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いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その6

 「仏通寺住持記」 その6

 

 (1404)

 十一甲申 春退居肯心院、今年建于鎮守之社、冬有金山

 十二乙酉 二月、自金山回建喜悦堂、遺嘱 周及順寂後、

      但当以正月十九日為年忌、月忌不可為、予別有

      営為若違背者非予弟子也、応永十二年乙酉五月

      十九日(花押影)

 十三丙戌 今年松岩興造含暉、禁制 第一不許一切女人

          〔ナシ〕           〔ナシ〕

       入寺中之事、第二不許一切酒入寺中之事、第三

       不許年少畜之事、已上三件永為仏通寺不易

       之規式 応永十三年九月廿七日 住持老比丘

       周及(花押影)

 十四丁亥  滅後定門徒寺坊主事 〈大通禅師御自筆」

                    自判有之、〉

 留心〈金山第二世、諱安久」阿州人、俗ハ安宅〉  諾渓(清唯)

 覚隠(真知) 宗孚庵主字希淳  春岩〈諱妙育濃州人」末后為大衣鉢侍者

 覚伝(玄胤) 隣月〈定山和尚子高公」侍者東福侍某〉  崗権管  捴権管

 寧権管

 已上十人不僧臘上レ次、相与評議可坊主典座、永代当

 斯式

  正月十九日        病僧周及判

 十五戊子 覚隠和尚住 今年九月、依将軍請赴京、故愚中

      和上以当山諸般事任覚隠和上状一通、在肯心

 

 「書き下し文」

 十一甲申、春、肯心院に退居す、今年、鎮守の社を建つ、冬、金山に有り、

 十二乙酉、二月、金山より回(かへ)り喜悦堂を建つ、遺嘱す、周及順寂の後、ただ当に正月十九日を以て年忌・月忌と為すべし、予のために別に営為有るべからず、若し違背せば予の弟子に非ざるなり、応永十二年乙酉五月十九日(花押影)

 十三丙戌、今年松岩含暉を興造す、 禁制 第一、一切女人寺中に入るを許さざる事、第二、一切酒寺中に入るを許さざる事、第三、年少の沙喝之を畜ふを許さざるの事、已上三件永く仏通寺不易の規式となす、応永十三年九月廿七日  住持老比丘周及(花押影)

 十四丁亥、滅後門徒・寺坊の主定むるの事〈大通禅師御自筆」自判之有り、〉

 留心〈金山第二世諱は安久、」阿州人俗は安宅、〉 諾渓 覚隠

 宗孚庵主字は希淳 春岩〈諱は妙育、濃州人、」末後は大衣鉢侍者と為る、〉  覚伝

 隣月〈定山和尚の子高公」侍者、東福侍某、〉 崗権管 捴権管

 寧権管

 已上十人僧臘を以て次と為さず、相与に評議して坊主・典座を定むべし、永代当に斯式に依るべし、

  正月十九日        病僧周及判

 十五戊子、覚隠和尚住す、今年九月、将軍の請に依り京に赴く、故愚中和上当山諸般の事を以て、覚隠和上に任する状一通、肯心に在り、

 

 「解釈」

 応永十一年(1404)甲申。春、愚中は肯心院に隠居した。今年、鎮守社(御許権現社)を建立した。冬には天寧寺にいた。

 十二年乙酉。二月、愚中は天寧寺から戻り、喜悦堂を建立した。

  遺託する。

 私が亡くなった後は、ただ正月十九日をもって、年忌・月忌とするだけでよい。私のために別に法要を営む必要はない。もしこの遺託に背くなら、その者は我が弟子ではないのである。応永十二年乙酉五月十九日(花押影)

 十三年丙戌。今年、松岩寿禅尼が含暉院を造営した。

  禁止する。

 第一 女性が寺中に入るのを一切許してはならないこと。

 第二 酒が寺中に入るのを一切許してはならないこと。

 第三 年少の沙喝を養うのを許してはならないこと。

   已上三件、永遠に仏通寺不変の規則とする。応永十三年九月廿七日 住持老比丘周及(花押影)

 十四年丁亥。愚中没後に門徒や寺坊の住持を定めること〈大通禅師の御自筆・自判がある。〉

 留心〈金山天寧寺第二世、諱は安久。阿波国の人で俗姓は安宅氏である。〉 諾渓。覚隠。宗孚庵主〈字は希淳〉。春岩〈諱は妙育。美濃国の人。最後には大衣鉢侍者となる。〉覚伝。隣月〈定山和尚の子高公侍者。東福の侍者某。〉 崗権管 捴権管寧権管

 以上の十人は、出家してからの年数によって、各役職の後任を決めてはならない。みなが一緒に評議し、坊主や典座の後任を決めなければならない。永久に必ずこの規則に依拠せよ。

  正月十九日        病僧周及判

 十五年戊子。覚隠和尚が住持を勤める。今年九月、将軍の招請により京へ向かった。故愚中和尚は、当山のさまざまな事柄を覚隠和尚に任せるという書状一通を認めた。それは肯心院にある。

 

 「注釈」

 十二年の記事に引用された文書は『仏通寺文書』1号、十三年の記事に引用された文書は2号、十四年の記事に引用された文書は3号を参照。

 

  つづく