周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料1の5

  小童祗園社由来拾遺伝 その5

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  于茲当山に金牛正銀と云者あり」十方勤化して宝殿を修理し」奉り、正中に牛頭て

  ん王、東に君達」八幡比叡権現と祝り奉る中に」一丁若の御眷属を合せ祭奉る。」

  毎年九月九日御供献上之時ハ先ツかミ」米と名付て清し、初ニ正米ニ而備、又」其

  次ニ未飯に調ハぬ内に、すくいまん」まと名付て粥のことくなるを備ふ、」其後能

  調て後諸神一列に備へ奉る」古実あり、御幼君故歟如何其訳」今ハ知る人無し、又

  人魚と名付て」ちかやに少しの幣を付て惣社人」頂戴して注連に結籠祝ることあ

  り、」蘇民将来に伝へ玉ふ遺風歟分り」がたし、又ハ明神伊勢稲荷の合殿」壱社其

  外御手洗水神後に山田」さまの祠あり山の神と云、其奥ニ」閼伽の池あり、又愛宕

  権現并に」御山天狗の祠あり、夫より山の」絶頂に竜王の祠あり、又広く村」内に

  七座別末社有、太歳・稲荷・」大明神・武答天神即蘇民将来を」祝流、天満天神・

  高山天神・妙見」大菩薩・春日谷八幡・広石山王権現、」潮谷八王子とて本地千手

  観音、」国狭槌尊水の祖神也、右のごとく」牛頭天王御所縁の御神かずく」有らせ

  玉ふ、此人を当山本願神宮寺」開基と申伝ふ、是又時代知れず」時の人牛頭天王

  再来といふ、」今疫之神の社といふは是なり、」此旧き宮跡は竹林行実の間に」あ

  り、古来より御除地にて今に」当寺の抱所なり、十方勤化の時之」笈并に身正躰の

  木像社内に」残れり、人王四拾九代」光仁天皇の御宇宝亀五甲寅四月」大いに疫病

  はやり殃亡にあるもの」勝て数へかたし、時に小童の姿に」現し馬に乗りて託して

                                    おぐ

  の玉ハく、」吾ハ是蛇毒気神本地妙見菩薩也」此里ハ牛頭天王の霊地なり、仰もの

  ハ」ゑやみ速に⬜︎⬜︎すへしと諭して」此亀甲山に入り給ふて後、其小童」去り玉

  ふ方を知る人なし、同年六月」十四日本矢野より幡・笛・大鼓・鉦等」打囃し、神

  を諌めしよりして、名遠」近に聞え駈疫月々に験あり、夫より」追々十方崇敬し国

  家鎮護と」奉仰、古きを尋、彼のとうの宮」神幸を成し奉る、然れとも余り」遠

  く便りあしくとて、今ハ武答山へ」神幸為成奉る、往昔妙見大菩薩」出現の美地に

  て、殊に牛頭天王の」御幸の宮井なれハ、武答天神山と」いふ、本名ハ亀山と云、

  また馬の」出し所馬出しといふ、其名今ニ」残れり、また其馬の餝と申伝へて」鈴

  弐つ社内に残れり、且又御託宣」の内のすかた拝み奉るに、小サひちご」なりと時

  の人思へり、依而上下略して」ひちくと唱しとなん、

   つづく

 

 「書き下し文」

  茲に当山に金牛正銀と云ふ者あり、十方勤化して宝殿を修理し奉り、正中に牛頭天王、東に公達・八幡・比叡権現と祭り奉る中に、一丁若の御眷属を合わせ祭り奉る。毎年九月九日御供献上の時は先づ神米と名付けて清し、初めに正米にて備へ、又其の次に未だ飯に調はぬ内に、すくいまんまと名付けて粥のごとくなるを備ふ、其の後能く調へて後、諸神一列に備へ奉る故実あり、御幼君たる故か如何、其の訳今は知る人無し、又人魚と名付けて茅萱に少しの幣を付けて惣社人頂戴して注連に結ひ籠め祭ることあり、蘇民将来に伝へ給ふ遺風か分かり難し、又は明神・伊勢・稲荷の相殿一社、其の外御手洗水神の後ろに山田様の祠あり、山の神と云ふ、其の奥に閼伽の池あり、又愛宕権現并に御山天狗の祠あり、夫れより山の絶頂に竜王の祠あり、又広く村内に七座の別の末社有り、太歳・稲荷・大明神・武塔天神即ち蘇民将来を祭る、天満天神・高山天神・妙見大菩薩・春日谷八幡、広石山王権現、潮谷八王子とて本地千手観音、国狭槌尊は水の祖神なり、右のごとく牛頭天王御所縁の御神数々有らせ給ふ、此の人を当山本願神宮寺開基と申し伝ふ、是れ又時代知れず、時の人牛頭天王の再来と云ふ、今疫の神の社といふは是れなり、此の旧き宮跡は竹森行実の間に有り、古来より御除地にて今に当寺の抱所なり、十方勤化の時の笈并に身正躰の木像は社内に残れり、人王四十九代光仁天皇の御宇宝亀五甲寅(七七四)四月大いに疫病流行り、殃亡にあるもの勝げて数へ難し、時に小童の姿に現じ馬に乗りて託して宣はく、吾は是れ邪毒気神、本地妙見菩薩なり、此の里は牛頭天王の霊地なり、仰ぐものは疫病速やかに⬜︎⬜︎すべしと諭して、此の亀甲山に入り給ふて後、其の小童去り給ふ方を知る人無し、同年六月十四日本矢野より幡・笛・大鼓・鉦等を打ち囃し、神を諌めしよりして、名遠近に聞こえ駈け、疫月々に験あり、夫れより追々十方崇敬し国家鎮護と仰せ奉る、古きを尋ぬるに、彼の塔の宮へ神幸を成し奉る、然れども余りに遠く便り悪しくとて、今は武塔山へ神幸を成し奉る、往昔妙見大菩薩出現の美地にて、殊に牛頭天王の御幸の宮居なれば、武塔天神山と云ふ、本名は亀山と云ふ、また馬の出だし所を馬出しと云ふ、其の名今に残れり、又其の馬の飾りと申し伝へて、鈴二つ社内に残れり、且つ又御託宣の内の姿拝み奉るに、小さひ稚児なりと時の人思へり、依りて、上下略してひちひちと唱えしとなん、

   つづく

 

 「解釈」

 ここに当亀甲山に金牛正銀というものがいた。あらゆる場所で勧進して社殿を修理し申し上げた。中央に牛頭天王、東に公達・八幡・比叡権現を祭り申し上げる中に、多くの御眷属を合わせ祭り申し上げている。毎年九月九日にお供えを献上するとき、まず噛み米と名付けてそれを清め、最初は生米のままで供え、またその次に飯として炊き上がらないうちに、「すくいまんま」と名付けて粥のようなものを供える。その後よく炊いた飯を諸神一列に供え申し上げる故実がある。お粥をお供えするのは、幼い神であるからだろうか。その訳を今は知る人がいない。また人魚と名付けられた、茅萱に少しの幣を付けたものをすべての社人が頂戴して、注連縄に結び籠めて祭ることがある。蘇民将来にお伝えになった慣習かはわからない。または明神・伊勢・稲荷の相殿一社、その他に弥都波能売明神の社の後ろに山田様の祠がある。山の神という。その奥に仏様に水を供えるための池がある。また愛宕権現と御山の天狗の祠がある。そこから山の頂上に龍王の祠がある。また広く村内に七座の別の末社がある。大歳神・稲荷・大明神・武塔天神つまり蘇民将来を祭っている。天満天神・高山天神・妙見大菩薩・春日井谷八幡・広石山王権現、塩貝谷八王子といって本地千手観音、国狭槌尊は水神である。牛頭天王とご縁のある神々が数々いらっしゃる。この金牛正銀という人を当山の本願神宮寺開基と申し伝えている。このことはまた時代がわからない。その当時の人は牛頭天王の再来という。いま疫神の社というのはこのことである。この古い社の跡は、竹林のあいだにある。昔から税の免除地で、今は当神宮寺の所有地である。あらゆる場所で勧進をしたときの笈や御神体の木像は、社内に残っている。人王四十九代光仁天皇の御代、宝亀五年甲寅(七七四)四月、大いに疫病が流行り、祟りによって亡くなったものは数えきれなかった。その時に幼い子どもの姿で出現し、馬に乗って託宣するには、「私は邪毒気神、本地は妙見菩薩である。この里は牛頭天王の霊地である。崇敬するものは、疫病が速やかに治癒するはずだ」と諭して、この亀甲山にお入りになった後、その幼子が立ち去りなさった方向を知る人はいない。同年六月十四日、本矢野から幡・笛・大鼓・鉦等を打ち囃し、神を諌めたことから、その評判はあちこちに聞こえ駈けめぐり、疫病に対して毎月ご利益があった。それから次第にあらゆる場所で崇敬され、国家鎮護の神として仰がれた。古い言い伝えを調べてみるとと、この塔の宮へ渡御をなし申し上げていた。しかしあまりに遠く不便であるといって、今は武塔山へ渡御をなし申し上げている。遠い昔に妙見大菩薩が出現した霊地で、とくに牛頭天王の渡御の御旅所であるので武塔天神山という。本当の名は亀山という。また馬の出しどころを馬出しという。その名は今に残っている。またその馬の飾りと申し伝える鈴二つが社内に残っている。さらにまたご託宣に記されたお姿を拝み申し上げるので、神の姿を「小さサひちご」(小さい子ども)である、と当時の人々は思った。だから、この「小さサひちご」という言葉の上下を略して、「ひちひち」と唱えたそうだ。

   つづく

 

 「注釈」

「かみ米」─「小童祇園社祭式歳中行事定書 その7」に「噛米」とある。

 

「御手洗水神」─弥都波能売明神のことか。

 

「為成奉」─「為成」で「なす」と読ませていると考えられます。

 

「一丁若」─未詳。「たくさん・多く」という意味か。

 

「高山天神」

 ─菅原神社。甲奴町小童字高山(『甲奴町誌』1994)。推定地は下記の地図を記しておきましたが、現地を訪ねてみても発見することはできませんでした。現地の方にお話を聞くと、以前にはたしかにこの小高い山にあったそうですが、現在は荒れ果てて登ることができません。

 

「春日谷八幡」─春日井八幡神社。甲奴町小童四一九八。

 

「広石山王権現」─山王神社。甲奴町小童四五八。

 

「潮谷八王子」─塩貝谷八王子神社。甲奴町小童四七二三。

 

「本願」

 ─社寺の造営管理に関わる機関(宮家準「熊野修験と比丘尼─本願所を中心に」『修験道─その伝播と定着─』法蔵館、二〇一二)。

 

「竹森行実」

 ─「竹森」は小童保の「武守・武森名」、「行実」も「行実名」に由来する地名。位置は「武守」が北で、「行実」がすぐ南。いずれも、須佐神社そばの「宮部」と「桂正寺」集落にある(『甲奴町誌』1994、参照)。

 

 

末社の地図

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山王神社

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春日井八幡神社

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塩貝八王子神社

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*今回の記事には、小童の由来が書いてあります。宝亀五年(七七四)四月、疫病が流行したときに、蛇毒鬼神、本地妙見菩薩と名乗る尊い存在が、小さな子どもの姿で現れたのです。そして、幼子では口にするはずもない神仏の名を口走り、疫病を治すと託宣し、そのまま姿を消してしまいます。神仏の姿を見たことのない民衆は、このあり得ない出来事を信じたわけです。昔の人々は、きっと現代人以上に音声情報を重視していたのでしょう。この点、状況判断をするうえで視覚に囚われすぎ、聴覚を軽んじる現代人との違いを感じます。

 「小さひちご」。前後を略して「ひち」。近世人の考えそうな安易な発想で、笑い飛ばして終わりそうな話ですが、一方でこの「小童」信仰は、現在まで脈々と続いています。小童には「わらべ」という有名なお蕎麦屋さんがあります。『ミシュラン広島』の掲載店なので、たしかにお蕎麦は美味しいのですが、特筆すべきはこちらのお店、「座敷わらし」がお住まいなのだそうです。ネット上でも有名で、遠方から来店(お参り?)する方も多いそうです。私はそんなことも知らずに立ち寄り、女将のご好意でお参りもさせていただきました。これもフィールドワークの賜物です。かつて、「小童」(幼子)の姿で顕現した蛇毒鬼神・妙見菩薩は、現在「座敷わらし」として信仰され続けているということになりそうです。「座敷わらし」と言えば、岩手県遠野の専売特許かと思っていたのですが、広島の山間村落にもいらっしゃったのです。小童というのは、なんとも興味深い場所です。

 

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