憶とは別に保存されているのかどうかを探り出すための実験を行なった。

 

P178

 クラインとロフタスは別の研究も行ない、エピソード記憶は、使える特性要約がないとき(たとえば、ある特定の特性に関して極端に経験が少ないとき)にだけ呼び出されることも明らかにした。他者について判断するときも同様だ。つまり、エピソード記憶に頼るのは、特製の要約が存在しないときだけなのだ。

 

P182

 結局、データの示すところでは、自己感覚は左右両方の脳半球に分布したネットワークから生じているようだ。どうやらどちらの脳半球にも、これらの分散したネットワークからの入力情報に基づいて、左半球の解釈装置が構築しているものと思われる。

 

P201

 (人間の意識を生み出すプロセスを複製したロボットや人造人間を作ることができたら、それは実際に意識を持つのでしょうか)この質問の根本にあるのは、意識とは何らかのプロセス─私たちの無数の思考のすべてを集約して、個人的意識あるいは現象的意識と呼ばれる特別のエネルギーと現実を生じさせるプロセス─を反映したものだという前提だ。だが、実際はそうではない。意識とは創発的な特性〔訳注:「創発」とは構成要素の多様性と複雑さが増して、ここの要素の総和に止まらない新たなシステムが生み出されること〕であり、それ自体はプロセスではない。たとえば塩の味見をしたとき、塩辛いと感じる意識は感覚系がもたらした創発的な特性であり、食卓塩の成分が組み合わさって生み出したものではない。私たちの認知能力、記憶、夢などは、脳全体に分布したプロセスを反映しており、そういう実態の一つひとつが、意識という独自の創発的な状態を生み出しているのだ。

 

 →意識はプロセスではなく、プロセスが生み出したもの。

 

 

第9章 肉体など必要か?

P276

 ここにホーキンスの仮説の核心がある。「脳は問題への答えを計算しない。脳は記憶から答えを引き出す。じつのところ、答えはとうの昔に記憶に蓄えられていたのだ。記憶から何かを引き出すのは、ほんの数ステップで済む。遅いニューロンでも十分間に合うし、そればかりか、ニューロン自体が記憶を構成している。皮質全体が記憶システムだ。脳はコンピューターとは似ても似つかない」。そしてこの記憶システムは4つの点でコンピューターのメモリーとは異なる。

 

⑴新皮質はパターンの配列を蓄える。

⑵新皮質はパターンを自己連想的に呼び戻す。つまり、一部を与えられただけでパターン全体を引き戻すことができる。塀の上に頭が出ているのを見れば、それには体がつながっているとわかる。

⑶新皮質はパターンを不変の形式で蓄える。パターンの中の差異を自動的に処理できる。友人を違う角度や違う距離から見ても、視覚入力はまったく異なっているにもかかわらず、その人だとわかる。コンピューターにはこれができない。あなたは入力が変化するたびに、誰を見ているのかを再計算することはない。

⑷新皮質は記憶を階層的に蓄える。

 

脳は蓄えられた記憶を使って絶えず予測をしているとホーキンスは主張する。家に入るとき、あなたの脳は過去の経験から予測している。(中略)何かに注意を惹かれるのは、予測が失敗したからだ。あなたの妻があなたに黙って裏口のドアをピンク色に塗ったとする。あなたはそれに気づく(いったいこれは…?)。予測されたパターンと合わなかったのだ(それどころか、家具ともインテリアとも、まったく合わなかった)。ホーキンスは大胆にもこう述べる。予測は「新皮質の主要な機能で、知能の基盤だ」。つまり、あなたが何をしようとその間中ずっと予測がなされていることになる。なぜなら新皮質細胞はすべて同じ方法で処理するからだ。ホーキンスは言う。「人間の脳がほかの動物の脳よりも知的なのは、より抽象的な種類のパターンとより長い時間的パターンのシーケンスについて予測できるからだ」(中略)

 知能とは、言葉や数や社会的状況や物など、何についてのパターンであろうと、どれだけうまくパターンを思い出して予測するかという尺度に過ぎないとホーキンスは見ている。つまりこれこそ、皮質野が皮質階層の下向きに情報を送っているときに起きていることだ。

 

 長年、ほとんどの科学者は、こうしたフィードバックのための逆方向のつながりを無視してきた。脳を理解しようとするとき、新皮質がどのように入力を受け取り、処理し、それに基づいて振る舞うかに焦点を当てていたなら、逆方向の流れは不要だった。皮質の感覚野から運動野に至る順方向のつながりさえあれば済んだ。だが、新皮質の中心機能が予測をすることだと分かり始めると、そのモデルにフィードバックの流れを組み込まなければならなくなる。脳は情報を、最初に入力を受け取る領域に送り返さなければならない。予測するには、起きていることと起きるだろうと思うことの比較が必要となる。実際に起きていることは上向きに流れ、起こるだろうと思っていることは下向きに流れる。

 

 →人間は脳に近づけようとしてAIを作ってきたが、まったく別物の知能ができあがってしまったということか。それなら、共存も可能ではないか。

 

P279

 新皮質が新たに付加されたおかげで、哺乳類はさらに賢くなった。そしてホーキンスによると、それは新皮質によって記憶が付け加えられたからだという。哺乳類は記憶によって以前の感覚や行動の情報を思い出せるので、未来を予測できるようになった。ニューロンは入力を受け取り、それが前日経験したものと同じであることに気づく。「ああ、昨日もよく似たような信号を受け取ったな。食べたら、美味しかった。おや、入力は全部昨日とそっくりだ。昨日と同じものだと予測していいだろう。美味しい食べ物だ。食べるとするか」

 記憶と予測のおかげで、哺乳類は進化的に古い脳組織が作り上げた固定的な行動を、もっと賢く使うことができる。

 

P280

 マーリン・ドナルドは、人間は自分で自分に手掛かりを与える随意的記憶早期のユニークな能力を持っていると主張する。私たちは環境とは無関係に、特定の記憶アイテムを随意に思い起こすことができるのだ。人間の知能がユニークなのは、新皮質が大きく、そのため現実世界に関する、より複雑なモデルを学び、より複雑な予測ができるからだとホーキンスは考える。「私たちはほかの哺乳類よりも、より深い類推をし、物事をより階層的構造的に理解する」。さらに私たちは言語を持っており、彼によれば言語は「記憶による予測」の枠組みにぴったり当てはまるという。何といっても言語は純粋な類推で、階層構造(意味と構文)に組み込まれたパターンにすぎず、そうした構造こそ、彼の理論的枠組みが認めるものの根本なのだ。そして、まさにマーリン・ドナルドが述べたように、言語は運動との協調を必要とした。

P305

 不安も望ましくないものとして挙げられることが多い。世の中は不安がなければもっと良くなりそうなものだが、そうとも言い切れない。不安は世の中に対する警鐘なのかもしれない。というわけで、何が望ましくて何が望ましくないかは誰が決めるのだろう。完璧に設計された子どもは歓喜な人生を送ると考える、善意の親たちだろうか。その結果は私たちがよく知っているロシアンルーレットと同じになるのだろう。

 

 

P306

 この研究を始めた動機には、純粋な好奇心(これは人間ならではの特徴ではない)が含まれている。病気や怪我の苦しみを和らげる手助けがしたいという願望もある(共感や思いやりの気持ちに突き動かされてのことだが、これはまず間違いなく人間独自のものだ)。また、人間の置かれている状況全般を改善するためという動機もある(これは紛れもなく人間だけが持っている目的だ)。また、元気で健康な子孫を残したという願望(これは人間がほかのあらゆる動物と共有している)に駆り立てられた部分もある。こうした願望のために人間はもう「賢いヒト(ホモ・サピエンス)」と呼べなくなるところまで、自らの染色体を操作してしまうのか、肉体をシリコンと交換するとことになるかはまだわからない。ことによると将来、私たちは「さしでがましいヒト(ホモ・パテインスキ)」と呼ばれるのかもしれない。