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史料紹介という修行

仏通寺住持記 その5

 「仏通寺住持記」 その5

 

 御許山仏通禅寺住持記

 (1397)

 応永四〈丁丑〉 八月、大通禅師始入此山茆、同十月、初祖

         忌入寺、大㮣見于年譜、天心当寺創建本願檀

 五 戊寅    那、愛道庵同誘化者也、又以備芸両国之人夫

         経十三年相調、玆事真庵和尚之真筆有、東昇

         院住持記初有焉

 六 己卯    始建浴室号無垢界、方丈名観白、塔所名含暉

 七 庚辰    七月、依旦那之請、住于金山

 八 辛巳    春出金山、抵播州卓景徳庵、冬還于当山

 九 壬午    今年秋、建肯心院

         正月七日、創建大檀越天心順公居士 寂京城

         之私第

 十 癸未    今年建于向上庵

 

 「書き下し文」

 応永四〈丁丑〉、八月、大通禅師始めて此の山に入り茆を誅(き)る、同十月、初祖忌に入寺す、大概年譜に見えたり、天心当寺創建本願檀那、愛道庵も同じく誘化する者也、又備芸両国の人夫を以て十三年経(ぶ)りに相調ふと、玆の事真庵和尚の真筆に有り、東昇院住持記に初めに有り、

 五戊寅、

 六己卯、始め浴室を建て無垢界と号す、方丈観白と名づく、塔所含暉と名づく、

 七庚辰、七月、旦那の請により、金山に住む、

 八辛巳、春金山を出で、播州に抵(いた)り景徳庵を卓(た)つ、冬当山に還る、

 九壬午、今年秋、肯心院を建つ、正月七日、創建大檀越天心順公居士、京城の私第に寂す、

 十癸未、今年向上庵を建つ、

 

 「解釈」

 応永四年(1397)丁丑。八月、大通禅師愚中周及ははじめてこの山に入り、土地を切り開いた。同年十月五日、達磨大師の忌日に住職として寺に入った。概略は年譜に書いてある。天心は当寺創建本願の檀那である。愛道庵も同じく愚中周及が教化した者である。また備後・安芸両国の人夫を使って、十三年かけて伽藍を整えたという。このことは真庵和尚が直筆で書いている。東昇院住持記の最初に書いてある。

 六年己卯。最初に浴室を建て、それを無垢界と呼んだ。方丈は観白と名付けた。塔所は含暉と名付けた。

 七年庚辰。七月、檀那である大中臣那珂宗泰の招請によって、金山天寧寺の住持となった。

 八年辛巳。春、金山を出で、播磨国にやってきて、景徳庵を建立した。冬に当山に帰ってきた。

 九年壬午。今年の秋、肯心院を建立した。正月七日、仏通寺創建の大檀越天心順公居士が、京都の私邸で亡くなった。

 十年癸未。今年向上庵を建立した。

 

 「注釈」

「天心」─小早川春平。

 

「金山」

 ─天寧寺。現福知山市字大呂。大呂集落の西北の段丘上にある。紫金山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊釈迦如来

 草創については不詳だが、中興開山は夢窓疎石の弟子愚中周及、当時の檀那は当地の地頭、大中臣那珂宗泰(法名宗吽)。那珂氏は鎌倉末に常陸国から当地佐々岐庄下山保(金山郷)に来住したと伝える。のち地名をとって金山氏を名乗る。

 愚中は美濃国の人、夢窓疎石の教えを受け、のち天龍寺船で中国に渡り、揚子江鎮江の金山寺即休契了の門に入った。師の印可を得て衣鉢を継ぎ、即休の頂相(肖像画)を与えられたが、それは天寧寺に現存し、李竜眠の描いた十六羅漢像(十六幅)とともに重要文化財に指定されている。滞留十年ののち帰国した愚中は一時臨川寺(現京都市右京区)・南禅寺(現京都市左京区)などに住したが、大中臣那珂氏の氏寺天寧寺に入寺したのは貞治四年(1365)のことである。この間の事情については「仏徳大通禅師愚中和尚語録」(応永二十八年開版)に載せる年譜の貞治四年の項に「師年四十三、出世野、移州之漆原、于時英霊仲、居金山天寧寺、師之南禅旧識也、檀那大中臣那珂宗泰慕師道、与霊仲相謀、虚金山堅請、師請金山江南縁遇之地、乃往而応」とある。

 なお、当時天寧寺が那珂氏に手厚く保護を受けていたことは、康安二年(1362)二月三日付の宗吽大中臣宗泰所領寄進状(天寧寺文書、以下特に記さない限り同文書による)によってうかがえる。(中略)

 愚中は応永十六年(1409)天寧寺で没したが、勅命により仏徳大通禅師と諡された。開山堂に後小松天皇の愚中に対する旌表額が掲げられる。また愚中に深く帰依していた足利義持は、近習として仕えていた宗泰の孫金山持実を遣わして、紫衣を贈っている。ちなみに持実は当時天下の名手といわれた田島清阿に早歌を学び、その子元実像(寺像)の賛には父持実が早歌を「家業」としていたと記す。持実は早歌を認められて将軍側近に取り立てられていたようである。

 愚中没後の応永二十七年には、義持が御教書を下し当寺を祈願寺とし、また同じ時寺領も安堵している。(中略)

 ついで翌二十八年には義持御教書によって当寺ならびに末寺臣唱寺領田畠山林などが安堵され、嘉吉元年(1441)には当時室町幕府管領丹波守護でもあった細川持之が寺格の証明と寺領安堵を行っている。また将軍義政の時代、寛正三年(1463)四月五日付の天寧寺ならびに末寺臣唱寺に与えられた寺領を当知行に任せる旨の御教書も残される。将軍家の帰依がこのようであったから、当寺領への臨時の課役や検断などはその治外に置かれていた。宝徳四年(1453)四月二十八日には丹後守護代内藤元貞の当寺保護の禁制が出されている。

 その後の推移は不明だが、応仁・文明の乱の影響は避けがたかったとみえ、「丹波志」は「応仁文明騒乱退転、山林境内而已相残」と記す。しかし金山氏の保護が続いていたことは、永正六年(1509)七月六日の沙弥宗堅田地并牌前具寄進状などによって知られる。宗堅は持実の孫政実である。

 その後金山氏は一族桐村氏に滅ぼされたと伝え、天寧寺は桐村氏の保護下に移る。金山氏から桐村氏への勢力交代の事情は不分明だが、天寧寺過去帳の裏書に「桐村へ金山ヲ打テトレト云付ケラレ、桐村金山ヲ打ツ」の文言が見える。天文十五年(1546)八月十日付天寧寺寄進分門前田畠年貢注文によると、寺領門前田畠のなかに長年の檀那であった金山氏名義のものは一カ所もなく、ほとんどが桐村氏か、またはその家の子郎党のものになっている。

 なお天寧寺は備後に勢力をもっていた小早川氏が愚中を招いて建立した仏通寺(現広島県三原市)とともに、愚中門派の本寺であった。愚中門派は愚中没後、直弟子たちによって結成され、五山禅林から離れて独自の禅風を打ち立てたが、応永三十四年正月、愚中門下の長老四人の連署で出された禁制(仏通寺文書)が五山からの自立を明らかにしている。(中略)

 なお仏通・天寧の両寺の間では住持の輪住制をとっていた。この輪住制は、応永三十年三月十四日付の清唯外三名連署規式(仏通寺文書)によれば、署名している四哲が交代で十二年住持を勤めたのちは、安心庵主以下十二人が順次務めることになっている。また輪住制については文安四年(1447)に書かれた両寺住持并番衆次第写(同文書)により詳細が知られるが、これには「住持交代之時、不要檀那之命」との文言が見える。輪住の制度は戦国時代にも顕示されていたことが、年号不詳であるが九月十三日付の桐村豊前守宛小早川隆景書状(桐村家文書)に「如仰天寧寺・仏通寺輪番上下不相替」と見えることからうかがえる。

 中世末から近世にかけての寺史は明らかではないが、天正八年(1580)には丹波を制圧した明智光秀から次のような判物が下され、

  当寺事、任往古之旨、諸式令免許訖、仍陣取并竹木等剪捕之事、堅令停止之状如件、

   天正

    二月十三日

翌九年には明智秀満(城代)の諸色安堵状が出された。その後も天寧寺は、時々の支配者から寺領安堵や保護を受けて明治に至った。(中略)

 当寺には以上に記した天寧寺文書・重要文化財二点のほか、金山持実(文安五年制作)・元実(大永二年制作)父子の肖像画、愚中自筆の地蔵菩薩本願経、応永三十四年刊「首楞厳神呪大悲消災呪」などが蔵される。

 当寺の山下を流れる川を揚子江といい、愚中が中国揚子江にちなんで名付けたと伝える(『京都府の地名』平凡社)。

 

「景徳庵

 ─現兵庫県多可郡多可町加美区清水の雲門寺。雲門寺は「愚中和尚語録」の応永八年(1401)の項に見えるので、それ以前の建立であり、同年に周及愚中(大通禅師)が塔頭徳庵を建立している。文明十八年(1486)大明寺(現生野町)の開山百年忌のための徒弟諸派奉行中蒿庵派の雲門寺が見え点心を負担している(同年六月二十六日「大明開山百年忌交名」大同寺文書)。最初は西方の山にあったが二度移転し、現在地に再建された。同寺内に清水寺子屋が設けられた(多可郡誌)。付近の水田からは室町期の梵鐘鋳造跡が発掘されている(「清水村」『兵庫県の地名Ⅱ』平凡社)。

 

  つづく