周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

蟇沼寺文書10

    一〇 楽音寺院主良承申状

 

 安芸国沼田庄梨子羽郷内楽音寺院主権律師良承謹言上

                          (職)

  欲早任譜代相伝之旨賜安堵之 令旨当寺院務識兼懸木御前学頭職事

 副進

   一通 寺務職相伝系図

                  (藤原)

 右当寺者 朱雀院御願所、天慶年中為純友追討之勅願、仰左馬允倫実

                    (藤原)

 造立、以降為天台末寺、於院務職者、倫実一族等代々相伝連綿而無絶、

 就中本山住侶〈倫実」子孫等〉自玄乗坊之栄俊于良承譜代之條、

 地下無其隠者也、而地頭小早河三方相論之刻、為当郷闕所之地、以来于

 六波羅上野守宗宣知行之間、恣以武威院務職同被妨之年送日、

              儀哉

 雖訴訟曾以不叙用之、雖弊房彼田畠当知行于今無

                               知行

 相違、爰東夷□亡、政道又返于古之間、郡郷皆為本所進止庄園悉一円

 之御管領也、仍勒子細 上聞也、然而重代之有否相残、御不審者

                                 

 重代之預所当参之上者有召御尋者不其隠歟、然早任譜代相伝之旨

 下■賜安堵之令旨、弥抽御祈祷之忠懃、且為当寺興隆粗言上如件、

     (1333)

     元弘三年八月 日

  寺務職相伝系図

 文治三以後                ┌──・・・

  栄俊─仁光─宴海──隆憲隆憲与舜海 │隆憲舎弟

          └─舜海──賢海───・・・

                  〈舜海弟子」猶猶子也〉

                    (マヽ)

   ・・・───────頼賢〈○至自建武五年百五十八年〉」文治三年より〉

 

   ・・・───────良承

 (後筆ヵ)

 「

  一本郷  本郷村

  一小坂郷 小坂 荻路 沼田下  一浦郷〈木谷 吉名 高崎」福田 忠海 渡瀬」能地 須波

                    田ノ浦〉

  一井迫郷          一安直郷〈本市 七寶 片嶋」末廣 納所 小原」松江 惣定〉

  一梨羽郷 南方 下北方 上北方  一船木郷 船木村

            善入寺

  一真良郷 真良 別迫      以上八郷       」

 

 「書き下し文」

 安芸国沼田庄梨子羽郷内楽音寺院主権律師良承謹んで言上す

  早く譜代相伝の旨に任せ、安堵の令旨を下賜せんと欲する当寺院務職兼懸木御前学頭職の事

 副へ進らす

   一通 寺務職相伝系図

 右当寺は朱雀院御願所なり、天慶年中に純友追討の勅願の為、左馬允倫実に仰せて自ら造立す、以降天台末寺と為る、院務職に於いては、倫実一族等代々相伝連綿にして絶ゆる無し、なかんづく本山住侶〈倫実の子孫等〉は玄乗坊の栄俊より良承に至り譜代たるの條、地下其の隠れ無き者なり、而るに地頭小早河三方相論の刻み、当郷闕所の地と為る、以来時に六波羅上野守宗宣知行するの間、恣に武威を以て院務職を同じく之を濫妨せられ年を追ひ日を送る、訴訟を経と雖も、曾て以て叙用せざるの儀か、弊房と云ひ彼の田畠と云ひ当知行今に相違無しと雖も、爰に東夷滅(ヵ)亡し、政道また古に返るの間、郡郷皆本所進止として荘園を知行すること、悉く一円の御管領なり、仍て子細を勒し上聞に達せしむる所なり、然れども重代有りや否やの御不審相残るてへり、重代の預所当参の上は、召して御尋ね有らば、其の隠れ有るべからざるか、然るに早く譜代相承の旨に任せ、安堵の令旨を下賜せば、いよいよ御祈祷の忠懃を抽かむ、且つ当寺興隆を致さんが為、あらあら言上件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国沼田庄梨子羽郷内楽音寺院主権律師良承が謹んで言上する。

  早く代々相伝の由緒のとおりに、安堵の令旨をお与えになることを望む、当寺の院務職と懸木御前学頭職のこと。

 この申状に添付して進上する。

   一通 寺務職相伝系図

 右、当寺は朱雀天皇の御願所である。朱雀帝は天慶年中に藤原純友を追討するというご自身の願いのため、左馬允藤原倫実にご命令になって、倫実自身が当寺を造立した。以降、天台末寺となった。院務職については、倫実一族らが代々相伝して途絶えることはなかった。とりわけ、当山の住侶〈倫実の子孫ら〉が、玄乗坊栄俊より良承に至るまで、代々相承してきたことは、在地では明白である。しかし、地頭小早川の三方(沼田・梨子羽・竹原)で相論になったとき、当郷が闕所地となった。以来、時の六波羅探題南方の大仏宗宣が領有したので、武威によって院務職も同じく押領され、年月が過ぎていった。訴訟を経たけれども、いまだかつてこちらの主張が認められたことはなかった。我々の僧房もその田畠も、現在、実際に領有していることに間違いはないが、ここに鎌倉幕府(あずまえびす)が滅び、政道はまた元のように朝廷に返ったので、郡郷はみな本所の支配として、一円に荘園をご領有になっている。そこで、この事情を書き上げて、後醍醐天皇のお耳に入れたところである。しかし、重代相伝であるか否かのご不審が残っているという。代々預所を務めた人物がそちらに出頭しているうえは、その預所をお召しになってお尋ねになれば、お疑いは晴れるにちがいないだろう。したがって、早く譜代相伝の由緒のとおりに、安堵の令旨をお与えになれば、ますます忠義を尽くしてご祈祷を勤めましょう。それとともに、当寺を興隆するため、おおよそ言上することは、以上のとおりです。

 

 「注釈」

六波羅上野守宗宣」

 ─大仏宗宣。没年:正和1.6.12(1312.7.16)生年:正元1(1259)鎌倉後期の幕府執権。大仏宣時と北条時広の娘の子。北条宗宣ともいう。弘安5(1282)年従五位下,同9年引付衆,翌年評定衆となる。正応1(1288)年上野介,永仁1(1293)年越訴奉行,小侍奉行,執奏などを経て,同4年四番引付頭,次いで寄合衆(幕政会議である寄合の構成員)となる。翌年六波羅探題南方に任じて上洛,乾元1(1302)年正月鎌倉に帰ったが,その間に陸奥守となった。鎌倉に帰ってから一番引付頭,官途奉行,越訴奉行などを務め,嘉元3(1305)年執権北条師時連署となり,応長1(1311)年10月執権に就任したが,正和1(1312)年5月病を得て辞任,出家した。法名は順昭といった(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/大仏宗宣-40215)。

 

「小坂郷」

 ─おさかごう。沼田庄内に成立した中世の郷で、沼田川下流北部に位置する。元弘三年(1333)七月十九日付後醍醐天皇綸旨(小早川家文書)により、沼田小早川惣領家朝平に小坂郷の知行が安堵された。応永二十一年(1414)四月十一日付小早川常嘉譲状案写(同文書)によると、塩入市庭(沼田新市)を含む小坂郷の地頭職・公文職・検断権が常嘉(則平)から子の持平に譲られたが、永享五年(1433)六月日付の小早川氏知行現得分注文写(同文書)には小坂郷二三〇貫文、新市在家一五〇は則平知行分とあって、持平から取り戻しており、永享十二年六月二十七日付足利義教御判御教書(同文書)は、小坂郷を含む持平知行分を煕平の知行としている。継目安堵御判礼銭以下支配状写(同文書)の文明十二年(1480)十月のものによると、公文の代官が二人置かれ、郷内の大長寺・善根寺・円満寺・円城寺などとともに礼銭一貫五〇〇文から二〇〇文を負担。このとき小坂郷は人夫銭四貫五〇〇文を負担している。

 天文二十三年(1554)四月二十七日付安芸国沼田庄小坂郷門田内打渡坪付、欠年の四月二十八日付桂景信書状(已上山口県文書館蔵)によると、小早川隆景は当郷のうち鳥越・高柳・はたかわ・中すか・耽源寺之前。権現之前・金城・横畠・引さこ・ミないたなど田一町九反三一〇歩(一〇・二八石)、しんきやうたを(真行峠)・今西・いろさこなど畠七反一二〇歩(一・八四石)の米・麦・大豆一二・一二石、銭にして一二貫一二〇文を伊勢神宮に寄進。天正九年(1581)六月一日付の小早川隆景充行状(「閥閲録」所収飯田平右衛門家文書)によると、当郷の田畠五貫七〇〇余(山河とも)が飯田尊継に宛行われている。村山家檀那帳(山口県文書館蔵)の天正九年分は当郷に蓮池・門田・土屋・小松・有田・田坂・羽仁・伊藤の諸氏、女意庵・竹内寺・福寿坊のほか、江良殿の室を記し、江良(現豊田郡本郷町)の一部が郷内に含まれていたとも考えられる。

 小坂郷は慶長六年(1601)の検地により、小坂・沼田下(ぬたげ)・荻路(おぎろ)の三ヶ村となった。

 

「浦郷」

 ─中世、沼田庄の海岸部一帯を中心とした郷。「和名抄」所載の沼田郷今有(いまり)郷とほぼ同域と考えられ、現三原市沼田東町の釜山・末光・両名、田野浦町・宗郷町・明神町和田町須波町・沖浦町・登町・幸崎町・竹原市忠海町の辺りをさす。「閥閲録」所収の浦図書家書上に、沼田小早川宣平の七男氏実(浦氏の祖)は「安芸国豊田郡浦ノ郷に住居」とあり、当郷は浦氏の勢力下にあり、郷内には浦氏から丸山氏などが分出。室町時代と推定される小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に、浦三〇〇貫文と記す。浦氏の主流は慶長五年(1600)の毛利氏の防長移封に従い、当地を去った。(『広島県の地名』平凡社

 

「井迫郷」

 ─「芸藩通志」には、釜山村(三原市沼田東町釜山)と末光(同町末光)・両名(同町両名)の三ヶ村を井迫(いざこ)郷というとあり、井迫を「井廻」の誤記とし、「和名抄」所載の沼田郡今有郷に否定(「釜山村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「安直郷」

 ─三原市沼田東町本市。荻路村の対岸、鎌倉時代以来の干拓地に立地。中世は沼田庄安直郷に含まれ、沼田川南岸の自然堤防上には市場が成立し、沼田本市と称された。村名はこれによる。安芸国豊田郡に属し、元和五年(1619)の安芸国知行帳では三五三三・八八六石の阿鹿村に含まれる。(中略)(「国郡志下調書出帳」には)市裏に祇園宮(現沼田神社)、市に恵比寿祠、市の中ほどに僧円之が開いたという齢亀山徳寿庵(現徳寿院、曹洞宗)を記す。沼田神社は須佐之男神・櫛名田比売神を祭神とし、本市・七宝両地区が祀る。豊田郡神社明細帳によると、沼田庄に疫病が流行したとき、武塔神素戔嗚尊)を祀り、その教えにしたがって潮を留めて沼田川の水を引き田を開いたところ、疫病は鎮止、村は繁盛したという。境内社には和久産巣日神・宇気母智神・大宮能売神などを祀る浮島神社がある(「本市村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「船木郷」

 ─本郷町船木、賀茂郡大和町大草。本郷村の西北に位置し、北西から南東へ流れる沼田川と支流菅川の合流地を中心に低地が広がり、北東の中野村(現御調郡久井町)との境に飛郷芋堀がある。「和名抄」所載の沼田郡船木郷の地に比定され、のち沼田本庄に属し、菅川沿いに平坂、姥ヶ原(現大和町)を経て沼田新庄(現賀茂郡大和町。河内町・豊栄町一帯)へ通じた。村の南部、本郷村の高山城跡の北に続く鷺谷の丘陵から貝塚が発見され、鷺谷の北、沼田川東岸に位置する清井の丘陵突端の舟木遺跡からは、弥生時代後期の合口甕棺が出土している。

 小早川氏の拠城高山城・新高山城に近接し、沼田庄中心部の一つで、小早川茂平の長子経平が船木郷地頭となり、船木氏の祖となった(小早川家系図)。建武三年(1336)正月二日の源朝臣某下文案(小早川家文書)によると、経平の孫貞茂は船木郷地頭を元のとおり安堵されている。応永三十一年(1424)十月日付の仏通寺方丈上棟右馬人数注文写(同文書)に一貫文船木殿とあり、また、室町時代の小早川氏一族知行文注文(同文書)に「船木 百廿五貫文」とある。一方、文和三年(1354)十二月二十九日には、貞茂の甥と見られる家宣が知行していた「船木郷二分方」などは惣領家小早川貞平に預けられ(「足利義詮御判御教書写」同文書)、永享五年(1433)六月日付の小早川氏知行現得分写(同文書)に、常建(則平)知行分として「船木郷内時貞名三十貫文除庶子分定」とあるのは貞平の跡を受けたものと考えられる。なお、則平は貞平の孫で、いったんこれを子の持平に譲ったが、悔返権を行使して持平の弟煕平に譲り替えている。永享十二年七月六日、山名持豊に対し、船木郷など持平の知行分は煕平の代官に渡すようにという管領細川持之施行状(同文書)が出されている。

 神社は香久山太神宮・天津社八幡宮・船材敏神社を記すが、他に、仁寿二年(852)村人が豊作を祝って創建したと伝える鷺谷の秋友神社、源義経に従ってこの地に来た金売吉次が勧請したと伝える字金売の金沾神社(祭神源義経)、高山城跡にある高山中腹の道谷(堂谷)の、文明年間(1469─87)に疫病で多くの牛馬が死んだので祀ったところ牛馬市が起こって賑わったと伝える鷹山神社などがある。寺院には永福寺のほか、小早川朝平の建立と伝える円山寺(現臨済宗仏通寺派)、天文二年(1533)に小早川氏の臣高橋大九郎が禅宗寺院として開いたと伝える光顔寺(現浄土真宗本願寺派)があり、廃寺として善正寺・平坂寺・教真寺(一株院)・寿徳寺・極楽寺・奥蔵院などがあった。

 伝えによると、沼田川北岸にある亀ヶ淵は永正年中(1504─21)の大旱魃のとき村人が掘ったものといい、そのとき取り除いた大石が亀の頭にいていたところから、付近を亀頭ヶ原(亀津)と呼ぶようになったという。別所村(現大和町)寄りの沼田川北岸山中の渓谷には、永禄四年(1561)に毛利元就も見物した棲真寺の滝(瀑雪の滝)があり、南岸の渓谷には女王の滝がある(「船木村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「真良郷」

 ─三原市高坂町真良。別迫村の西から西南に位置した大村。安芸国豊田郡に属した。耕地は、高山と毘沙門山の間を抜けて南の本郷村(現豊田郡本郷町)に至る沼田川の支流仏通寺川流域の低地と、船木村(現本郷町)へ流れる二瀬川上流域に形成された標高170メートル前後の馬井谷、北部に広がる標高200─350メートルの鹿群高原に展開する。

 北部丘陵末端部と南部橋梁東斜面から弥生時代後期の弥生式土器・鉄刀子が出土。仏通寺川流域の丘陵斜面には多くの古墳が築造され、横穴式石室をもつ後期古墳には大陣古墳群・小陣古墳群・真良古墳群などがある。「和名抄」所載の沼田郡真良郷の中心で、村内を古代山陽道が南北を走り、馬井谷に真良駅が置かれたと考えられている。

 中世には沼田庄に属し、本郷村・船木村との境に位置する高山城には沼田小早川氏が拠った(豊田郡本郷町の→高山城跡)。正応二年(1289)閏十月九日付の関東下知状写(小早川家文書)によると、正嘉二年(1258)小早川茂平が妻浄仏に譲った所領のうち真良および吉野屋敷八町門田は、娘松弥に譲るとされていたが、譲渡に際して相論があった。吉野屋敷は高山城の東麓にあった蔵王権現付近と思われ、同社は吉野権現を勧請したと伝え、吉野の地名も残る(芸藩通志)。文安五年(1448)十二月三日付の領家納入公用目安写(小早川家文書)には、一貫文を納めた吉野殿の名が見える。延徳三年(1491)八月六日付の小早川敬平充行状(「閥閲録遺漏」所収国貞平左衛門家文書)によると、小早川氏一族の国貞永禅は真良村にある在木九郎右衛門給田畠を宛行われ、延徳三年八月六日付の小早川敬平安堵状(同文書)で永禅知行分の真良内屋敷田畠等は国貞敬国に安堵された。国貞氏はもと真良氏を名乗り、室町時代の小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に真良五〇貫文とある。明応四年(1495)六月九日付の小早川敬平安堵状(「閥閲録」所収乃美仁左衛門家文書)で真良村の小泉兼弘知行分は乃美是景の本領とされている。大永元年(1521)十一月二十七日付の仏通寺塔頭正法院領田地目録(仏通寺正法院文書)によると、真良村分の二分方是弘名の安恒宮ノ上、厳島ノ前、末実名槙本三延田・門田、半迫などが真田氏・是弘氏。末実氏などから正法院へ売られている。

 「芸藩通志」によると、戸数199、人口837、牛150・馬20、御建山に橋畝山、三原浅野氏の御建山の毘沙門山、御留山に八幡山、半迫池・燕池など四池があり、字宮ノ下の八幡山(現大多良神社)は土肥(小早川)遠平が鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したと伝え、永禄八年(1565)に小早川隆景が再建、高山の若宮八幡宮(明治二十四年大多良神社へ合祀)は遠平の子惟平を祀るともいい、他に蔵王神社・厳島神社などを記す。寺院には仏通寺川沿いの真言宗常楽寺(現廃寺)、明応三年小早川扶平の建立でのち三原城下へ移されたが、本尊十一面観音だけはそのまま当地に安置して「旧香積寺」とも称した曹洞宗鳳翔山香積寺、真良新三郎康近の子浄祐が山南(現沼隈郡沼隈町)の光照寺に赴いて僧となり、永禄九年に開いた高谷山福泉寺(現浄土真宗本願寺派)など、名勝に屏風岩を記す。高山城跡の東部丘陵上にある前土井山城跡は国貞氏の居城と考えられ、村の中ほど西側の大陣山・小陣山は天文十三年(1544)十月、尼子氏が高山城を包囲したとき在陣したところと伝える。南部の仏通寺川流域吉野付近は蛍の多いところで、節分から一二〇日目のころに蛍が飛び交うさまを蛍合戦と称した(国郡志下調書出帳)(「真良村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「懸木御前」─未詳。懸木という地域にある社か。