「宗行の郎等虎を射る事」『宇治拾遺物語』巻第十二・第十九話
(『日本古典文学全集』二八、小学館)
今は昔、壱岐守宗行が郎等を、はかなき事によりて、主の殺さんとしければ、小舟に乗りて逃げて、新羅国へ渡りて、隠れて居たりける程に、新羅の金海といふ所の、いみじうののしり騒ぐ。「何事ぞ」と問へば、「虎の国府に入りて、人を食らふなり」と言ふ。この男問ふ。「虎はいくつばかりあるぞ」と。「ただ一つあるが、にはかに出で来て、人を食ひて、逃げて行き行きするなり」といふを聞きて、この男のいふやう、「あの虎にあひて、一矢を射て死なばや。虎かしこくば、共にこそ死なめ。ただむなしうはいかでか食はれん。この国の人は、兵の道わろきにこそはあめれ」と言ひけるを、人聞きて、国守に、「かうかうの事をこそ、この日本人申せ」といひければ、「かしこき事かな。呼べ」といへば、人来て、「召しあり」といへば、参りぬ。
「まことにや、この虎の人食ふを、やすく射んとは申すなる」と問はれければ、「しか申し候ひぬ」と答ふ。守、「いかでかかる事をば申すぞ」と問へば、この男の申すやう、「この国の人は、我が身をば全くして、敵をば害せんと思ひたれば、おぼろげにて、かやうのたけき獣などには、我が身の損ぜられぬべければ、まかりあはぬにこそ候めれ。日本の人は、いかにも我が身をばなきになしてまかりあへば、よき事も候めり。弓矢に携らん者、何しかは、我が身を思はん事は候はん」と申しければ、守、「さて虎をば、必ず射殺してんや」といひければ、「我が身の生き生かずは知らず。必ず彼をば射取り侍りなん」と申せば、「いといみじうかしこき事かな。さらば必ず構へて射よ。いみじき悦びせん」といへば、をのこ申すやう、「さてもいづくに候ぞ。人をばいかやうにて食ひ侍るぞ」と申せば、守の曰く、「いかなる折にかあるらん、国府の中に入り来て、人一人を、頭を食ひて、肩にうち掛けて去るなり」と。この男申すやう、「さてもいかにしてか食ひ候」と問へば、人のいふやう、「虎はまづ人を食はんとては、猫の鼠を窺ふやうにひれ伏して、暫しばかりありて、大口をあきて飛びかかり、頭を食ひて、肩にうち掛けて走り去る」といふ。「とてもかくても、さばれ、一矢射てこそは食はれ侍らめ。その虎の有所教へよ」といへば、「これより西に卅四町退きて、麻の畠あり。それになん伏すなり。人怖ぢて、敢へてそのわたりに行かず」といふ。「おのれただ知り侍らずとも、そなたをさしてまからん」といひて、調度負ひて去ぬ。新羅の人々、「日本の人ははかなし。虎に食はれなん」と、集まりてそしりけり。
かくて、この男は、虎の有所問ひ聞きて、行きて見れば、まことに畠はるばると生ひわたりたり。麻の長四尺ばかりなり。その中を分け行きて見れば、まことに虎臥したり。尖矢をはげて、片膝を立てて居たり。虎、人の香を嗅ぎてついひらがりて、猫の鼠窺ふやうにてあるを、をのこ矢をはげて、音もせで居たれば、虎大口をあきて躍りて、をのこの上にかかるを、をのこ弓を強く引きて、上にかかる折に、やがて矢を放ちたれば、頤の下より項に七八寸ばかり、尖矢を射出だしつ。虎さかさま伏して倒れてあがくを、雁股をつがひ、二たび腹を射る。二たびながら土に射つけて、遂に殺して、矢も抜かで、国府に帰りて、守にかうかう射殺しつる由いふに、守感じののしりて、多くの人を具して、虎のもとへ行きて見れば、まことに箭三つながら射通されたり。見るにいといみじ。「まことに百千の虎起りてかかるとも、日本の人十人ばかり、馬にて押し向ひて射ば、虎何わざをかせん。この国の人は一尺ばかりの矢に、錐のやうなる鏃をすげて、それに毒を塗りて射れば、遂にはその毒の故に死ぬれども、たちまちにその庭に、射伏する事はえせず。日本の人は、我が命死なんをも露惜まず、大なる矢にて射れば、その庭に射殺しつ。なほ兵の道は、日の本の人には当るべくもあらず。さればいよいよいみじう、恐ろしく覚ゆる国なり」とて怖ぢけり。
さて、このをのこをば、なほ惜みとどめて、いたはりけれども、妻子を恋ひて筑紫に帰りて、宗行がもとに行きて、その由を語りければ、「日本の面興したる者なり」とて、勘当も許してけり。多くの物ども、禄に得たりける、宗行にも取らす。多くの商人ども、新羅の人のいふを聞きて語りければ、筑紫にも、この国の人の兵は、いみじき者にぞしけるとか。
「解釈」
今は昔のこと、壱岐守宗行の家来を、つまらないことで主人が殺そうとしたので、小舟に乗って逃げて、新羅国へ渡って隠れていた時に、新羅の金海という所で、人々がひどくがやがや騒いでいる。「何事です」と聞くと、「虎が国府にはいって人を食うのです」と言う。この男が聞く、「虎は何匹ほどいるのか」。「ただ一匹だが、急に出て来て何度も人を食って逃げて行くのです」と言うのを聞いて、この男が、「あの虎と戦って、一矢を射て死にたいものだ。虎がすぐれて強いならともに死にもしよう。ただいたずらにはなんで食われるものか。この国の人は武芸が劣っているのだろう」と言った。それを人が聞きつけて国守に、「これこれのことを、この日本人が申しています」と言ったので、「それは大変なことだな。呼べ」と言うので、人が来て、「お呼びです」というわけで、男は参上した。
「ほんとうか、この人食い虎をたやすく射とめようと言っているそうだが」と尋ねられると、「さよう申しました」と答える。守が、「どうしてさようなことを申すのか」と聞くと、この男が、「この国の人は、わが身を安全にして敵を殺そうと思っているから、こういう猛獣などには、いいかげんなことでは、わが身をやられてしまうにちがいないので、とてもたちうちできないのでしょう。そこへいくと日本の人は、全くわが身をないものにして立ち向かうので、うまくいくこともあるようです。弓矢の道にたずさわるほどの武士が、なんでわが身を惜しむことがありましょうか」と申し上げた。守は、「それでは、虎を必ず射殺してしまえるか」と言うと、「わが身の生きるか死ぬかはわかりません。きっとあいつを射殺してみせましょう」と言う。「それはまことにすばらしい、大変なことだ。それでは必ず用心して射とめよ。手厚い謝礼をしよう」と言うと、男が、「それにしてもどこにいるのですか。人をどんなふうに食うのですか」と聞くと、守が言う、「いつだったか、国府の中にはいって来て、人ひとりの頭を食って、肩にひっかけて去って行ったのだ」。この男が、「いったいどのようにして食うのですか」と聞くと、ある人が、「虎はまず人を食おうとする時は、猫が鼠をうかがうように身を伏せて、しばらくたって、大きな口を開いてとびかかり、頭を食い、肩にひっかけて走り去るのです」と言う。「とにかくどうなろうと、ままよ、一矢射てから食われもしよう。その虎のいる所を教えてくれ」と言うと、「ここから西に三十四町離れて麻の畑がある。そこに伏しているのだ。誰もこわがって、決してそのあたりには行かない」と言う。「自分はよくその所は知らぬが、そこを目指して行こう」と言って、武器を背負って出て行った。新羅の人々は、「日本の人はあさはかだ。虎に食われるだろう」と、集まって非難した。
こうして、この男は、虎のありかを尋ね聞いて行って見ると、なるほど麻の畑が一面に生い茂っている。麻の長さは四尺ほどである。その中を分け行って見ると、ほんとうに虎が寝ていた。男は鏃の鋭い矢をつがえて、片膝を立てていた。虎は人の香をかぎつけ、平べったく身を伏せて、猫が鼠をうかがうようにしていたが、男が矢をつがえて音もたてずにいると、やがて虎は大口を開いておどりあがり、男の上にとびかかってきた。男は弓を強く引いて、上にかかったその瞬間に矢を放ったので、虎の顎の下から首の後ろに、七、八寸ほど、ぶすりと鏃の鋭い矢を射通した。虎はまっさかさまに倒れ、倒れてもがくところを、雁股の矢をつがえて二度腹を射た。二度とも土まで射抜いてとうとう殺して、矢も抜かずに国府に帰り、守にこうこう射殺した次第を言うと、守は感嘆の声をあげた。多くの人を連れて虎のもとへ行って見ると、いかにも矢が三本とも射通されていた。それを見ると実に凄まじい思いである。「全く百匹千匹の虎がおそいかかって来ても、日本の人が十人ほど馬で向かって行って射たならば、虎はいったい何ができるだろう。この国の人は、一尺ばかりの矢に錐のような鏃をつけて、それに毒を塗って射るから、ついには、その毒のために死にはするが、たちまちにその場で射倒すことはできない。日本の人は、自分の命が失われるのを少しも惜しまず、大きな矢で射るから、その場で射殺してしまう。やはり武士の道では日本の人にはとてもかないそうもない。だから、ますますすぐれて恐ろしく思われる国だ」とおびえた。
ところで、この男をばいっそう惜しみとどめて、だいじにもてなしたが、妻子を恋しがって、筑紫に帰り宗行のもとに行って、事の次第を話したので、「日本のほまれをあげた者だ」と言って勘当も許してくれた。多くの品々をお祝いにもらったのを、宗行にも差し出した。多くの商人たちが、新羅の人たちの言うのを聞いて話したので、筑紫でも、日本人の武士はすばらしいものだと誉めそやしたということである。
【考察】
中世前期の説話集にも、「弓矢の道」「兵の道」、いわゆる武士道と呼ばれるような価値観の説明が、明確に表現されている。「何しかは、我が身を思はん事は候はん」(=なんでわが身を惜しむことがありましょうか)や、「日本の人は、我が命死なんをも露惜まず」(=日本の人は、自分の命が失われるのを少しも惜しまず)といった表現などは典型的なものである。異国の地で、命を捨てて勇敢に戦った郎等を、主人である宗行は「日本の面興したる者なり」(=日本のほまれをあげた者だ)と称賛し、勘当も許してしまった。その一方で、新羅の人々からも称賛はされているのだが、「なほ兵の道は、日の本の人には当るべくもあらず。さればいよいよいみじう、恐ろしく覚ゆる国なり」(=やはり武士の道では日本の人にはとてもかないそうもない。だから、ますますすぐれて恐ろしく思われる国だ)と恐れられもしている。
このように、武士とは、命を惜しまず勇敢に戦い、敵(今回は異国)からは恐れられることが、称賛されるポイントだったとわかる。この点、佐伯真一『戦場の精神史』(NHKブックス、日本放送出版協会、2004、113頁)に詳しい。