「仏通寺住持記」 その37
十 辛丑 正覚派
含暉舎利記有 侍真 納所
璘和承珍禅師 節叟見忠 弘舜融徳
向上 恵順 〈維那再」肯派〉安中周泰
天文十丑十二 丹波葛野真如院、十月廿六日大鐘鋳、本願慶伝上人
月廿六日夜、 十二月廿六日実岩十七回忌預十一月廿六日営之、
風呂炎上、同 頓写焼香当住職、詮平始在入寺也、
十一年七月十
日立也、
十一壬寅 大慈派
東暉易禅師 侍真 恵仁 納所 周陽
向上(ママ) 維那 継衷
天文十一壬寅三月十日於本郷原有無縁之弔施餓鬼、本願岳之堂主、
当住璘和珍禅師、維那周泰、
十二癸卯 慈雲派〈依請待住」持也〉 (記)「安久神事当」 庵堂上葺
長松派 三室恵乗禅師 〈侍真」大慈派〉全賀 〈納所」肯派〉全桑
〈向上」両足派〉見忠 典座 慶貴 〈維那」長派〉智通
含暉在棟札
ニ(被)リ
天文十二年春、雲州富田尼子城 ◯ 成大内殿御取懸、於陣中雲州国衆
(殿)
依心易、思外五月七日御陣御取退新介役御生害、其外務人打死、詮平
九日御腹切ト諸国討死衆所不知数也、
「書き下し文」
十辛丑、正覚派、
璘和承珍禅師、含暉舎利の記に有り、 侍真節叟見忠、納所弘舜融徳、向上恵順、維那再び肯派安中周泰、
天文十丑十二月二十六日夜、風呂炎上す、同十一年七月十日立つなり、
丹波葛野真如院、十月二十六日大鐘鋳る、本願慶伝上人、十二月二十六日実岩十七回忌預め十一月二十六日之を営む、頓写焼香当住職、詮平始入寺在るなり、
十一壬寅、大慈派、
東暉易禅師、侍真恵仁、納所周陽、
向上(ママ・記載なし)、維那継衷、
天文十一壬寅三月十日本郷原に於いて無縁の弔ひ・施餓鬼有り、本願岳之堂主、当住璘和珍禅師、維那周泰、
十二癸卯、慈雲派、請待による住持なり、(記)「安久神事に当つ」 庵堂上葺、
長松派、三室恵乗禅師、侍真大慈派全賀、納所肯派全桑、
向上両足派見忠、典座慶貴、含暉棟札に在り、維那長派智通、
天文十二年春、雲州富田尼子城に大内殿御取り懸けに成らる、陣中に於いて雲州の国衆心易はりにより、思ひの外五月七日御陣を御取り退く、新介殿御生害、其の外務め人打ち死にす、詮平九日御腹切ると、諸国の討ち死に衆数知らざる所なり、
「解釈」
天文十年辛丑(1541)、正覚派が番衆を勤める。
璘和承珍禅師が住持を勤める。含暉院の舎利の記に書いてある。侍真は節叟見忠。納所は弘舜融徳。向上寺住持は恵順が勤める。維那は再び肯心派の安中周泰が勤める。
天文十年(1541)丑十二月二十六日夜、風呂が炎上した。同十一年(1542)七月十日に完成したのである。
丹波葛野真如院では、十月二十六日に大鐘を鋳造した。本願は慶伝上人。十二月二十六日実岩(小早川興平法名)の十七回忌を、あらかじめ十一月二十六日に行なった。頓写や焼香は当住職璘和承珍禅師が執行した。小早川詮平が初めて当寺にやってきた。
十一年壬寅、大慈派が番衆を勤める。
東暉全易禅師が住持を勤める。侍真は恵仁。納所は周陽。向上寺住持(僧名の記載なし)。維那は継衷。
天文十一年壬寅三月十日本郷原で無縁仏を弔う施餓鬼を行なった。本願は岳之堂主。当住持は璘和承珍禅師。維那は周泰。
十二年癸卯、慈雲派が晩秋を勤める。三室恵乗禅師はわざわざこちらから招いて就任した住持である。(記)「安久名の得分を神事の用途に充てる。」行堂の上葺を行なった。
長松派の三室恵乗禅師が住持を勤める。侍真は大慈派の全賀。納所は肯心派の全桑。
向上寺住持は両足派の見忠。典座は慶貴。含暉院の棟札に書いてある。維那は長松派の智通。
天文十二年(1543)春、出雲国富田にある尼子晴久の月山富田城に、大内義隆殿が攻めかかりなさった。陣中で大内に従った出雲国の国衆らの心変わりによって、予想とは異なり、五月七日御陣を撤退しなさった。新介殿大内晴持は自殺なさった(溺死か)。その外、従軍した国衆は討死した。小早川詮平は九日腹を切りなさった(討死か)という。諸国から参陣して討死した国衆の数はわからない。
「注釈」
「庵堂」
─行堂の当て字か。禅の行者(あんじゃ)のいる所。その建物。行者房(https://kotobank.jp/word/行堂-200704)。
つづく