周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その38

 「仏通寺住持記」 その38

 

 (1544)     含暉院在棟札(六月)

 十三甲辰 祥雲派  庵堂上葺甲辰林鐘落成、両願主肯派〈全桑」養寿〉

             タツルマル

           外護平又鶴丸

      梅信通禅師〈防州富田」永源庵〉 侍真 周泰 納所 用寿

      向上 祖登               維那 令舜

      (頭注)

      「板葺上棟梵宮厳浄地蔵堅牢、殊冀、八大怖悉除十種福駢集財宝

       盈溢、穀米豊成、旦門繁興、僧道鎮静矣、三宝証明、諸天洞鑒、

                           (ママ)

       住持比丘長松派恵乗、侍真大慈派全賀、維那維那長松派智通、両願主

       肯心派納所全桑、典座慶貴、肯心看院養寿、外護平又鶴丸、八幡

                             (ママ)

       渋川殿義正葺板一円檀那并神主三戸石見守親平、北表旦那

       樾渓叢上座也、天文九年庚子年勠力旦那前山中一川宗源禅定門、

       前梨子羽周甫慶文禅定門、大願施主禅林永参禅尼、萩原原田室也、

       葺師京之山西神四郎宗近、于時天文十三年甲辰落成林鐘如意珠日記

                              〔祥隆〕

       焉、筆者長松派圭序春秋百歳半、本寺衆、聖僧祥隆◯◯祠堂永鄂、

       殿司聖轍、衣鉢恵三、茶堂祖忠、浴司古文、飯頭慶牧、仏餉玄周、

                  (司)

       菜子恵了、汁司祥的、鐘子本清、無役淳甫、含暉院衆、殿司聖育、

       典座慶用、茶堂全守」

 十四乙巳 常喜派

      景参守禅師   侍真 周宗  納所 智通

                  (那)

 天文廿二年癸 〈向上」玉甫〉浄春  〈維郡」再〉智繕

 丑閏正月十四

 日死ス

      当寺方丈上葺、十月十一日普請始也、丙午之四月

      十五日成就也、葺枌之檀那三戸石見守親平也、

         (記)「新左衛尉」

      大工京之山西新兵衛尉

 

 「書き下し文」

 十三甲辰、祥雲派、庵堂の上葺甲辰林鐘に落成、含暉院の棟札に在り、両願主肯派全桑・養寿、外護平又鶴丸

      梅信通禅師、防州富田の永源庵、侍真周泰、納所用寿、向上祖登、維那令舜、

      (頭注)

      「板葺・上棟す、梵宮厳浄地蔵堅牢なり、殊に冀くは、八大怖悉く除き十種の福を駢へ集め、財宝盈ち溢れ、穀米豊かに成り、旦門繁興し、僧道鎮静せんことを、三宝証明せよ、諸天洞鑒せよ、住持比丘長松派恵乗、侍真大慈派全賀、維那長松派智通、両願主は肯心派納所全桑、典座は慶貴、肯心看院養寿、外護は平又鶴丸、八幡渋川殿義正、葺板は一円檀那并びに神主三戸石見守親平、北表(ママ)旦那樾渓叢上座なり、天文九年庚子年勠力は旦那前山中一川宗源禅定門、前梨子羽周甫慶文禅定門、大願施主禅林永参禅尼、萩原の原田室なり、葺師京の山西神四郎宗近、時に天文十三年甲辰林鐘如意珠日に落成すと記す、筆者は長松派圭序、春秋百歳半、本寺衆、聖僧は祥隆、祠堂は永鄂、殿司は聖轍、衣鉢は恵三、茶堂は祖忠、浴司は古文、飯頭は慶牧、仏餉は玄周、菜子は恵了、汁司は祥的、鐘子(司)は本清、無役は淳甫、含暉院衆、殿司は聖育、典座は慶用、茶堂は全守」

 十四乙巳、常喜派、景参守禅師、侍真周宗、納所智通、

 天文二十二年癸丑閏正月十四日死す、向上玉甫浄春、維那再び智繕、

      当寺方丈上葺、十月十一日普請始なり、丙午の四月十五日成就なり、葺枌の檀那三戸石見守親平なり、

      大工京之山西新兵衛尉(記・新左衛尉)

 

 

 「解釈」

 天文十三年甲辰(1544)、祥雲派が番衆を勤める。行堂の上葺が今年の六月に完成した。含暉院の棟札に書いてある。両願主は肯心派の全桑と養寿。外護は平又鶴丸

      防州富田の永源庵の梅信通禅師が住持を勤める。侍真は周泰。納所は用寿。向上寺住持は祖登が勤める。維那は令舜。

 板葺と上棟を行なった。梵宮厳浄地蔵はこれで容易には壊れなくなった( orこれによって、寺院は厳かで汚れがなくなり、地蔵は容易に壊れなくなった)。とくに、どうか八苦を悉く取り除き、地蔵の十福を並べ集め、財宝に満ち溢れ、米穀が豊作になり、檀那らの一族が隆盛し、僧侶らは気持ちを落ち着かせてください。三宝よ、灯りを与えてください。天上の神々よ、将来のことを予知してください。当住持は長松派の恵乗。侍真は大慈派の全賀。維那は長松派の智通。両願主は肯心派納所の全桑、典座は慶貴、肯心派監院の養寿、外護は平又鶴丸小早川繁平と八幡渋川義正殿、葺板は地域全体の檀那や御調八幡宮神主三戸石見守親平、北表(三原市本郷町の北方?)の旦那樾渓叢上座の寄進である。天文九年庚子(1540)、協力者は旦那である前の山中一川宗源禅定門と、前の梨子羽周甫慶文禅定門と、大願施主禅林永参禅尼と、萩原の原田の妻である。葺師は京の山西神四郎宗近。時に天文十三年(1544)甲辰六月吉日に完成したと記してある。筆者は長松派圭序で、年齢は百歳と半年、本寺衆である。聖僧は祥隆。祠堂は永鄂。殿司は聖轍。衣鉢は恵三。茶堂は祖忠。浴司は古文。飯頭は慶牧。仏餉は玄周。菜子は恵了。汁司は祥的。鐘司は本清。無役は淳甫と含暉院衆。殿司は聖育。典座は慶用。茶堂は全守。」

 十四年乙巳、常喜派が番衆を勤める。

       景参守禅師が住持を勤める。侍真は周宗。納所は智通。

       向上寺住持は玉甫浄春が勤める。天文二十二年癸丑閏正月十四日亡くなった。維那は再び智繕が勤める。

       当寺方丈の上葺は、十月十一日が普請始であった。天文十五年丙午(1546)の四月十五日に完成した。上葺用のそぎ板は檀那三戸石見守親平が用意した。大工は京の山西新兵衛尉(記・新左衛尉)である。

 

 「注釈」

「板葺上棟梵宮厳浄地蔵堅牢」

 ─読み方も意味もよくわかりません。後述の『広島県の地名』(「御調八幡宮」・平凡社)では、「梵宮厳浄地蔵」を、地蔵の名称のように理解しているのですが、「梵宮厳浄にして地蔵堅牢なり」のように読ませて、「寺院は厳かで汚れがなくなり、地蔵は容易に壊れなくなった」と訳すこともできるのではないか、と考えられます。

 

「八大怖」

 ─生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊成苦を加えた八苦のことか(https://kotobank.jp/word/八苦-602366)。

 

「十種福」─地蔵の十福のこと(https://kotobank.jp/word/地蔵の十福-520156)。

 

「八幡」

 ─御調八幡宮のこと。竜王山の北麓開析谷に鎮座。一の鳥居は本庄に、中の鳥居は谷の入口に建つ。天正十九年(1591)十月二十日付毛利輝元加判并同氏奉行人連署八幡社領書立(御調八幡宮文書)に備後八幡とある。祭神は品陀和気命息長帯比売命宗像三女神・息長帯比古命・武内宿禰大臣・菅原神・天児屋根命須佐之男命・住吉三前神・天照大御神・豊受皇大神大山積神・久那斗神・建御雷神。旧県社。境内社に大鷦鷯命を祀る若宮八幡神社・出雲神社など九社がある。

 備後八幡宮大菩薩記(社蔵)によると、和気清麻呂大隅国に流されたとき、姉法均尼は備後国に流されたが、宝亀八年(777)十月八日、尼の配所に参議藤原百川が社殿を建立、備後国封戸二十戸を割いて贈ったのが創祀で、百川の子緒嗣が別殿を建てて清麻呂法均・百川らの霊を祀ったという。しかし「備後八幡雑記」(「三原市史」所収)の日本六所八幡の項には天応元年(781)宇佐(現大分県)より勧請とあり、神護景雲二年(768)五月十三日の奥書のある説一切有部純正理論(巻二三)、宝亀十年閏五月書写の奥書をもつ大般若波羅蜜多経(巻一三三)があると記す。

 保元三年(1158)十二月三日付の官宣旨(石清水文書)に御調別宮)とあり、石清水八幡宮(現京都府八幡市)の末社となったことが知られる。大永六年(1526)渋川義陸が写し置いた備後国御調郡八幡宮社領書立写(御調八幡宮文書)に記す社領は、近世に八幡庄と称する一帯に相当し、この書立は周辺村との山論の際「大証文」として持ち出されている。同書立写によると、平田分田数26・48石(現米19・68石)、立用1・2石(本庄村)、御給2・5石(堺原上下村)、草代1・09石、桑代1貫320文(堺原上下村)、なつ舟3貫250文、冬舟3貫文、水寒領加徴米0・08石、同大豆0・08石、栗の年貢0・24石、正月用炭九荷、草山4カ所、平田より供物100文、米0・465石などとなっている。前記天正十九年の社領書立に、宮内村・篝村・野串村合わせて234・64石とあり、同書立の慶長二年(1597)八月十三日付の裏書によると、44・65石の修理免を召し上げられたとある。寛永十五年(1638)二月二十四日付の三原城主浅野忠長制札(御調八幡宮蔵)は八幡宮山での薪伐採を禁じている。

 備後八幡宮大菩薩縁起の奥書によると、建暦二年(1212)には神主三宅貞時、応永十三年(1406)に宮司和気経直、天文四年(1535)に祠官和気高尚を記し、大永六年以前に在地に勢力を張った平田氏は八幡宮略縁起(「備後八幡雑記」所収)に記す平田弥三郎の一族で当社の神官であったと見られる。天文十三年落成の仏通寺梵宮厳浄地蔵の板葺上棟棟札写(仏通寺住持記)に「八幡渋川殿義正葺板一円檀那并神主三戸石見守親平」とある。天正十九年十月二十日の毛利氏奉行人連署八幡社供米并給米注文(御調八幡宮文書)に、神主、宮司二、検校二、祝白、供僧十六人、神宮寺、社人七十二人とあり、「国郡志下調書出帳」は社人八十人(うち男四十一)を記す。社蔵の棟札写によると、宝殿の葺替が、寛正七年(1466)二月二十一日に大願主藤原宗晨、天文二年に願主沙弥浄栄(渋川義陸)・奉行平(三戸)親平により行なわれている。近世には三原城主浅野氏により葺替・修復がなされた。

 社宝としては、足利義政の寄進と伝え、かつては嘉吉(1441─44)の墨書銘があったという木造狛犬一対(国指定重要文化財)のほか、県指定重要文化財行道面一面、藤原百川像と伝える木造男神坐像、嘉禎二年(1236)の阿弥陀経版木、同年の法華経普門品版木、同三年の金剛寿命陀羅尼経版木、文永十二年(1275)萩原郷(現賀茂郡大和町)斗山寺で書写された一切経書写の一部と見られる紙本墨書出三蔵記集録上巻第二、文化八年(1811)に青木充延奉納の紺紙金泥大般若経一巻、鉾ヶ峰より出土した銅戈などがある。

 祭日に三原市八幡町本庄・屋中、御調郡御調町津蟹・福井・植野字田上の五地区が奉納する花踊(県指定無形民俗文化財)は、もとは雨乞踊であったと言われる。大祭日は四月第二日曜日。社叢はシイを主とした天然林で県の天然記念物(「御調八幡宮」『広島県の地名』平凡社)。

 

 石清水八幡宮の荘園。近世に八幡庄と称された一帯とほぼ同じであったと考えられる。八幡庄(八幡組とも)は現三原市の宮内・野串・篝・垣内・屋中・本庄・美生と現御調郡御調町福井・津蟹・植野字田上および同郡久井町坂井原に当たる。

 「中右記」元永二年(1119)十二月五日条によると藤原宗忠石清水八幡宮に「家封備後国十烟」を寄進しているが、これは野串に当たると考えられ、この頃同社領になったと思われる。保元三年(1158)十二月三日付の官宣旨(石清水文書)に、石清水八幡宮領として御調別宮は石清水八幡の末社としての御調八幡宮をいう場合と、石清水八幡本社領荘園を指す場合とがあった。

 社領の現地支配者として鎌倉時代初期には神主三宅氏がおり、室町期には平田氏が荘園の中心である本庄の佃に住し、御調八幡宮創建に関わる所伝をもつ(御調八幡宮略縁記)。永正四年(1507)以前の八月六日付渋川善陸書状(小早川家文書)によると、三戸佐渡守が知行する当庄三か村の十二の名が小早川扶平に与えられている。大永六年(1526)頃には渋川義陸が平田氏の勢力を抑えて在地に勢力を張り、同年以前の平田氏時代の社領を書写した備後国御調郡八幡宮社領書立写(御調八幡宮文書)に八幡別宮とあり、荘域は「御調境ハ岡之御堂ヨリ畝切リ」「三原ヨリ境八坂傾城岩」「備後安芸之境仏通寺間野之渡リ」「杭境ハ大ウネ切リ」と記される。なお、渋川義陸の子義正の妻は毛利元就の妹で「やわたのおつぼねさま」と称された。

 坂井原村は「門葉記」によると石清水八幡宮境内にあったと思われる妙香院に施入されていたが、のち八幡庄に組み込まれたものと考えられる。慶長六年(1601)の篝村検地帳(「三原市史」所収)に八幡之庄と記す。本庄村の六日市、美生村の八幡市は八幡庄内に形成された市場所在地と見られる(「御調別宮」『広島県の地名』平凡社)。

 

「菜子」─未詳。正しくは「菜司」と書いて、食事における副菜を用意する役職のことか。

 

「汁司」─未詳。食事における汁物を用意する役職のことか。

 

 

 つづく