六 宜舗書状 ○東大影写本ニヨル
(豊田郡)
先日令二参上一委細申入候畢、抑今度申談候下地之事者、芸州生口島之向上庵者、
因為二仏通寺之末寺一、至二于永代一無二僧衆退転仁一可レ有二御計一候間、仍為二
陪堂闕如之時一、自二檀方一下地七段、以二代三十貳貫文一被二買進一候間、為二
後日支証一加二当住御判一被三副二置彼売券一候者畏入候、心事期二面謁一候、
恐惶謹言、
(1414)
応永二十一年〈甲午〉四月十五日 宜舗
(別筆)
仏通寺方丈 侍司 「典座安心
(行翁)
「 代三十四貫文 含暉良令
又六段
(覚隠)
丙申歳十二月」 住持真知」
「書き下し文」
先日参上せしめ委細申し入れ候ひ畢んぬ、抑も今度申し談じ候ふ下地の事は、芸州生口島の向上庵は、因みに仏通寺の末寺たり、永代に至り僧衆退転無きに御計らひ有るべく候ふ間、仍て陪堂闕如の時の為、檀方より下地七段、代三十二貫文を以て買ひ進らせられ候ふ間、後日の支証として当住の御判を加へ彼の売券を副へ置かれ候はば畏れ入り候ふ、心事面謁を期し候ふ、恐惶謹言、
「解釈」
先日参上し、詳しいことを申し入れました。さて、この度相談し申します下地のことは、安芸国生口島の向上庵のことで、ついでに言うと、仏通寺の末寺である。永久に僧衆が断絶することのないように、取り計らわなければなりません。したがって、僧衆の食事が欠如したときのため、檀那方から下地七段を、代金三十二貫文で向上庵の庵主が買い申し上げられたので、後日の証拠として、仏通寺の現在の住職の御判を加え、その売券を庵主のもとに残してくださいますならば、ありがたく存じます。心中でお目にかかることを期待しております。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「向上庵」
─現瀬戸田町瀬戸田。潮音山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。もと臨済宗仏通寺(現三原市)の末寺。仏通寺の開山愚中周及の「大通禅師年譜」応永十年(1403)の条によると、仏通寺に参集する行脚僧が多数に及んだので、この年に一〇〇余人を収容できる向上庵をこの地に建てた。当寺はその傍らに立てた小堂に始まるという。しかし「芸藩通志」は寺の所伝として「初は足利家祈願所なりしが、愚中此地唐土の径山寺に肖たりとて、更に諸堂を営み、其景を写せしといふ」とし、「観音堂後拝の板に狩野元信所図の四天王の像あり」と記す。
現在残る三重塔(国宝)は、永享四年(1432)小早川氏の一族生口惟平と庶子守平を大檀那として建立されたもので、同年六月三日、塔の本尊の開眼の式が仏通寺住持一笑によって行なわれた。その法語によると、向上寺の本願檀那信元・信昌が造塔を発願し、かねてから良材を求め、金穀を蓄え、また京都の良工に命じて塔内安置の仏像を刻ませたとある(向上寺塔婆由来記)。おそらく、信元・信昌は生口島に拠点をもって、小早川氏一族の庇護のもとに海上輸送・商業で富をなしてきたものであろう。塔は三間三面、本瓦葺で高さ19メートル。和様を基調とし、各重ともに扇棰・花頭窓その他に禅宗様の手法を濃厚に交え、肘木鼻・隅木の持送りの彫刻も巧みに作られ、扉の藁座、内陣の須弥壇などの意匠は特異である(「向上寺」『広島県の地名』平凡社)。