周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料1の4

  小童祗園社由来拾遺伝 その4

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  又山かつの昔語ニ素盞嗚尊ハ」伊弉議尊の第四の御子也、其御行」状甚無道、御父

                       あち  こち

  母太タ促徴して」遠く根之国へ適との御事ニ而西風」東風と経廻り給時、大山祇

  娘」磐長姫と云あり、其性質」甚醜、此故ニ余神愛し給はす」妹之木花開耶姫甚美

  神」余神の寵愛不浅候而、妹ならハ」好らんと思召て日夜怨念」積り玉ひて、終に

  は其面体悪鬼と」変して、初ハ女人を取り」後にハかうかけ山に住追々人を」害す

  る事夥し、時に素盞嗚尊」其由を聞給ひけれハ、素よ」り達徳するどき御神ゆ

  へ、」所帯の十握の剣を以壱刀」きり給へハ弐つとなり、弐刀」斬給へハ四つと

  成、又切玉へバ」八頭となり、虚空を凌安芸」国江の川といひて水無川へ」飛来ル

  と聞玉ひて追かけ来」り玉へハ、其所には見ず雲州」簸の川に居ると聞玉ひて」天

  より彼の処へ行玉ふて大雨」のふるに蓑笠着て当村」の布留屋に来り玉ふ、巨旦」

  蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦」にかり給へともゆるさす、夫」のミならす勇士の三

  郎と」いふ者をしていた追はしむ」其時木瓜の垣に懸りこけ玉へり」仍而今時胡瓜

  を忌といへり」又蘇民にやどりて其夜を」明し玉へり、夫より雲州ひの」川へ進み

  玉ふて見玉へハ」老翁姥あり中に小童を居へて」なき居たり、其故を問ひ給へハ」

  我に小童八にんあり、皆蛇の」めにのまれき、又此小童も」呑れなんとすとてなき

  か」なしむ、さあらハ此小童を」我にくれよとの玉へハ、とにもかくにも従ひ奉ら

  んと」いへハ、其侭酒を造りて八所」に居へて蛇の来るを待玉ふ、」はたして蛇来

  り姫のすかたの酒の中ニうつるを」見て、其の姫かとおもひ」ことくく呑尽し、酔

  ひ」ひちて眠所を十握剣にて」きり給ふ、夫よりして其童」女と夫婦になり玉ふて

  住」給ふ、其後、根の国へ行西風」東風と漂泊して、終ニ天笠へ」渡り牛頭川原と

  いふ所ニ居」給ふ、仍而牛頭の名あり、又」祇遠精舎に居玉ふ、其時ハ」金毘羅神

  とも、又摩訶羅神」ともいふ、から国ニ而ハ青龍寺の」鎮守となり給ふ、其後又」

  吾が日の本へ帰り、蘇民将来の」元江来り玉へハ、巨旦将来も」蘇民将来もともに

  処をかへて」ゆゝしき長者たり、其時巨旦」をバ亡し、蘇民には茅の輪を」帯さ

  せ、秘文を授て助け給ふ、」また後世疫気流行せば」茅の輪を帯て汝が子孫と」い

  はゝ、其災必まぬかるへしと」懇に教玉ひて、我ハ是はや」すさのうの神との玉ふ

  て」此里来り給ふと申伝ふ、」疑ふらくハ此こともありし」事歟、今聞当村に

  布留屋」といふ所あり、又たん田と」いふ所あり、此辺に小たん田と」いふ所あ

  り、今ハ寺町分の安田」分なるべし、此ふるやハ巨旦」蘇民の旧居と申伝ふ、且

  又」品治郡に蘇民古旦の旧跡」ありと、また備中国かや郡」今市村にも蘇民の御

  跡」ありと聞伝ふ、何を是と」し、何れを非とせん、後の」君子をまつことはり玉

  へ」

   つづく

 

 「書き下し文」

  又山賤の昔語りに素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四の御子なり、其の御行状甚だ無道、御父母太だ促徴して遠く根の国へ適くとの御事にてあちこちと経廻り給ふ時、大山祇の娘に磐長姫と云ふあり、其の性質甚だ醜し、此の故に余神愛し給はず、妹の木花咲耶姫は甚だ美神、余神の寵愛浅からず候ひて、妹ならば好むらんと思し召して日夜怨念積もり給ひて、終には其の面体悪鬼と変じて、初めは女人を取り、後にはかうかけ山に住み、追々人を害すること夥し、時に素盞嗚尊其の由を聞き給ひければ、素より達徳鋭き御神故、所帯の十握の剣を以て一刀に斬り給へば二つとなり、二刀に斬り給へば四つとなり、又切り給へば八頭となり、虚空を凌ぎ安芸国江の川と云ひて水無川へ飛び来ると聞き給ひて追ひかけ来たり給へば、其所には見ず、雲州簸の川に居ると聞き給ひて、天より彼の処へ行き給ふて、大雨の降るに蓑笠を着て当村の古屋に来たり給ふ、巨旦・蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦に借り給へとも許さず、夫れのみならず勇士の三郎といふ者をしていた追はしむ、其の時木瓜の垣に罹り転け給へり、仍て今時胡瓜を忌むと云へり、又蘇民に宿りて其の夜を明かし給へり、夫れより雲州日野川へ進み給ふて見給へば、老翁姥あり中に小童を据へて泣き居たり、其の故を問ひ給へば、我に小童八人あり、皆蛇の目に呑まれき、又此の小童も呑まれなんとすとて泣き悲しむ、さあらば此の小童を我にくれよと宣へば、とにもかくにも従ひ奉らんと云へば、其の儘酒を造りて八所に据へて蛇の来るを待ち給ふ、果たして蛇来たり姫の姿の酒の中に映るを見て、其の姫かと思ひ悉く呑み尽くし、酔ひ漬ちて眠る所を十握剣にて切り給ふ、夫れよりして其の童女と夫婦になり給ふて住み給ふ、其の後、根の国へ行き西風東風と漂泊して、終に天竺へ渡り牛頭川原といふ所に居給ふ、仍て牛頭の名あり、又祇園精舎に居給ふ、其の時は金毘羅神とも、又摩訶羅神とも云ふ、唐国にては青龍寺の鎮守となり給ふ、其の後又吾が日の本へ帰り、蘇民将来の元へ来たり給へば、巨旦将来も蘇民将来も共に処を変えてゆゆしき長者たり、其の時巨旦をば亡ぼし、蘇民には茅の輪を帯びさせ、秘文を授けて助け給ふ、また後世疫気流行せば、茅の輪を帯びて汝が子孫と云はば、其の災ひ必ず免るべしと懇ろに教へ給ひて、我は是れは速須佐男の神と宣ふて此の里へ来たり給ふと申し伝ふ、疑ふらくは此の事もありし事か、今聞く当村に古屋といふ所あり、又たん田といふ所あり、此の辺りに小たん田といふ所あり、今は寺町分の安田分なるべし、此の古屋は巨旦・蘇民の旧居と申し伝ふ、且つ又品治郡に蘇民・古旦の宮跡ありと、また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の御跡ありと聞き伝ふ、何を是とし、何れを非とせん、後の君子を待ち理り給へ、

   つづく

 

 「解釈」

 また山で暮らしている村人の昔話によると、素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四子である。そのお振る舞いはとてもひどいものであった。ご父母がひどく懲らしめたため、遠く根の国へと行くとのことで、あちこちを廻りなさったとき、大山祇の娘に磐長姫という姫がいた。その姿はとても醜い。このために、ある神は愛しなさらなかった。妹の木花咲耶姫はとても美しい神で、その神のご寵愛は浅くはありませんで、妹なら愛そうとお思いになって、日夜その思いがお積りになって、とうとうその容貌は悪鬼に変わった。初めは女性を奪い取り、その後はかうかけ山に住み、次第に人に害を及ぼすことが多くなった。その時に、素盞嗚尊はその事情をお聞きになったところ、もともと優れた能力をお持ちの神だから、持っていた十握の剣を使って、その神を一刀のもとにお切りになると、その神の頭が二つになった。二太刀目を当てると四つとなり、またお切りになると八つの頭となった。「その神は虚空を飛び越え、安芸国江の川という水無川へ飛んできた」と素盞嗚尊はお聞きになり、追いかけて来なさったところ、そこにはその神の姿は見えず、出雲国斐伊川に居るとお聞きになって、天空からそこへ行きなさろうとして、大雨の降る日に簑笠を着て当村の古屋にお出でになった。巨旦・蘇民という兄弟がいた。素盞嗚尊が宿を借りなさろうとしても、巨旦は許さず、そればかりか勇猛な奉公人の三郎というものにひどく追い払わせた。その時、素盞嗚尊は木瓜の垣に引っ掛かり転びなさった。だから、いま胡瓜を恐れ避けると言った。それから、蘇民の家に宿泊して、その夜を明かしなさった。それから出雲国斐伊川へお進みなってご覧になると、老夫婦がいてその中に幼い姫を置いて泣いていた。その訳をお尋ねになると、「私には幼い子どもが八人います。みな蛇の目に飲まれた。またこの子も飲み込まれようとしている」と言って泣き悲しんでいる。素盞嗚尊は「それならこの姫を私にくれよ」と仰るので、「とにかく従い申し上げよう」と言うと、素盞嗚尊はそのまま酒を作って八箇所に置き、蛇が来るのをお待ちになった。思ったとおり蛇がやって来た。姫の姿が酒の中に映っているのを見て、その姫かと思い、すべて飲み干し、酔い潰れて眠っていたところを十握の剣で切りなさった。それからその姫と夫婦になりなさってお住みになった。その後根の国に行き、あちこちに漂泊し、とうとうインドに渡り、牛頭川原というところにお住みなった。だから、牛頭の名をもっている。さらに祇園精舎にお住みになった。その時は金毘羅神とも、また摩訶羅神とも言った。中国では青龍寺の鎮守となりなさった。その後また我が日本に帰り、蘇民将来のもとへいらっしゃったところ、巨旦将来も蘇民将来もともに居所を変えて、たいそうなお金持ちになっていた。その時、巨旦を滅ぼし、蘇民には茅の輪を身に付けさせ、秘密の呪文を授けてお助けになった。また「今後疫病が流行した場合、茅の輪を身に付けてお前の子孫と言えば、その災いを必ず逃れることができる」と丁寧に教えなさって、「私は速須佐男の神である」と仰って、この里へお出でになったと申し伝えている。おそらく、このようなこともあったのだろうか。いま聞くところによると、当小童村に古屋というところがある。また反田というところがある。この辺りに小反田というところがある。今は寺町分の安田分であるはずだ。この古屋は巨旦と蘇民の旧居と申し伝えている。さらに品治郡に蘇民と古旦の旧跡があると。また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の旧跡があると伝え聞いている。何を是とし、どれを非としようか。後世に学識の高い人が現れるのを待ち、判断してください。

   つづく

 

 「注釈」

「布留屋」─現広島県三次市甲奴町小童字古屋。

 

「品治郡」

 ─福山市北西部、新市町にあたる。おそらく、現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社のことと考えられます。

 

「かや郡今市村」

賀陽郡は現岡山県加賀郡吉備中央町・総社市に当たりますが、『岡山県の地名』(平凡社)を見るかぎり、「今市村」という地名は存在しません。したがって、郡の名前を間違えている可能性もあります。『岡山県の地名』で立項されている「今市」は、新見市井原市西江原町(今市宿)の二箇所で、後者の近隣には武塔神社(小田郡矢掛町小田)があります。推測にすぎませんが、この「今市村」は井原市西江原町のことかもしれません。

 

 

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矢掛町 武塔神社鳥居

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神門

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拝殿

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本殿

「かうかけ山」─未詳。