周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ブラックなパレード 〜中世儀礼の強制力〜

【史料1】

  長禄二年(1458)七月二十五日条

        (『大乗院寺社雑事記』1─440頁)

 

    廿五日

 一室町殿義─政 御拜賀、扈従公卿

   (中略)

                            (語)

 一九条大納言殿御共三条実文朝臣、於殿中腹気子細在之、言悟道断次第、

  先代未聞事云々、

 

 「書き下し文」

 一つ、九条大納言殿の御共三条実文朝臣、殿中に於いて腹気の子細之在り、言語道断の次第、先代未聞の事と云々、

 

 「解釈」

 一つ、九条大納言政忠殿のお供の三条実文朝臣が、烏丸殿で腹痛になった。とんでもない状態で、前代未聞の出来事だという。

 

 Sanefumi Sanjo, an attendant of Masatada Kujo, developed a stomachache at Karasuma-dono (the Shogun's Palace). I heard people say this is outrageous and unprecedented.

 (I used Google Translate.)

 

 

【史料2】

  長禄二年(1458)七月二十六日条

        (『経覚私要鈔』4─49頁)

 

  廿六日、辛亥、

   (中略)

   (唐橋)

 一、在治卿申云、三条少将実文為殿上人令供奉畢、然室町殿ヨリ依腹気乍着装束

   糞垂了、以其躰令供奉之間、希代之珍事、言語道断恥辱也、凡不可説沙汰外

   事者哉、不可有比類々々々々々、

 

 「書き下し文」

 一、在治卿申して云く、三条少将実文殿上人として供奉せしめ畢んぬ、然れども室町殿より腹気により装束を着ながら糞を垂れ了んぬ、其の躰を以て之を供奉せしむる間、希代の珍事、言語道断の恥辱なり、凡そ不可説沙汰の外の事の者かな、比類有るべからず比類有るべからず、

 

 「解釈」

 一つ、唐橋在治卿が申して言うには、三条少将実文は殿上人として行列に参加させられた。ところが実文は、室町殿(烏丸殿)から腹痛になり、装束を着たまま糞を垂れてしまった。その姿のまま行列に参加させられていたので、これは世にもまれな思いもよらない出来事であり、言葉で言い表せないほどの恥辱である。まったく言葉では言えないほどの話であるなあ。比べるものなどあるはずがない。

 

 Ariharu Karahashi told me the following. Sanefumi Sanjo was allowed to participate at Karasuma-dono (the Shogun's Palace) as a tenjobito(courtier). However, he got a stomachache at the Shogun's Palace and pooped all on his costume. He was forced to take part in the parade as he was. This is an unprecedented and terrible event, and it is an indescribable shame. This event is so terrible that it cannot be expressed in words, and there is nothing to compare it to.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「唐橋在治」

 ─ 1414─89 康正2(1456)従三位。康正3参議、長禄2(1458)・3・24兼能登権守、4・19辞参議、寛正2(1461)・11還任(参議)、寛正4・3・28兼土佐権守、寛正6辞参議、12・14〈同7年1月6日にもあり〉正三位、文明12(1480)3・29権中納言、文明14辞権中納言、延徳1(1489)9・1薨去(『公家事典』吉川弘文館)。

 唐橋氏は、菅原一門で文章博士・大学頭などを歴任し北野長者を輩出する家。鎌倉後期からの九条家の家司(家僕)。室町・戦国期の在豊─在治─在数の代には九条家の親族で、家僕の筆頭格。また、天皇側近(禁裏小番衆)でもあった。政基・尚経期の家僕白川冨秀・竹原定雄・橘以緒は唐橋氏の親族(廣田浩治「中世後期の九条家家僕と九条家領荘園」『国立歴史民俗博物館研究報告』第104集、2003年3月、226頁、https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/1127/files/kenkyuhokoku_104_12.pdf)。

 

「三条実文」

 ─清華家三条氏の九条流で、父公久とともに九条政忠の家僕として活動(前掲廣田論文、227頁)。【史料2】によると、今回の儀式には「殿上人」として参列していたと伝えられているが、【史料1】では扈従公卿で御簾役でもあった九条政忠の従者として参列したことになっている。どちらも伝聞情報ではあるが、この儀式をまとめた『義政公記』(国立国会図書館デジタルコレクション、7・8コマ、https://dl.ndl.go.jp/pid/1367132/1/7)や上記【史料1】の殿上人の交名部分(中略箇所)には三条実文の記載はないので、【史料1】の九条政忠の従者として参列していたという情報が正しいと考えられる。

 なお、『義政公記』の史料価値については、森田恭二「宮内庁書陵部蔵『義政公記』について」(『帝塚山学院短期大学研究年報』第40号、1992年、https://dl.ndl.go.jp/pid/1747698/1/87)、高橋秀樹「[史料紹介] 「田中穣氏旧蔵典籍古文書」所収の記録類について」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第72集、1997年3月、42頁、https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/845)参照。

 

 

【考察】

 新年早々、新年にふさわしくないお話を一つ…。

 長禄二年(1458)七月二十五日。この日は、将軍足利義政内大臣任官の儀式が執り行われていました。義政一行は将軍御所で威儀を正し、内裏へと向かいました。意匠を凝らした参加者の姿は、さぞかし目を引いたことでしょう。儀式自体は滞りなく終わったようなのですが、その陰で一人の参加者にとんでもない出来事が起きていたのです。その人物こそが今回の主役、三条実文。

 いったい、彼は何をやらかしてしまったのか…? 【史料1】を見ても、腹痛でとんでもないことになったという情報しか読み取れないのですが、【史料2】を見ると、その悲惨な出来事が赤裸々に書き記されています。なんと彼は、パレードに出発する前の将軍御所で衣装を着たまま脱糞し、着替える間もなくそのままの姿で行進しつつづけたのです。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。恥ずかしさのあまり、主人である九条政忠に言い出せなかった、という理由も考えられそうですが、ただこの場合、漏らしたままパレードに参加することになるので、周囲の人に匂いや見た目でバレてしまうはずです。実際、バレてしまったからこそ史料に残されたわけですから…。となると、主人に報告したにもかかわらず、対処のしようがなかったから、あるいは報告しても無駄だとわかっていたから、そのままの姿で行進しつづけたと考えざるをえません。

 現代人の感覚からすると、パレードに参加するはずの従者が一人ぐらい抜けたところで、大きな問題にはならなさそうですが、当時の人々は、従者が一人抜けるよりも、脱糞状態でも行進させるほうがましだと考えていたことになります。儀礼主義、ここに極まれり。あらかじめ決まっていたことを、決まっていたとおりに行なうことが、儀礼の場面では何よりも優先されていたのでしょう。したがって、出発を遅らせて衣装を洗う時間を確保したり、実文の参列を止めさせたりするような現代人的配慮は、当時の為政者の頭にはまったく浮かんでこなかったのかもしれません。やめることも、遅らせることも、そして抜けることさえ許されない。中世の儀礼とは、これほどまでの強制力を備えていたようです。

 ちなみに当時の貴族には、儀式のたびに知り合いから衣装を借りなければならないほど困窮していた者もいました。おそらく実文も、替えの衣装を用意できるほどの余裕はなかったのでしょう。なんとも気の毒な話です。

 さてこの実文ですが、大失態の後、どのような人生を歩んだのでしょうか。残念ながら、これ以上彼の詳しい足跡を辿ることはできません。唯一確認できたのが、『尊卑分脈』(第一篇、新訂増補『国史大系』第五十八巻、140頁)に記された、「実文遁世」というわずかな注記のみ。どうやら彼は、脱糞の恥辱に耐えかねて出家したものと考えられます。公の場での脱糞は、中世びとにとって、自身の帰属している社会から逃亡しなければならないほどの耐えがたい恥辱であったようです。