周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

身心一如(しんじんいちにょ)

 『正法眼蔵随聞記』三ノ二十一

     (『日本古典文学全集27』小学館、1971年、408頁)

 

 また云はく、得道の事は、心を以て得るか、身を以て得るか。教家等にも、身心一如と云つて、身を以て得るとは云へども、なほ、「一如の故に」と云ふ。正しく、身の得る事は確かならず。

 今、我が家は、身・心、倶に得るなり。その中に、心を以て仏法を計校する間は、万劫・千生にも得べからず。心を放下して、知見・解会を捨つる時、得るなり。見色明心、聞声悟道の如きも、なほ、身を得るなり。

 しかれば、心の念慮・知見を一向捨てて、只管打坐すれば、今少し、道は親しみ得るなり。しかれば、道を得ることは、正しく、身を以て得るなり。これによりて、坐を専らにすべしと覚ゆるなり。

 

 「解釈」

 また言われた。仏道を悟ることは、心でもって悟るのか、身でもって悟るのか。教理の研究家などでも、身と心は一体であると言って、身でもって悟るとはいうけれども、それでもやはり、「身は心と一体であるから」と言っている。したがって、明らかに身でもって悟るということは確かではない。

 今、仏祖正伝のわが宗旨では、身と心とがいっしょに仏道を悟るのである。この二つの中で、心だけで仏法を推し測り、比べている間は、永遠の時間の流れの中で、何度生まれ変わるにしても、悟ることはできない。その心を放棄して、自己の知識や見解や理解や会得を捨てるとき、悟るのである。桃の花の色を見てわが心を明らめ、竹に当たった石の音を聞いて悟りを開いたのも、やはり、身でもって悟ったのである。

 したがって、心の思慮や知識・見解を完全に捨てて、ひたすら坐禅すれば、もう少し、仏道に親しむことができるのである。だから、仏道を悟ることは、たしかに、身でもって悟るのである。こういう理由で、坐禅を専一にすべきであると思われるのである。

 

 

 「注釈」

仏道とは心で悟るものと思っていたのですが、道元によれば、むしろ身体で悟るもののようです。なるほど。ということは、身体がなければ、つまり生きていなければ、悟れないということになります。いや、もっと言えば、生きているときに悟るからこそ意味があるのであって、死んで悟っても(死後の世界で悟っても)意味はないのでしょう。なぜなら、身体を持って生きているがゆえに煩悩(注1)は生じてしまい、死ねば煩悩などは消え去ってしまうのですから(注2)。

 生きている状態で煩悩を取り除けるからこそ、仏教なんぞに価値があるのでしょう。仏教とは本来、死者や死後の世界との付き合い方を教える宗教などではなく、現世の道理や仕組みを知り、よりよく生きるための実践哲学だったのではないでしょうか。仏教の教えに従って生きれば、少なくとも煩悩のために命を落とすことはなくなるのかもしれません。

 

 

(注1)私は煩悩を次のようなものと考えています。生物的な本能や欲求を土台にして人間が捏造した、虚構としての社会システムや価値観に振り回されて生じる苦悩。

 

(注2)死ねば肉体の緊縛から脱却でき、完全な涅槃に至れるとする考え方を「死即無余涅槃」と言います。西元宗助「仏教と自殺」『京都府立大学学術報告』人文、14、1962、 https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3549&item_no=1&page_id=13&block_id=17)。