周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その39

 「仏通寺住持記」 その39

 

 (1546)

 十五丙午 永徳派

      儀雲忠禅師(記)「嗣見外」 侍真 玄信  納所 慶貴

      向上 祖易            維那 聖轍

 十六丁未 正覚派

                  記)「慧」

   養源嗣 富天才禅師〈備中」徳本庵〉 観白 恵菊 維那 周寿

      向上 周泰        侍真 見忠 納所 周等

*十七戊申 祥雲派   庵堂上葺含暉院在棟札

 今年九月九日 覚簠等禅師  侍真 祥隆  維那 慧菊

 真田与田坂 向上 用寿   観白 周泰  納所 宗善

 引分、尾崎口 向上客殿建立、普請初九月五日、成就己酉之八月

 取詰、同十一 廿二日也、法界之巨助力矣

 日夜田坂丸山

 退    (頭注)

      「奉上葺上棟、性天仰弥高法界広無極、殊希九州刀兵不起、百代穀稼

       無難旦越所求悉成、僧徒修行有慶矣、許峰住山比丘祥雲派覚簠叟、

             〔旹〕

       侍真祥隆、于時天文十八稔己酉南呂如意珠日、幹縁沙門宗全、葺師

       山西神四郎宗近、施司拾貫文福岩道盛禅定門、法祝妙忍信女、備州

       山南住福田右馬亮、拾貫文玉蓮妙祐禅尼、沼田本市ノ住現之女也、

                    〔弍〕

       筆者祥雲派恵菊、行年三春又二秋」

 

 「書き下し文」

 十五丙午、永徳派、

      儀雲忠禅師、(記)「見外を嗣ぐ」、侍真玄信、納所慶貴、向上祖易、維那聖轍、

 十六丁未、正覚派、

   養源善牧を嗣ぐ、富天才禅師、〈備中」徳本庵〉、観白恵菊(記)「慧」、維那周寿、向上周泰、侍真見忠、納所周等、

*十七戊申、祥雲派、庵堂上葺含暉院の棟札に在り、

 今年九月九日、真田田坂と引き分け、尾崎口へ取り詰む、同十一日夜田坂丸山へ退く、

      覚簠等禅師、侍真祥隆、維那慧菊、向上用寿、観白周泰、納所宗善、

      向上客殿建立す、普請初め九月五日、成就己酉の八月二十二日なり、法界の巨きなる助力かな、

  (頭注)

  「上葺上棟し奉る、性天仰げば弥高く法界の広さ極まり無し、殊に希ふ九州の刀兵起こらず、百代穀稼難無く旦越求むる所悉く成り、僧徒修行慶有らん、許峰住山の比丘祥雲派覚簠叟、侍真祥隆、時に天文十八稔己酉南呂如意珠日、幹縁沙門宗全、葺師山西神四郎宗近、施司拾貫文福岩道盛禅定門、法祝妙忍信女、備州山南住福田右馬亮、拾貫文玉蓮妙祐禅尼、沼田本市の住現の女なり、筆者祥雲派恵菊、行年三春又二秋」

 

 「解釈」

 天文十五年丙午(1546)、永徳派が番衆を勤める。

      見外智参を継いだ儀雲忠禅師が住持を勤める。侍真は玄信。納所は慶貴。向上寺住持は祖易が勤める。維那は聖轍。

 十六年丁未、正覚派が番衆を勤める。

   養源善牧を継いだ、備中国徳本庵の富天才禅師が住持を勤める。観白(方丈)は恵菊(記・慧菊)。維那は周寿。向上寺住持は周泰が勤める。侍真は見忠。納所は周等。

*十七年戊申、祥雲派が番衆を勤める。行堂の上葺が行なわれた。含暉院に棟札がある。

 今年九月九日、真田が田坂と引き分けて、尾崎口へ迫った。同十一日夜、田坂は丸山へ退いた。

      覚簠等禅師が住持を勤める。侍真は祥隆。維那は慧菊。向上寺住持は用寿が勤める。観白(方丈)は周泰。納所は宗善・

      向上寺の客殿が建立された。普請初めは九月五日、完成は天文十八年己酉(1549)の八月二十二日である。あらゆるものの大きな助力の結果であることよ。

 (頭注)

 「上葺と上棟を致した。天を仰げばますます高く、全宇宙の広さには限界がない。とくに、日本全土で戦乱が起きず、永久に収穫の難がなく、旦那らの望むことがすべて叶い、僧徒の修行に喜びのあることを願う。御許山仏通寺の住持は祥雲派覚簠老僧、侍真は祥隆。時は、天文十八年己酉(1549)八月吉日。勧進は沙門宗全。葺師は山西神四郎宗近。施主は十貫文を支払った福岩道盛禅定門、法祝妙忍信女。備後国山南庄在住福田右馬亮。十貫文を支払った玉蓮妙祐禅尼は沼田本市の在住の女である。筆者は祥雲派の恵菊。当年三十二歳。」

 

 「注釈」

「山南」

 ─山南庄(さんなのしょう)のことか。旧沼隈郡西南部、熊ヶ峰(438メートル)の南方一帯にある諸村の称であるが、具体的には不明である。「福山志料」は上・中・下の山南と草深・内常石・外常石・能登原・浦崎・戸崎(現尾道市)、藤江・藁江・金見(現福山市)の一二ヵ村を、「西備名区」は能登原を除く一一ヵ村をあてる。

 立荘の時期は不明であるが、鎌倉時代のものと思われる三月十三日付の覚道書状(厳島神社蔵反古裏経紙背文書)に、山南庄の請負に関して、京都に住む覚道(長井氏一族の僧)から歌島庄(現尾道市)の公文三郎に対して、荘園の経済状態を照会し、得分の注文の提出を依頼している。なおのちのものではあるが、「芸備古跡志」には「明光上人山南村に来たり一宇建立し光照寺と号す、此由鎌倉へ聞えけれは頼朝公より上人へ山南の庄を賜る」とあり、光照寺の寺伝には建保四年(1216)将軍実朝より寺領として山南庄

を賜ったとあるが信じがたい。

 山南の付近一体は中世末期には山南郷と呼ばれている。山南庄との関係は不明であるが、「福山市史」は渋川家文書を典拠に文和元年(1352)にはすでに渋川氏の所領となっていたとする。天文一六年(1547)十一月十日の渋川義正宛行状(桑田文書)には「山南之郷田中新次郎給地之事、如手次遣候、但反銭之事其外諸役等(下略)」とあり、また同一七年八月十三日の同充行状(同文書)にも「山南郷岡本九郎次郎給并森迫名納所もりわき名納所五十疋(下略)」とあり、この頃まで渋川氏の所領であったことが知られる。ただしこの山南郷は山南庄の荘域とは別で、森迫・もりわきなどの地名は現中山南であるから、上・中・下の山南の範囲を指したものとも考えられる(『広島県の地名』平凡社)。

 

「尾崎」─尾道市尾崎町・尾崎本町あたりのことか。

 

「丸山」─未詳。尾道市御調町丸門田の丸山城跡のことか。

 

「如意珠日」

 ─吉日の異称(加藤一寧「如意珠日」『花園大学国際禅学研究所論叢』第1号、2006年3月、239頁、http://iriz.hanazono.ac.jp/newhomepage/ronsou/001.html)。

 

 

 つづく