周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料1の7(完)

  小童祗園社由来拾遺伝 その7

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

   貧道生質愚昧にして」目睫さへ見ること不叶、」いはんや遠き昔しを」察する

   事有んや、抑」当社ハ古世の伝る所ハ」大古にして、亦異地なり」惜や正記、宝

   物灰烬して」昔を汁に由なし、于茲」俗伝拾ひ集るに真偽分り」がたし、予不敏

   なりといへ共、」正を取り疑を省、繁を」さり、足さるを助け、要を」拾ひ集め

   て、漸く次第して」当社拾遺伝と名付て、粗」昔を察するの一助に備ふ、」独り

   下愚を下愚とし」不知を不知とせハ、知者の名を得て聖人の談」たらばいさきよ

   しとは」おもへども、若此伝をも」後世に伝へずんはまずく」後世は常やみのご

   とく」にて信心の発るべき」便りなからん、もし仮」そめにも信心あらば、」人

   は神の恵ミを得、神ハ」威光を加へ玉はゞ、天下泰平、」国家安穏、御武運長

   久、」快楽の功しあらん、此故に」僭踰の罪をかへりみす、拙く」も俚語を記

   し、兼て永」く後世に貽者也」

 

 

 備後世羅郡小童祇園牛頭天王

 別当社司神主亀甲山感神院

      本願坊神宮密寺

 (1757)

 宝暦七丁丑四月吉辰

   おわり

 

 「書き下し文」

   貧道生質愚昧にして目睫さへ見ること叶はず、況んや遠き昔を察すること有らん

   や、抑も当社は古世の伝ふる所は太古にして、亦異地なり、惜しむや、正記・宝

   物灰燼して昔を知るに由なし、茲に俗伝拾ひ集むるに真偽分かりがたし、予不敏

   なりと雖も、正を取り疑を省み、繁を去り、足さるを助け、要を拾ひ集めて、漸

   く次第して当社拾遺伝と名付けて、粗々昔を察するの一助に備ふ、独り下愚を下

   愚とし、不知を不知とせば、知者の名を得て聖人の談たらば潔しとは思へども、

   若し此の伝をも後世に伝へずんば、まずまず後世は常闇のごとくにて信心の発る

   べき便りなからん、もし仮りそめにも信心あらば、人は神の恵みを得、神は威光

   を加へ給はば、天下泰平、国家安穏、御武運長久、快楽の功しあらん、此の故に

   僭踰の罪を省みず、拙くも俚語を記し、兼ねて永く後世に貽す者なり、

    (以下略)

 

   おわり

 

 「解釈」

 私貧道は、生まれつき愚かで道理にくらく、目の前のものでさえ正確に見ることはできない。まして遠い昔を考察することができようか、いやできない。そもそも当社の伝承は大昔からのものであり、また格別の霊地でもある。惜しいことであるなあ、公的な記録や宝物が灰燼に帰して昔を知るすべはない。そこで世間の伝承を拾い集めてみたが真偽は分からない。私の頭は鈍いけれども、正しいことを取り、疑わしいことを検証し、煩雑なものを取り除き、付け加えることを助け、要点を拾い集めて、ようやく順序よく並べて当社拾遺伝と名付け、おおざっぱに昔を考察するための一助とした。ただ、伝承の中のはなはだ愚かなことを愚かと見なし、知らないものは知らないとして、拾遺伝に書き残さないなら、私は真理を知っているものとしての名声を得て、この拾遺伝を優れた人物の作成した所伝とすることができるので、潔いとは思うけれども、もしこの拾遺伝を後世に伝えないなら、まず後世は常に闇のようで信心を起こすはずの機縁がなくなるだろう。もし一時でも信心があるなら、人は神の恵みを得るし、神がその威光を増しなさるなら、天下泰平、国家安穏、ご武運長久、快楽の霊験があるだろう。こういうわけで、僭越の罪を反省せず、未熟なまま民間伝承を記し、併せて永久に後世に残すものである。

   おわり