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仏通寺住持記 その51

 「仏通寺住持記」 その51

 

 (1594)

 三 甲午 慈雲派  此年大橋并総門、隆景公ヨリ御再造有之

  備後之  仁仲宗芳禅師  侍真 齢椿  納所 元菊

  康徳寺  〈向上」納所〉周賢       維那 令勲

      此年客殿井上伯耆守殿御再造、正月廿三日ヨリ普請始リ、同六月五日

           (鬼)

      成就 施餓◯隆景公御参詣、其外登山度々不知数矣、

         (記)「小風呂」      (大)

 四 乙未 肯心派   風呂再造、旦那梨羽之太方

      虚庵和尚  侍真 周頓  納所 文等

今年毘沙門堂 向上納所 祖伝       維那 周宋

鎮守北

      今玆祠堂平隆景御再造焉、方丈之門上葺国貞神左衛門尉修理之

      今年大門之上葺改瓦作檜皮并左右大塀、厨子之門新建立、住持一々

      営之、方丈之額修補之旦那井上伯耆守、国貞神左衛門尉

 

 「書き下し文」

 三甲午、慈雲派、此の年大橋并びに総門、隆景公より御再造之有り、

  備後の康徳寺、仁仲宗芳禅師、侍真齢椿、納所元菊、向上納所周賢、維那令勲、

      此の年客殿井上伯耆守殿御再造、正月二十三日より普請始まり、同六月五日成就す、施餓鬼へ隆景公御参詣、其の外登山度々数知らず、

 四乙未、肯心派、小風呂再造、旦那梨羽の大方、

      虚庵和尚、侍真周頓、納所文等、

今年毘沙門堂鎮守の北に移す、向上納所祖伝、維那周宋、

      今茲祠堂平隆景御再造、方丈の門上葺国貞神左衛門尉之を修理す、

      今年大門の上葺瓦を改め檜皮并びに左右大塀を作る、厨子の門新たに建立す、住持一々之を営む、方丈の額之を修補す、旦那井上伯耆守、国貞神左衛門尉、

 

 「解釈」

 文禄三年甲午(1594)、慈雲派が番衆を勤める。この年、大橋や総門を小早川隆景公がご再造になった。

  備後の康徳寺の仁仲宗芳禅師が住持を勤める。侍真は齢椿。納所は元菊。向上寺納所は周賢。維那は令勲。

      この年、井上伯耆守殿が客殿をご再造になった。正月二十三日より普請が始まり、同六月五日に完成した。施餓鬼会へ小早川隆景公がご参詣になった。その他にも、その数はわからないほどたびたびご参詣になった。

 四年乙未、肯心派が番衆を勤める。小風呂を再造した。旦那は梨羽の大方。

      虚庵和尚が住持を勤める。侍真は周頓。納所は文等。

今年毘沙門堂を鎮守の北に移した。向上寺納所は祖伝。維那は周宋。

      今年、小早川隆景が祠堂をご再造になった。方丈の門の屋根を葺いた。国貞神左衛門尉がこれを修理した。

      今年、大門の屋根の瓦を檜皮に改め、左右の大塀を作った。厨子の門を新たに建立した。住持が一々これらを行なった。方丈の額を修補した。旦那は井上伯耆守と国貞神左衛門尉。

 

 「注釈」

「康徳寺」

 ─現広島県世羅郡世羅町寺町。寺町の北部に連なる山間部南端の山麓に位置。瑞田山と号し、臨済宗仏通寺派。本尊釈迦如来。境内に薬師堂・毘沙門堂がある。門前に康徳寺古墳・康徳寺廃寺跡があり、古代・中世の世羅郡内の豪族の拠点の一つと考えられるが、当寺との関連は不明。

 寺伝によれば応安元年(一三六八)の創立とされ、「芸藩通志」には貞治四年(1365)の建立で、鎌倉円覚寺三九世になった石室善玖が開基、備後禅林第一の寺であったが、元和(1615─24)頃より小寺になると記す。また寺町内に一二坊があり、西福寺などの地名が残っており、堀越にあった万福寺は当寺の隠居寺という。天正一〇年(1582)六月八日の毛利輝元書状(長府毛利家文書)により、当寺に末寺があったこと、今高野山城(跡地は現甲山城)の上原氏の領内に含まれていたことがわかる。庭は雪舟の作とされ、統一新羅時代(676─935)のものと伝える誕生釈迦仏立像(金銅像)、開山石室善玖の語録写本一巻を蔵する。また康徳寺廃寺の瓦や心柱なども保管。

 なお康徳寺東南に鎮座する寺町八幡神社は、仲哀天皇神功皇后応神天皇市杵島姫命など二〇柱を祀る。旧村社。社伝によれば延暦元年(782)和気清麻呂の子備後大夫清信・中務静姫が創建、応永二年(1395)焼失、同三一年再建という。境内社大山咋命ほか二柱を祀る日吉神社および金比羅神社がある(『広島県の地名』平凡社)。

 

 

 つづく