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仏通寺住持記 その33

 「仏通寺住持記」 その33

 

 (1526)

 六 丙戌 祥雲派

      (記)「養」八月十七日示寂 侍真 周麟

      浩然周陽禅師     化後改 智盛  〈納所」悦翁〉祥誾

      向上 超文卿苑   観白 自法     維那 慶澤

      六月廿三日真田備中守・田坂弥四郎追罪、

(記)「奉行土屋左京亮」(記)「蔵人大夫」

  当奉行真田 政所改蔵人、古本ニ六月廿三日勝山落居、同廿四日

  蔵人大夫      (害)

      真田備中守生涯、田坂与蝠入道於七宝私宅腹切

      篠原右衛門尉・田坂弥四郎・真田助三郎牢人

 七 丁亥 長松派     当奉行真田孫二郎

     (記)「明」

      偃渓妙音禅師明堂嗣  〈侍真」登龍〉如休 納所 正掬

         (記)「家具修焉」       (記)「悦衆」

      向上 周善      〈観白」再〉恵乗   維那 周甫

      四月七日夜、長渓庵炎上矣、大公事出来、礼銭四十貫文落着

 (1528)

 享禄戊子 永徳派  八月廿日改

      玉田性厳禅師丹波長善」寺日峯嗣〉 〈侍真」宝洲〉智玉 納所 得賢

      向上 香岳智徳  観白 依于損無  維那 智参

      奉行真田孫次郎也、八月廿日夜大夫打殺、改于土屋紀伊守、古本云ク、

                (害)

      八月廿日真田周防守生涯、同舎弟二人牢人、此外同名数多牢人、当奉行

      土屋紀伊

      玆歳十二月廿二日、大内義興逝去、次年二月、当住為弔慰之使節山口

      下向矣、如先年従塔頭伴僧出也、

 

 「書き下し文」

 六丙戌、祥雲派

      浩然周陽(記「養」)禅師、八月十七日示寂、化後智盛に改む、侍真周麟、納所悦翁祥誾、向上超文卿苑、観白自法、維那慶澤、

      六月二十三日真田備中守・田坂弥四郎追罪す、政所蔵人(記「蔵人大夫」)に改む、当奉行真田蔵人大夫(記「奉行土屋左京亮」)、古本に六月二十三日勝山落居す、同二十四日真田備中守生害す、田坂与蝠入道七宝の私宅に於いて腹を切る、

      篠原右衛門尉・田坂弥四郎・真田助三郎牢人す、

 七丁亥、長松派、当奉行真田孫二郎、

      偃渓妙(記「明」)音禅師、明堂(記「家具修焉」)を嗣ぐ、侍真登龍如休、納所正掬、向上周善、観白再び恵乗、維那(記「悦衆」)周甫

      四月七日夜、長渓庵炎上す、大公事出来す、礼銭四十貫文落着、

 享禄戊子、永徳派、八月二十日改む、玉田性厳禅師、丹波長善寺日峯を嗣ぐ、侍真宝洲智玉、納所得賢、向上香岳智徳、観白損ずるにより無し、維那智参、

      奉行真田孫次郎なり、八月二十日夜大夫打ち殺され、土屋紀伊守に改む、古本に云く、八月二十日真田周防守生害し、同舎弟二人牢人す、此の外同名数多牢人す、当奉行土屋紀伊守、

      玆の歳十二月二十二日、大内義興逝去す、次年二月、当住弔慰の使節として山口に下向す、先年のごとく三塔頭より伴僧を出だすなり、

 

 「解釈」

 大永六年丙戌(1526)、祥雲派が番衆を勤める。浩然周陽(周養)禅師が八月十七日に亡くなった。死後、住持は栄岩智盛に代わった。侍真は周麟。納所は悦翁祥誾。向上寺住持は超文卿苑が勤める。観白(方丈)は自法。維那は慶澤。

      六月二十三日真田備中守敬賀・田坂弥四郎が追放された。政所は真田蔵人大夫から土屋左京亮に代わった。古本によると、六月二十三日勝山城が落城した。同二十四日真田備中守が亡くなった。田坂与蝠入道は七宝の私宅で腹を切った。

      篠原右衛門尉・田坂弥四郎・真田助三郎が牢人となった。

 七年丁亥、長松派が番衆を勤める。当奉行真田孫二郎。

     明堂(記・家具修焉)を継いだ偃渓妙(明)音禅師が番衆を勤める。侍真は登龍如休。納所は正掬。向上寺住持は周善が勤める。観白(方丈)が再び恵乗が勤める。維那(記・悦衆)は周甫。

      四月七日夜、長渓庵が炎上した。重大な裁判が起きた。礼銭四十貫文を支払って落着した。

 享禄元年戊子(1528)、永徳派が番衆を勤める。八月二十日改元丹波長善寺日峯を継いだ玉田性厳禅師が住持を勤める。侍真は宝洲智玉。納所は得賢。向上寺住持は香岳智徳が勤める。観白(方丈)は損壊したのでいない。維那は智参。

      奉行真田孫次郎である。八月二十日の夜に真田蔵人大夫が打ち殺され、奉行は土屋紀伊守に代わった。古本によると、八月二十日に真田周防守が自害し、その舎弟二人が牢人となった。この他に同名がたくさん牢人となった。当奉行は土屋紀伊守。

      この年の十二月二十二日、大内義興が亡くなった。次年二月に当住持が弔慰の使節として山口に下向した。先年のように、三つの塔頭から伴僧を出したのである。

 

 「注釈」

「勝山」

 ─勝山城のことか。中世には御調八幡宮の北東対岸に勝山に渋川満頼が城を構え、同氏は天文(1532─55)頃まで在城したと伝える(「宮内村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「七宝」

 ─現三原市沼田東町七宝。本市村の東、沼田川南岸の干拓地に立地。干拓地の末端部に当たり、低地部の水はけが悪いところから水害に悩まされてきた。村の中ほどに標高45メートルの独立小丘陵亀山があり、北は沼田川を境に荻路村・沼田下村。南から東を沼田川の支流天井川が流れ、天井川の北に沿って流れる郷中川の地下約1メートルから中世のものと推定される船底材が出土。中世には沼田庄安直郷に含まれた。

 本市村の祇園社(現沼田神社)の祭礼の御旅所が当村に当たったので、早くから本市と関わってきたと考えられる。仏通寺住持記(「三原市史」所収)の大永六年(1526)の頃に田坂弥四郎の私宅が七宝にあったと記し、天文二十三年(1554)十月十四日付の小早川隆景充行状(「閥閲録」所収飯田平右衛門家文書)によると、安直郷七宝のうち師月田五貫文が飯田尊継に宛行われている(『広島県の地名』平凡社)。

 

「家具修焉」─未詳。僧名か。

 

「長善寺」─未詳。

 

 つづく