周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

中世被差別民の装い

  河田光夫『中世被差別民の装い』

               (河田光夫著作集・第二巻、明石書店、1995)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

  

P29

 鎌倉末期、弘安頃(1278〜87)成立といわれる『塵袋』には、「天竺ニ旃陀羅ト云フハ屠者也。イキ者ヲウルエタ体ノ悪人也」とある。古代インドの被差別民「旃陀羅(せんだら/チャンダーラ)は屠者であり、「エタ」のような悪人だとする。(中略)『塵袋』は、また、「キヨメ」・「ラウソウ(濫僧)」や「非人・カタヒ」などを「エタ」と呼ぶ世間の風潮を記し、著者は、「エタ」とは「餌取(エトリ)」のことだとする。(中略)これまでの論者の間には、けがれ差別と卑賤視のみを差別とする固定観念があるが、右の史料等により、「悪人」と決めつける差別があった事実にも、目を向ける必要がある。

 

 →新型コロナに感染した者を、犯罪者(悪人)であるかのようにSNSで断罪し、差別する風潮とよく似ている。

 

P34

 本来は衣類を表し、差別と関係がなかった仏典の「非人」の原義を生かして、空海は、被差別民「蝦夷」に対し、この語を使ったのである。空海が異類と「蝦夷」に共通させた概念は、その外形が「(普通の)人に非ざる」点である。それは、中世でも猟民・漁民・ひじり・「悪僧・悪党」・山伏・乞食などを指した「異類・異形の類」(後述)と同義語である。

 前にあげた、流罪人または獄囚を「非人」とした『続日本後紀』の例も、彼らが普通でない装いをさせられた点に原因があったとも考えられる。

 

P35

 黒田俊雄氏は、この例や、「乞食非人」と連称した例、「乞食」を「非人」と言い換えた例を挙げて、「乞食・乞丐(かたい・こつがい)」等が「非人の代表的な者であったというべきであろう」としたが、むしろ両者は、乞食を外形的に言えば「非人」になるという関係にあったと考えられる。『発心集』(1216年以前)一の三話で、やせおとろえ、ぼろがたれさがるつぎあわせの着物を着た乞食を、「異様の物の様」、「人の形にも非ず」とする。同じ話を記す『私聚百縁集』(1257年)承応二(1652)年刊本の九の十五話では「非人形」とし、訓点がなければ「非人の形」とも読める。異類を連想しつつ「(普通の)人の形に非ず」とする表現が「非人」に通じることは明らかである。

 

 身体障害者や「癩者」もまた、「非人」とされた。

今昔物語集』で、次のように、「片輪者」を人に非ぬ身とするのは、外形が普通の人に非ざる者という意味とも考えられる。

 

P36

 「癩者」が「非人」にされるのは(この点を特に強調しておかなければならないが)、その病気の症状による肉体的な外形よりも、普通の生活の場から引き離され、長吏が率いる「非人」集団に入れられたり、放浪・乞食等の生活を余儀なくされた結果、服装等の装いが「人に非ざる」ものとなるからである。差別を生むのは、病気ではない。社会であり、人間である。そして、そうした装いが、さらに彼らに対する差別を強め固定するのである。

 

P42

 以上のように、「非人」の第一義は、「天・龍・ヤシャ」などの異類であり、差別とは関係なかった。それが「蝦夷」・放免・乞食・ひじりなど、装いが普通の人に非ざる者とする第二義の「非人」へと展開し、すべてではないが、多く、差別と結びついた。

 そして、「非人」の語は、次第に「清水坂非人」など、長吏に率いられた被差別民を表す語に集中していく。これが第三義の用法である。網野善彦氏が指摘した天喜三(1055)年の「小野守経請文」に「非人之長吏」とあるので、その成立は十一世紀にさかのぼる。被差別民の「非人」が成立することによって、第二義の「非人」の用法は、次第に蔑称へと傾斜したと考えられる。しかし、完全に第三義に集約されないまま、後々の時代まで残る。その場合、価値が人間以下だとする、いわば第四義的な意味と重なっていく。

 ここで重要なのは第三義の、被差別民を表す「非人」であるが、その後が第一・二義からの展開であるという点が、差別と装いの深い関係を物語る。

 

 

P45 第2章「犬神人」の装い

 「犬神人」についても、網野善彦氏は差別の存在を否定するが、以下に示すように、職能は『塵袋』の「キヨメ」に当たり、姿は「濫僧(ろうそう)」であり、しかも「非人」の一種であるから、被差別民であったことは間違いない。

 

P49

 これらのふりがなが鎌倉時代の史料として使えないとすれば、別稿で触れたように、「犬神人」を弦売りの「つるめそ(う)」とする史料は、室町末期にまで下る。

 

P53

 結局、『拾遺古徳伝』の詞書と絵は、「犬神人」が「乱僧」であり、「清水坂非人」であることを決定的に証明するものである。

 また、『拾遺古徳伝』の「犬神人」の衣の色が、明るい茶色と、青みがかっても見える明るい茶灰色との二種類である点は、「癩者」・山伏にも共通するので、後に触れる。

 

P56

 既に見た「犬神人」の衣の色は、明るい茶色、赤身がかった濃い茶色(赤さび色)、薄い赤味橙(柿の実色)が一つの系統にまとめられる。別稿で確認した『親鸞伝絵』・『親鸞絵伝』の室町時代まで七本の「犬神人」場合は、右に加えて赤茶色、みかん色、茶色、赤味がかった薄茶色であった。また、そこで触れなかった『親鸞伝絵』の千葉県夷隅郡照願寺本(康永三=1344年)は赤さび色、茨城県下妻市光明寺本(室町初期)は赤味がかった茶色である。これらを総合して茶赤系統と呼ぶ。『日本国語大辞典』は、「柿色」を「柿の実の皮の色。赤黄色。また、柿の渋の色に似た赤茶色。あるいは、弁柄(べんがら)に少し黒を入れた暗褐色」とする。これによると、茶赤系統は柿色に当たり、前章で挙げたひじりの「柿衣」がもし柿色衣なら、関連が注目される。また、『拾遺古徳伝』の、青味がかっても見える明るい茶灰色は、この系統に入れ難く、青灰系統と呼ぶ。結局、「犬神人」の衣の色はこの二系統に総括できる。

 

 

P57 第三章 「癩者」の装い

 このように明瞭に対比された乞食と「かったゐ」は別物であり、「かったゐ」は「癩者」を指すと思われる。

 

P60

 以上の様々な衣の色は、「犬神人」と同様、ほぼ、茶赤系統と青灰系統に分けられる。

 

P64

 「青」は「青空」の青色、「青田」の緑色を含む。『万葉集』の「人魂のさ青なる君がただ独り逢へりし雨夜の葬りをそ思ふ」は、人魂に会った恐ろしさを詠み、冥界につながる気味悪い人魂を青とする。「白馬の節会」の「あお馬」は、白に近い灰色だという。『親鸞伝絵』西本願寺本下一段や『男衾三郎絵巻』三段の馬の色がそれに当たり、やや青みがかっても見える。「青衣」もこうした広範囲の色を持ち、「犬神人・癩者・穢多」の青灰系統の着物につながる可能性がある。

 道端に坐る「癩者」等の青灰系統の衣が、この世の人ならぬ冥界の亡者や衣類の色に通じるとすれば、人魂よりも恐ろしい人の世の差別の残酷さをひしひしと感じさせる。

 

 

P65 第四章 山伏の装い

 「柿の衣」で最も有名な山伏は、行商もした鋳物師や、芸能民の一種とも言える歩きみこなどと生活の場を共にする遍歴民であった。

 

P68

 さらに、妖怪の天狗と山伏が通じ、天狗は山伏の姿をして現れると言われる(『塵袋』、『太平記』、謡曲鞍馬天狗』・『大絵』や、絵巻『天狗草紙』の絵など)。また、狂言『柿山伏』に「山伏の果ては鳶にもなるという」とし、『荒木田守武句集』で、連歌の句「山ぶしにもやことしならまし」に「正月の一日のゆめにとびを見て」を付け、天狗の正体とされる鳶に山伏がたとえられる。これらは、遍歴民山伏に対する恐怖視の表れである。特に中世前期までは、不浄視や卑賤視と並んで、恐怖視も差別の重要な一形態であった。

 

P74

 ここで、「柿の衣」は色を表すのではなく、朝布を風雨に耐える丈夫なものにするために柿渋で摺った衣であり、「赤・黒の色を雑へて染る」こともありうるとする点が重要である。(中略)とすると、「柿の衣」は、色の表現ではなく、柿渋で摺った衣という意味になる。

 

P75

 麻に柿渋をひいた粗末な衣を指す「柿の衣」の色は、茶赤系統のすべてと灰色にまたがると思われるが、青灰系統の他の色との関係は不明である。「犬神人・癩者」・山伏に共通し、差別との関係の深い茶赤系統と青灰系統の色の関係も、なお、将来に多くの問題を残す。