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仏通寺住持記 その44

 「仏通寺住持記」 その44

 

 (1562)

 五 壬戌 正覚派

 玉諸的子也  友山善禅師〈丹州」万年寺〉 侍真 永林 〈納所」再〉周慶

      〈向上納所」肯派〉文賀     観白 周等 〈維那」肯派〉祖曇

 茲年八月三日 毛利当家至長州出張、豊後衆至豊筑上着、霜月

 当国笹月ト云 初五日豊筑衆退散也

 所ニテ毛利隆

 元卒、享年四 霜月廿九日、於当寺妙玖忌取営、焼香住持座敷

 十一歳    定也、拈香竹原法常寺依祖命也、〈癸亥〉八月三日

      毛利屋形御逝去

*1六癸亥 大慈派 含暉庵堂上葺三月廿五日始七月廿四日成就、

          同供養八月初三日也、檜皮

          (記)「再住」

*2    東暉易禅 再三住、二月一日示寂  侍真 寿永

           其次伝室的禅師再住

      向上 継衷 〈観白」代〉聖育  納所 玄秀 維那 恵光

      (頭注1)      (頭注2)

      「 下元畢 」 「庵堂上葺檜皮、大慈派住持宗的、

               侍真寿永、維那恵光、納所玄秀、

               檜皮大工新左衛門、永禄六年癸亥

               七月日」

 七 甲子 慈雲派

  上元始  慶仲賀禅師 再住  侍真 朋山  納所 周印

      向上 全菊         〈維那」詔叟〉玄訳

 八 乙丑 肯心派     五月十九日御所自害

      (記)「改壽」

      仙嶠用壽禅師  侍真 安中  納所 祖曇

      向上納所 全瑞        〈維那」永派〉智敬

 

 「書き下し文」

 五壬戌、正覚派、

 玉諸的子なり、友山善禅師、丹州万年寺、侍真永林、納所再び周慶、

     向上納所肯派文賀、観白周等、維那肯派祖曇、

 茲の年八月三日当国笹月と云ふ所にて毛利隆元卒す、享年四十一歳、

     毛利・当家長州に至り出張す、豊後衆至豊筑上り着く、霜月初五日豊筑衆退散するなり、

     霜月二十九日、当寺に於いて妙玖の忌を取り営む、焼香は住持、座敷を定むるなり、拈香は竹原法常寺、祖の命によるなり、癸亥八月三日毛利屋形御逝去、

*1六癸亥、大慈派、含暉庵堂上葺三月二十五日に始め七月二十四日成就す、同供養八月初三日なり、檜皮、

*2    東暉易禅、再三住す(記・再住す)、二月一日示寂、其の次伝室的禅師再住す、侍真寿永、向上継衷、観白代聖育、納所玄秀、維那恵光、

 (頭注1)      

 「下元畢んぬ、」

 (頭注2)

 「庵堂上葺檜皮、大慈派住持宗的、侍真寿永、維那恵光、納所玄秀、檜皮大工新左衛門、永禄六年癸亥七月日」

 七甲子、慈雲派、

  上元始む、慶仲賀禅師再住、侍真朋山、納所周印、向上全菊、維那詔叟玄訳

 八乙丑、肯心派五月十九日御所自害、

      (記)「改壽」

      仙嶠用壽禅師(記・壽に改む)、侍真安中、納所祖曇、向上納所全瑞、維那永派智敬、

 

 「解釈」

 永禄五年壬戌(1562)、正覚派が番衆を勤める。

 玉諸周璉を継いだ丹波国万年寺の友山善禅師が住持を勤める。侍真は永林。納所は再び周慶が勤める。

     向上寺納所は肯心派の文賀。観白は周等。維那は肯心派の祖曇。

 この年の八月三日、当国佐々部という所で毛利隆元が亡くなった。享年四十一歳。

     毛利と小早川家が長州に出陣した。豊後衆が豊前筑前に到着した。十一月五日、豊筑衆が退散した。

     十一月二十九日、仏通寺で毛利元就の妻妙玖の年忌法要を営んだ。焼香役は住持で、座並を定めた。拈香役は竹原法常寺で、先師の命令による。永禄六年癸亥(1563)八月三日毛利隆元がお亡くなりになった。

*1六年癸亥、大慈派が番衆を勤める。含暉院行堂の上葺が三月二十五日に始まり、七月二十四日に完成した。同供養は八月三日でああった。檜皮葺である。

*2    東暉易禅が何度も住持を勤める(記・再び住持を勤める)。二月一日にお亡くなりになった。その次は伝室的禅師が再び住持を勤める。侍真は寿永。

      向上寺住持は継衷。観白代は聖育。納所は玄秀。維那は恵光。

 (頭注1)      

 「下元の節が終わった。」

 (頭注2)

 「行道の上葺は檜皮である。住持は大慈派の宗的。侍真は寿永。維那は恵光。納所は玄秀。檜皮大工は新左衛門。永禄六年癸亥七月日」

 七年甲子、慈雲派が番衆を勤める。

  上元が始まった。慶仲賀禅師が再び住持を勤める。侍真は朋山。納所は周印。向上寺住持は全菊が勤める。維那は詔叟玄訳。

 八年乙丑、肯心派が番衆を勤める。五月十九日足利義輝が自殺した。

      仙嶠用壽禅師(記・壽に改めた)。侍真は安中。納所は祖曇。向上寺納所は全瑞。維那は永徳派の智敬。

 

 「注釈」

「玉諸的子」

 ─未詳。向上寺住持を勤めた玉諸周璉(『仏通寺住持記 その26』)の継承者という意味か。

 

「万年寺」─未詳。

 

「笹月」

 ─広島県安芸高田市高宮町「佐々部」の誤記か。羽佐竹村の北東に位置し、東は船木村、北は江の川が境を備後国三次郡(現双三郡)に接する。「芸藩通志」に「広一里五町、袤一里三十三町、村内山多く田盧数所に分る、大川、村の北を通じ一川南にあり、民産、紙抄あり、夏秋は漁業をなす」とある。往還は高田郡の「国郡志下調郡辻書出帳」に「三次町より石州浜田御領上田村筋之往還一筋、三次町より落岩と申所之船渉にて、当郡粟屋村渡り、夫より船木村・佐々部村・川根村より石州上田村分相移申候、粟屋村船渉場より川根村石州境迄当郡の内凡三里半余も有之、此間佐々部村之内七谷(シチヤ)と申所凡八町程難所にて、其内十五間斗釣り道と申候、川根村之内小谷川之渉五六ヶ所も有之候旨に御座候」とある。

 中世後期には石見阿須那(現広島県邑智郡羽須美村)の藤掛城の高橋氏の領知する所であったが、横田(現美土里町)の松尾城にいた高橋弘厚が毛利氏に敗れた後、大内義隆は付近の地を毛利元就に付した。享禄三年(1530)十二月十一日付の大内義隆書状写「阿須那高橋伊予守跡并船木・佐々部・山県等事、今度執務之由、得其心候」とある。(中略)

 式敷にある浄土真宗本願寺派蓮照寺は、瓜尾山とも有領山とも号し、「芸藩通志」に「天文六年僧願誓羽佐竹村に建立、寛文十年この村に移転す」とある。一説には真言宗で村内和佐田にあって蓮華寺と称したのを慶長年間(1596─1615)改宗して真宗に改めたともいう。志部府にある同派正立寺は竜王山と号し、正徳二年(1712)僧恵秀の開基と伝える。廃寺には蓮華寺光明寺・皆蔵寺などがある。当地にはカキの巨樹があり、枝の張りが大きく、県の天然記念物となっている。

 村内野辺には毛利隆元逝去地と伝える所があるが、「高田郡村々覚書」には「毛利隆元公御墓所、わさ田と申所に御座候、元就公尼子御取合の時御在陣之際、隆元公九州より雲州表に御越し、わさ田いはい寺に御一泊被為遊、御食傷にて御歳四十壱歳にて御頓死被遊候、就夫御墓所御座候、いはい寺、其後大破仕只今は寺跡斗にて御座候」とある。これについて「毛利家記録」の「隆元公御墓所御祀り之事」は「御沐浴石御墓石と申大石二基有之由、万一御火葬場而御火灰塚共有之たるを、御墳墓と申誤候哉、其段難計事に御座候」と記しており、墓所吉田郡山(現吉田町)の常栄寺跡のものとされ、この地は逝去地である(「佐々部村」『広島県の地名』平凡社)。

 安芸高田市ホームページ(https://www.akitakata.jp/ja/shisei/section/kyouiku/shisekibunkazai/cultural_asset/shiseki_shi/mouritakamotoseikyo/)。

 

 

 つづく