二七 小早川元平書状 ○東大影写本ニヨル
仏通寺并諸塔頭、就二一乱一寺領段銭米申付候、無為ニ成候間、自今以後者不レ
可レ有二其煩一候、恐惶敬白、
(文明十年・1478)
十一月二日 元平(花押)
納所禅師
「書き下し文」
仏通寺并びに諸塔頭、一乱に就き寺領に段銭米を申し付け候ふ、無為に成り候ふ間、自今以後は其の煩ひ有るべからず候ふ、恐惶敬白、
「解釈」
仏通寺ならびに諸塔頭に対して、応仁・文明の乱のために、寺領へ段銭・段米の賦課をお願い申し上げた。乱が集結し平穏になりましたので、今後はそのような煩い(段銭・段米の賦課)はあるはずもありません。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
*「寺領段銭米申付候」と書いていることから、小早川元平は仏通寺に対して、強権的に段銭・段米の賦課を命じたのではなく、負担していただくように依頼していたと解釈したほうがよいのではないか。仏通寺も檀那からの依頼を無下に断ることもできず、寺領に賦課したものと考えられる。
仏通寺の場合、寛正4年(1463)から再び小早川氏が寺の運営に規制と保護を加えるようになると言われているが(『仏通寺文書』23号文書、「仏通寺」『広島県の地名』平凡社)、この史料を読むかぎり、強権を発揮して寺の運営に介入していたというよりは、仏通寺の力を利用させてもらっていると解釈した方が正しいような気がする。地域社会における政治・軍事・経済・文化の拠点となっているような寺院を「山の寺」と呼ぶが(仁木宏「日本中世における『山の寺』研究の意義と方法」『遺跡学研究』8、2011、59頁)、仏通寺もこの「山の寺」に該当しているようにみえる。であるならば、小早川家文書を中心に、小早川氏の視点で描かれてきた三原一帯の歴史は、仏通寺のような「山の寺」の視点への転換によって書き直していかなければならないかもしれない。