周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

賀茂大明神のお引っ越しとその本所

  文明二年(1470)五月二日条

           (『大乗院寺社雑事記』4─425頁)

 

    二日 (中略)

 一伝聞、賀茂大明神者御在国、御領加賀国ニアリ、元弘等大乱之時例云々、御正躰・御神宝以下、悉以奉納唐櫃等、社官等奉相具之、各在国、希有事也、当社本所ハ当国葛木賀茂社也、天武御宇歟、為王城鎮守奉勧請之、卯月ハ於禁中御神事有之、(後略)

 

 「書き下し文」

 一つ、伝へ聞く、賀茂大明神は御在国、御領加賀国にあり、元弘等大乱の時の例と云々、御正体・御神宝以下、悉く以て唐櫃等に奉納し、社官等之を相具し奉り、各々在国す、希有の事なり、当社の本所は当国葛城の賀茂社なり、天武の御宇か、王城鎮守の為之を勧請し奉る、卯月は禁中に於いて御神事之有り、

 

 「解釈」

 一つ、伝え聞くところによると、賀茂大明神が加賀国にご在国になっている。ご社領加賀国にある。元弘などの大乱の時の例だという。ご神体やご神宝などは、すべて唐櫃などに納め申し上げ、社官らはそれらを伴って、それぞれ在国した。非常に珍しいことである。賀茂社の本所は大和国葛城の賀茂社である。天武天皇の御代だろうか、王城鎮守のためにこれを勧請し申し上げた。四月は禁中でご神事がある。

 

 「注釈」

「元弘」

 ─元弘の乱のことか。鎌倉幕府滅亡の要因となった反乱。1331(元徳3・元弘1)後醍醐天皇は2度目の討幕を企てるが未然に発覚、笠置山に籠城するが、これも落ちる。後醍醐は光厳に譲位させられ、隠岐に配流の身となる。1332(正慶1・元弘2)末、護良親王が吉野に、楠木正成が河内に、阿蘇・菊池氏が九州に挙兵し、1331後醍醐は隠岐を脱出。さらに足利・新田・島津・大友らの有力御家人が後醍醐方にくみするに及び、幕府は滅亡した(『角川新版日本史辞典』)。

 

「御領」

 ─加賀国川北郡金津庄。加賀国の北隅。現在の宇ノ気町北部から七塚町・高松町一帯。宇ノ気川流域の谷田地帯を中心に、山方・浜方に拡がる。戦国期には、日角・新保・鉢伏・金津・横山・高松・内高松・谷・上棚・与知の十カ村で構成。上賀茂社領。初見は寿永三年(1184)であるが(「賀茂別雷神社文書」)、成立は寛治四年(1090)と想定され(『百錬抄』寛治四・七・一三)、中世を通して「加州神領」と称された。鎌倉後期に南接する北英田保の地頭代と境界相論を展開(「温故古文抄」)。戦国期の上賀茂社は、一向一揆を主導する下間頼盛・木越光徳寺・洲崎兵庫などの押領や、これを排除した一揆組織の河北郡五番組の主力をなす惣荘(百姓中)の自主管理に苦しみ、公用銭百貫の収取に難渋する。近隣の荘郷に比して、直務の維持工作が比較的功を奏していた荘園といえるが、戦国末期以降は、賀茂競馬の番立に「金津御庄」の名をとどめるのみとなる(「賀茂別雷神社」)(「金津庄」『講座日本荘園史6』吉川弘文館)。『京都上賀茂神社と加賀・能登』(石川県立図書館 第223回企画展示、https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/booklist/2015/223.pdf)参照。

 なお、金津庄内には賀茂神社があります。以下、『石川県の地名』(平凡社)の「賀茂神社」の項を引用しておきます。

 現宇ノ気町横山。横山集落の東端、亀山に鎮座。旧県社。「延喜式神名帳にみる賀茂郡13座の同名社に比定される。祭神は賀茂別雷神で、貴布禰神と天照大神を配祀。宝暦二年(1752)の横山賀茂神社縁起(高松町史)によれば、天平勝宝五年(753)加賀郡英田郷の加茂邑(現津幡町加茂とされる)に影向、大同元年(806)鉢伏村に遷座。翌二年に神託によって現在地へ移ったと伝える。ただし英田郷加茂邑に鎮座したとの伝承が記されない縁起もある。中世、当地一帯は京都上賀茂社領金津庄に属したため、当社は金津庄20余村の総社として、あつい崇敬を受けたらしい。天文六年(1537)の金津庄横山村名別公事銭等納帳(賀茂別雷神社文書)にみえる木津宮・若宮は当社の摂社・末社とみられる。若宮は同7─8年分の谷・金津村算用状案(同文書)にも頻出する。前掲縁起によれば、社家木津神主子孫は断絶したのか未詳、若宮神主は桜井姓で横山村に居住したという。また別当寺として天台宗西照寺と塔頭12坊があったという。「三州志」によると、天正十二年(1584)の末森合戦の際に、佐々成政により焼き払われたと言われる。その後、万治元年(1658)に復興したという。春祭四月十五日。田祭三月五日。例祭・弥寿元祭六月五日。秋祭九月十五日。なお賀茂大明神にまつわる片目の鮒の伝説がある。

 

賀茂社

 ─現奈良県御所市の高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)・鴨都波神社(下鴨社・鴨の宮)のいずれかを指すものと考えられます(『奈良県の地名』平凡社より)。

 

 

*大切なご神体やご神宝を戦乱から守るため、社領のある地方へ疎開させることがあったようです。御神体などというものは、遷宮を除いて移動させることはないと思っていたので、私にとっては新しい発見でした。

 また、京都賀茂社が、天武天皇の時代に、奈良葛城郡の賀茂社から勧請されたものだという伝承も初めて聞きました。「本家・元祖論争」ではありませんが、本家本元、いや本社を確定することは、中世でも大事だったようです。