周梨槃特のブログ

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須佐神社文書 参考史料1の1

 【参考史料1】 小童祗園社由来拾遺伝 その1

 

 「解説」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)

 この記録は小童祇園(現在の須佐神社)の神宮寺別当(貧道か)が小童祇園社の由来にかかわる種々の伝承を書き遺したものである。「二、須佐神社縁起」と同じ内容の、牛頭天王諸国臨幸説話や、蘇民将来、巨旦将来の説話などの外素盞嗚命の八岐の大蛇退治の伝承、小童の地名の由来についてもふれている。

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  備後国世羅郡小童亀甲山感神院

  祗園社由来拾遺伝

 当山牛頭天王ハ由来旧記焼失して」今はさだかに知れず、然して土俗之」言の葉に

 残を拾ひ集めて縁起と」す、夫れ御本地ハ薬師如来我朝ニ而は」素盞嗚尊、異国ニ而

 ハ牛頭天王申」奉りて、天の神の不幸を蒙り」玉いて、天笠震旦等の異国迄」を

 さすらへ給ふて我朝」用明天皇五畿七道をめぐり」すみ所を求め給ふに、御意

 叶せ」玉ふ所なしとて、同年四月八日」当国江の隅云所に着せ給ふ」其所に巨旦

 長者いふ者あり、立寄て一宿を乞ひ玉ふに情なく」阿りて借し参らせす、かの

 勇士之」三良云者をして箒にて打擲」せしか、いたく追ハしむ時に、天王」逃

 玉ハんとして木瓜の垣に懸らせ」玉ふて転ひ玉ひしとなん、其事の」縁にて今の世

 に信仰のものは」胡瓜を食ふ事なしと申伝ふ、」又其三良妻子数多亡しとなん、」

 此ゆへに、世に箒にて人を打ことを」嫌ふハ此縁とかや、かくてせんかた」無く

 赤ねのたわを越へて同州かやと」いふ所へ越玉ふに、わつかなる浅ぢふ」宿とぼそ

 あり、名つけて蘇民」将来といふ翁夫婦あり、宿を乞」玉へは、安き事なれ共、

 我貧賤」にして饗に奉るへきものなし、」いかにといらへけれハ、苦しからす」

 とて内に入らせ玉へハ、老女門前の」木のしづへより両かんこの粟三ば」持来り、

 からをば席に備え実をば」炊て柏の葉にもり黄蘗の箸を」添へ饗応し奉り候れば、

 巨旦がし」わざにたくらへ思召合させられ」其歓喜し玉ふ事無限、

   つづく

 

 「書き下し文」

  備後国世羅郡小童亀甲山感神院

  祗園社由来拾遺伝

 当山牛頭天王は由来・旧記消失して今は定かに知れず、然して土俗の言の葉に残りを

 拾い集めて縁起とす、夫れ御本地は薬師如来、我が朝にては素盞嗚尊、異国にては牛

 頭天王と申し奉りて、天の神の不幸を蒙り給ひて、天笠(天竺)震旦等の異国までを

 さすらえ給うて、我が朝用明天皇未(五八七)五畿七道を廻り住む所求め給ふに御意

 に叶はせ給ふ所なしとて、同年四月八日当国江の隅と云ふ所に着かせ給ふ、其の所に

 巨旦長者と云ふ者あり、立ち寄りて一宿を乞ひ給ふに、情けなく阿りて借し参らせ

 ず、彼の勇士の三郎と云ふ者をして箒にて打擲せしか、いたく追はしむる時に、天王

 逃げ給はんとして木瓜の垣に懸からせ給ふて転び給ひしとなん、其事の縁にて今の世

 に信仰のものは胡瓜を食ふ事なしと申し伝ふ、又其の三郎の妻子数多亡ぼすとなん、

 此の故に、世に箒にて人を打つことを嫌ふは此の縁とかや、かくてせん方無く赤ねの

 撓を越へて同州賀屋といふ所へ越し給ふに、わづかなる浅茅生の宿枢あり、名付けて

 蘇民将来といふ翁夫婦あり、宿を乞ひ給へば、安き事なれども、我貧賤にして饗に奉

 るべきものなし、如何にと答へければ、苦しからずとて内に入らせ給へば、老女門前

 の木の下枝より両かんこの粟三把を持ち来たり、殻をば席に備へ実をば炊いて柏の葉

 に盛り黄檗の箸を添へ饗応し奉り候へば、巨旦が仕業に比べ思し召し合はさせられ、

 其の歓喜し給ふ事限り無し、

   つづく

 

 「解釈」

 当山牛頭天王は由来・旧記を焼失して、今ははっきりわからない。だから、民衆の言葉に残っている伝承を拾い集めて縁起とした。そもそも御本地は薬師如来である。日本では素盞嗚尊、異国では牛頭天王と申し上げて、天の神の義絶を蒙りなさって、インドや中国等の異国をさすらいなさって、我が朝用明天皇未(五八七年)に五畿七道を廻り、住むところを探しなさったが、御心に叶うところがなくて、同年四月八日備後国江の隅というところにお着きになった。そこに巨旦長者というものがいた。牛頭天王は立ち寄って一夜の宿をお求めになったが、巨旦はそっけない態度でへつらって貸し申し上げなかった。その勇ましい奉公人の三郎というものに箒で叩かせた。ひどく追わせたときに、牛頭天王がお逃げになろうとして、胡瓜の垣に引っ掛かりなさってお転びになったそうだ。そのことが原因で、今の世で牛頭天王を信仰するものは、胡瓜を食べることはないと申し伝えている。また、奉公人の三郎の妻子らを数多く滅ぼしたそうだ。このゆえに、今の世で箒で人を叩くことを嫌うのは、これが理由であるというのだろうか。こうしてどうしようもなく赤ねの撓を越えて、同国加屋というところへお越しになったところ、わずかに茅萱の生えている荒れ果てた家があった。名を蘇民将来という老夫婦がいた。一夜の宿をお求めになると、「簡単なことですが、私は貧乏で食事として差し上げるのによいものがない。どうしようもありません」と答えたところ、「差し障りはない」といって、家にお入りになったので、蘇民将来の妻は門前の木の枝にかけてあった粟三把を持ってきた。その殻を座に敷き、実を炊いて柏の葉に盛り、黄檗の箸を添えてもてなし申し上げましたところ、巨旦の仕業と比べてお考え合わせになり、たいそうお喜びになることこの上なかった。

   つづく

 

 「注釈」

「不幸」─「不孝」で、義絶のことか。

「当国江の隅」─現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社

「賀屋」─広島県福山市津之郷町大字加屋か。

「巨旦がしわざにたくらへ」─「た」は衍字か。